2018年1月 9日 (火)

ウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサート2018

2018年が明けた。
今年もウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサートを視聴することが出来た幸福を噛みしめている。
指揮はリッカルド・ムーティ。1941年生まれ()なので今年は77歳となるわけだが、やや太目気味ながらムーティの指揮ぶりは年齢を感じさせないスタイリッシュで優雅でかつエネルギッシュで、このブログへ記録するようになってから今回が最も魅了された。
例年ご愛敬でどこかにジョークが入るのだが、選曲にもよるのか今年のムーティはひたすら格調高く指揮をした。
なおムーティは1993年の初登場以来、今回が5回目のニュー・イヤー・コンサートとなり、前回の2004年から14年振りと久々の登場である。

)クラシカルギターのジョン・ウイリアムスと同年になるわけだ。

手元に2005年のウイーン・フィル来日公演の録画DVDがあるが、指揮はムーティ。この時は64歳だったが、やはり華麗かつダイナミックな指揮ぶりでサントリーホールの聴衆を魅了していた。なおコンサートマスターは2016年に退団したライナー・キュッヒル、次席はライナー・ホーネックだった。二人のファースト・ネームが同じなのが面白い。またヴァイオリン・パートに今年のNHKにゲスト出演したウイーン・フィルのチェロ奏者へーデンボルク直樹の兄、和樹の姿もあった。

キュッヒルは昨年ギタリストの福田進一とデュオCDをリリースした。福田がライナー・ノートへ寄せたコメントで、「再スタートの共演者として選ばれたことに驚き」以外言葉がない、と正直に述べているが、福田の高いポテンシャルを改めて認識させる快挙であったと共に、どういうコネクションでこのセッションが実現に至ったのか大変興味を覚えたことが記憶に新しい。

今年のコンサートマスターはフォルクハルト・シュトイデ。次席はホセ・マリア・ブルーメンシャイン、2016年に退団したライナー・キュッヒルの後にコンサートマスターとして入団した人だ。(→2017.1/10

ニュー・イヤー・コンサートの前に放送された特集番組で印象深かったのは、ウイーン・フィルが使用している楽器(ヴァイオリン)についての紹介の部分。団員が使用するのは楽団所有のもので、ウイーン製。概ね1800~1940年頃の製作のものを使用している由。そしてコンサートマスターはいわゆる名器を弾いているらしい。
ライナー・ホーネックはストラディバリウス「シャコンヌ」、1725年製とのこと。ちなみに所有者はオーストリア銀行らしい。

来年の指揮者はクリスティアン・ティーレマン

以下プログラムのメモを記す。
2018年はウイーンの建築家オットー・ワグナー没後100年、そして1918年第1次世界大戦終結と共にハプスブルク帝国が崩壊して100年となり、それに因む映像が挿入されている(○印)。
下の記号は凡例だが、今年は初登場の曲が紹介されなかった。あったのにマークしなかったのか、実際になかったのかわからない。
選曲は基本的にウイーン・フィルが行っているようだが、ムーティに相応しい、優雅かつ格調高いプログラムだった。

◎映像挿入
○2018年のアニバーサリー
△バレエ映像
(伊):イタリア(ムーティ)に因む曲
第1部
1.ヨハン・シュトラウス : 喜歌劇「ジプシー男爵」から「入場行進曲」
2.ヨーゼフ・シュトラウス : ワルツ「ウィーンのフレスコ画」op.249◎
映像:オーストリア国立図書館の天井のフレスコ画。王宮の一角にあり、書物がうず高く納められた書架が並ぶ広大な空間の高い天井へ豪華絢爛たるフレスコ画が描かれている。
文学博物館の興味深い資料映像、アウグスティーナ閲覧室も紹介されている。
3.ヨハン・シュトラウス : フランス風ポルカ「花嫁探し」op.417
「ジプシー男爵」のアリアを用いている。
4.ヨハン・シュトラウス : ポルカ・シュネル「浮き立つ心」op.319
5.ヨハン・シュトラウス(父) : マリアのワルツop.212
6.ヨハン・シュトラウス(父) : ウィリアム・テル・ギャロップop.29b(伊)
ロッシーニの序曲のマーチから入る。今年はロッシーニ没後150年。

第2部
7.フランツ・フォン・スッペ : 喜歌劇「ボッカッチョ」序曲 (伊)
ウイーン風の優雅な序奏とロッシーニを思わせる軽快かつ明るいアレグロから成る。
8.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「ミルテの花」op.395◎
ミルテは祝いの花。生誕160年のオーストリア皇太子ルドルフとベルギー王女ステファニーの結婚式で演奏された。
映像:今年創設300年のウイーンの磁器工房。装飾に花をあしらった白磁器をはじめ、カラフルで、華やかな、見事な磁器の数々が画面に繰り広げられる。
9.アルフォンス・チブルカ : ステファニー・ガヴォットop.312○△
皇帝一家専用の駅舎「ホーフ・パビリオン」。設計はオットー・ワグナー。
ドーム付きの白壁のシックな建築で、開口部の枠の緑が目に鮮やかだ。また駅舎内は皇帝が使用しただけに、ホールの壁面の装飾、大きな壁画、床は総絨毯と、絢爛豪華。ドーム天井には円形の明かり取りを幾何学的に配置し、中心部からシャンデリア風の照明を吊り下げている。
10.ヨハン・シュトラウス : ポルカ・シュネル 「百発百中」op.326
150年前ウイーンで開催された射撃の国際大会の舞踏会のために作曲された。射撃の音は大太鼓、ティンパニで。
11.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「ウィーンの森の物語」op.325◎
チター奏者(バルバラ・ライスター・エブナー(女性))が入る。
作曲されて150年になる。この作品は2014年にも演奏されている(バレンボイム)。このブログへニュー・イヤー・コンサートを綴り始めた年だが、それ以来で重複するのはこの曲だけである。
映像:ウイーン郊外からの市街遠望。ブドウ畑。エリーザベトの礼拝堂。マウエルバッハ修道院。ハイリゲンクロイツ修道院。
導入部分に長目の、そして最後の2箇所にチター独奏が入る。アップで映し出された楽器を見ると、張られている弦は多いが、ギターのようにフレットが打たれているのは奏者側の5本のみでほとんどその部分で演奏している。その他の弦は開放弦のみを時に弾弦しているようで、あとは倍音を響かせて音を豊かにしているのかも知れない。音量的に会場にどの程度響いていたか?
12.ヨハン・シュトラウス : 祝典行進曲op.452
ヨハンと交流のあったフェルディナント1世とイタリア公女の結婚にあたり作曲された。
1893年6月初演。
13.ヨハン・シュトラウス : ポルカ・マズルカ「都会と田舎」op.322
ウイーン園芸協会開催の演奏会のために作曲された。
前半は都会、中間部は田舎の生活を鮮やかに対比的に描写。とテロップにあったが、それほど明確な対比には聞こえなかった。3部形式というには前半の再現が短かすぎて、最後はコーダというのか、短いが華麗な終結部で終わる。
14.ヨハン・シュトラウス : 「仮面舞踏会」のカドリーユop.272(伊)
「仮面舞踏会」はヴェルディのオペラ(1858年ローマで初演)。ヨハン・シュトラウスとヴェルディはお互いを尊敬し合っていたそうだ。
恐らくは原曲の旋律を組曲のように緩急交えて構成している。
昨年のブログに書いた「カドリーユ」の注(→2017.1/10の注を参照)を念頭に聴き直してみると、確かに6曲から成っている。
1急速2軽快かつ伸びやか。ABAの3部形式。3ロンド形式(ABA‘CABA’)4軽快かつ洒脱5諧謔的、そして6フィナーレABA(2回目のAはアッチェレランド)という風に聴いた。
15.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「南国のばら」op.388○△(伊)
南国はイタリアを指す。
演奏前に映し出された花々の中で、黄色の薔薇の花びらにテントウ虫のようなものが付いていた。
どのような意味合いなのか?
映像:エッカルツァウ城(ハプスブルク帝国終焉の場所)。ここでカール1世が退位を宣言し、600年以上の帝国の歴史が終わった。ウイーン・フィルはパトロンを失い存続の危機に陥るが、団員の内外での積極的な活動と聴衆の支持により、以来自主運営で今日に至る基盤を築いてきたのだそうだ。
豪華な宮殿で繰り広げられるダンサー達の踊りは、みずみずしく、しなやかで、生命力に溢れており、若さの素晴らしさを感じた。
16.ヨーゼフ・シュトラウス : ポルカ・シュネル「短い言づて」op.240
「短い言づて」とは新聞の投書欄の名前の由。
ウイーン・ジャーナリスト協会の舞踏会のために作曲された。業界ごとの舞踏会がウイーンの伝統で、現在に至っているそうだ。
アンコール
1.ヨハン・シュトラウス:ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」op.324
本曲も作曲されて150年。芸術家協会の舞踏会のために作曲された。
ムーティとウイーン・フィルの演奏は大変に洗練された上質なもの。
2.ヨハン・シュトラウス:「美しく青きドナウ」op.314◎
ムーティの合図でウイーン・フィルの新年の挨拶。
映像:ドナウ川とその流域の美しい景観。
参考:’15年ニューイヤー「美しく青きドナウ」を参照(→2015.1/12その(2)
3.ヨハン・シュトラウス(父):「ラデツキー行進曲」op.228

