2020年6月10日 (水)

「NHKアーカイブス―第38回NHK杯将棋トーナメント」

新型コロナウイルスのパンデミックにより各界が前代未聞の行事中止、延期を余儀なくされ、政府の非常事態宣言解除発出と共に、徐々に復帰への動きが始動している。
将棋界も名人戦がスタートするし、注目の藤井七段は6月2日(火)、4日(木)に棋聖戦の挑戦者決定トーナメントの準決勝、決勝を勝ち抜いて、屋敷九段が持つ史上最年少タイトル挑戦の記録を4日(!!)塗り替え、8日(月)の5番勝負第1局を見事勝利した。

NHKEテレでは今年度NHK杯トーナメントの収録中断の穴埋めとして、羽生が初優勝を遂げた第38回の3回戦から決勝までの4回を5月17日から6月7日まで毎週連続で放送した。
年度でいえば1988年、昭和63年度で、翌89年にまたがるので、年号は年初に平成となっている。

羽生は当時18才、1985(昭和60)年にプロ四段となって足かけ4年目だった。
1982(昭和57)年の小学生名人戦で羽生が優勝した時のTV中継が鮮烈で、解説が当時新進気鋭のA級八段だった谷川浩司。大山十五世名人が講評で、その強さに感嘆して近い将来谷川の地位を脅かす存在になることを予言していたのが忘れられない。

奨励会でも正に疾風怒濤の如く駆け抜けたのが記憶に鮮やかで、当時よく購入していた「将棋世界」誌の奨励会星取表はほとんど「○」で、あれよあれよと面白いように昇級、昇段していったのに強烈なインパクトを受けたことを思い出す。

そして1989(平成元)年12月には19才で初タイトル竜王を手にする。

そうした流れの中で第38回のNHK杯は、その後の羽生の幾多の活躍をも凌ぐほどの強烈な印象を受けた快挙だったので、今度の放送はありがたく思った。
対戦相手が作ったようで、歴代の名人経験者ばかりというのがすごい。
3回戦が大山康晴十五世名人(後手大山の中飛車)、準々決勝が加藤一二三九段(元名人)(先手羽生の棒銀)、準決勝は谷川浩司名人(羽生後手で相横歩取り)、そして決勝が中原誠NHK杯(十六世名人資格者)(先手羽生のひねり飛車)。
解説者はそれぞれ、森雞二王位、米長邦雄九段、森王位、そして大山康晴十五世という懐かしい顔ぶれだ。
聴き手は永井英明氏。解説者、聴き手諸氏は森雞二九段を除いてみな鬼籍に入っている。

30年余という時間の彼方となった貴重なアーカイブスを視聴し、深い感慨を覚えている。今に戻すと、藤井七段という逸材が現われ、これから将棋史をどう塗り替えていくのか興味が尽きない。

ここでは5月17日に最初に放送された準々決勝の対加藤一二三九段戦を取り上げ、将棋ソフト「elmo」(2017年コンピュータ将棋選手権優勝版)の棋譜解析を参照しつつ感想を記したい。

<局面1>43手目「▲4八玉」まで 羽生が先手

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本局の解説者米長邦雄九段は当時45才。「さわやか流」という異名に違わぬ軽快で才気溢れる語り口は絶品である。この局面は、「マイナビムック羽生善治―将棋史を塗りかえた男」(2013年日本将棋連盟)で加藤一二三九段が取り上げた局面である。加藤九段は本局が羽生との初手合いだった。

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対して加藤は△2四銀、手厚い加藤らしい手だと感じたが、elmoは△2四銀を悪手と判定。

elmoの読み筋は△2四銀に代えて△3三桂で、以下▲1六飛△4五桂▲3八香△2九歩成▲同金△8六歩▲同歩△6五桂▲6八銀△8六飛▲8七歩△3七桂成▲5九玉△3八成桂▲8六歩△2九成桂<局面1-1>・・・と続く。

<局面1-1>

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2九成桂までの局面は難解で、どちらが良いか判定できないが、やや先手良しだろうか?

<局面2>49手目「▲2七香」まで

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羽生が2七香を指し、聞き手の永井英明氏に指し手の意味を問われた米長はしばし黙考。
以下△1五銀▲同飛△1四香まで飛車を捕獲され先手困ったと思うのが我々のレベルだが、そこで羽生が指した▲2四歩が好手で先手良しである。
elmoは「▲2七香」に替えて▲1一香成を予想。「▲2七香」に対する△1五銀に替えては△4五桂を指摘。
加藤の△1五銀を境にして、elmoの評価値は先手500以上となり、先手勝勢が確立した。

<局面3>61手目「▲5二銀」まで

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この手が指された時、米長は思わず奇声を発した。▲5二銀!! この手を31年前に画面で目にした衝撃は今も鮮やかだ。
elmoもこの手で評価値を千以上upさせている。
この手でelmoは▲2三香成で、米長も解説で披露していた。
だがどうも▲5二銀の方がインパクトははるかに大きい。コンピュータも読まない一手ということか!!

以下程なく67手までで後手の投了となったが、序盤から双方の一手々々の密度が濃い味わい深い名局と言ってよいだろう。
本局もそうだが、決勝までの全4局を見て感じたのは、多彩な戦型を指しこなす羽生のレパートリーの広さと、序盤の巧みさ、中盤の読みの深さ、そして勿論終盤も強く、欠点がないバランスの良さだ。
それが、前掲書の谷川浩司九段のコメントを見ると、羽生が十代の頃は序盤が荒削りで、中終盤の強さが際立っており、二十代へ入ってから精密な序盤研究に精魂を傾けるようになって、大棋士への基礎を作ったとある。
なるほど、それは谷川本人についても言えるし、現在の藤井聡太がそれを最も体現しているといえるだろう。もっとも藤井の場合は十代にして既に序盤にも磨きがかかって来ているのかも知れないが・・・

とまれ、羽生は序盤研究の一端を「羽生の頭脳」として出版、私も一時は矢倉、横歩取りなどを読んだことがある。
現在羽生のタイトル獲得数は99で、ここ2年余この数字は動いていない。
今年の9月には羽生も50才だ。
何とか大台の100へ乗せてもらいたい。
(了)

2020年4月26日 (日)

「クラシックの迷宮」

久し振りに「クラシックの迷宮」を聴いた(4月25日(土)21:00~、NHKFM)。新聞の番組表に「1964年のN響演奏会」とあり、「三善晃の世界初演ほか」とあったので興味を持った。
先ず演奏曲目を示すと、

1. 入野義朗「交響曲第2番」(指揮)若杉弘、NHK交響楽団、1964年10月15日 東京文化会館
2. 三善晃「管弦楽のための協奏曲」(指揮)外山雄三、NHK交響楽団、1964年11月2日放送
3. 武満徹「テクスチュアズ」(指揮)岩城宏之、NHK交響楽団、1964年10月19日 東京文化会館
4. 武満徹「弦楽のためのレクイエム」(指揮)パーヴォ・ヤルヴィ、NHK交響楽団 2017年2月22日 横浜みなとみらいホール

