2019年11月13日 (水)

「京都・奈良の旅’19」-2

知恩院の拝観は午後4時まで。
我々が先の日蓮の銅像へたどり着いた時は4時を回っていた。二人とも足に来ていたので、休憩所でひと息入れることとしたのも束の間。従業員から退去の督促を受け、止むを得ず重い腰を上げた。

女坂という男坂に併行するルートを下りて知恩院を出た。
夕食を美濃吉本店竹茂楼へ6時に予約しており、時間があるので先ず知恩院の塔頭の源光院へ行った。
三門前の観光バス駐車場の脇道を入ると塔頭寺院が並んでいて源光院はその一番奥にあった。

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うらぶれたイメージを勝手に抱いていたので、真新しいやや重厚感に欠けた建築物が見えて来た時は、期待を裏切られて我が目を疑ってしまった。

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門には紛れもなく「源光院」の門札が掛けられている。また左の門柱には「浄土宗教化研修会館」の札が掛かっていた。信徒向けなのか、全国の浄土宗僧侶のための研修場所なのか、セミナーハウスとなっているようだ。
昨年の京都旅行で漱石句碑を訪ね、それを契機に読んだ谷崎潤一郎の「磯田多佳女のこと」冒頭に記された多佳女一周忌の会場となった源光院の名は記憶に刻み込まれていたのだが、当時の面影は残っていなかった。(因みに法要が営まれたのは昭和21(1946)年なので無理もない(^^;→リンク:http://guit-kichi.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-abc5.html

まだ時間に余裕があるので知恩院に隣接する円山公園へ。
知恩院南門をくぐると何となく空気が変わったような感じがした。
ひょうたん池に面して円山公園の由緒書きがあり、それによると

―鎌倉時代の僧慈円の和歌(新古今集)により有名になり、江戸時代に「慈円山安養寺」の省略形「円山(まるやま)」と呼ばれるようになった。
明治22(1889)年市制施行と共に京都市の管理となり、大正2(1913)年小川治兵衛(*)により現在の形が出来た。

とある。
(*)当時の造園の第一人者だったようで、2年前に宿泊した京都平安ホテルでその名を知った。(リンク:→http://guit-kichi.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/17-a13b.html

それから八坂神社へ。途中、祇園祭山鉾館があった。これも看板によると、ここには以下の10基の山鉾が保存されている由。

木賊山、芦刈山、伯牙山、郭巨山、油天神山、太子山、浄妙山、黒主山、孟宗山、岩戸山

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八坂神社本殿。
祭神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くし(い)なだひめのみこと)、八柱の御子神(やはしらのみこがみ)の三神。
京都の夏の代名詞とも云うべき祇園祭は八坂神社の祭礼。
我々は平成20(2008)年に宵山、山鉾巡行、そしてホテル内から木屋町通りを行く神幸祭の行列を見たことがある。

本殿には大鈴を鳴らす紐ものが三個並んでいて、我々は妻が中央、私は右の鈴を鳴らした。中央は素戔嗚尊、右は東側なので八王子になるようだ。鈴を鳴らしてから2礼2拍手1礼をしたが、果たして作法に反していなかったかどうか?

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石鳥居越しに南楼門を見る。

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西楼門。

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西楼門の前は四条通である。

予約時間が近づいてきたので美濃吉へ向かう。
東大路通りを上がる。しばらく歩くと知恩院新門、更に行くと白川沿いの道への分岐点へたどり着いた。

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川縁両岸に柳が植えられ、川側に背の低い照明が風情を作っている。車が時々通行するので油断できないが、丁度この頃に照明が灯って、洒落たお店が開店の準備をしているのが歩きながら窺うことが出来、趣のあるルートだ。
この白川は琵琶湖疎水から分岐し、東大路通りを横切り、鴨川に注いでいる。
鴨川寄りに磯田多佳女の「大友(だいとも)」がかつてあり、漱石が胃痛に見舞われ思わぬ長い滞在をし、谷崎潤一郎もしばしば訪れた祇園のお茶屋である。(リンク:http://guit-kichi.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-abc5.html
やがて三条通に入って、東へ向かい、美濃吉本店を目指した。
(続く)

2019年11月 9日 (土)