(完)

2017年12月 3日 (日)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-6(最終回)

18時35分京都着。地下鉄烏丸線今出川下車。最遠の出口から出てしまったので300m余計歩く羽目になった。
烏丸通り沿いを南下し、京都平安ホテルを目指す。
荷物を持ちながら、暗い中を歩くのは結構つらいものがあった。
途中、金剛能楽堂があり、何か公演があるようだった。
この通り沿いは虎屋一条店(30年以上はここで営業しているはず)もあり、翌日明るい中を歩くと雰囲気がまるで違っていた。

遅いチェックインをして、部屋で気息を整えてから1Fの和食レストラン「帆舟(ほふね)」で「小鼓膳」をいただく。
茶碗蒸し(椎茸、銀杏、三つ葉、百合根、柚子皮)
野菜炊き合わせ(カボチャ、里芋、紅葉麩、野菜入り真丈)
小鼓形の器(上下二つに分かれる)
上側:出汁玉子、鴨肉、サンマ佃煮、白和え(人参、コンニャク、青菜、はじかみ、蓮芋の茎)他
下側:お造り(鮪、鯛、烏賊、大葉、大根のつま)
天ぷら(海老、茄子、シシトウ)
鰆幽庵焼き
ご飯、赤だし味噌汁(ナメコ、丸麩)、香の物(胡瓜他)
柚子シャーベット

低廉な価格で、内容もリーズナブルだった。
また、お茶は茶托が出て来なかった。
最後の夜なので瓶ビール(アサヒスーパードライ中)を注文した。ここまで無事に来られたとの思いで飲むビールの味は格別だった。

明けて11月2日(木)、最終日の朝が来た。カーテン越しでも陽光の強さが感じられる。
最後まで天候に恵まれた旅となった。
チェックアウトまでの少ない時間だが、意を決して一人、周辺散策に出かけた。
先ずホテルの庭園を見る。事前に届いていたパンフレット(庭園散策マップ)は、丁寧な作りで期待が大きかっただけに、実際目にしたら比較的平凡かつ規模も小じんまりしていて、がっかりとまではいかないにしても、肩すかしを食ったような気持ちになった。

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ただパンフレット裏面の記述は興味深く、敷地の変遷は平安時代までさかのぼり、現在の庭園は大正11年小川治兵衛により改造されたものだとのこと。この人の作庭の実績は、桂離宮、修学院離宮の修築、平安神宮神苑、山県有朋「無鄰庵(むりんあん)」(*)、南禅寺(*)他、名だたる場所は全て手がけているというすごさ!

*:昨年行った瓢亭は、無鄰庵の隣の料亭。南禅寺参詣者の茶店だったそうで、面している道は東西へ走り、南禅寺へ向かっている。(→'16.12/14

烏丸通りを南へ下(さが)って行くと、すぐ蛤御門が見えてくる。

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幕末の「蛤御門の変」の名の由来となる場所だ。目を正面へ戻すと護王神社が見えてきた。その角を曲がって下長者通りへ入る。しばらく歩くと「茶の間」というお店があった。
扉を開けるとコーヒーの香り。結構広めで、先客が其処此処のテーブルを占めており、空いていた奥の席に着いた。間髪を置かず老夫婦が入ってきて、タイミング良く席を立ったお客のテーブルへ入れ替わりに着いて、「モーニング」とこれも即座に注文の声を上げた。
自分もそれにつられるようにモーニングをオーダー。

待ちの先客が何組かあり、新聞は誰かが読んでいて、「週間文春」最新号(11月9日号)を取る。表紙が新品で自分が最初の読者かも。その内京都新聞が空いた。御所の秋の一般公開、護王神社の「亥子祭(いのこさい)」等京都新聞ならではの記事に目が止まる。このすぐ近くに両方あるのもまた格別の気分だ。

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厚めのふっくらしたトーストと野菜サラダ、そしておいしいコーヒーをいただいた。
常連のお客がママさんと交わす会話に他のお客が入って、すごくアットホーム。BGMはメドレーでクラシックが流れていた。1曲だけ覚えていてバッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番BWV1042第1楽章」。
短いが、一生の思い出になるかも知れない濃密な一時だった。

次に護王神社へ。御祭神は「和気清麻呂公命」、「和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)」。
広虫姫は和気清麻呂の姉君。

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上は拝殿。手前に猪の石像があり、和気清麻呂の故事に因み狛犬の代わりに置かれている。
護王神社のシンボル的存在で、「茶の間」で見た京都新聞の記事、「亥子祭」は丁度昨日執り行われた重要な行事だったわけだ。
御利益は足腰の健康保持、けが・病気の回復で、足・腰の御守りをGET。

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足腰の御守りが他でもあるかどうかはわからないが、自分は初めての経験。

蛤御門から御苑へ入った。

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左の築地塀は京都御所。中程が建礼門。遠く見えるのは大文字山。
こちらも京都新聞の記事によれば、平成の即位の礼で用いられた高御座(たかみくら:天皇の御座)が紫宸殿で公開され、清涼殿では人形による「叙位・除目」という宮中行事の展示がされたようだ。
一般公開は1~5日だった。我々も平成17年に参観した経験があるが、早や12年前のこととなり、時の流れの速さには今更ながら驚かされる。
蛤御門から入ってすぐの案内板によると、御苑は東西700m、南北1,300mのほぼ長方形の敷地に、京都御所、大宮御所、仙洞御所と京都迎賓館と広大な公園その他があり、江戸時代は御所周辺の敷地内に公家屋敷が約200軒あって、公家町が形成されていたそうだ。

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上は平安ホテルの部屋から見た御苑の紅葉と東山の山並み。

フロントで荷物の宅配便手続きをして、11時にチェックアウト、烏丸線今出川駅へ向かう。

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上は今出川駅の降り口。右のレンガ色の建物は同志社大学。

京都駅に来て、ホテルグランヴィア京都の日本料理「浮橋」で昼食をいただく。お昼時だったので、盛況だったが、スタッフの手際が良くあまり待たされることもなく食事ができた。

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「いろどり箱」。お昼のメニューで最も安価だったが、なかなか充実していた。
<いろどり箱三段>写真手前:お造りの小鉢3つ(左から鮪(下に出汁で茹でた大根の角煮)、鯛(上におぼろ昆布、下は白ハス)、やり烏賊(下に出汁で茹でた人参の拍子切り))
上左から:白和え(春菊(湯通しなし)、コンニャク、人参)、焼魚(鰆)、水菜の煮浸し(上に松茸)
写真にはないが、もう一段:枝豆豆腐(山葵乗せ、下に湯葉)、天ぷら(海老、シシトウ、カボチャ(衣にシナモンが入っていた))、里芋の饅頭(クコ、山葵乗せ) 
<お豆腐蒸し>フカヒレ餡をかけた絹豆腐と白身魚の茶碗蒸し。
<じゃこご飯(亀岡のこしひかり(お代わり自由。米粒が立っていて、炊きたてでおいしかった。)、香の物(大和芋の漬け物、柴漬け)、赤だし汁(ナメコ、若布、小葱)>
<デザート>シャーベット
ランチとしては、お造りなど細かいところまでこだわりが見られ、また美味しかった。
JR西日本ホテルズカードのポイントを行使し、一人分の料金負担でいただいた。

腹ごしらえを済まして、いよいよこの日のメイン・イベント、「北斎」展が開かれている大阪の「あべのハルカス美術館を目指した。
東海道本線の新快速で大阪までは28分で行ってしまう。それから環状線へ乗り換え、ほぼ大阪駅の対極に位置する天王寺駅まではほぼ同じくらいかかる。よって片道約1時間を要する。
あべのハルカスはJR天王寺駅南側すぐ前の今年3月開業3周年になった超高層ビルで、美術館は16Fにある。

