2018年4月25日 (水)

夏目漱石「明暗」を読む-4(最終回)

前回記したように水村美苗「続明暗」は、漱石の「明暗」を見事に補完している。
その際に触れた「人生の贈りもの」によれば、水村は自作品に触発されて様々な「続明暗」が出て来ることを予想していたようだが、今日に至るまで水村版以外は出ていない。
また水村は、「作家の意図より書かれたものを重視するという、学生時代に学んだ文学理論(*)に助けられ、漱石がどう「明暗」を終えようとしていたかより、すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよいと」考えた。「漱石なら少し違う展開になったでしょうね。古い時代の男性だから。私は女だから、女性に精いっぱい花を持たせてしまいました。」
自尊心を粉々に破壊され、自身の存在意義を見失うまでにボロボロになったお延が、山の頂上から朝日に輝く眺望を目にして、自然の平等性を体感し透明無私の境地へ達する。水村が言う「女性に精いっぱい花を持たせた」と言うのはこのことだろうか。
ただ「すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよい」という点では、原作で温泉へ出発する前に津田が小林と会いに出かけるところでのお延の
「何時か一度此のお肚(なか)の中に有(も)ってる勇気を、外へ出さなくちゃならない日が来るに違いないって」「近いうちなの。もう少ししたらの何時か一度なの」「貴方のためによ。夫のために出す勇気だって」(154)
という勝ち気で、積極的な性格を象徴する発言が置き去りになっている事がわかる。
水村版では、現地へ乗り込みはしたが、為す術もなく押しつぶされてしまう、か弱いお延となっている。この点も含め様々な展開があり得ると言うことなのだろう。

(*)第3回ではご夫君との出会いやら、イエール大での文学履修の話、武満徹との出会い、加藤周一と柄谷行人への師事とか(!!!)20代の頃の濃密な学業が語られている。

2で記したとおり津田は共感出来る人格ではないが、救済されるというと受動的だが、前回触れたように水村版では津田にも最終盤でお延との絆が強まり、精神的更生を予感させる書きぶりが認められる。江藤淳のように津田は罰せられ死をもって報われると云う結末は流石にないだろう。津田はまだ若干30歳という若さなのだ。

清子について大岡昇平「「明暗」の結末について」は、「(清子の)創造はその場の即興で作り出され」たというユニークな解釈を示している。(*2)根拠を「書きはじめ一ヵ月前と推定される不可解な断片」(*3)に置き、お延との真の和合を究極のテーマとしつつ、「立ち去った女との姦通」のモチーフを加えた、という大胆な推理を加えている。
(*2)「小説家夏目漱石」P.414-5 この本が出た1988年は奇しくも大岡の没年となった。享年79歳。本は5月が初版第1刷で、私のは第6刷で8月のもの。「「明暗」の結末について」は1976(昭和51)年5月早稲田大学での講演に手を加えたとある。その当時で大岡は67才、丁度私と同じ年齢だったのが感慨深い。この本には江藤淳と朝日新聞紙上でやり合った(という表現がぴったりの)江藤の博士論文「漱石とアーサー王伝説」を巡る論争の大岡部分も納められている。こちらは1975年で大岡66才、江藤の方は42才、当時20代だった私は、はらはらしつつ両大家の言い合いをリアルタイムで読んだ事を思い出す。
(*3)旧全集第13巻「日記及断片」P.835-6

そして清子を入れた事で、サスペンスは増大したが、筋は不自然、煩瑣になってしまったといっている。
大岡も清子をサブキャラクターと見ており、水村版は津田と清子の交渉を「続明暗」のハイライトシーンとしつつ、大岡の指摘をも盛り込み、見事に模範的に描写したと云ってよいだろう。

水村版を読んでいて気付かされたのは、随所に漱石の表現をパロディー的に引用していることである。
・「(つれない素振りの清子に)津田の舌は上顎へ密着(ひっつい)て仕舞ったやうに自由を失った儘だった。」(244)これは「三四郎」終結部で教会から出て来た美禰子と対した三四郎の印象的な場面だ。
・「(清子と馬車の幌の中で)津田はいつしか(清子の)微かな香を眼の眩(ま)う程強く感じてゐた。さうして嗅覚の刺激のうちに一種の幸(ブリス)を覺えていた。」(238)
「それから」の代助が三千代を迎えるにあたり百合をあしらい、その香りが充満する中で感じた幸(ブリス)を思い出す。
・「(宿に着いて風呂の中で我を忘れた津田が自分を取り戻し)何処かで聞いた事のある父母未生以前の己れといふ言葉が津田の胸に思ひ起こされた。」(246)
これは「門」で参禅した宗助に課された公案「父母未生以前本来の面目は何か」が連想される。
というように漱石作品を自在に駆使しているあたり、水村の上品な遊び心を感じる。