「京都・奈良の旅’19」-1

10月29日から11月1日まで今年も京都・奈良へ行って来た。

9月8日の台風15号、10月12日の台風19号、そして上陸時は温帯低気圧となったものの甚大な被害をもたらした10月25日の台風21号と、千葉県では過去にない規模の災害が広域に発生した。
被災し日常に戻れていない方達を思うと心が痛み、後ろめたい気持ちが心をよぎるのも否めないが、旅行中は天候に恵まれ、体調を崩すこともなく、大過なく予定を消化して無事戻ってくることができた。

69才となり、60代最後の1年に入っての旅となったわけだが、大変有意義で充実したものとすることができた。

東京発9時50分のぞみ105号6号車10番D、E席。ESCでホームに出た所が丁度6号車の出入口である。
毎年車窓から富士を見ていたが、今年は曇りで叶わなかった。

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名古屋を出てから東京駅でGETした弁当「男飯(おとこめし)」を開ける。おかずが多く、食材が良く、味付けも良い。昨年と同じになるが、とりわけ鮭の切り身が良かった。
妻は「百日草」という弁当。やはりおかずが10種類と豊富で、ご飯も美味しく、価格からはリーズナブルすぎるという妻の感想である。

12時8分京都着。京都駅南北自由通路(2F)沿いの京都総合観光案内所で「京都観光まっぷ」(公財京都市観光協会)GET。もう一つ「京都駅+発時刻表」が欲しかったが、発行されなくなった由。

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上の時刻表の方は昨年のもの。ただ、正直今回利用したルートは本数が多く、ダイヤを意識する必要はなかった。
またバス一日券は知っていたが、「地下鉄・バス一日券(二日券もあり)」の存在を「京都観光まっぷ」で知った。これも複数箇所を意欲的に廻る場合でないと、個別延べ料金を上回らない。ので、結果的に我々の場合は利用しないで正解だった。

それからホテルグランヴィア京都へ直行してフロントで受け付けを済ませ荷物を預かってもらい、コンシェルジェで今日と明日の予定にかかる確認をして、地下鉄烏丸線で御池まで行き頂法寺会館の如哉庵へ義姉の参拝をした。

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再び烏丸御池まで戻って、東西線で東山下車、三条通を東へ向かう。程なく白川に差し掛かる。流れる水は清冽だ。

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また橋の東南端に石碑があり、写真に見るとおり昭和62年に「三条白川橋道標」として京都市が史跡登録した。道標東面に「是よりひだり ちおんゐんぎおんきよ水みち」とある。南面に建立趣旨、施主のほか建立年が記されていて、それによると「延宝6年(1678)」で霊元天皇、4代将軍家綱の時代だ。

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白川からすぐ、今度は「坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡」という石碑があった。

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右隣に歴史地理史学者の解説が刻印された銘板があり、定説とは異なりお龍の証言を根拠にこの地とした旨が記されている。今は知恩院に隣り合う青蓮院(しょうれんいん)は当時こちらに境内があり、その塔頭金蔵寺(こんぞうじ)があった。
お龍の父は青蓮院お付きの医師、仲人は金蔵寺住職だったとある。

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三条神宮道を南へ下り、知恩院を目指す。
法然が開いた浄土宗の総本山。

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三門(国宝)から入る。高さ24m、幅50m(!!!)で日本最大の木造二重門だそうだ。
11月1~10日の秋期公開だったら三門内部の参観が許され、狩野派の天井画「迦陵頻伽(かりょうびんが)」を見ることが出来たのだが・・・

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三門に続く男坂。

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御影堂(国宝)。現在工事中で内部は見られない。
それに隣接する集会堂から入り、有料参観した。

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左が大方丈、奥が小方丈、右側が方丈庭園。

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「二十五菩薩の庭」。「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」(知恩院、国宝)に基づき作庭。左隅の門は「権現堂」(家康、秀忠、家光を祀る)への入口。

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方丈庭園から石畳の坂道を登ると山亭庭園に至る。上はその入口。

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山亭庭園から臨む京都市街。手前は知恩院の堂宇。中央右の長方形が京都ホテルオークラと思われる。
裏出口を出ると墓地である。歴代座主(ざす)を始め、由緒ある墓標が多い。
奥まったところに千姫の墓があった。

墓地を出ると勢至堂(せいしどう)で、その先は法然の廟堂の入口で脇に法然の「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」の看板がある。

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御影堂から御廟への石段登り口にある法然像。
(続く)

2019年10月23日 (水)