MCの片山杜秀のコメントを記すと、1は若杉がまだ20代で、当時はN響の指揮研究員だったそうだ。この演奏は多分初演と思われる。
2は1933年生まれの三善は当時31才、ピアノ協奏曲の延長上の作品と位置付けられる。初演は10月23日、東京文化会館、やはり外山の指揮だった。今回使用したのは放送のためのスタジオ録音だった。
3は正真正銘の初演!! クセナキス、リゲティ、ペンデレツキ等のトーン・クラスターの技法が十分咀嚼されて使われており、中間部にメロディアスな唄が入る。
そして4は時間に余裕があったので特別付録で、2017年のパーヴォ・ヤルヴィ、N響による演奏。片山は、パーヴォは武満をペルト(パーヴォ同様エストニア出身の作曲家)みたいに演奏する、と言っていた。ペルトは1,2度オケで聴いた記憶があるが、よく知らないので片山の言っていることは分からない(*)。

(*)福田進一のギター協奏曲のCDに「フラトレス」というペルトの作品が入っている。特異な名前なので記憶している。(DENON、COGQ-25)

今回使用された1~3は大変貴重な音源である。
4は最近リリースされたCD「武満徹:管弦楽曲集」に収められている。

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朝日新聞夕刊(2020年3月19日)の月例推奨盤のコラム。武満のCD収録の5作品はすべてライブで、「レクイエム」以外はN響定期(1841、1881回)のもの。片山も選者の一人だが、武満のCDの推薦文の筆者は諸石幸生。

放送が終ってみればエア・チェックしなかったのが惜しい気持ちだ。
どれも力作で聴き応えがあった。N響も力演で、また楽章の合間などでは客席の聴衆の気息を整える様子とかが録音から窺うことも出来て、ライブだった1,3は迫力があった。
3のピアノは高橋悠治である。ピアノパートは打楽器的な書法で書かれている。また「アステリズム」を思わず連想してしまうセミロングではあるがクレシェンドも出て来る。

私が最も印象深かったのは最後の「弦楽のためのレクイエム」だ。宇宙的というか、雄大なスケール感、ダイナミックな演奏である。またテンポはゆったり目で、悠久感をも覚えて、音群が胸に浸み込んでくるようだ。
「武満徹全集」の岩城宏之、オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏とは別物のように聞こえる。全集版は神秘的、宇宙の暗黒空間を漂うような幽玄な演奏で、こちらも名演である。

新型コロナウィルスの世界的流行(パンデミック)が収まる気配を見せない。人的接触を避けることが欠かせないため、イヴェント開催中止が相継いでいる。N響も4,5月の定期公演の中止を決めている。
19(日)のEテレ「クラシック音楽館」はオーケストラ、独奏者等の窮状を伝え、団体の存続が危機的状況にある現状を強く認識させてくれた。
一日も早い感染流行の終息を祈るばかりである。

2020年4月22日 (水)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-4(最終回)

ギー兄さんの説教」に関して

次にこの小説の主人公であるギー兄さんの説教について概観してみたい。
ギー兄さんは素朴で、飾らない、世間ズレしていない人物で、小野正嗣は「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャを想起している。(*)

(*)小野正嗣「100分de名著 燃えあがる緑の木」(2019年9月)p.104

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1.ギー兄さんサッチャンが始めた「燃えあがる緑の木」の教会は会員も増え、徐々に発展して行く。
そして小説でギー兄さんの説教が最初に出て来るのが、完成した礼拝堂での総領事の葬儀である。(第2部第6章)
ここでギー兄さんは「死者と共に生きよ」というスローガンを掲げる。
そして四国の山間の土地の先人達を振り返る。
いわく総領事、いわくカジオーバー、そして土地の神話の「壊す人」、創建者たちそれからさきのギー兄さん
オーバーから土地の神話と歴史を受け継いで、神話の「壊す人」と創建者たちが築いた「死人の道」を死んだ人たちが行ったり来たりして、死者と共に生きる共同体として現在に至っている。さきのギー兄さんは森へ入る道と谷間に降りる道について、つねに浄化の方向へとめぐる、通るべき道筋の規則を作った。

死者と共に生きよ」、味わい深い言葉である。私は「100分de名著」で中島岳志が書いていることを思い出した。(*2)。オルテガというスペインの哲学者の「大衆の反逆」を取り上げ、テキストの第3回で「死者の民主主義」について示唆に富んだ解説をしている。

(*2)中島岳志「100分de名著 大衆の反逆」(2019年2月)

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無理矢理それを圧縮すると、「オルテガの言う「生きている死者」と共に歩むというのは、過去の教訓を尊重することであり、過去や死者を忘れると、未来と繋がることができなくなる。」「生きている死者」から過去の経験、「歴史を知る」ことで、文明の進歩、未来の発展へ繋げることが出来る」となると思う。
2011年の東日本大震災の際、中島は地方紙へ「死者と共に生きる」(*3)という文章を書いたという。この時彼はオルテガを思いながら書いたそうだ。

(*3)未見。是非読んでみたいと思っている。
 
過去の経験知をリスペクトして、謙虚さを忘れず、傲慢な横暴を厳に戒める、そういう姿勢を中島は繰り返しここで説いている。

2.12月最初の週末、11月第1日曜の総領事の葬儀へK伯父さんの友人泉さんが招んだ世界的黒人歌手のアイリーンから届いたマーラーの「交響曲第3番」の録音テープを礼拝堂で聴いている際に、合唱が入る第5楽章の途中でギー兄さんは外に出てしまう。この頃のギー兄さんは不可解な挙動が多くなっていた。
そして「森の会」から今後の教会の展望について話すよう要望され、当日説教台に向かう途中、ギー兄さんは突然頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。
不意の出来事に静まり返る中で、亀井さんが立ち上がり、ルカ伝終わりの部分の「我らの心、内に燃えしならずや」とつぶやく。
無様なギー兄さんを目の当たりにし、「Rejoice!」の合唱の中サッチャンは礼拝堂を飛び出し教会を去る。
そしてK伯父さんの伊豆の別荘で退廃的な日々を送る中で、ギー兄さんが襲撃されたことを知る。
ギー兄さんは松山市の医療センターの駐車場で学生時代の過激派グループのメンバーに襲われ、両膝を叩き潰されて車椅子を使うようになっていた。またその時の頭部への打撃により、てんかんの症状も出るようになっていた。
サッチャンは教会へ帰り、ギー兄さんの車椅子の介助をすることになる。

3.やがて不識寺の松男さんをリーダーとする巡礼団が伝道の旅に出て、その第1報を会員へ披露した後、ギー兄さんは礼拝堂で説教する。
ギー兄さんは先ず、車椅子を使うようになった代償に、それなしには乗り越えられなかったものを乗り越えたことを語り、襲撃を受けながら過去のこと―テン窪での糾弾のこと―と、未来にもう一度同じ経験をするという予感を同時に感じていたことを語る。
つぎに「繋ぐ」ことで「救い主」へ至る一筋のタテの流れについて・・・さきのギー兄さんは殺されてしまうが、それに続く者として現在は自分=ギー兄さんがいて、その次に来る者、さらにその次、と続いて遂には「救い主」に至る、という考えを述べる。
説教を終えてしばらくしてギー兄さんは軽いてんかん発作を起こす。