最後に漱石の原作の方で気付いた事を記したい。
・第5回で津田が二階の書斎へ上がり机上の洋書を開くところ。
今回は手元の旧全集で読んだが、図書館から定本版を借りて来て、たまたまこの箇所の違いに気付いた。
旧全集:結婚後三四ヶ月目から読み始めた。それから二ヶ月以上になるが三分の二にも達していない。
定本版: 〃 二ヶ月目   〃       〃 三  〃        〃
定本版は原稿、旧全集版は初版本に拠っている訳だが、こうして比較してみると結構違いが目立つ。ここは津田夫婦の結婚後の経過時間を示唆するもので、いずれも概ね半年前後となる。
ちなみに初出(5)では単に「比較的大きな洋書」となっているが、(39)では「経済学の独逸書」とあり、大岡は「これがマルクスであろう、という拡大解釈があります」と疑義を挟みつつも紹介している。長山靖生氏も「漱石研究」(*4)に寄せた論文で他者の意見とした上で、これがマルクスの「資本論」との見解があることに触れている。両者とも確定的とするには根拠が乏しいが、面白い見解だということで敢えて取り上げたようだ。漱石全集の蔵書目録(付記3:6)にあたってみたら、マルクスの「資本論」はあったが英訳版だった。ちなみに余白への書き込みはない(模様)。
(*4)「不可視と不在の「明暗」」(付記3:9)

・パート1第5日のお延の観劇。漱石は「芝居」と書き、「劇場」とも記すが、歌舞伎とは書いていない。水村は当然のように「歌舞伎」と明示している。((203) P.58)大岡も「「明暗」の結末について」で同じく当然のように「歌舞伎」と書いている。これが私には引っかかっていたが、最近読み始めた古川隆久「昭和史」(付記3:15)で(尤もこちらは大正から昭和へ変わる頃での記述だが)、「演劇で人気だったのはなんといっても歌舞伎である」という箇所を読み、大正初年もほぼ同様だったであろう事から納得することが出来た。

・第150回の「事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。」というイレギュラーなセンテンス。
しばらく受け入れ難かった部分だ。
何故「事後の夫婦は、もう事前の夫婦ではなかった。」でないのか?
津田とお延は、津田が申し出た妥協をお延が受け入れる事で「何時の間にか我知らず相互の関係を変えてゐた。」
そして大岡が言うような「理屈っぽ」いテキストが以下長々と続く。理詰めで、決してわかりやすく書かれてはいないこの箇所は正直読むのがつらい。
どうにか理解できるようにも思うが、いまだにこのセンテンスは釈然としない。

谷崎から与えられた宿題は力及ばず白黒を付けるには至らず、結論を今後へ積み残す事となってしまった。「明暗」、「続明暗」とセットで読んでみて言えるのは、水村版として完結を見て、読者としてカタルシスは覚えることができた。
谷崎の「芸術一家言」が発表された1920(大正9)年、谷崎は若干34才、既に旺盛な作家活動をしていた。「明暗」は1916(大正5)年5月26日から東京、大阪朝日新聞に同時掲載で始まったが、その前の連載小説が谷崎作品だったというのも面白い符号である。(*5)

(*5)「鬼の面」。1月15日から5月25日までの116回。東京朝日新聞へ掲載。谷崎の朝日への第1作。(以上は、荒正人「漱石研究年表」(付記3:7)による。)「明暗」はその翌日からだ。(*6)
「面白い符号」という点で、序でにいうと水村は「谷崎潤一郎は漱石と並んで尊敬する小説家である。」(*7)と書き、「決定版谷崎全集」(中央公論社)のパンフレットには推薦のことばを寄せている。
今回の私のブログは奇しくも漱石―谷崎―水村の3者が絡んだが、水村が漱石と谷崎を殊更に愛読する人であることに、我が意を得た。
(*6)中央公論社版旧谷崎潤一郎全集第3巻所収の「鬼の面」タイトルページ裏面には「大正5年1月-4月東京朝日新聞」と誤記載されている。
(*7)水村美苗「谷崎潤一郎の「転換期」―「春琴抄」をめぐって」(付記3:10)
(終わり)