専用エレベーターを降りて、ロビーへ行くと、ものすごい人。常軌を逸したその状況になじむのにしばらく時間を要したが、長蛇の行列に並ばなければならないのだと納得してよく見ると、入場券購入のための行列と、入場待ちの行列の2つがある。
それぞれ待ち時間は、80分、70分と表示されている。我々は入場券を持っていないので、トータル150分、2時間半並び続けなければ会場へ入ることは出来ない。
帰りの新幹線に乗れなくなってしまうので、やむを得ず入場をあきらめ、代わりにショップで図録をGET。

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16Fからの眺望は限られているが、しばし大阪市街を眼下にする。天王寺公園とその中にある市立美術館が見えた。かつてここへフェルメールを見に来た時は公園に長蛇の列が出来、なんと3時間待ったことを思い出した(2000(平成12)年)。
「北斎」展が空振りになってしまって、京都の「国宝」展、奈良の「正倉院展」と並べて完結させる予定が達成できなくなってしまった。

環状線、東海道本線と乗り継ぎ、京都へ戻った。

逆に時間に余裕が出来たので京都タワーへ登った。妻は初めてだったそうだが、私は2度目で高校2年の修学旅行の自由行動で登って以来なので、実に50年振り!
その時は何故か遅い時間で、夜景を見たのだったが、今回は午後の明るい中から夕暮れにかけて360度の眺望を楽しむことが出来た。
京都タワーはロウソク型とでも云うのか、鉄塔と違って鋼板を円筒形につなぎ合わせる「モノコック構造」という独特なもの。展望フロアは地上100mだが、超高層建築がない京都では一番の高さになるそうだ。
京都市街は勿論、大文字焼きの五山、自由に見られる望遠鏡で行って来たばかりのあべのハルカスも見ることが出来、景色を堪能した。

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上は入場パンフレットのイラスト(部分)。

暮色濃くなった頃京都駅へ移動した。新幹線構内で、弁当、土産をGET。
18:35分京都発のぞみ46号へ乗る。6号車6番D、E席。
20:53分東京着
21:30東京発特急さざなみ9号
22:32木更津着
(終わり)

2017年11月30日 (木)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-5(第69回正倉院展)

奈良ホテルから荒池を過ぎ、春日大社の一の鳥居脇の石段を上がり、料理旅館「江戸三」へ立ち寄る。
7月27日付け朝日新聞夕刊の「都ものがたり 奈良」で、小林秀雄が滞在していたという「縁由(えんゆ)の間」を見ておきたかったので。
「江戸三」は奈良公園の中に立地し、鬱蒼とした木立ちに囲まれて起伏のある随所に小屋が点在している。
皆似た造りで、「縁由の間」は斜面の低い位置にあった。

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記事には老朽化で現在は使われていないとあるが、スタッフの休憩所として利用されているようである。
記事によると、1928(昭和3)年東大卒業直後に東京から関西へやって来て、「縁由の間」へ約一年滞在した。当時近くに居を構えていた志賀直哉の支援があったようだ。
この頃を回想している「秋」(1950)とか、「モオツァルト」(1946)の有名な一節、「道頓堀でト短調シンフォニーが鳴った」のもこの時期の事だという。
そして翌1929(昭和4)年に「様々なる意匠」が「改造」懸賞論文の二等賞を取る。
と「江戸三」に滞在した頃が、小林秀雄にとり重要な時期に当たっているのが大変興味深い。

スタッフからもらったパンフレットを見ると、志賀直哉が命名したという「若草鍋」(10~3月)の写真があった。

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春日大社参道を横切り、奈良国立博物館側へ入ったあたりの鹿の群れ。右の並木が参道。

正倉院展はこのところ3年連続来ている。
奈良公園の中の立地、そこここに鹿がいるのがここの特長で、新館前の行列に並んでいると、もう一年が過ぎてしまったのかという感慨が湧いてくる。

正倉院宝物は、宮内庁の所管なので国宝の指定こそされてないが、正倉院展に出陳される宝物の品々はいずれも国宝級のものばかりである。

今回印象に残るのは、「21碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ)」。直方体の小箱で、薄い青緑色の地、焦げ茶色の縁取り、鳥と草花、蝶が金、銀色で描かれ、優美な出来栄えに目を奪われる。

「27緑瑠璃十二曲長杯(みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)」。深い緑色のガラス製の楕円形の杯。
今回の図録表紙を飾っている。ちなみに今年の表紙の色調は今までで一番良い。

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図録によれば、鉛ガラスで、銅が含まれているので緑色をしている。中国に多く、対してソーダ石灰ガラスは西、中央アジアに多い。一方形状(十二曲長杯)の原形は、ササン朝ペルシア(3~7C)に見られる。
ということで、中国産が濃厚だが、形状は中央アジア方面と不確定で、明治37年に初めて宝物帳に記載され、経緯が不明、と謎に包まれた宝物なのだそうだ。

「5羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」。「6熊鷹臈纈屏風(くまたかろうけちのびょうぶ)」と共に丁度10年前の第59回(2007(平成19)年)に出陳されている。

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「羊木臈纈屏風」は、今年の入場券の図柄に採用されている。
昨年も書いたが、羊は2003年の切手趣味週間の図柄にも採用された。
この宝物は、布(絁(あしぎぬ))が調布であることから国産であるが、巻き角の羊はエキゾチックで、西域のソグド人(中央アジアのイラン系民族)の7世紀頃の都市遺跡、アフラシアブ(ウズベキスタン)の壁画に似たものが見いだせるそうだ(図録130頁)。
上の27共々、中央アジア方面のイスラム、西域文化とシルクロードを通じた中国、果ては日本と、1,300年前の世界のつながりを裏付ける宝物であることは、興味深い。 

聖語蔵(しょうごぞう)の経巻を見るのも楽しみの一つだ。
勿論判読はできないが、整然と記されている文字群に何ともいえない魅力を感じる。
唐代の中国で書かれた経巻が特に優れていると思う。
今回は「56阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまだいびばしゃろん)巻第七」。
図録によると、インドの説一切有部(せついっさいうぶ)派の根本経典「阿毘達磨発智論(あびだつまほっちろん)」を解釈した全200巻の論書で、唐代に玄奘三蔵により漢訳された。
なお、第57回(2005(平成17)年)に「大毘婆沙論巻第百七十八」を見ている。巻第百七十八は、この年1979(昭和54)年以来26年振りで、あと巻第百七十が1988(昭和63)年に出陳されている由。

今回は久しぶりに本館の仏像を見た。時間がなくて、中央ロビーとその北側、第1~7室までしか廻れなかった。

午後5時夕闇がそろそろ押し寄せようという頃、博物館を後に、再び奈良ホテルへ向かう。

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上は春日大社の一の鳥居を参道から見ている。

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上は荒池越しの奈良ホテル。

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ホテルのラウンジでコーヒーで一息入れた。
タクシーで近鉄奈良駅へ行き、18時の京都行き特急で、再び京都へ。
(続く) 

2017年11月28日 (火)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-4(奈良ホテル)

午後6時前に奈良ホテルへチェックイン。昨年も同月同日に宿泊した。
昨年は本館だったので、今年は新館スタンダードツインにした。
本館の1階が新館では5階となっていて最上階になり、ゲストルームは4階から下である。
奈良ホテルは小高い丘に立地していて新館は斜面へ増築されたので、このようになったのだろう。 
ホテルのパンフレットを見ると、斜面を有効活用した「吉野建て」という吉野地方の建築様式だそうだ。

今は解体されてしまっているが、ホテルオークラ本館のロビー階が5Fで、地上階は1Fまであったのが正に奈良ホテル新館と同じ立地条件だったであろうことを連想した。ホテルオークラは、本館4Fと別館B1Fが同レベルで、連絡通路で行き来できるようになっていた。ただし本館側にエスカレーターがあってロビーフロアにつながっていた。

我々は2Fの客室へ案内された。
部屋に落ち着くとどっと疲労が出て来た。夫婦共々日常の運動不足がたたった。歩数計を見ると、前日が11,000歩、この日は約9,000歩を記録している。この頃両下肢外側の筋肉痛が出ていた。痛みは旅行中ずっと続き、簡単には取れないと覚悟していたが、帰ってから翌々日には不思議にもきれいに消えてしまった。

ホテルの和食レストラン「花菊」を7時に予約していたが、30分繰り延べてもらった。
季節限定メニューの「INOKURA」。結婚記念日の食事として予約したので、メニューへ反映されていた。
「INOKURA」は、奈良市のティーファーム井ノ倉製の茶葉を一部に使用したコース。

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写真の上側がメニュー。料理名を縁起の良いものにしている。

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千代久(先付け) フォアグラと南京の二見寄せ(生ハム、クコの実、セルフィーユ(ハーブ)乗せ)