4.巡礼団は紀州、名古屋、福井県若狭湾を巡り、その公式報告が礼拝堂とその隣に建てたテントの両方を使った集会(拡大集会)で行われ、それに続いてギー兄さんの説教があった。
未来への責任」ともいうべき内容で、ジョージ・ケナンの言葉を引用する。「文明は我々の世代のみの所有ではなく、後の世代へと慈しみ、発展・改良させて引き継いで行くべきものであり、それを毀損することは神を侮蔑することである。
これもまた1で触れた中島岳志が説くオルテガの「生きている死者」に通ずるものがある。

5.そしてギー兄さんが襲撃された松山市の病院の駐車場での一般向けの集会での説教。
ギー兄さんの発心、「人間を傷つけることをしないで生きよう。
襲撃を受けながらギー兄さんは「人間は他の人間を傷つけるものだ」と考えていた。ダンテ「神曲」地獄篇(*4)から「思えば」、それは「人間は人間を傷つける」と一般化できる。それを踏まえての決意。

(*4)「残忍なる魂己を身よりひき放ちて去ることあれば」第13歌94~5行。96行には「ミノスがそれを第7圏へ送ります。」(野上素一訳)とある。第7圏第2環は自分に対する暴力者、すなわち自殺者がいる。

そしてギー兄さんは、以下の語の語原について述べる。
イノセンス(無垢) ← noceo(傷つける)という意味のラテン語 + in(否定の接頭辞)
アヒンサ(サンスクリットの教えの根源) ← 傷つけるという語 + 否定の接頭辞
  
以上に見たことからも察することは可能だと思うが、ギー兄さんの生き方はガンジーの非暴力主義とかキリストの贖罪にも似て、その方向性は私には理解が困難なものがある。
が、はじめに述べたようにディテールに興趣尽きないところが多く、読んでいて大変面白い小説だった。

Tさんのオペラ」について

エピローグに入って、K伯父さんがサッチャンへオペラの話をする部分がある。
音楽家のT さん」の誘いでオペラのシナリオを作る話である。「Tさん」は武満徹で、オペラの創作プランは大江健三郎との間で実際にあった話である。
オペラは武満の死によって完成に至ることはなかったが、作曲へ着手はしていたようなので大江健三郎との間でシナリオの合意はできていたものと思われる。

武満には「雨」のシリーズというのがあって、それらすべては大江健三郎の短編「頭のいい「雨の木(レインツリー)」」の同じ一節にインスパイアされて作曲された。すなわち

1.「雨の樹」3人の打楽器(またはキーボード)奏者のための 1981年作曲
2.「雨の樹 素描」ピアノのための 1982年作曲
3.「雨の樹素描Ⅱ―オリヴィエ・メシアンの追憶に」ピアノのための 1992年作曲

第1曲は大江健三郎他1名へ献呈されている。大江の原作が「木」なのに、武満の方は「樹」としているところが面白い。
二人の交友は長く、ある対談で大江は、二人の出会いが「安保闘争のころ」(1960年)からだと言っている(*5)。二人は互いに相手をリスペクトしており、それは相手のことを書いている文章を読めばよくわかる。

(*5)集英社「武満徹の世界」p.222

一例として1994年に大江がノーベル賞を受賞した年に武満が当時毎日新聞へ月1回掲載していたエッセイ「時間の園丁(ときのえんてい)」の1994年11月18日付けの文章を挙げておく。ここでは受賞への祝福の念と、作家としての大江への全幅の敬意の念とが文章の隅々まで満ちている。

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武満徹の最後のエッセイ集が「時間の園丁」と命名されているが、その最後に収められている「海へ!」という短文の最後に出て来る「西も東もない海を泳ぐ鯨」というのが、武満が構想していたオペラのイメージだったのだそうだ。(立花隆「武満徹音楽創造の旅」P.590)

1996年2月20日に武満徹は死去し、大江は葬儀の弔辞でオペラのプランに触れ、「奮い立って、「治療塔」「治療塔惑星」を書いたが、あなたのめがねにかないませんでした」と述べている。
SF作品「治療塔」「治療塔惑星」は、武満のオペラのために書かれたのだった! 大江健三郎のSF小説というのがどうにもピンと来なかったが、これで納得が行った。武満は幻想文学、推理小説、SF小説といったジャンルが好きだったようだ(立花隆「同上書」p.191)。
また大江は弔辞の最後で「私はもう本だけを読んで、生を終りたいとねがっていたのですが、・・・長編小説を書いて、あなたに捧げようと思いたっています。」と極めて重要な決意を述べている。

燃えあがる緑の木」第2部「揺れ動く(ヴァしレーション)」の単行本が刊行された1994年8月の翌9月17日付け「朝日新聞」で、「以後小説は書かない」旨の大江の記事が掲載されて(*6)、翌1995年に第3部「大いなる日に」の刊行により「燃えあがる緑の木」が完結して、本作が大江の最後の作品と目されていた中での翻意だった。

(*6)尾崎真理子「世紀末に集中した「魂のこと」」p.614

終わりに
大江健三郎は難解だが、作品は独特で不思議な魅力を湛えている。読み終えて充実感を覚えている。これで大江健三郎を終わりにするのではなく、今後の読書プランへ入れたいと思っている。
ただ大江の膨大な作品群を相手にするのは私には荷が重い。当面これまで読んだ「同時代ゲーム」、「万延元年のフットボール」、「ヒロシマ・ノート」は必ず読み直そうと思っている。
また、ダンテ「神曲」は是非再びチャレンジしてみたい。今回「燃えあがる緑の木」に関してネットで種々参照していて偶々、元大学教員だという方のブログに出会った。その詳細を極める「神曲」解説に敬服している。それを座右に読み進めるのもいいかなと考えている。
(了)

2020年4月19日 (日)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-3

第5章 死に至る手続きの数学的記述」関係

この作品、特に第2部は章名がユニークなところが魅力の一つで、本章はその最たるものと言ってよいだろう。それが暗示するように総領事は徐々に健康状態を悪化させていき、遂には死に至るが、一方で教会の建設プランは着々と進行して行く。

設計の現地調査で注目されたのがテン窪の南側斜面、人造湖の水際から一段奥まった高みにある東西50mに渡る石垣だった。
谷間の北側斜面の上の森の高みにやはり東西に敷石道の遺蹟があり、死人の道と呼ばれている。
これには壊す人が海辺から移って来た創建者たちに造らせたという伝承がある。
死んだ人達が行ったり来たりするので「死人の道」といい、石垣はそれを支えるためのものだった。
戦争末期にアポ爺ペリ爺による測量で、敷石道は盆地を囲む森の下辺を水平に切る楕円の周を示していることが分かった。

教会の全体プランでは石垣に沿う敷石道が中庭に位置し、それを囲むように各施設が配置される。そして礼拝堂が先行して設計施工され、技術的問題、特に音響設計について詳述される。

「壊す人」、アポ爺、ペリ爺等は、「同時代ゲーム」へ登場してくる。

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「同時代ゲーム」新潮社(昭和54(1979)年11月25日、昭和55(1980)年2月5日5刷)