(付記1)長崎新聞のスクラップ(前回参照)に関しては思い出がある。
1990(平成2)年(もう28年前になる!!)私の地元のギターアンサンブルで共に活動していた友人が帰郷し結婚する事になって、披露宴へ妻共々招待され、はるばる長崎へ行ったのだった。
このスクラップはその時のものである。
友人の父君は長崎市の収入役を務めておられ、当時の市長の本島等氏が列席されていた事を思い出す。私はキャンドルサービスで「アルハンブラの想い出」と、彼の従妹にあたる女性のメゾソプラノへ、シューベルトの「アヴェ・マリア」のギター伴奏をしたのだった。
丁度「長崎旅博覧会」が開かれていた。グラバー邸や平和公園、浦上天主堂も周り、また「山下和仁アートサークル」事務局だった喫茶店「ギタルラ」へ行き、マスターに長崎ギター合奏団のライブ・テープ(たしかベートーヴェンの「運命」第1楽章だった)を聴かせていただいたり、長崎ギター音楽院へ山下亨氏(和仁の父君)を訪問してお話を伺ったりした。その場で山下和仁がマネージャーらしき人と打ち合わせていた事が思い出される。
雲仙温泉へも一泊した。この直後の11月17日に普賢岳が噴火し、翌年2月12日に再噴火があって、その後火口付近に形成された溶岩ドームの崩壊により発生した大規模な火砕流により多数の犠牲者を出す大惨事となったのだった。
(付記2)今回の本文へは取り上げなかったが、2で触れた2,016年の神奈川近代文学館の「夏目漱石」展について書いた私のブログで取り上げた「漱石と歩く東京」の著者北野豊氏のホームページ「勝手に漱石文学館」を最近全く偶然に知る事となった。興味のある方のためにここへリンクを張らせていただく。(→「勝手に漱石文学館」
また「漱石と歩く東京」は、漱石を読む上で必須と言っていい北野氏の労作である。ホームページから購入できるようになっており、文句なく推奨できる私の座右の書である。北野氏から頼まれて記しているわけではなく、このような貴重な情報が満載された本を共有したいという一念からであることをお断わりしておく。
「明暗」を読みながら随時「漱石と歩く東京」を参照し、今度も様々な示唆を本書から受けた。
一つだけ粗探しさせていただく。同書第2章「小石川を歩く」の江戸川橋の項に「明暗」(21)からの引用があり、「・・・彼は残酷に在来の家屋を掻き?って、・・・」と「?」の文字化け(挘(むし)が正しい)を見つけた。(^^)
(付記3)参考書目一覧
1. 漱石全集第7巻「明暗」 昭和50年6月9日 第2刷 岩波書店
2. 定本漱石全集第11巻「明暗」 2017年10月11日 岩波書店
3. 水村美苗「続明暗」 平成2年9月30日 初版第2刷 筑摩書房
4. 谷崎潤一郎全集(没後版)第20巻「芸術一家言」 昭和43年6月25日 中央公論社
5. 漱石全集第13巻「日記及断片」 昭和50年12月9日 第2刷 岩波書店
6. 漱石全集(改訂新版)第27巻「漱石山房蔵書目録」 1997年12月19日 岩波書店
7. 荒正人著、小田切秀雄監修「増補改訂 漱石研究年表」 昭和59年6月20日 第1刷 集英社
8. 大岡昇平「小説家夏目漱石」 1988年8月25日 初版第6刷 筑摩書房
9. 「漱石研究」終刊号(no.18) 特集「明暗」 2005年11月25日 翰林書房
10.「文芸別冊 谷崎潤一郎」 2015年2月25日 初版 河出書房新社
11.図録「100年目に出会う 夏目漱石」 2016年 県立神奈川近代文学館
12.江藤淳「夏目漱石」 昭和51年6月30日 13版 角川文庫
13.長崎新聞「続明暗」評 1990(平成2)年10月30日
14.朝日新聞夕刊「人生の贈り物」2014年8月11日~15日
15.古川隆久「昭和史」 2016年5月10日 第1刷 ちくま新書
16.小宮豊隆「夏目漱石 三」 昭和49年8月30日 第18刷 岩波書店
17.北野豊「漱石と歩く東京」 2016年4月10日 第4刷 雪嶺文学会

2018年4月21日 (土)

夏目漱石「明暗」を読む-3(「続明暗」をめぐって)

水村美苗「続明暗」は、今回の「明暗」を読むにあたりセットで読もうと思っていた。
通して読んでみての率直なところは、「続明暗」の方への賛嘆の念である。

「続明暗」は創作ではあるが、「明暗」を前提としているところが通常の作品と異なる点で、発表から28年経過しており、最近余り話題になることはないかも知れない。
初版帯には「漱石諸作品からの引用をちりばめながら、漱石そっくりの文体、言い回し、用語を駆使して完結」とあり、当時読書界にセンセーションを興したと記憶している。