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祝儀肴(前菜) 左から、
海老柴煮(松茸、柚子添え)、千枚数の子かに黄味卸し和え(イクラ、色三つ葉同)、焼き茄子の胡麻浸し

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御吸物 清し汁仕立て(甘鯛新蒸(大根薄切り、三つ葉、人参(形抜き)、柚子を重ねる)、松茸、紅葉麩
崩すのが憚られる趣味の良い盛り付けだ。

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御造里 手前左から、鯛、烏賊、奥はかんぱち 醤油皿の色の薄い方が、月ヶ瀬の緑茶風味の醤油
月ヶ瀬は地名で、ティーファーム井ノ倉の所在地

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家喜物 あわびうに風味クリーム焼き(茶葉をまぶす) 林檎甲州煮、かぼす添え

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御蒸し物 栗饅頭(胡桃、鶏そぼろ)、鼈甲餡、とき山葵

御小鉢 大和まなのお浸し、柚子
写真を撮るのを忘れてしまった。(^^;

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御煮物 金目鯛の焙煎茶煮付け、大根

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御壽物(酢物) 帆立貝酒蒸し、虹鱒の砧巻き、蓮根、胡瓜、右の小皿は緑茶風味ソース

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留め椀 オプションで松茸ご飯にした それと香の物。梅干しに見えるのはコンニャク。

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デザート 楕円形の板チョコレートに金文字でグリーティングが書かれている。

翌日(11月1日)もよく晴れて好天に恵まれた。
朝食はメインダイニングの「三笠」のテラスでいただいた。

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昨年と同じく私はアメリカンブレックファスト、妻は茶粥定食。
上はオレンジジュースとサラダ。蓮根が入っていたのがちょっと珍しい。

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茶粥定食。まだお粥と味噌汁が届いていない。
鰆の煮魚、だし巻き玉子、はじかみ、ひじき煮(人参、油揚げ)、野菜煮物(里芋、人参、いんげん、小帆立、小がんもどき)、胡麻豆腐、香の物(奈良漬け、大根、刻み菜)、小梅干し、塩昆布
茶粥、赤だし(ワカメ、丸麩)

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プレーンオムレツにソーセージ

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トースト立ては奈良ホテル以外では見たことがない。ジャムはスイスのヒーローのストロベリーと地元奈良産富有柿のジャム。

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コーヒーはオムレツの前に出してもらい、この写真は2杯目をいただいた時のもの。
リッツカールトン京都のように淹れ直しではなかったようで、1杯目の味ではなかった。

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テラスの様子。レトロでクラシックな雰囲気がよい。窓越しに興福寺の五重塔が望める。

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テラスからの五重塔。塔の左は工事中の中金堂。

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新館は南に面しており、好天の日は快適である。
レイト・チェックアウトを選択したので、窓際のソファで奈良新聞をひろげた。旅先でご当地の新聞を見るのは格別なものがある。妻は本館のショップへ買い物に行った。
奈良漬け、朝食で出た柿ジャム、奈良ホテルオリジナルコーヒー等を購入した。

午後1時。チェックアウトをして、荷物を預け、奈良国立博物館へ向かった。
(続く) 

2017年11月23日 (木)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-3

旅行2日目の10月31日の朝食前、鴨川沿いを散歩した。
ホテルを出るとすぐ河川敷へ降りて行く階段があり、河川敷にはゆったりとした遊歩道が整備されている。
ホテル直近の二条大橋、丸太町橋間を一周した。快晴で喧騒からも遠く、大変気持ちよく歩けた。

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降り立った場所から上流を見る。護岸の随所に水面近くまで行ける階段があった。

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鴨川と平行して流れているみそヽぎ川。河川敷へ降りる途中にあり、やはり上流を見ている。みそヽぎ川は高瀬川の源流でもある。
それほど多くはないが、犬の散歩、ジョギングをする人、通勤途上と思われる人とか、出会うのはほとんど地元の人だ。

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上がみそヽぎ川のスタート点。鴨川の水を取り込んでいる。

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左岸側から。中央の傾斜屋根の低層建築がリッツ・カールトン京都。その右の高層ビルは京都ホテルオークラ。

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御池大橋より上流の橋の配置図。二条大橋、丸太町橋間は0.5km。この図にはないが、両橋のほぼ中間点左岸側に琵琶湖疎水からの合流点がある。

朝食後、島津製作所創業記念資料館へ行った。

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瓦屋根二階建てが資料館。ホテルとは目と鼻の先。
昨日ホテルへの帰途、高瀬川一の船入に隣接するこの資料館に遭遇して、是非とも見たいとの思いから訪れた。
創業者島津源蔵がこの場所で創業し、資料館の外観は創業当時のもの。展示は可成り充実しており、時間がなかったので駆け足になってしまったのが残念。
見学者は団体が複数と個人も何人かいて、団体にはスタッフの解説が付いていた。
写真撮影OKだったので、展示の様子を一部紹介したい。

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遊び心があふれた製品のコーナーにあった「昼夜の長短説明器」。カラフルな地球(?)の中央には婦人と子供(老人?)のフィギュアがある。(大正期?)

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大正期の製品コーナー。

島津製作所といえば分析計測機器のメーカーというイメージが強いが、当初は理化学器械の製造からスタートし、1895(明治28)年、初代の急逝で二代目源蔵を名乗った梅次郎は、X線装置、関連技術の高電圧発生装置、また鉛蓄電池の開発等を行って、その工業化を図り、事業を大きく拡大して行く。
日本電池(現GSユアサ)は二代目源蔵が興したのだそうで、GSとは「Genzo Shimadzu」のイニシャルだとのこと。

以降昭和平成と編年で展示されていて、下はその最後、1995(平成7)年~2005(平成17)年のコーナー。

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その時々のトピックスと共に島津製作所の取り組みが紹介されている。
2002(平成14)年の田中耕一さんのノーベル化学賞授賞式の写真、2005(平成17)年の小泉首相(当時)の三条工場視察時の記念写真等がある。

また機会があればじっくり見学してみたい施設だ。

12時にリッツ・カールトン京都をチェックアウトし、手荷物をホテルに預けてバスを乗り継いで京都国立博物館へ向かった。
河原町通りを南下、五条を過ぎ、七条へ差し掛かろうというあたり、通りの西側に長い土塀が見えてくる。涉成園で、東本願寺の別邸だ。かつて枳殻(からたち)の生け垣で囲まれていたので枳殻(きこく)邸とも称されるそうだ。入口は西側のようだ。

七条河原町で乗り換え、博物館前下車。2年振りである。前回は琳派展(参照:'15.11/26)だった。
今回は京博120周年記念「国宝」展
目録によると全210件を展示するが、会期を4つに分け、全会期展示する作品は少なく、見たいと思うものがすべて見られるわけではない。

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ところで、今まで疑問に思わなかった「国宝」だが、ちょっと調べてみた。
根拠法は文化財保護法で、文部科学省が歴史的、芸術的、学術的価値が高い美術工芸品、歴史・考古資料、建造物に対して指定した重要文化財の内、特に世界文化の見地から価値が高いとして指定されたものが国宝なのだそうだ。
また今回の「国宝」展でも出品されているが、中国等外来の美術工芸品も多数指定されていて、それらも含め文化財保護法により海外への流出防止、修復等の際の国の補助等、保護の施策が定められている。

文化庁のホームページによると11月1日現在の国宝件数は、美術工芸品885件、建造物223件で合計1,108件。よって今回は美術工芸品の約4分の1に及ぶ件数が展示されたことになる。

我々が鑑賞した10月31日はⅢ期の初日にあたり、目録によると96件が展示されていた(10/31~11/3)。
予めチェックして臨んだので、見たいと思う作品へ重点を置いて回ったが、それでも人が多かったので誘導スタッフの指示に従い順路とは逆になる1Fから見始めたので、やや巡りづらく感じた。

Ⅲ期のみ見られるのは、
148 日本霊異記 巻上
149 日本書紀 巻第22(岩崎本)
150 御堂関白記 自筆本
198 金印
等だが、殊に「金印」(漢委奴国王)は、間近で観るための特別な行列が出来ていて、約30分待ちとのことだったので後方からの鑑賞で我慢した。折角の単眼鏡を荷物の中へ置いてきてしまったことをこの時ほど悔いたことはない。
が、金色が目に鮮やかで、思ったよりも小さな金印を目に焼き付けることは出来た。

その他も逸品揃いで、
21 源氏物語絵巻 柏木
23 平家納経
31 信貴山縁起絵巻(延喜加持巻)
40 伝源頼朝像
58 松林図屏風 長谷川等伯
63 雪松図屏風 円山応挙
116 油滴天目茶碗 (東洋陶磁美術館)
等々を観ることが出来、感銘を新たにした。