過去の作品と同じ舞台、人物が出て来ることで作品間の有機的つながり、作品個々が立体感を持ち、作品のスケールが大きくなるように思う。私が思うのはウイリアム・フォークナーのヨクナパトーファ・サガだ。
本文中でも触れられているが、アポ爺は、アポジー=apogee、ペリ爺は、ペリジー=perigeeでそれぞれ地球に対する月軌道の最遠点、最近点をもじっているのも面白く、彼等が測定した敷石道が描く軌跡が楕円というのも、谷間の空間の天文学的悠久さを象徴しているかのようだ。

一方で総領事は「治療塔の子ら」へかかりきりで、テン窪北側斜面の家にこもる日々を送る。
そして6月にギー兄さんとヨーロッパ旅行に出るが、ここは必然性がよく分からない部分である。
帰国後総領事は東京のK伯父さんへ様々な書籍探しを依頼する。そのやり取りに係る数ページは実に味わい深い。

時代を感じるのは、「ワードプロセッサはもとより・・・ファックスが・・・公衆電話で・・・」(p.202~3)90年代初め頃の作品なのを今更ながら思う。
それに続く箇所では、「外交関係の評論で、私がレイモン・アロンの新刊を送ると、サルトルの信奉者が・・・居間の書棚にジョージ・ケナンと並べておくような新発意(しんぼち)の態度もずっとある」という、高級すぎて理解不可な文も出て来る。

そして「尊敬している同世代の小説家の近作に、ドイツ文学者でもあるその人自身の訳でエックハルト(*)が引用され・・」とあって、その一節、「六千年前も六七日前も、今日にとっては同じ近さである。それは時が今の中にあるから。ただひとつの今の中に、魂の日は生じる。」(*2)に対して、ギー兄さんの「一瞬よりはいくらか長く続く間」という説教と結び付け、病床を見舞うギー兄さんへ総領事は「ただひとつの今の中に、魂の日は生じる。」とつぶやく。

(*)中世の神秘家。「説教集」という著作がある。
(*2)これが古井由吉「魂の日」からの引用であることを尾崎真理子に教えられた(*3)。未確認だがこの文の中に引用部分があると思われる。
(*3)尾崎真理子「世紀末に集中した「魂のこと」」(「大江健三郎全小説」第12巻解説(講談社))

ミツという教会関係者の高校時代の師が乳がんとなり、死を見据えた心境を述べた手紙で、「今が夢のように思われたり、名残り惜しい気持ちが込み上げてくる」という箇所が総領事の心に響くくだり。
読んでいて他人事ではなく前段の「魂の日」の箇所と併せ、時々の時間の貴重さを思う。

ダンテ「神曲」の「結びの、原語ではそこだけ四行詩となっている分を・・・山川訳で」とあって山川訳の引用をしている箇所。(p.208)
ここも意図がよくわからない。「神曲」天堂篇全篇の最終歌である第33歌の最後の部分を何故ここで引用するのか?
筑摩全集版の訳者野上素一の解説によると、ダンテは「神曲」を「地獄篇」、「煉獄篇」、「天堂篇」の3篇とし、「地獄篇」が総序である第1歌を含むため34歌だが、他の2篇はそれぞれ33歌という風に、「3」を三位一体に基づく神秘数と捉えて「3」を基本とする構成とした。そして全編を3行詩で統一した。(しかし各歌の最後の部分は4行である。)それを引用部分の山川訳は3行へ組み直しているのだ。
因みに野上解説によれば、ダンテはこの三界巡りを1300年4月7日(復活祭前の聖木曜日)(*4)-ダンテ35才-にスタートして、地獄巡りは24時間かけ、浄罪山の麓へ到達したのが4月10日午前5時、浄罪界は3日3晩かけて4日目の正午に浄罪山頂上へ到達、天堂界第6天(木星天)へはその翌日4月14日木曜日に達した。そして至高天に達した後その日に地上に戻って一週間の遍歴を終える、とある。

(*4)本文第1歌第1行の注には「復活祭の聖金曜日(3月25日か4月5日)の前夜と推定される」とあり、おそらく「4月5日」は「4月8日」のミスプリントと思われる。

・・・とこうして日々が過ぎ、総領事の衰弱が誰の目にも明らかとなり、総領事自身からすれば残された時間の逼迫からK伯父さんから届く本を日夜読みふける一方、小説執筆の方は中断の憂き目を見ることとなる。

八月半ばとなり、サッチャンザッカリーは北軽井沢のK伯父さんの別荘で一週間の休暇を取る。向かう飛行機の中でザッカリーはK伯父さんの小説を数式で分析する。


歴史事象Γ1、Γ2・・Γn-1ΓnΓn+1・・とあって、それらの事象が起こった結果として谷間の状態が

Γ1Γ2・・Γn-1ΓnΓn+1・・Γ1φ

とすると、事象の発生順がΓ1、Γ2・・Γn+1ΓnΓn-1・・という風に入れ替わっても

Γ1Γ2・・Γn-1ΓnΓn+1・・Γ1φ =  Γ1、Γ2・・Γn+1ΓnΓn-1・・Γ1φ

同じ結果となる時、両者は「可換である」という。
K(伯父さん)の小説においては、この可換性は主人公の死を意味している。よって以下の公式が導かれる。

<時間を操るもの = 死>

さらにザッカリーはサッチャンへ礼拝堂の設計者である荒さんの理論を紹介する。
「谷間に生れた人々は、谷間の外へ出て行くが再び帰ってくる。K(伯父さん」の小説は

流出 = 生  帰還 = 死

という「世界モデル=場の空間」を構築している。谷間の場はすべて「死」に向かっているので、

「死に至る手続き=ルーフ(屋根)」

と表記したい。」
ちんぷんかんぷんで理解不能な部分だが、直接的には総領事へこの公式があてはまると思うし、この作品の主人公であるギー兄さんの運命をここで暗示しているのだろう。

北軽井沢でサッチャンとザッカリーはギー兄さんから総領事の死を知る。
(続く)

2020年4月13日 (月)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-2

第4章 気象のフィードバック」関係

第2部は総領事K伯父さんが中心に進行していくため、ユニークかつ知的刺激に満ちていると共に、複雑を極めており、本章のみならず第2部全体が私の理解を超えていることを感じつつ読んだ。

総領事はイェーツを読み解くのに十分な時間が自分に残されていないことを悟り、K伯父さんのSF作品を自分が書き継ぐことでイェーツの苦行から免れ得ることを発見する。

面白いのは大江の現実のSF作品をそのまま引用している点。大江は「治療塔」、「治療塔惑星」の2作を発表している。ここにはK伯父さんによる3部作の完結編「治療塔の子ら」の構想覚え書きと出だしの部分の未定稿がかなりな分量で挿入されている。