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先ず何よりも読んで面白い。筋の進行に無駄はなく、前後の脈絡、漱石の原作は勿論のこと、「続明暗」の中においても見事に前後の脈絡が付いていて、読んでいて唸るしかない。
文体は漱石に確かに似ているが、漱石の方がねちねちしているというか、「続明暗」の方はよりサラサラしている印象で、漱石との違いを感じた。
構成もまた見事で、漱石の新聞連載番号を引き継ぎ、一回分がほぼ同じ分量で綴られ、丁度100回分で終わらせている。
「明暗」最終回(188)は温泉行第2日目になり、「続明暗」はここから始まるが、大団円となるのが第7日で6日間という時間が流れる。津田の視点が多いがお延の部分も見事に織り込まれ、まさに柄谷行人が示す「多声的な世界」が表現されていると思う。
時代考証も怠りなくされているようである。
例えば(211)でお延が温泉の津田へ電話しようとする場面、当時の電話システムでは過疎地へは自動電話ではつながらず郵便局まで交換手を通した電話をしに行くところとか、(230)で安永夫妻を送って津田と清子が軽便鉄道に乗る場面とか、(235)で当時の横浜伊勢崎町の盛況が語られる場面(電気館、又楽館、オデオン座etc.)とか大正初年の風俗を描くにはやはり下調べは必要だろう。

「続明暗」は平成2(1990)年9月発行で私は30日の初版第2刷を持っている。今回繙くと中に新聞切り抜きがあった。同じ平成2年10月30日付け長崎新聞の「続明暗」評(付記1:次回参照)である。評者名は記されておらず、学芸担当の記者の手になるものと思われるが、短い字数の中で的確に要点が書かれているところに端倪すべからざるものがある。

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大岡昇平「明暗の結末について」への言及とか、水村が柄谷行人へ師事したことがあるということをこの書評で教えられたりとか、多々勉強になった。

「続明暗」は全編が印象的描写なので、ここでは特に心に残った場面を記す。

第4日。津田の留守宅。寒さが日増しに募る日の午後、二階の津田の書斎でガラス越しの暖かい日射しの中、岡本の小切手で買った反物の仕立ての準備を始めるお延と、庭で隣家の椎の落葉焚きをする下女のお時の平穏な描写。ほのぼのしていて好きなところだ。
それを破る吉川夫人の来訪。日曜(第7日)の継子の再見合いへの立ち会いの要請だった。また津田の温泉行についての虚偽を吹き込まれたお延の心は千々に乱れ、居ても立っても居られなくなり1泊での温泉行きを決意する。
前後の描写の対照が鮮やかだ。
第5日。前日夕刻夫人から翌朝の来訪を促され、津田の温泉行が清子を追っての事だったことを悪意をもって夫人の口から聞かされ、その帰途降りしきる冷たい雨の中を不図思い立って小林宅へと足を運ぶ場面。
打ちのめされてはいるが、こうと思ったら遮二無二突き進むお延がよく描かれている。
特に小林が不在で電車通りへ戻る道中、ラビリンスのような脇道を雨中泥水にまみれ、堂々巡りして中々元来た大通りに戻れないくだりは、お延の絶望的な心理を象徴しており、見事な表現力に唸らされる。
そして帰宅すると小林が来訪していた。そして小林により、津田が入院中に「来るな」というお延宛ての手紙をくれた時に吉川夫人が訪れていた事を知るに至る。

露悪的で徹底的に嫌らしい人物として造形されていた小林を水村は真摯で人間味ある好漢へ変貌させ、特にラストでは重要な役割を与えている。

いわく、お延がお時へ指示した岡本家への仮病による見合いの欠席の電話。その電話で継子が見舞いに訪れたことで嘘が発覚し、岡本の知るところとなり、お時からお延が出発前に小林と会っていた事を聞き、相談に訪れた藤井宅に居合わせていた小林へお秀に同行する形で現地への出向を依頼。という風に漱石の原作のエピソードを前半で取り入れ、それを最後に有機的に関係付ける綿密な筋が用意された。
最終節(288)の「奥さん、人間は人から笑われても、生きてゐる方が可(い)いものなんですよ」(87)という小林の言葉を反芻するお延の描写。漱石の原作の小林の言を引用しているが、このシチュエーションではしみじみと心に沁みる名言として聞こえて来る。