文化祭将棋大会

10月20日(日)木更津駅前のアクア木更津B館3Fホールで開催された市文化祭将棋大会に参加してきた。

毎年この時期に行われる大会で、3年振りの参加になる。
A級(四段以上)、B級(二、三段)、C級(初段以下)そして子供(小、中学生)が2クラスと大規模である。
全対局チェスクロック使用で、持ち時間は25分切れ負けという大変きびしいルールである。
この大会の特長は、地元のみならず千葉市、果ては横須賀市等遠隔地からの参加者がいることで、情報をネットで発信しているからだろう。
また今回は中学時代の友人と卒業以来53年振りで再会するという嬉しいハプニングもあった。

私は当初B級で参加していたが、成績が芳しくなくてC級に落として過去2回出たが共に3勝2敗で決勝トーナメントへ進んだことがない。
今回は優勝、とまで行かずとも予選リーグは抜けたいとの思いで参加したが、結果はやはり3勝2敗で、枠抜けは叶わなかった。
私のグループは8名で、午前中に3局、午後2局と各自5局戦い、勝つと勝ち点が得られるが、1局目8点で以下1点ずつ増えていき、5局目は12点となる。
私は1、4、5局を勝ったので勝ち点は31点、3勝2敗は他に2名いたが勝ち点はバラバラで私は4位で予選リーグの入賞をも逃してしまった。(^^;
トップの方は全勝だった。が、なんと決勝トーナメント進出の権利を放棄して帰ってしまった。

以下に3局目に対戦したトップの人との将棋を振り返ってみたい。
私の先手番。後手の作戦が独特な将棋で、左銀を進出させ引き角が8六をにらむ通常あまり見ない形で来られた。
棋譜は正確に記憶できていないので途中の局面からスタートしたい。

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<局面A>5四飛まで

私が飛車を2筋から5四へ持ってきたところ。以下6五桂、4六角、6四角と進み、同飛車と飛車で角を取り、同歩、同角と進め、敵玉に直接狙いを定めた。
相手は4九飛。

B191020

<局面B>4九飛まで

王手銀取りだ。私は8八玉。ここで相手は4八銀へ手が行きかけるが、一旦出しかけると引っ込めを再三繰り返していた。相手の指し手を待つ時間が長く感じられた。
ここで腰を据える相手の強さを思っていたが、結局4八飛成りを着手して来た。

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<局面C>7五角まで

私は7五角と打つ。
作ったような詰めろ竜取りが掛かった。麻雀でいえば大三元クラスの役満だろう。
どう見ても必勝形で、滅多にこういう形は出来ない。先方はというと、考え込んで容易に指さない。
そして5三歩が指された。
局面Cで将棋は終わったと思考停止してしまった私は、後はどう指しても勝ちだと思い、深く考えずに6三歩。
つくづく将棋は恐ろしい。6三歩に代えて4八角なら勝ちは動かなかったが、この手が敗着となってしまった。7八竜が好手で、以下同玉、6九銀。同玉は8七飛成りで負けなので、8八玉。ここで7八銀打ちが上手い。逆に詰めろが掛かってしまった。

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<局面D>7八銀打ちまで

8二銀と飛車の利きを止めたが、8六歩、同角と玉の退路を断たれ、8二飛で銀を補充。
自玉は簡単な5手詰めである。8七銀成りを見て無念の投了となった。

相手の強さ、勝負所と見れば腰を落とし、一見上手そうな手でも落とし穴を疑い、広く局面全体を見る・・・指し進める姿勢に唸ると共に、将棋の奥深さを思い知る大会だった。

 

2019年9月 9日 (月)

台風15号

台風15号が首都圏を通過した。
昨夜から未明にかけて強い風雨。強度は最近頻繁に襲うごく短時間のゲリラ豪雨と同程度だが継続時間が長かったことに加えて、現在からさかのぼって記憶する限りなかった停電が発生した。
私が子供の頃は電力事情も良くなく、台風が来ると停電はよくあったが、最近は瞬停ですら珍しい位電力供給の安定度は優良だっただけに短時間だったとはいえ、停電はちょっとした事件といえる。

自宅はそれで済んだのだが、一夜明けて台風一過私の地元は大変なことになっていた。木更津市は瞬間最大風速49mという観測史上最高を記録したそうで、道路の交差点の信号機のランプが消えていて車は譲り合いながら横断している。これも停電のためで、広域的な停電が昨夜来続いている地域のコンビニ、スーパー、レストラン・・・は軒並み休業という事態になっていた。