ただ私には突飛なだけでこれが本章へ入ってくる必然性が分からない。

上のアンダーライン部分は第4章が始まってすぐ、総領事はイェーツの「最後の詩集」の中の「人と谺と」について、この詩によると人は肉体がある内は(生きている間は)精神の避難場所(=肉体)があるからよいが、死後は暗闇の中を休息を得ることなく魂は彷徨し続けなければならない。とすれば死後は魂も消滅してしまう方がよい。が、そうなると生きている時の魂の問題がむなしいものとなってしまう。(p.140~1)
とイェーツに取り組むと時間が足りないことを嘆くが、小児がんの14才の少年カジギー兄さんに対して述べる死への恐怖、-自分が死んでも世界は続いていく。しかも自分がいないということが怖い。(第1部p.146)-と対照的なのが興味深い。
カジの思いが、自分の存在が世界から消滅してしまうことへの不条理感で、それが死への恐怖となるのに対し、総領事は死後の永遠の苦役への忌避感で、死そのものへの恐怖ではないというのが対照的だ。
少年と還暦を控えた初老の大人との差だろうか?
ギー兄さんはカジに対して、「一瞬よりいくらか長く続く間」の至福の経験が永遠に近く生きることに等しいことを説く。
そして読書好きなカジへK伯父さんの蔵書の「ランボオ詩集」(「永遠」が収録されている)を送る。(*)

(*)本文には中原中也訳とあり、渡辺一夫の中也への指導があった旨が記され、K伯父さん(大江)は渡辺の形見として受贈したとある。

十月初旬、K伯父さんが来訪し、総領事、ギー兄さんと共にザッカリーによるテン窪周辺への教会の建設プランの現地説明が行われる。堰堤へ総領事とK伯父さんは腰を下ろしてSF作品のエンディングの話を始める。「気象」を重要なファクターと考えた総領事。
アリストテレスの「気象学」、ダンテ「神曲」、火山の噴火と気象、気象とフィードバックについてギー兄さんとザッカリーを交えてあれこれ語り合い、・・・

と総領事は唐突にK伯父さんへ「懐かしい年への手紙」の最後の部分の自作朗読を依頼する。
ここも大江の実作品のエンディング部分がそのまま引用されるユニークな箇所である。
第4章はこの引用の後、3ページを費やして終わるが、まず引用部分はテン窪一帯への礼拝堂をはじめとする教会の建設プランの理想イメージとして引用されているようだ。
その後の部分は、教会の行く末を「増殖的フィードバック(Regenetive Feedback)」の概念で制御不能に陥った末の教会の破滅を予感させると共に、総領事が湖の島の夕映えの大檜についてイェーツの詩との連関で語る、この小説の辿るであろうカタストロフを暗示しているように感じる。

なお「懐かしい年への手紙」で引用されているダンテ「神曲」は浄罪篇第2歌からで、2ヶ所(*2)。

(*2)第2歌73~5行と118~32行。(野上素一訳。筑摩書房世界文学全集第35巻。大江の引用は山川丙三郎訳(岩波文庫))ダンテ一行はカゼルラの恋歌にうっとりしていたが、カトーネに戒められ、追われるように浄罪山の麓へ向かう、というシーン。

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大江健三郎が何故この部分を引用したのか、私の理解の及ばぬところである。
又第3章でフレッチェーロという学者の「神曲」文章表現の分析の紹介部分は参考になる。(*3)

(*3)地獄篇、浄罪篇、天堂篇のそれぞれの世界の属性の違いが文章で見事に書き分けられている、という指摘。
(続く)

2020年4月12日 (日)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-1

最近の私にとって大江健三郎は気になる存在ではあるが、作品には手を出すことはしないと決めていた作家である。

その気が変わったのは小野正嗣による。
彼が朝日新聞へ文芸時評を書き始めて、毎回興味深く読んでいるが、昨年7月に大江の「燃えあがる緑の木」を取り上げたのである。冒頭で9月のEテレ「100分de名著」でも講師として本作について講じることを告げている。
小野がやはりEテレの「日曜美術館」MCをするようになって当初は彼が芥川賞作家であることに気が付かず、その内フランス文学者であることも知って、彼を見る目が変わった。

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朝日新聞「文芸時評」2019年7月31日

そもそも25年以上前の作品を敢えて文芸時評に取り上げたのは、本作が今日色あせるどころかますます重要性を増しているとの認識からであろうし、又小野が大江以外の作家を取り上げていたら私も気を変えることはなかったかも知れない。

大江健三郎に初めて触れたのは「ヒロシマ・ノート」だった。高校時代に倫理社会の夏休みの宿題としてこの本の感想文を書かされたのだった。そしてやはり高校で友人から借りて読んだのが「万延元年のフットボール」、その次が80年代に「同時代ゲーム」。この本は神保町のパチンコ屋の景品で手に入れた。(^^;
その次が「燃えあがる緑の木」だった。大江はこの作品の刊行中にノーベル文学賞を受賞し、メディアでも大きく取り上げられ、私がこの作品を読んだ動機は受賞のニュースからだった。

そしてたしか大江はこの作品を最後の小説にすると宣言して、しかしその後も作品を発表し続け、「さようなら私の本よ!」を読むも、その後も新作の発表はとどまらず、深く内実を理解することなく大江作品からの決別をしたのだった(*)。ただし朝日新聞へ一時掲載されたエッセイ「定義集」-これも難解だったが-を興味深く読んではいた。

(*)そう記しつつ還暦を過ぎてからすぐ「芽むしり仔撃ち」を読んだことを思い出した。この初期作品には上記作品群への萌芽があると思う

以上のとおり余り真面目な読者ではなかったが、人生の物心が付き始めてから折々に数少ないながらもほぼリアルタイムで大江作品に親しんで来た思いはある。
そんなささやかな大江体験の蓄積が、今度小野正嗣に触発されて「燃えあがる緑の木」を再読しようと思い立った根にあると思う。

読み終えた感想は、読んでよかったとつくづく思う。
大江の作家としての力量が並大抵のものでないことが今度の読書で分かったような気がする。
作品のバックボーンにある大江の文学の造詣の深さ、読書量の膨大さには瞠目するばかりである。

燃えあがる緑の木」は3部作で、以下のとおり。
第一部 「救い主が殴られるまで」 1993(平成5)年11月(私のは1994年10月の第2刷。ノーベル賞受賞で増刷となったもの?)
第二部 「揺れ動く<ヴァシレーション>」 1994(平成6)年8月(以上新潮社版単行本)
第三部 「大いなる日に」 1995(平成7)年「新潮」3月号

以上のように私は1994年10月時点で第2部まで出ていた単行本でスタートして、第3部は一挙掲載された「新潮」3月号で読んだ。奥付の出版年を見ていると25年もの時間が経過していることに改めて驚くと共に、自分に残された時間が残り少なくなったことに淋しさと胸が詰まるような感じがしている。

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「新潮」1995年3月号

「燃えあがる緑の木」は、アイルランドの詩人イエーツ(Yeats)の詩「揺れ動く<ヴァシレーション>」に出て来る暗喩(メタファー)で(第1部p.319)、「一本の木の片側は燃えているが、片側は露に濡れた緑・・・」(第2部p.75)というもので、それぞれ全体の作品名、第2部の作品名となっている。
そしてサッチャンは桜の板で「燃えあがる緑の木」のレリーフを作り、ギー兄さんの教会の「しるし(象徴)」とした。

以下に所感を思いつく儘に綴ってみたいが、私が最も感銘を受けた第2部を中心に考えてみたい。

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「揺れ動く<ヴァシレーション>」

第2部の主役はさながら、ギー兄さんの父である「総領事」。そしてその幼馴染みの作家である「K伯父さん」が重要な関係性を誇示する。この作家は作者の大江健三郎そのものという人物。
第2部が興趣尽きないのはこの2人によって織り成される様々なエピソードが小説のプロット以上に深く、尽きない魅力を湛えている点にある。