Ⅲ期で見られなかったものは、
1 吉祥天像 (薬師寺)
47~52 雪舟6点
61 風神雷神図屏風 俵屋宗達
62 燕子花図屏風 尾形光琳
115 曜変天目茶碗 (京都龍光院)
121 天寿国繍帳 (奈良中宮寺)
等は目にしたかったが、1、47~52、61はかつて見たことがある。
京都龍光院の曜変天目茶碗は通常は非公開のようで、今回の展示は貴重な機会だっただけに残念(なんと、我々が鑑賞した10月31日の2日前までは展示されていた!)。
大阪藤田美術館、静嘉堂文庫美術館の2品は目にしているだけに惜しい。

三十三間堂脇に待機しているタクシーでホテルへ戻り、荷物を引き取って京都市役所前から市バスで京都駅へ。
京都発17時の近鉄特急に乗り、17時35分奈良に到着。
タクシーで奈良ホテルへ向かう。
(続く)

2017年11月19日 (日)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-2(リッツ・カールトン京都)

リッツ・カールトン京都はオープンして3年半経過しているそうだ。
「サライ」の2008(平成20)年秋の京都特集号付録の京都市街図を見ると「ホテルフジタ京都」となっている。経営が移転して建替えたのかスタッフに聞くと、リニューアルだそうだ。設計には3年かけたそうだ。

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二条大橋から見たリッツ・カールトン京都。地上4階というのは古都京都に相応しいが、他の高層建築が入ってしまうので折角の景観が損なわれている。

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ホテルエントランスへのアプローチ

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エントランス前。

10月31日朝8時前散歩に出た時、若い外国人宿泊客とエレベーターに乗り合わせ、ホテル前の道路には外国人向けと思われる大型観光バスが待機していた。また9時過ぎにレストランで朝食を摂った際も、周囲はほとんど欧米系の外国人だった。
ホテルのスタッフは皆若く、また外国人スタッフもいた。聞くとシンガポール人とのことだった。
サービスは行き届いているかのようで、今一つ不足不満を感じた。
一生懸命努めているのは伝わってきた。特に今回チェックインの際に対応してくれた女性は人柄の良さはこの上なかったが、業務上は未熟さが目立った。
ホテルオークラのコンセプトであるACS(Accommodation  Cuisine  Service)でいうと、すべてが今一歩だと感じた。
よかったのは、朝食だ。内容も充実していて、またここだけはスタッフのサービスも申し分なかった。

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我々のゲストルーム。

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上は外出から帰った時に部屋に届けられていた結婚記念日のプレゼントのマカロン。ピエール・エルメのレシピによるもので、妻によると東京の某ホテルよりもしっとりして美味しかったとのこと。

以下レストランでの食事を紹介したい。
時間的には逆になるが、まず朝食から。
イタリアンレストラン「ラ・ロカンダ」でアメリカン・ブレックファストをいただいた。

スタッフが次々とテーブルに運んできて、サービス付きのビュッフェみたいな感じ。
はじめにミニグラスでぶどうジュースと琉球ビネガー。グラスを氷のボールへ入れてサービス。
そしてオレンジ・フレッシュジュース。
サラダ・バーで野菜と牛乳(これだけはセルフ・サービス)。アボカドのディップがよかった。
コーヒーはブラジル、タンザニアがベースのブレンドとのこと。
フルーツはメロン、オレンジ、苺、ラズベリー、ブルーベリー、ルビー・グレープフルーツ。

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クロワッサン2種。通常のクロワッサンともう一つは表面にシナモン、シュガーをまぶして、中に洋梨他の果物を入れてあった。その上に見えるのはイスパハン・ヨーグルト。共にピエール・エルメのレシピ。
ジャムはストロベリー、ブルーベリー、オレンジ・マーマレード。オーストラリア産。食パンでいただきたかったが叶わず、持ち帰りたい旨申し入れるとミニ紙バッグを持ってきてくれた。

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メインのオムレツ。山梨県中村農場のハーブ卵。色が濃い。黄というよりオレンジ色をしている。オムレツにはハム、マッシュルーム、ほうれん草などの具材が入っていた。

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あとハム(イベリコ豚の生ハム、豚肉・鶏肉のハム)と生サーモン、チーズ(カマンベール、エメンタール(スイス産)、チェダー(アメリカ産))が出た。

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上はイベリコ豚の生ハムのディスプレー。この貯蔵庫はサラダバーにあった。
最後にコーヒーのお代わりを所望した。ややあって届いたが、新たに淹れ直してくれたとのこと。こういう心づくしは滅多にない。この時のスタッフは胸の襟にブドウのバッジを付けていた。ソムリエ資格所有者だ。

「ラ・ロカンダ」は個室に藤田財閥創始者である藤田傳三郎の京都別邸の部屋を移築して使用している。

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「ラ・ロカンダ」。奥が移築された個室。
下は個室の様子。

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ソムリエのスタッフは個室見学も案内してくれた。

以下は前夜(10月30日)の夕食。
日本料理「水暉(みずき)」の会席料理「伯州」をいただいた。

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先付け(甘鯛昆布〆、蕪、あわび茸、土佐酢ほか)

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鱧スープ仕立ての土瓶蒸し(鱧、松茸)
鱧は、時節柄これが最後になるとのこと。たっぷりとした量で、脂がよくのっていた。

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お造里(鯛、鮪、烏賊、縞鯵)、野菜のクリュディテ、山利の諸味噌
カービングした氷を立てたりして、盛り付けが派手でサプライズではあるが、自分の趣味ではない。

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焼き八寸(下左から、栗と胡桃の白和え、かます一夜干し、揚げ銀杏、酢取り蓮根、いくら寿司、胡麻豆腐、車海老、茄子と雲丹)
銀杏と紅葉が効果的に配されて、器の趣味も唯一良かった。

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地鶏ときのこの小鍋仕立て(絹豆腐、エノキ茸、椎茸)、中村農場のハーブ卵
味が濃く、食べづらかった。

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釜炊きご飯、赤出汁、香の物5種
サツマイモ、銀杏、栗、百合根、むかご、といろいろ土鍋に入っていた。

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デザート(生、ロースト無花果、ラズベリー)、柚子ジュース、お祝いの言葉入りホワイト・チョコレートの板
ここでもサプライズ。結婚記念日を祝して、テーブルへ花びらを蒔いてくれた。
そして2ショットのスナップ写真を撮ってくれた。
(続く)

2017年11月14日 (火)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-1

10月30日から11月2日まで関西へ行って来た。
‘15年から3年連続になり、それまでは1、2年おきくらいのペースだったが、’14年に華道教授をしていた義姉が逝去し、京都の頂法寺会館にある如哉庵へ祀られて以来、毎年その参拝に妻と訪れている。

東京発10時のぞみ221号の5号車11番D、E席。
10月の台風21号が第3週末だったことにひそかに胸をなで下ろしていたのも束の間、新たに台風22号が発生し、出発前々日からの雨に肝を冷やしたが、幸い本州南海上へ進路を取ったのでスピードアップして29日夜には関東は勢力圏を脱し、旅行当日は天候に恵まれることとなった。

雲が多めだったので富士を見られるかどうかが危ぶまれたが、幸い今回も姿を見せてくれた。

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富士市あたりから見た富士。初冠雪のニュースは新聞紙面を飾っていたが、頂上付近は白くなっていない。
12時を回り、新幹線車内の楽しみの一つ、東京駅でGETした弁当を開ける。

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京都着12時17分。烏丸口バスターミナルA2乗り場から市バスで京都市役所前下車、徒歩でリッツ・カールトン京都へ。道すがら、二条通沿いは陶芸のギャラリーとか洒落た店が建ち並ぶ。

午後1時前だったが、準備が整っているとのことで部屋へ案内してくれた。
4階のデラックスダブルルーム。45㎡。
チェックインはフロントではなく部屋で行った。その際2万円の預け金を差し入れる。これは初めての経験だ。一通り部屋の説明を受けて、暫時休憩。

ホテルを出たのは午後3時になろうかというころだった。地下鉄東西線で京都市役所前から烏丸御池の一区間乗る。烏丸通りを京都駅方面へ下る。
三条通にさしかかると、向かいにクラシックな建築が・・・みずほ銀行京都中央支店だ。
旅行後になるが11月4日付け朝日新聞土曜版(be)「古都さんぽ」で取り上げている。それによれば現在はレプリカだそうで、元は1906(明治39)年に第一銀行京都支店として辰野金吾の設計により建築されたとのこと。赤煉瓦に白い石の帯が入る目に鮮やかなデザインは、辰野式というそうだ。