結局終日停電は続いて、この日のゴミ収集も行われず市の放送で当面各戸保存するようにとの通知は説明がないのでわからないが、停電が原因で余程の支障が出ているのだろう。

夕方のNHKニュースによると、東京電力は記者会見で広域停電は君津市の高さ50mの送電鉄塔2本が倒れたことが原因で、10万戸が停電中で、9日中に5万戸、翌10日に残る5万戸の復旧を図るべく計画中だと説明していた。

2019年6月29日 (土)

炭焼きステーキ「照葉樹」

6月28日(金)木更津のステーキレストラン「照葉樹(しょうようじゅ)」で夕食を摂った。
今回初めて利用した。感想はと言うと、素晴らしいの一言である。
素材、調理法全般の細かいところまでこだわり、出された料理の一品々々がしっかりした味なのは勿論、見た目にも風格を感じた。
我々がいただいたのは3コースの内、Aコース(セミフルコース)。

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先ずはオードブル2品。燻蒸を施した鮭(皮付き)。海老のアボカド和え。
鮭自体が上質なのと、燻蒸の香りが口の中に漂い形容が難しい味わい。

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スープ(ガスパチョ)。コース外だが、シェフの勧めによりいただくことにした。
トマトベースの冷製スープ。トウモロコシ、ズッキーニ、赤、黄パプリカ、松の実。表面にオリーブオイルをふりかけ。

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パン2種。

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サラダ(自家製ポテト(赤カブ、胡瓜、人参)、地元かずさ(富津)産野菜(サラダ菜、紫玉葱etc.)

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メインのステーキ。宮崎牛で「イチボ(Hボーン)」という部位だそうだ。人参、じゃが芋、ブロッコリー添え。
備長炭で表面を焼き、遠赤外線で内部を加熱する調理法だそうで、焼き具合は「ミディアムレア」だそうだ。塩胡椒のみを使用している由。

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ステーキ用に出された調味料3種(左からサワークリーム、醤油、マスタード)。
ステーキだけで十分美味しいが、それぞれも新たな味わいを楽しむことができた。

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コーヒー、紅茶またはアイスクリームをチョイス。我々は共にコーヒーをいただいた。
(終わり)

2019年6月14日 (金)

横浜ホテルニューグランド

6月1日(土)神奈川県立近代文学館の帰途、山下公園通り沿いのホテルニューグランドで夕食を摂った。
このホテルは創業が昭和2年だそうで、まだ100年には満たないが堂々たる老舗ホテルなのは自他共に認めるところ。戦後GHQに接収された苦難の時代を乗り越え、2代目総料理長だった入江茂忠が考案したスパゲティー・ナポリタンやプリン・ア・ラ・モードなどニューグランド発祥メニューが「ザ・カフェ」でいただけるというので行ってみた。

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18時近い頃ホテルニューグランドへたどり着いた。赤の出窓屋根が並ぶ箇所が「ザ・カフェ」。この建物は本館で、コーナー部上方の装飾部分には「AD1927」と創業年が入っている。

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本館エントランス。回転ドアになっている。
歩道上の屋根には、「祝 横浜開港160周年」とあり、1859(安政6)年の開港以来、節目の年であることが分かる。

ロビーは手狭だが歴史を感じさせる風格がある。順番待ちの人が何組か座っていた。
丁度今日から「初夏のフェア」がスタートしていて、簡易なコースで手頃な価格だったのでその肉料理コースをいただくことにした。

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幸い窓際の席へ就くことができた。

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コールドチキンコンソメスープ。さっぱりした中にしっかりした手応えを感じさせる。
これが出て来たのは18時20分頃。

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私はパンをチョイス。ほぼ同時に出て来た。バゲット。とても美味しくお替わりをした。

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イベリコ豚のソテー、しょうがの香るプチトマトのソース。添え物は、万願寺唐辛子、オクラ、新じゃがとクレソン。万願寺唐辛子は京野菜、旬を迎えた希少な食材はうれしい。

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妻はライス。もちもちした食感で美味しかったそうだ。

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デザート。ほうじ茶と黒糖のケーキとほうじ茶味のアイス。
盛り付けも洗練されており、大変美味だったそうだ。

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私はプリン・ア・ラ・モードをチョイス。ホテルニューグランドの発祥メニューなので。
GHQ接収時代の産物のようで、ヴォリュームたっぷり、との触れ込みだったが左程でもなかった。
カスタード・プリンとヴァニラ・アイスとフルーツ(オレンジ、キウイ、桜桃、飾り林檎(ウサギを模している)、ナツメ)