第1章 イェーツに導かれて」関係

・「総領事」は病を得て外務省を辞め郷里である四国の山間の土地へ戻り、さきのギー兄さんの蔵書のイェーツ関係の読書を始める。「エブリマンズ・ライブラリー」のイェーツ全詩集を評伝により伝記主義的に読むのが総領事の方法だった。K伯父さんは1冊を最後までつぶさに読んでいくのに対して、総領事は必要なページのみ読むのが二人の違い。ただ総領事の語学力は並大抵でなくCOD(Concise Oxford English Dictionary)を座右にしていた。(p.9~11)

・ドロシー・ウェルズリーという女流詩人宛ての書簡の一節をK伯父さんの境遇への比喩として引用し、イェーツの彼女宛て書簡集の存在へ言及する。(p.12) かなりマニアックだ。この部分を読んでいて、大江宛ての少なからぬ武満徹の書簡をテーマに回想文を請われたというエピソードを思った。(*2))

(*2)「宇宙にとどまる花 武満徹さんの手紙のことなど」(1998(平成10)年4月15日毎日新聞夕刊)

・総領事によるイェーツの詩の引用で、オーバーの葬儀でギー兄さんへ急降下した鷹のエピソードの元がイェーツであることが明かされている。(p.17~18)

・総領事がブリュッセルの公使時代の公邸中庭の木<orme pleureur>をK伯父さんが見て、四国の谷間をめぐる森の中によく似た木(ハルニレ)の存在を総領事に告げ、それを機に四国の地を「終の住処」と決意するに至る、という味わい深いエピソード。(p.33~36)
<orme pleureur>は総領事の死後、K伯父さんの回想として後出する。(p.227~8)
(続く)

2020年3月22日 (日)

ダイアモンド富士

早や3月も下旬となった。春分の日も過ぎ、桜の開花が始まっている。よく通る水路沿いの道の桜(ソメイヨシノ)もちらほら咲き始めた。市クリーンセンター脇の橋のたもとの山桜は満開だ。
先週からめっきり春らしくなってきて、着る物も変えなければならなくなってきた。

例年だとインフルエンザも春の到来と共に終息するのが、新型コロナウイルスはパンデミックとなってしまい、一向に収まる気配がない。
毎日の新聞、TVの情報に注意しているが、私の周囲では感染の話は今のところ出ていない。
早く終息して欲しいと願う日々である。

地元でダイアモンド富士を見た。以下にその顛末を記す。

3月15日(日) 木更津市金田さざなみ公園。三井アウトレットパーク木更津が近い東京湾を望む公園。

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上は18時5分頃。上空はどんよりした雲、アクアラインの彼方の空はピンクに染まっているが矢張り霞んで何も見えない。
ということで、この日は空振りに終わった。

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さざなみ公園の目の前の観覧車。

3月16日(月) さざなみ公園から約3kmの金田漁港へ。左手にホテル三日月竜宮城がある。
ぎりぎりで何とか日没に間に合う。
日中必ずしも富士は見えていなかったが、日没時は快晴でコンディションは良かったが太陽が富士の右肩にずれている。

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17時58分頃。現地は海から吹き付ける風がものすごく、車外へ出るのがおっくうだった。その割に海面の波は小さかった。ただ潮の流れは速い。

3月18日(水) 更に約2km南の久津間海岸潮干狩場。途中道路工事のため迂回を余儀なくされてすんでの差で間に合わず、太陽は富士の背に沈んでしまっていた。

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18時4分頃。望遠レンズを備えた高級カメラを持ったマニアの人達がいた。ここには鳥居があって、この日ダイアモンド富士のポイントからは、ずれていたようだが、ここに居た人は鳥居越しの富士を敢えて撮りたかったようだ。

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18時10分頃。潮干狩り場から見た富士。丁度干き潮で、視界は広くすがすがしい気分を味わうことができた。

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又ここは小櫃川の河口の左岸にあたる。対岸は小櫃川の河口干潟。

3月20日(金)。木更津鳥居崎海浜公園。久津間海岸から約3km南のこの場所で、ついにダイアモンド富士に遭遇することができた。春分の日に見られたのは格別なものがある。

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上は、下と共々17時58分頃。サングラスでも直視はとてもできないほど光は強烈である。
海面の光の筋が美しい。

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この日はここがベストスポットだったようで、駐車場は満車、ベストの位置には望遠レンズの高級カメラがズラリと並んでいた。

(了)

2020年1月14日 (火)

「ウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサート2020」

新しい年が明けた。今年は古希を迎えるという、自身にとって特別な年である。
60代前半は老境に入ったという自覚はありながらそれが実感できない中で過ぎていき、後半は徐々に肉体が衰えていったことを過ぎてみて振り返るとしみじみ思う。
特に昨年は60代最後の年であり、これまで以上に老いによる衰えを感じ、老いが動かしがたい現実として自分へ立ちはだかった年だった。
そんな心理状況で迎えた2020年のウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサートは、これまでと違い何か冷めた感じで視聴したのだが・・・

今年の指揮はアンドリス・ネルソンスで1978年ラトヴィア生まれの若きマエストロだ。昨年のティーレマン同様、彼の指揮を見るのは今回のニューイヤー・コンサートが初めてである。
そしてこれも昨年同様に彼の指揮ぶりは精度が高く、若い世代の優秀さを彼からも認識させられた。
新年最初のNHK「らららクラシック」のポルカ特集(昨年7月の再放送)でカルロス・クライバーの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」(何年のものかは不明)が流されたが、今回のネルソンス指揮のそれは同じウイーン・フィルでありながら演奏レベルの次元の違いを感じさせるものだった。
ネルソンスはベートーヴェン生誕250年の今年、ウイーン・フィルによる交響曲チクルスの指揮をするそうだ。
囲碁・将棋界においても柴野虎丸とか藤井聡太といった若い才能の台頭めざましく、彼等のような逸材が次代を築いて行くことに改めて思いを致すと、老兵は去りゆくのみという寂しさをはねのけて余りある未来への希望を感じさせてくれたニューイヤー・コンサートだった。

ラトヴィア生まれといえば昨年11月30日に76才で逝去したマリス・ヤンソンスがそうだ。ニューイヤー・コンサートは2006、2012、2016年の3回指揮している。(リンク→2016.1/102016.1/13

コンサートマスターはフォルクハルト・シュトイデ。次席はホセ・マリア・ブルーメンシャインで一昨年と同じ。(リンク→2018.1/9

第1部終了後ウイーン楽友協会前の特設スタジオで森田洋平アナが第1部中で今回初登場は4作品とコメント、最後のエドゥアルト・シュトラウス「ポルカ・シュネル「電撃」」op.132もそうだとのことで、昨年番外編で取り上げた2005年の第2部最後の曲がやはりエドゥアルトの「ポルカ「電撃」」。(リンク→2019.1/19
2つは同じではと思い、NHKのミスではないかと考えた。(^^;
がそれは杞憂で、聴き比べてみると違う作品だった。
2005年は原題「Electrisch,Polka schnell」で1895年3月初演、今年の方は「knall und Fall」で1876年に作曲された。それをどちらも「電撃」と訳しているので混乱してしまった次第。直訳すると、前者は「電気的」、後者は「強打と転倒」というところか?