頂法寺会館4Fの如哉庵へ義姉をお参りした後、東本願寺へ向かった。

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上は烏丸線五条駅から東本願寺へ向かう途中。京都タワーと東本願寺の土塀、御影(ごえい)堂門が見えている。

東本願寺は真宗大谷派の本山。家康により西本願寺(龍谷山本願寺)から分離した。
教義はほとんど同じだそうで、浄土真宗親鸞の教えに基づいた阿弥陀仏への帰依、本願他力による往生を説く。
阿弥陀は、サンスクリット語の「アミターユス(無量寿)」(限りない命)、「アミターパ(無量光)」(限りない光)から来ているそうで、南無阿弥陀仏の「南無」は、やはりサンスクリットの「ナマス」で、意味は「帰依します」だそうだ。(Eテレ100分で名著「歎異抄」第1回)

烏丸通りに面した御影堂門から境内へ入る。

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御影堂門から見た御影堂。
下は阿弥陀堂。

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両堂は1604(慶長9)年完成。以後火災に4度見舞われた。4度目は1864(元治元)年の蛤御門の変による京都大火の類焼で、1895(明治28)年に共に再建され現在に至っている由。
写真でわかるように、御影堂には裳階(もこし)がある。
両堂は回廊で結ばれ、阿弥陀堂は本尊の阿弥陀如来、御影堂は親鸞坐像が安置されているとのことだが、我々が詣でた際は垂れ幕が掛かり、拝むことは叶わなかった。

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御影堂門から見た烏丸通りの中央分離帯樹木の黃(紅)葉。マップを見ると烏丸通りの中央に植栽帯があるのは東本願寺前だけである。

地下鉄烏丸線、東西線を乗り継ぎ、京都市役所前へ戻って、木屋町通りへ入りホテルを目指した。歩いて行くと、道路脇に立て札、石碑が目に止まり、水路が開けて俵を積んだ高瀬船があった。

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高瀬川一の船入(いちのふないり)という史跡で、船入とは荷の積み卸し、船の方向転換を行う場所で京都に9カ所在ったのが、今はここだけが保存されているらしい。

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高瀬川は角倉了以が開墾した運河で、ここは北限にあたり水路が尽きるところに日本銀行京都支店の通用門があって、その脇に角倉氏邸跡の石碑があった。

我々が見たのは以上だったが、帰ってGoogle Mapを見るとこのあたりは大村益次郎遺址とか桂小五郎・幾松寓居跡、山県有朋の第二無鄰庵等々幕末・明治期の史跡が多いことがわかった。

17時30分ホテル帰着。

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上はエントランスへのアプローチから見た1階(ラウンジ)、B1階(和食レストラン)。右の石垣と直交している下側の横ラインは滝になっている。上部は客室階。鴨川が望める。
(続く)

2017年10月29日 (日)

「武満徹・音楽創造への旅」-8最終回(武満のギター作品)

武満全集Vol.2書籍の作品ガイドには、「現代ギター」からの引用が3件ある。それを認識したのは、「ラスト・ワルツ」の鈴木一郎の文章からだ。
「現代ギター」を見てみると、追悼特集「武満徹のギター音楽」がグラビアに続く本文の冒頭を飾っている。1996年7月号で、6月下旬発行なので、タイミングとしては遅い感があるが、内容は大変充実している。

まず座談会で、武満と縁の深いギタリストの荘村清志と佐藤紀雄、そして司会もギタリストの黃敬、読むと黃も武満作品全般をよく研究しており、興味深い内容である。
そして武満のギター全作品リスト。ギター独奏作品、協奏曲、室内楽作品はおろか、ギターが入っている管弦楽作品がリストアップされている大変貴重なもの。
管弦楽作品を聴いていて、はっきりギターの音が認識できたのは、私は「クロッシング」だけだった。(^^;
それが、「樹の曲」、「カシオペア」、「カトレーン」、「ジェモー」etc.でもギターが入っていたとは!!
あとは、ギター作品のディスコグラフィー。
最後はギター界ゆかりの人達の追悼文。
この中に鈴木一郎の文章がある。同じく全集へ引用されている伊部晴美の談話他、主として内外のギタリストが文章を寄せている。その最初がジュリアン・ブリームのもので、他の4倍はあろうかという長文である。

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社交辞令的な追悼文ではなく、武満音楽についての小論文のような内容というべきか、翻訳ではあるが原文の格調高さがうかがえ、武満の音楽への尊敬の念に満ち、かつ作品への深いアプローチ(ギター作品にとどまらず)をして来ていることがわかる。驚くべきは、音楽全般に亘る学識の広さ、深さである。
読んでブリームへ畏敬の念を覚えると共に、これだけ熱意に満ちた文章を寄せたブリームの武満への思いの大きさを感じた。

そのブリームだが、武満全集では、ギター協奏曲「夢の縁へ」(Vol.1)、「すべては薄明かりの中で」(Vol.2)の2作品の奏者として登場する。
CDは「夢の縁へ」の次が「虹へ向かって、パルマ」で、当初図書館は書籍を貸し出してくれなかったので、奏者がわからなかった。「虹へ向かって、パルマ」の方は、J.ウイリアムスであることはすぐわかったが・・・。
いずれにしても次のジョンと比べて遜色のない演奏を繰り広げる奏者が誰なのか、興味を持ったことを覚えている。

「すべては薄明かりの中で」は周知のようにブリームの委嘱により作曲され、ブリームへ献呈された作品であり、ニューヨークで彼が世界初演している。
私は武満をブリームで聴くのは、この全集が初めてである。

「すべては薄明かりの中で」のCDへ耳を傾けると、和音を余韻豊かに、美しく響かせていることにまず心を奪われた。演奏が全般的にふくよかで、何より音の美しさへ心が奪われる。

「すべては薄明かりの中で」の全集の作品ガイドに「現代ギター」のブリームと武満の対談の長い引用が載っている。
1988年に「ジュリアン・ブリーム・コンソート」(古楽アンサンブル。ブリームはリュートで参加。)として来日(*)した際に実現したものだ。

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「現代ギター」への掲載は1989年1月号。作品ガイド欄外に1989年11月7日に対談、とあるのは1988年の誤りだ。

*:11月5日のサントリーホールのコンサートでブリームのギター独奏で「すべては薄明かりの中で」が日本初演された。

作品ガイド欄外には、ニューヨークの世界初演時のプログラムが載っているので、以下に掲げる。
これでわかるように日本初演は、世界初演のわずか1ヶ月後だったわけだ。

Sunday  Afternoon  October  9 . 1988  at 3 : 00
Alice Tully Hall at  Lincoln  Center

DE VISEE  Suite in A major
    Allemande
    Courante
    Sarabande
    Gigue
BACH   Sonata No.1 , BWV1001
    Adagio
    Fuga
    Siciliano
    Presto
REGONDI  Introduction et Caprice , op.23
  Intermission
LUTOSLAWSKI Melodie Ludowe (Polish Folk Melodies)
TAKEMITU  All in Twilight , Four Pieces for Guitar
   (World Premiere)
RODRIGO  Tres Piesas Espanoras
    Fandango
    Passacaglia
    Zapateado

また武満には、ブリーム60歳を祝って彼に献呈した「群島S. 21人の奏者のための」という小管弦楽作品があることをこの全集により知った。
ブリームへの献呈作品ではあるが、ギターは入っていない。

「現代ギター」から作品ガイドへの引用の最後は「リング」で、「ラスト・ワルツ」の鈴木一郎と同じ1996年7月号の武満追悼特集へ寄せた伊部晴美の談話である。全体の半分ほどが引用されている。
全集によると、伊部は1933年生まれで、武満と同じ1996年に没している。ある意味この談話は彼の遺言でもあるわけだ。談話へ、病気で武満の葬儀へ出席できなかった無念を語っている。
談話に拠れば、昭和32(1957)年頃に、オーケストラの現代音楽へエレキギターで参加したという。武満が「弦楽のためのレクイエム」を作曲した年だ。
武満との出会いは、鎌倉の佐助に武満が住んでいた頃というから武満の新婚時代の1955(昭和30)~60(昭和35)年頃だろうか。1961年の「リング」誕生、その後の系列化の作品が作曲された背景に、伊部の存在があったことがわかる。’60年代から’70年代はじめ頃に小澤、若杉、岩城、渡辺暁雄等と協演(!!!)して、「バレリアⅠ」(Ⅰは入らない?)、「樹の曲」、「クロッシング」を弾いている!!!!
「リング」で協演している濱田三彦(リュートを担当)は、「現代ギター」の追悼文で伊部から図形楽譜の読み方、呼吸の取り方を学んだ、と述懐している。