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コーヒー

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妻は紅茶。19時7分頃。
(終わり)

2019年6月13日 (木)

江藤淳展・記念講演(上野千鶴子)

6月1日(土)神奈川県立近代文学館の企画展「没後20年 江藤淳展」の上野千鶴子記念講演「戦後批評の正嫡 江藤淳」を聴いた。

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講演チラシ

4月26日の「松本清張展」以来だから1ヶ月強ぶりでの再訪である。

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上:案内看板、下:文学館入り口

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上野千鶴子の講演は、妻も是非聴きたいとの希望で、たしか4月末にローソンチケットでGETしたのだったが、それから1週間くらいで売り切れとなる人気振りだった。
会場は2Fホールでほぼ満席に近い盛況、定員220人とのことなので200人前後が入ったわけだ。若い人はほとんど見かけず中高年が大多数だった。男女比は分からないが、大きく偏ってはいなかったように思う。

上野千鶴子の「セクシイ・ギャルの大研究」と栗本慎一郎の「パンツをはいたサル」は私が30代半ばの当時、セットで評判となった記憶があり、その後も「スカートの下の劇場」という本を題名に釣られて買ったりしている。
その後「おひとりさまの老後」を出して、これは今回をきっかけに「上野千鶴子が文学を社会学する」と共に地元図書館から借りてきて現在読書中である。

朝日新聞土曜版の人生相談「悩みのるつぼ」の回答は、上野千鶴子と姜尚中のものを欠かさず読んでいる。上野はお茶目な中にも相談者を鋭く分析、回答は決して妥協することがなく、かつユニークなのが魅力的で、一方の姜氏は相談に真っ向から向き合い、野球で云えば変化球なしの直球勝負というタイプで、その武骨で実直なところが彼の人間的魅力で、上野とは対照的。

これまで上野へは好感は抱いていたものの、軽めの息抜き的存在だったが、この講演で少し見直したというか上野への認識が変わった。これまでは上野を文学に括ることは思いも寄らず、まして江藤淳と上野が結び付くとは想像外だった。

上野も江藤淳との関わりから話を始めた。やや低めだが明瞭な発声、早口ではないが淀みなく話を進める。70代でなお頭脳明晰だ。
江藤の「成熟と喪失」(1967)での小島信夫「抱擁家族」(1965)への批評に啓発されて書かれた、上野の共著「男流文学論」での江藤評が契機となって「成熟と喪失」文庫版解説を江藤直々の指名で執筆(1993)、1995年には「群像」誌上対談もしていて、この対談は後述するムック本で読み、二人はお互いに好感を抱き、意気投合していることがよく分かった。

この日のレジュメは大変に手間が掛かっていて、資料としても貴重なものだ。漱石関係以外は、「小林秀雄」、荷風に関するエッセイ「紅茶のあとさき」、あとは「一族再会」を読んだ程度で、江藤の全貌を知るには足りない部分がどこか、レジュメでよく分かった。

もう一つ、演題の中の「正嫡」という用語について。
「正嫡」を目にした当初の何とも言えない異和感、言葉自体が死語のようで、旧制度(家父長制)を象徴するような、封建的なニュアンスがあり、上野千鶴子らしからぬ用語である。
それは措いて、江藤を戦後批評の「正嫡」と位置付けることが妥当なのか否かも私にはまだ理解できていない。
レジュメにも記されている「正嫡」の系譜、「夏目漱石→小林秀雄→江藤淳」がどうもしっくり受け止められない。

とはいえ私は、この3人へは取り分け親しんで来だのも事実である。漱石は勿論、小林の新潮文庫で出ているものはほとんど読んだし、江藤は上に記したとおりで、殊に「漱石とその時代」は単行本化の際にリアルタイムで読んで来たし、また「小林秀雄」も小林理解の手引き的に読んだ。

上野はほぼ定刻に喋り終えてから、おもむろに腕時計を見て、「1時間31分!時間通りだわ!」と快哉を叫んだ。無駄なく語り終えた自分に心から満足しているようで、その飾りのなさに大変好感を持った。

それから展示を見たので、時間不足でじっくり見ることができなかった。
講演受講者の大半は展示を見ずに帰ってしまったのかも知れない。全員がなだれ込んでくれば展示室は収拾が付かなくなっていただろうから。