NHKの番組ゲストは女優の草笛光子、中谷(なかたに)美紀、ウイーン・フィルメンバーのヴィルフリート和樹へーデンボルグ(第1Vn)、ダニエル・フロシャウアー(同、楽団長)そしてティロ・フェヒナー(Vla)。
ティロ・フェヒナーはなんと中谷美紀の夫だそうだ。結婚は1年前(正確には一昨年)とのことで昨年も中谷はゲスト出演していたがその際には結婚の話は出ていなかったと思う。

今年のメモリアルは先ずベートーヴェン生誕250年、ウイーン楽友協会竣工150年、そしてヨーゼフ・シュトラウス没後150年
和樹がベートーヴェンについて熱く語っていたのが印象的だった。

また「セセッション(分離派会館)」というクリムト周辺の画家の展覧会場として19¢末に建設された施設の紹介。地下の特別展示室の壁にはベートーヴェン没後75年を記念してクリムトが製作した全長34mの大作「ベートーヴェン・フリース」(1902)がある由。「第九」をテーマとしたベートーヴェンへのオマージュだそうだ。

来年の指揮者はリッカルド・ムーティ。一昨年から3年振り、通算6回目の指揮になるそうだ。

以下プログラムのメモを記す。
◯初登場
◎映像挿入
△バレエ映像

第1部
1.カール・ミヒャエル・ツィーラー : 喜歌劇「放浪者たち」序曲◯
1899年初演。
2.ヨーゼフ・シュトラウス : ワルツ「愛のあいさつ」op.56◯◎
今年はヨーゼフ没後150年。ヨーゼフ30才で娘が生れた際の作品。
ザルツブルグの美しい映像。同音楽祭は今年100周年を迎える。
3.ヨーゼフ・シュトラウス:リヒテンシュタイン行進曲op.36◯
4.ヨハン・シュトラウス : ポルカ「花祭り」op.111
ポルカはチェコ西部ボヘミア地方で1830年代に発祥した。2拍子の民族舞踊である。チェコ語の「プルカ」(半分の意)が語原で、半回転を繰り返すハーフステップであることから命名された。(「らららクラシック」より)
5.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「レモンの花咲くところ」op.364 
2013(フランツ・ウェルザー=メスト)
6.エドゥアルト・シュトラウス : ポルカ・シュネル「電撃」op.132◯

第2部
7.フランツ・フォン・スッペ:喜歌劇「軽騎兵」序曲 2013(ウェルザー=メスト)
クラシック音楽を聴き始めた頃(中学3年)に買ったLPに入っていた曲。改めてこうして聴くとスッペの豊かな楽想がてんこ盛りされた贅沢な作品である。
8.ヨーゼフ・シュトラウス : ポルカ・フランセーズ「キューピッド」op.81
9.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「抱き合え、もろびとよ!」op.443△
バレエ映像:オイゲン公の冬の宮殿(ウイーン)。ウイーン国立バレエ団。
この作品に引用されているシラーの詩はベートーヴェンの「第九」第4楽章と同じモので、メモリアルイヤーでの選曲。
10.エドゥアルト・シュトラウス : ポルカ・マズルカ「氷の花」op.55
ウォルフガング・デルナー:編曲
11.ヨーゼフ・ヘルメスベルガー : ガヴォット
ウイーン風の優雅なガヴォット。ヘルメスベルガーはウイーンフィルのコンサートマスター、指揮者を務めた人物。
12.ハンス・クリスティアン・ロンビ : 郵便馬車のギャロップop.16―2
ウォルフガング・デルナー:編曲
ネルソンス、袖からトランペットを持ってくる。ロンビ(Lumbye)はデンマーク人。北のヨハン・シュトラウスと呼ばれる。
13.ベートーヴェン : 12のコントルダンスから(NO.1、2、3、7、10、8)WoO14◯ △
バレエ映像:ベートーヴェン縁の地ハイリゲンシュタット。ウイーン国立バレエ団。
ニューイヤー・コンサートでベートーヴェンが演奏されるのは今回初。
ハイリゲンシュタットは1802年に書かれた遺書で有名。当時はウイーン郊外だったが現在はウイーン第19区に編入されている由。(平野昭「ベートーヴェン(カラー版作曲家の生涯)」)
コントルダンス(=カントリーダンス)は17,18¢に流行した男女が対面して踊る素朴な舞曲だが、ベートーヴェンは華麗な管弦楽曲へ仕立てている。NO.7の旋律は「エロイカ」第4楽章の第3変奏に出て来る第2主題だ。
14.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「人生を楽しめ」op.340◎
ウイーン楽友協会の映像。アルヒーフ(資料室)、ブラームス・ザール(小ホール)、石のホール(リハーサル室のようなホール)、ガラスのホール、アトリエ(楽器工房)など。
15.ヨハン・シュトラウス : トリッチ・トラッチ・ポルカop.214
喜劇「トリッチ・トラッチ」初演25周年を記念して作曲された。
クライバーより速くて正確。ウイーンフィルの演奏レベルも高い。
16.ヨーゼフ・シュトラウス : ワルツ「ディナミーデン」op.173
ヨーゼフは工学技士として活躍していて、工業舞踏会のために作曲された。
ディナミーデン(Dynamiden)とは分子、原子の引力を指している。
本プロ終了後、拍手に包まれる客席にルドルフ・ブフビンダー(ウイーン、ピアニスト)?と思われる人物が。

アンコール
1.ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル「飛ぶように急いで」op.230
2.ヨハン・シュトラウス:ワルツ「美しく青きドナウ」op.314◎
恒例の新年の挨拶。
(参考)2015年ニューイヤー「美しく青きドナウ」を参照(リンク→2015.1/12
3.ヨハン・シュトラウス(父):「ラデツキー行進曲」op.228
ウイーンフィルによる新たな編曲版
(了)

2019年12月29日 (日)

「京都・奈良の旅’19」-12(正倉院展)

前日同様徒歩で奈良公園へ向かう。奈良国立博物館を目指す道は人で一杯、そして鹿が可愛い。

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春日大社もそうだったが、ヨーロッパ系の外国人が目立つ。

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会場の西新館と特設テントが見えてくる。左のテントはコインロッカー用。

エントランスにはくす玉がセットされ、1000万人目の正倉院展通算入場者がカウントダウンされていたが、我々の前後はまだ先のようでその場を素通りした。
展示を見終えてロビーへ戻ると読売新聞の特別号外が出ていて、「1000万人突破!」の見出しが躍っていた。

今年は「ご即位記念」と銘打たれ「第71回」を数える。昭和に40回、平成で30回とこれまで70回を数え、令和になって初めての正倉院展である。

東京国立博物館でも「御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」」が10,11月の1ヶ月余開催された。こちらも名品の数々が出展されたが、行かなかった。