(付記)
●古い本を整理していて偶然派生した事を最後に記しておきたい。
河出書房新社の世界文学全集のロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」の3巻目の月報を見たら、武満が一文を寄せていた。

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「ロマン・ロラン 芸術家と社会の問題」という表題で、社会を形成する個人と歴史の機能、それに芸術はどう関係しているか、という大問題を取り上げている。
武満は、ベン・シャーンという画家の言を借りて一つの社会(ある時代)の性格は、代表的な芸術によって象徴される、という考え方を紹介する。
またジャン・クリストフはべートーヴァンをモデルとしていることは認めつつ、ドイツの音楽評論家の著作によってロマン・ロランとエドガー・ヴァレーズの交流と、ヴァレーズがジャン・クリストフのモデルの一人とされている記述に遭遇して興奮を覚えたことを述べ、ロランへの共感を示している。
短い文章だが、扱っている内容は気宇壮大であり、かつ大変難しい。
この文章が何時書かれたものなのか興味がある。
私のものは昭和47年1月の第31版で、初版は昭和35年6月と奥付けにある。これは、安保闘争の時である。
1960年から1971年と幅があるが、ヴァレーズへ言及している部分から、その没年である1965年以前のような気がするので、あるいは初版が出た1960年頃の文章なのかも知れない。とすれば、まさに「リング」を作曲している頃になる。
第3回で触れた「美術手帖」’59年1月号の座談会の出席者駒井哲郎(版画家)からヴァレーズのレコードを聴く誘いを受けたりしていた(立花P.136)時期なので、可能性は高い。(→第3回
30歳前後のことになるわけで、瀧口修造の影響の下で書かれたのかも知れない。 
新潮社「武満著作集」へこの文章は収録されているだろうか?

●全集Vol.2書籍の巻末エッセイはいずれも武満の人柄に魅せられ、心からの敬慕と哀悼の念に満ちた胸に沁みるものばかりだが、立花隆と鈴木大介のものが印象に残った。立花は、自著「音楽創造への旅」を通しての武満との交流過程での様々な回想と興味深いエピソードに触れ、特に戦争後半武満が埼玉山中での学徒動員の際の見習士官が密かに聴かせてくれたシャンソンのレコードの話(*)、武満自身エッセイのいくつかでこのエピソードを取り上げ、ジョゼフィン・ベーカーだったと述べているのが誤りで、リュシエンヌ・ボアイエだったことを突き止める話は、納得するまで取材の手を抜かない立花の姿勢をよく示す話だと思った。

*:このシャンソン(パルレ・モア・ダムール)を聴いて武満は音楽をやりたいと決意した、いわば作曲家武満徹誕生の原点というべきエピソードである。

鈴木のエッセイは、武満のギター作品集のアルバム製作を巡り、完成半ばで武満が逝去してしまったため、武満から十分なアドヴァイスを受ける機会を永遠に失うという事態になりながら、内心の葛藤を克服しつつアルバムを完成させたこと等を綴り、彼の真摯な姿勢、何より心優しさが行間ににじみ、読み終えて心が和む思いをした。
(終わり)

「武満徹・音楽創造への旅」-7

前回まで武満徹の初期の軌跡を見てきたが、今回はまとめとして武満の音楽観、武満作品の一断面を見て、次回にギターに関連することを書いてみたい。

立花隆「音楽創造への旅」第13章に、武満が立花のインタビューへ答えて、「無数の具体音で充満された音の河が、・・・滔々と流れている。・・・音の河の中から、聞くべき音をつかみ出してくることが作曲するということだ」、と述べる件がある(P.219)。
同じページの下段には、武満の第1エッセイ集「音、沈黙と測りあえるほどに」から「自然と音楽」で「音の河」へ言及する箇所が引用されている。
「音の河」は、武満の音楽創造の根底を成す重要な概念だと思う。

第6回でも引用した吉田秀和「武満徹と静謐の美学について」の中で吉田は、
「彼には<音>は自然の中にすでに存在しているものであり、私には、彼の創作は、もっぱら、そこから不要のものを削りとることに集約されているかのように見える」。
と書き、あくまでも「リング」系列の作品(‘58~61年)に対して述べた見解であるが、上の武満の考え方と符合していることに驚かされる。

やはり今夏、福岡伸一の「新版動的平衡」(小学館新書)を読んでいて、武満の「音の河」を思い出した。
「そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私達の身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。」(P.261)
生命体としての個体には、目に見えるほどの早い変化はないが、分子レベルでは外界からやって来る物質とひたすら置き換わり、再び外界へ流れていくプロセスの中に生命が位置付けられている。福岡は流れの中で一定の状態を保つ動的平衡が生命の本質だという。

また武満は、「死の巡り」(「音楽の余白から」)という’70年代の文章で、死に対する考察を行っている。
「私たちは身近な死の汀(みぎわ)から想像を絶する遙かな死の涯までを満たしているものの、滴り(したたり)のひとつに過ぎないのだと謂うことを知るとき、はじめて生の意味を把握できるにちがいない。」
武満40代の文章だが、幼少期、青年期から死を切実なものとして受け止めて来たからこそ抱くことができる死生観であり、またそれは、あくまで謙虚というか、淡々としたものだということが伝わってくる。どこか「音の河」に通じる捉え方であり、これも武満の音楽観の基礎を成していると思う。

「遠い呼び声の彼方へ」(武満の第五エッセイ集)に、「普遍的な卵(ユニヴァーサル・エッグ)」という講演録が収められている。
また、その前(エッセイ集冒頭)の「東の音・西の音」の中では、「宇宙的卵(コスミック・エッグ)」という言葉が出て来る。
「卵」という語が象徴するように、未形成ではあるが音楽はやがて東西の区別が取り払われ、グローバルな形で孵化していくべき方向性があるという考え方だ。

どこか空想的で、理想主義的な印象があるが、第3回で触れた「美術手帳」座談会での瀧口修造の発言に見られるような瀧口から受けた薫陶、邦楽器を含む自作品の作曲経験、’72-3年のインドネシア、バリ島でのガムラン音楽体験、’80年8月のオーストリア北端のグルート島でのアボリジニ音楽の体験等を通して武満の中で徐々に醸成されていったのだろう。

この考え方は以前このブログでも触れた池澤夏樹の「現代文学」のグローバル化、文学は或る特定の言語で書かれているが、翻訳によっても充分享受できるという考え方、また入江昭のグローバル史観、’90年代以降の歴史研究がグローバル・ヒストリー(NOT=世界史(World History))という観点が主流となっているという指摘が思い出された。(→'15.2/17

また武満は、西洋古典派音楽で完成を見たソナタ形式に否定的で、起承転結がはっきりした構成へ異和感を唱える一方で、邦楽の一音に込められている奥深さに魅かれ、独自の境地から作曲をしてきた。

武満作品を聴いて、気付いたことを箇条書きすると、
・長い作品がない。
・作品名にユニークなものが多い。作品名と作品の中身は深い関係性がある。
「地平線のドーリア」、「鳥は星形の庭に降りる」、「遠い呼び声の彼方へ!」etc.枚挙に暇がない。
・起承転結が曖昧。終わりらしい終わりがない。
・追悼作品を多数書いている。
・シリーズでグループ化出来る作品が多い。

最後のシリーズ化について、武満は「音とことばの多層性」(「音楽を呼びさますもの」(‘85年12月))で、「・・・作曲する時、「夢(ドリーム)」、「数(ナンバー)」、「水(ウオーター)」に強く影響されている。」と述べ、不定形である「夢」と定形の「数」を対立するものと捉え、それを統合するものとして「水」を位置付けているという。
そして「夢」と「数」シリーズ、「水」シリーズの系列作品を例示している。
また、二つのシリーズが合流する作品として、「遠い呼び声の彼方へ」を挙げている。