「江藤淳展」は第2展示室のみだったが、展示は充実していた。
面白いと思ったのは多いが、メモを元に点描的に記してみる。
(1) 日比谷高校時代の活発な校内活動を跡付ける、2年次の校内演奏会で自作を指揮(「小交響曲」第2楽章「葬送」。これには驚き!!)。
(2) 慶応大時代の講義ノート(井筒俊彦「言語学概論」)、卒論草稿(「故ローレンス・スターン師の生活と意見」1956)。
(3) 在学中著わした「夏目漱石」の草稿と「三田文学」の掲載号(*)、同単行本初版(1956年11月、東京ライフ社)

(*)「夏目漱石」上 1955(昭和30)年11月号
   「続夏目漱石」上 1956年7月号
   「続夏目漱石」下 1956年8月号

(4)「小林秀雄」執筆に際し、大岡昇平は小林の未発表手稿を江藤へ提供するなど惜しみない支援をした―後年朝日紙上で漱石関係の論戦を交わした二人だが、そういうこともあったかというエピソードである。
(5)プリンストン大学で2年半の研究生活(1962~64年秋)後に体験をベースに綴った「アメリカと私」の初出連載(朝日ジャーナル1964.9/6~11/8)
(6)吉田秀和の江藤宛書簡(1965.3/5付け)文芸時評で加藤周一の小説を批判したことへ長文の書簡で抗議―吉田に「長文」を書かしめたのが、どういう経緯だったか興味深い。
(7)武満徹と隣合わせに座っているパネル写真があった。

第3展示室は常設展「文学の森へ 神奈川と作家達」第2部芥川龍之介から中島敦まで」だったが、時間切れで流し見になってしまった。荷風、谷崎、川端、横光、西脇順三郎、中也、小林秀雄、堀辰雄と盛り沢山。西脇を見たかった。

展示室を出ると販売コーナー。
上野千鶴子が講演中盛んにPRしていた平山周吉「江藤淳は甦る」の見本を手にする。700頁を越える大部でいずれ読むことになるかも知れない。
ここではムック本「江藤淳」(河出書房新社)GET。

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ムック本の表紙

サブタイトルは「終わる平成から昭和の保守を問う」ではあるが、発行は令和に入った2019年5月30日。監修が平山と中島岳志なのも注目点。くだんの「江藤×上野対談」も入っていて(後段がカットされている)、監修の二人の巻頭対談は示唆に富んでおり、特に最後で平山が江藤のプランは漱石の次の仕事を谷崎潤一郎と決めていたと言っているのにはびっくり!!
このムック本も現在読書中。

2019年6月 4日 (火)

箱根・富士宮(その6・富士宮の世界遺産を巡る)

白糸の滝は休暇村富士から約10kmに位置している。近傍に音止めの滝があり、ともに国指定の名勝および天然記念物に指定されているが、世界遺産富士山の構成資産に入っているのは白糸の滝の方である。
白糸の滝は富士山の伏流水が水源なのに対し、音止めの滝は芝川の本流であることによる。( 2018年6月7日

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滝は150mの範囲に分散していて私のカメラでは1枚に収めきれない。

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落差20mに及ぶ滝がこれだけの幅に連なっているのは壮観である。

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河原へ下りて主瀑に近付いて撮影。水しぶきが飛んできた。
水の勢いは昨年よりあった。

11時17分白糸の滝を出発、次の構成資産の富士山本宮浅間大社を目指した。
往路のR139で富士宮市街を目指すつもりだったが、R414の上井出交差点でうっかりR72へ曲がり損ねてしまい、R414を走り続けることとなった。が、結果的にこれは正解だった。
間もなく富士宮市街へ入り、R76との交差点に「浅間大社」の案内標識を認め左折、しばらくして浅間大社駐車場の標識を左折直進し無事浅間大社に到着。意外に早く、所要時間は30分弱だった。

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楼門。扁額に「冨士山本宮」とあり、裳階下に新天皇即位を奉祝する提灯、入り口の左右に「令和」改元を奉祝する幟が設置されていた。

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拝殿。その屋根のほぼ真ん中上方に見える屋根が本殿。
拝殿左側の社務所で御守りを求めた。

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境内にある特別天然記念物「湧玉池(わくたまいけ)」。ここも富士山の伏流水が湧き出ているそうで、コンスタントに毎秒3.6m3とのこと。可成りの水量だ。

ここの主祭神は「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」(別称:浅間大神(あさまのおおかみ))の由。