令和」は5月1日にスタートしたが、その1月前の4月1日に発表された。出典は「万葉集」で、730(天平2)年正月の太宰府の大伴旅人邸で詠まれた歌の序文だそうだ。日本の古典から採られるのは初めてという。
翌日の朝日新聞によれば、この序文は中国の「文選」もしくは「蘭亭序」を典拠としていて、日本のオリジナルではないことを盾に、そう言っては何だがケチを付けている。
天平2年は聖武天皇在位の時代で、「万葉集」は当時の代表的古典である。当時は政治・文化全般において中国を範としており、いわば本歌取りの元歌が中国で、グローバル化していたわけで、むしろ当時の教養が国際的だったとプラスに捉えるべきだと思う。

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図録表紙を飾るのは「金銀平文琴」(きんぎんひょうもんきん)。文字通り金銀で加えられた装飾にはため息が出るばかり。これが例年のハイライトとなる宝物の展示場所を占めていた。

それに隣り合うコーナーに「鳥毛立女屏風」。第1~6扇。
何年か前にも展示されて、その年は見ていないので残念な思いをしていたリベンジができた。しかも今回のような全点展示は1999(平成11)年以来20年振りのことだそうだ。
中学時代に美術の教科書で見て以来好きな絵画である。当時の先生の言、「引目かぎ鼻、ふっくらとした顔、これが天平美人」が耳に焼き付いている。あと、頭、衣服に鳥の羽毛が貼付けられていた、とも。
図録解説は、描かれている婦人の化粧、容姿から唐代の様式としているが、「買新羅物解(ばいしらぎもつげ)」という文書(*)の反古紙が下貼りされ、羽毛は国産のヤマドリと同定されて、この屏風が日本で製作され、752(天平勝宝4(752)年から同8(756)年の間に成立したものであることが定説だと記している。

(*)752(天平勝宝4)年は東大寺大仏開眼供養会が盛大に挙行され、この年新羅は大交易団を平城京へ派遣し、大仏参拝もした。この際の日本側貴族の文書(=買新羅物解)の反古紙が下貼りされていた。(坂上康俊「平城京の時代」(岩波新書)(A)P.176)

これを見ることが出来ただけで今回来た甲斐があったと思っている。

例年聖語蔵(しょうごぞう)から出陳される経巻を見ることも楽しみになっている。今回は唐経、光明皇后御願経(ごがんきょう)から1巻ずつの出陳。
天平12(740)年5月1日付けの願文が付されているので、「五月一日経」とも称される。
今回で正倉院展は9回目になるが、先日それら過去の図録を見ていて気付いたが、光明皇后御願経は毎回出陳されている。
上掲書(A)によれば、「五月一日経」は一切経の写経の嚆矢で、その後のスタンダードとなった。(P.164)
またこのようにも、「千載の後に天平の・・・意匠を残し得たのも、光明皇后の点睛、すなわち聖武天皇の七七忌にあたっての、聖武遺愛の品々の東大寺正倉院・・への献納によると言うべきであろう。」(P.177)

地下のミュージアムショップで図録と「歴史探訪に便利な 日本史小典」(日正社)をGET。後者は手帳サイズで面白そうだったので。

奈良ホテルへ戻ると丁度無料送迎バスが出発するところ(16:45)だったので乗車。
17時30分発の近鉄京都行き特急へ間に合う。
京都駅新幹線構内で駅弁と千枚漬けと赤福GET。
18時48分京都発のぞみ138号6号車。

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「東海道新幹線弁当」

21時30分東京発さざなみ9号  22時32分木更津着。
(終わり)

「京都・奈良の旅’19」-11(奈良ホテル)

フロントでチェックインし、女性スタッフの案内で新館客室へ向かう。3011号室だ。
新館は低い土地に建っているので、本館のBFが3階にあたる。東西に延びた東の端なのでエレベーターから結構な距離だ。部屋の扉を見ると「Royal Suite」とある。

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ゆったりしたスペース、調度品も立派でピンクの絨毯も濃淡のグラデーションが気分を華やがせると共に寛ぎをも与えてくれる。

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安眠を約束してくれるようなゆったりしたベッド。

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UCCのコーヒー・紅茶メーカーが嬉しい。空気清浄機も備え付けられていた。

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洗面スペースは独立している。バス、トイレは反対側。
水回りの使い勝手の今一つなのが奈良ホテルの難点である。

入口扉の室内側に避難誘導経路図があって、この部屋の区画はスタンダードルームの3区画分になっている。
我々は無論スイートで予約を取っていないので隣接するスペースへの扉は施錠されていた。

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奈良ホテルは今年創業110周年を迎え、同じ1909(明治42)年創業の牛乳石鹸との記念コラボで石鹸の赤箱が部屋に置かれていた。

夕食は金剛の間のブッフェ。メインダイニングの「三笠」が耐震工事中ということで、期間中は朝、夕とも洋食はブッフェで通すようである。2部入替え制で我々は19時30分からだったので、しばし部屋で寛いだ。

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仔羊背肉のロースト香草風味

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国産ヘレステーキ

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スペイン産生ハムとパン

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サラダ

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魚介と秋野菜のアヒージョ

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ポタージュスープ

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左から時計回りに、フランス産フォアグラソテーとリンゴソテーバルサミコソース、海老と貝柱のペンネグラタン、鶏腿肉と栗、茸のバロティーヌ

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ビーフカレー

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アイスクリーム

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デザート

明けて11月1日。旅行最終日である。早朝は寒かったが、快晴となる。

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昨晩入室時は見えなかった窓外の紅葉が嬉しい。

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紅葉はまだ始まったばかりのようで色は薄めだ。
鳥の声がかまびすしい。木立に目をやると、部屋から遠くない処に一羽いた。

奈良新聞は沖縄首里城の火災を一面トップにしていた。今回燃えた建物は復元施設で世界遺産に入っていないが、奈良の方は、東大寺、興福寺を始め、多数の建物が構成資産なので他人事でなく、奈良市消防局が緊急の査察を行ったという記事もあった。
「文化」欄には「応仁の乱と大和/茶の湯と奈良」という歴史論文が。尋尊、経覚の名や応仁の乱への奈良の関わりがテーマだが、本ブログ第9回に記したように旅行から帰ってから読んだ呉座勇一の「応仁の乱」で奈良(興福寺)への認識が決定的に変わった、今思えばその契機となった旅行だった。
あと前日(10月31日)付けの方には、「明風清音」、「雑記帳」というコラムが。前者は鉄田憲男という人のコラム、後の方は読者投稿で、共に志賀直哉旧居のサンルームのテーブルに置かれていた資料で、妻がコピーを取っていた。
旧居でのコピーの「明風清音」は「志賀直哉の奈良愛」で志賀が奈良を去る直前に書いた「奈良」というエッセイに材を求めたもの。
また「雑記帳」は、旧居の受付をしていた女性の投稿で、旧居の庭の植物について「万葉集」へ詠まれているもの、歌人(藤原定家)に因む名を有つもの、「無患子(むくろじ)」という変わった名の実について、その名の意味、様々な知識を興味深く記した文章を7~8年来に亘り掲載されているもの。

8時30分朝食へ。

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左からベーコン、フレンチトースト、ハッシュポテト、ソーセージ、スクランブルエッグ

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サラダ、ポテトサラダ、ぶどう。マンゴージュース

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パン、牛乳

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わらび餅

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コーヒー

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コーヒーのお替わり、アップルデニッシュ。

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レイトチェックアウトなので、部屋でもコーヒーを味わうことができた。
(続く)

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