以下シリーズ毎の系列作品を示すと、
1.水シリーズ
「波」(’76)
「ウオーターウエイズ」(’77-8)
「ア・ウエイ・アローン」(‘80) 弦楽カルテット作品 以上室内楽作品
「ア・ウエイ・アローンⅡ」(‘81)
「I hear the Water Dreaming」(’87)
2.夢と数シリーズ
「カトレーン」(’75)
「鳥は星形の庭に降りる」(’77)
「ドリームタイム」(’81)  オーストリア原住民アボリジニの神話から想を得た。
「夢の縁へ」(’83) ギター協奏曲。「虹へ向かって、パルマ」(’84) (やはりギター(とオーボエ・ダモーレ)協奏曲)と対を成す作品(武満)。
「夢の引用」(’91) 以上管弦楽作品
3.星座シリーズ(武満自身による)
「アステリズム」(’68)
「カシオペア」(’71)
「ジェモー」(’71-86)
「オリオンとプレアデス」(’84)  以上管弦楽作品
4.E.ディキンソンの詩に触発された作品
「夢の引用」(’91) 上の夢と数シリーズへ位置付けられる作品。副題(Say sea , take me!)はディキンソンの詩の一節。(武満自身による)
「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」(’91) 作品名はディキンソンの詩の一節。(武満自身による)
「そして、それが風であることを知った」(’92) 同上
「スペクトラル・カンティクル」(‘’95) 同上。ヴァイオリン、ギターと管弦楽の協奏曲。管弦楽は日本の回遊式庭園から着想した一種の変奏曲で、ソロ(ヴァイオリン、ギター)は、庭園の鑑賞者という位置付けとのこと。(これも武満自身による) 以上管弦楽作品
5.J.ジョイス「フィネガンズ・ウエイク」からから想を得た作品 
「遠い呼び声の彼方へ!」(‘80)
「ア・ウエイ・アローン」(‘80)  本作品のみ室内楽作品
「ア・ウエイ・アローンⅡ」(‘81)  以上二作品は水シリーズに入る。(武満自身による)
「riverrun」(’84)  「フィネガン」出だしの言葉だ。柳瀬尚紀が「川走(せんそう)」と訳した部分。
6.「海」の音列(E♭=ES=S、E、A すなわちSea)が用いられている作品
「遠い呼び声の彼方へ!」(‘80)
「ア・ウエイ・アローン」(‘80
「海へ」(‘81) アルト・フルートとギター
「ア・ウエイ・アローンⅡ」(‘81)
「海へⅡ」(‘81) アルト・フルート、ハープと弦楽オーケストラ
「海へⅢ」(‘88) アルト・フルートとハープ
7.絵画からインスピレーションを得た作品
「マージナリア」(’76)  クレーの作品から。(→第3回)。
「閉じた眼」(’79) ルドンの同名作品からの印象による。本作は瀧口修造への追悼曲。
「閉じた眼Ⅱ」(’88) 同上
「すべては薄明かりの中で」(’87) クレーの同名作品から。ギター独奏作品。
「エキノクス」(’93) ミロの同名作品から。ギター独奏作品。
「森の中で」(’95) 第一曲「ウエインスコットポンド」は、知人である画家コーネリア・フォスの絵画の印象から。ギター独奏作品。(→'16.10/15
以下は管弦楽作品
「夢の縁へ」(’83) ベルギーの画家ポール・デルヴォーへのオマージュ
「虹へ向かって、パルマ」(’84) ミロへのオマージュ
「I hear the Water Dreaming」(’87) オーストリア原住民アボリジニ絵画に触発される。
「ヴィジョンズ」(’90) ルドンの絵画作品名を各楽章名としている。

以上のように複数の要素を併せ持つ作品も多く、文学・美術的モチーフから音楽を着想する傾向があることが分かる。
第4エッセイ集「音楽を呼びさますもの」(’85年12月)の後記で武満は以下のように記す。
「・・・身裡にある曖昧な感情を見きわめ、明確にするために、どうしてもことばに頼らざるを得ない。そうして見えてきたものを、さらに、ことばが撹拌し波立たせる。その繰り返しの中で、音楽への機は熟す。・・・ことばは、ことばを超えて、音楽を呼びさますものの実質に私を近づける。」
音楽のイメージを言語で鮮明にして行く武満の方法が語られている。
(続く)

「武満徹・音楽創造への旅」-6「リング(環)」続き

前回触れた「リング」および武満にとっての「第4回現代音楽祭」の意義、また「リング」の武満作品全体における位置付けについて書いてみたい。

吉田秀和は「武満徹と静謐の美学について」(吉田秀和全集第3巻)で述べているように、「リング」の底流に漂う「静謐の美と、浄福(Seligkeit)とでも呼びたい静かで浄らかな光」を感じ取った。

上の吉田の見解は、私には理解しうるものではないが、「リング」の間奏部分で採用している不確定性の音楽は、奏者の演奏の自由度が大きいため、究極的には演奏毎に異なる演奏が出現することとなって、聴き手にとっても据わりが悪いことになりかねないように思う。
また、この種の音楽をCD等の媒体で固定してしまうことが無意味になってしまう様にも考えられる。

以上の私の感想に対して吉田は、
「いわゆる抽象楽譜による書法は演奏家のイニシアティヴを尊重し自発的な即興を刺激することを通じて、音楽家の創造の自由を拡大してゆく点で大きな意味をもつ。・・・けれども人間には、くり返しを求めるという、本然の要求がある。・・・そのくり返しが、芸術を惰性化し形骸化する危険をもっていることは事実だし、一度しか味わえないものの魅力も貴重なものだというのも本当である。しかし、一度きかれ、そうして消えていったものは二度ときかれることはないということには、私は不満―というよりも、音楽の中からかけがえのないものが欠けてしまうのではないか。」(「能と現代音楽」(吉田秀和全集第3巻))
と述べ、また、
「これまできいた限りでは、私の共感は、ケージ流に全面的にこれ(「偶然性の技法」)によった作品よりも、それを部分的に適用した武満の方にある。」(「武満徹「フリュート、ギター、リュートのための環」」(吉田秀和全集第3巻))
とも言い、上の私の感想があながち見当違いではないことを裏付けてくれている。
それにしても、吉田の感覚の鋭さと一貫性、曖昧模糊とした対象への分析力の高さ、更には読む者へ的確にそれを伝える文章表現力には驚かされる。
この吉田の叙述は、下に述べるように武満の音楽の方向性と一致している。

「第4回現代音楽祭」が武満にとり大きな意義を持つのは、この時彼がジョン・ケージの音楽を初めて耳にしたという事実である。
しかもこの時武満が聴いたケージの作品は、「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(*)で、ピアノを一柳慧が務め、指揮は黛敏郎だった(立花P.413)。一柳は米国留学から帰国したばかりで、留学当初の’58年にケージと出会い、その頃作曲されたばかりのこの作品を知って、ケージへ傾倒するようになった当の作品を紹介したわけだ。

*:脂がのりきった壮年期に書かれたケージの最高傑作だと一柳は言っている。不確定性音楽で、ピアノパートは84種類のグラフィック・スコアとなっている由(第2回で触れたNHKFM「ケージとメシアンの音楽」での一柳慧の発言(→第2回)。

全集Vol.2書籍巻末の船山隆「武満徹の音楽詩学」は、武満作品へ船山が長年傾注してきたことを実感させるものだが、あれれ、と思う部分があったのでここに記しておく。
それは、「(3)武満の「歌」」というセクションで(P.291)、
「1965年、谷川俊太郎の詩「死んだ男の残したものは」を歌詞に作曲・・・同年、武満は磁気テープのための<水の曲>、不確定性を持つ<環>を作曲している。彼は実際、一柳慧を通じて、ジョン・ケージの音楽について正確に知ったのである。」
と記しているが、<水の曲>は’60年、<環>は’61年の誤りだ。
また「彼は実際、一柳慧を通じて・・・」という箇所も、文脈上<環>があたかもその過程で作曲されたように受け取れる書き方だが、一柳は帰国したばかりなので、<環>は「一柳慧を通じて」ではなく、不確定性の技法を武満が独自に取り入れて作曲したものと考えるべきだろう。

ケージとの出会いは、以降の武満の作曲活動へ深い影響を与えることになる。(立花P.376)。
立花隆のインタヴューで、武満はケージから受けた影響について率直に語っている。(29、31章)
それは、以下のように2点へ要約することができる。
1. 既存の音楽を破壊し、作曲する上ではすべてが許されるという、絶対的肯定者の立場を取ったケージの音楽観へ共感した。
2. 日本の音楽へ目を開かれた。
ケージの自由な音楽観への共感が、以後の武満の作曲の指標となった。
ケージとは生涯にわたり親しく交友するようになるが、二人はあらゆる束縛から音楽は自由であるという基本的姿勢において一致するも、作品の具体的内容においては全く方向性が違っていた。
またケージにより日本の音楽を再認識したことが、「ノヴェンバー・ステップス」の誕生の遠因となった意義は大きい(直接的には小澤征爾の貢献も無視できない)。
武満は、演奏者の自由に委ねる不確定性音楽よりも、作曲家の意図を厳密に書き込む記譜法へ回帰し、やがて不確定性音楽から離れて行く。
そして終生作品を構築する論理の探求を続けて行くこととなる。
(続く)

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