箱根神社も同じだった。改めて箱根神社のホームページで確認したら、御祭神は「箱根大神(はこねのおおかみ)」で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の3神を総称して「箱根大神」という由。「このはなのさくやひめ」の用字、読みが異なっている。

浅間大社は約30分滞在し、続いて「静岡県富士山世界遺産センター」へ行った。

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「富士山世界遺産センター」の外観。富士ヒノキの木格子の逆円錐形が目を惹く。

平成29年末のオープンだから真新しさを感じた。山梨県富士吉田市には「ふじさんミュージアム」があり、こちらは沿革をたどると昭和50年代へさかのぼるようだが、平成27年にリニューアルオープンしたようなので、ほぼ期を一にしている。

「富士山世界遺産センター」は、らせんのスロープを壁に映し出される映像を見ながら上ることで、富士登山を疑似体験しつつ、各所の展示スペースで富士山の自然、歴史、文化、特に富士信仰について学べるようになっている。

富士信仰の展示から富士本宮浅間大社の祭神に関して、メモを元に整理してみた。
江戸期までは神仏習合思想によって神社は仏教思想と融合し、富士信仰においても富士山は大日如来(仏教)が浅間大菩薩=浅間大神(あさまのおおかみ)として現われた、と考えられていた。
また富士信仰(伝説)には、かぐや姫が富士山へ登り、浅間大菩薩となったという、この地域ならではのユニークな話もある。
よって、木花之佐久夜毘売命は浅間大神であり、その本地は大日如来ということになるわけだ。

ちなみに「コノハナノサクヤビメ」は「古事記」(*)上巻の末尾に登場する神話の神。
箱根の大神の他の構成神、瓊瓊杵尊は「コノハナノサクヤビメ」の夫で、天照大神の孫であり、彦火火出見尊は「コノハナノサクヤビメ」の子で「山佐知毘古(ヤマサチビコ)」となる神。

(*)「日本文学全集01」(池澤夏樹訳、河出書房新社、2014年12月2刷)

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5F展示ホールからの富士。

2Fの映像シアターの映像を見たり、ここは3時間以上滞在した。

受付でスタッフの女性にR76からR139へ入る道順を教えてもらい、帰途に就いた。
15時55分「富士山世界遺産センター」を出発。
17時26分海老名SA着。休憩及び軽く食事とお土産のGET。(~19時)
程なく横浜町田ICに到着したはよいが、ここで大ちょんぼをしてしまう。
何と、反対方向の八王子方面に入ってしまった!しばらく道なりに走行していたが、間もなく大和市街へ入る分岐点があって、ここで下りると上手い具合に横浜方面への進入路があった。この間約15分。(^^;
それ以降は順調で保土ヶ谷バイパスを横浜方面へひた走り、19時40分狩場IC、同47分湾岸線に乗り、59分アクアラインへ入った。20時10分アクアライン金田出口へ到達。
20時28分無事自宅へ帰還した。
(終わり)

2019年6月 3日 (月)

箱根・富士宮(その5・休暇村富士)

休暇村富士に18時前にチェックイン。部屋は昨年と同じ最上階の5Fの洋室。
全室田貫湖越しの富士山ビューになっている。昨年はあいにく見ることが叶わなかったが、今回はここでも富士を堪能することができた。

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部屋から見た富士。

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湖畔の展望デッキからの富士。湖面に綺麗な逆さ富士が映っている。
頂上右から垂直に立ち上っているのは飛行機雲か?3月に六本木ヒルズの森アーツセンターの「新・北斎展」で見た北斎晩年の傑作「富士越竜図」を連想した。今この作品を改めて見てみると頂上の形からして静岡側から見たもののようである。

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これも展望デッキからズームアップしたショット。大沢崩れがより鮮明に分かる。昨年受講した自然塾で知ったが日々崩落しており、日量300tに上るそうだ。
それにしても富士は位置により様々な表情を見せてくれることを改めて感じた。
休暇村富士は間近に富士と合い対すことが出来、また障害物がないので裾野の末端まで目にでき、それがとても長いのが分かる。

18時30分頃で日はまだ高かったが、気温は冷え込んできていて半袖の肌へ寒さが応えつつあった。
夕食は19時過ぎに2Fレストランでいただいた。和洋のバイキングだったが、和食のみいただく。
刺身(鮪、甘海老)、牛サイコロステーキ、天ぷら(海老、タラの芽)、竹の子ご飯、鰯つみれ汁etc.を美味しくいただいた。
部屋へ戻り、しばらく休憩の後4F大浴場へ。22時を過ぎていて外は真っ暗だ。温泉で「富士山恵みの湯」という。

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翌11日5時10分頃。前日より雲が多い。日の出の時刻は過ぎているが、太陽は頂上付近に隠れている。

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同じく6時30分頃。太陽は富士の上にあるだろうことが湖面の映り込み具合で分かる。
朝の大浴場へ。窓越しに富士が見えている。太陽がまだ低く、視界に入ってしまうので頭の上にタオルをのせサンバイザー代わりにした。お湯が快い。
朝食はやや遅めの8時過ぎに2Fレストランでいただいた。窓際のテーブルで日射しが強くカーテンが下りていたが、日も高くなってきてスタッフにお願いして少し上げてもらい、富士を見ながら食事をするという贅沢が出来た。

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バイキングで始め和食をいただき、上はそれからの洋食メニュー。パンが美味しかった。種類が多かったが、胚芽パン、クロワッサン、白パンをいただく。殻付きの卵は朝霧高原の地鶏の温泉卵。

10時過ぎに休暇村冨士を出発した。
昨日のR414をさかのぼり、白糸の滝を目指す。
(続く)

2019年5月30日 (木)

箱根・富士宮(その4・ラリック美術館)

5月10日12時に山のホテルを出発し、芦ノ湖沿いにR75を仙石原まで走り、ラリック美術館へ。
ラリック美術館は2度目で、前回(11年前)は「Le Train(ル・トラン)」を見たため、展示室をじっくり見る事が出来なくなってしまい、是非もう一度見たいと思っていた。

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入館チケット。左:ペンダント/ブローチ「冬景色」、右:ベッドサイドランプ「日本の林檎の木」

ルネ・ラリック(1860~1945)はフランスの工芸家で、前半生はアール・ヌーヴォー様式の金細工、宝飾デザインの製作、20C以降後半生はガラス工芸を手がけた。

展示はラリックの生涯を概ね反映するもので、19C末のアール・ヌーヴォー様式の七宝技術(エマイユ、プリカジュールetc.)に基づく宝飾品、20Cアール・デコ様式のガラス工芸、コティの香水瓶とか花器、テーブルウェアデザイン、また室内装飾(シャンデリアなど)、「ル・トラン」の内装等幅広く手掛けたことが紹介されている。自動車のフロントのガラス製のマスコットも多数製作しており、美術館とレストランを連絡する通路の一角にラリックのマスコットを付けたクラシックカーが置かれていて、この美術館のトレードマークになっている。(トレードマークは、「ル・トラン」か)(^^;

またジャポニスムにも無縁ではなく、「蝶の女(Butterfly Woman)」(*)(ブロンズ、1899-1900)がたしか「ジャポニスムとその時代」コーナーのメイン展示だった。
「蝶の女」とジャポニスムとの関係性を理解しているわけでなく、この記述はひょっとすると誤りかも知れない。

(*)ラリック美術館のホームページによると、1900年のパリ万博のラリックブースのショーケースの装飾柵に使用されたものだという。

昨年ポーラ美術館で見たエミール・ガレより世代的には若く、ラリックがガラス工芸を手掛けるに至った頃にはガレは世を去っている。ので、二人の接触はどうだったのか?

今回は「サラ・ベルナールの世界展」が2F企画展示室で開催中だった。サラ・ベルナールの名はプルーストの「失われた時を求めて」でも再三出て来るので記憶しているが、サラはラリック作品を愛好していたようだ。
ラリック美術館の1Fには「サラ・ベルナールの部屋」がある。

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「サラ・ベルナールの部屋」から見える池。モネのジヴェルニーの邸宅の池を連想させる。

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同上。

鑑賞後にレストランで遅い昼食を摂った。

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テーブルから庭を見る。

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ランチ。上左から牛バラ肉のブランケット、バターライス、下同メカジキのグリル、ラタトゥイユそれに別プレートの前菜、パンが付いた。

16時にラリック美術館を出発、箱根に別れを告げ休暇村冨士を目指した。
R138~R401経由で御殿場インターから東名へ乗る。程なく御殿場JCから新東名へ入り、駿河湾沼津SAで小憩後、新富士IC~R139上井出IC~R72~R414を経て17時48分田貫湖着。
渋滞もなく快適なドライブだった。この間富士は常に顔を見せていた。
(続く)

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