一方吉川夫人には徹底的に卑劣な役回りを与えている。お延へのあしらいはとても感情教育を踏まえたものとは言えず、悪意以外の何物でもない。津田は滝の前での清子とのやり取りで吉川夫人の底に潜む悪意を思い知り、岡本からの電話へ出ようとするお秀へ「吉川夫人の媒介する話は廃(よ)した方が可(い)い」(285)と言うように指示する。ここは津田が汚名を挽回する小気味よい場面だ。

お延が東京で悪戦苦闘していた第5日、軽便鉄道の終点(国府津)の料亭で津田と清子が安永夫妻を送別する会食をする場面。磊落な安永の宴席向きの話題で盛り上がる座と、水商売上がり風の妻君の手慣れた応接、この場面も心に残っている。(*)

(*)2014(平成26)念8月朝日新聞夕刊「人生の贈りもの」で水村さんご本人が「漱石は物語を離れた細部がとてもいい」と言われているが、(232)~(236)のここは正にそんな箇所である。とても印象的な場面だ。

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会食中から降り始めた雨は強まり、津田と清子は幌付きの馬車で宿へ帰る。津田と清子の交渉は夜が更けるに伴いクライマックスへ向かい、一方夕刻の遅い出発となったお延へも雨が伴い、やがて大暴風雨となって進行の波乱を象徴するが、常套手段とはいえその手腕は見事と言うほかはない。

馬車の中で津田は医院で関と会った話(17)をする。そして関が「公には云い難い疾に罹っ」ていた事を話してしまう。「性(セックス)と愛(ラヴ)に就いて六づかしい議論をした」ことについても津田の回想の形で具体的に展開し、享楽的だった関に清子を奪われた理不尽から、清子へ卑怯な態度を取っている津田の矛盾と、刹那主義者の関へ走ったことによる清子の聖性の喪失をここは象徴しているのだろうか。(239)~(241)

大団円はお延の精神が昇華されて終わる。津田の人格に絶望し、自死を決断して滝へ向かうも朝日にきらめく滝の奔流を見て思いとどまり、山へ入り頂上からの美しい眺望に、「自然の全くの無関心が」お延の心を打つ。(287)
津田はと言うと、連日の疲労がたたり出血の苦痛に呻き、お延を追いつめてしまった痛恨の思いと、吉川夫人への絶縁宣言。
小林の津田への「事実其物に戒飭(かいちょく)される方が遙かに覿面(てきめん)で切実でいいだろう」(167)という予言がここに成就している。また出血をいとわずお延を追って起き上がった時点で、津田の精神的再生は約束されたと読める。
見逃せないのは(261)である。滝の前の津田と清子にお延が忽然と現われる。清子は面倒はご免とばかりさっさとその場を去って行く。そして津田は残されたお延が清子と姿格好がそっくりなのに気付く。(P.269)
ここは重要で、津田の深層で清子からお延への遷移が為されたと私は解釈した。
お延はと言うと、これは紛れもない「則天去私」の境地そのものと言えるだろう。
旧漱石全集の小宮豊隆の解説が言うところの、「より高きイデー」=「則天去私」の世界が水村美苗版「明暗」の到達点だった。
また小宮は「明暗」の最重要な鍵は、「倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。」(「日記及断片」大正5年5月(旧全集第13巻P.839))であることをも指摘している。
未完の漱石の原作では、必ずしも反映されているとは言い難いこの命題が、「続明暗」においては見事に達成されている。
(続く)

2018年4月18日 (水)

夏目漱石「明暗」を読む-2

「明暗」は二つの部分に分けることが出来る。
津田が入院して退院するまで(1~153)のパート1と、温泉地への転地(154~188)のパート2の二部分である。

2,016年の神奈川近代文学館の「夏目漱石」展の図録解説者奥泉光がいう「三人称多元」の視点人物(*)(→'16.5/10)、具体的には津田とお延になるが、はじめは津田の視点でスタートした小説はやがてお延の視点から叙述され、進むにつれお延から津田、またお延へ、二人の渡り合いの場面では一部作者の視点と、視点が場面で変わりながら進行する。

(*)2月28日付け朝日新聞夕刊に「雪の階(きざはし)」という彼の新作小説が紹介されていた。昭和初年の東京を舞台とした女性が主人公の長編とのことだが、図録解説で述べられている三人称多元の叙述法をこの作品へ採用しているそうである。

引用で知ったのだが(*2)、柄谷行人の新潮文庫版「明暗」への解説で述べられているという「明暗」で実現されている「「多声的な世界」-一つの視点=主題によって”完結“されない世界」」という見方も、恐らくはこの「三人称多元」による展開を基本にしているのだろう。

(*2)高橋修「<終り>をめぐるタイポロジー-「明暗」の結末に向けて」(「漱石研究」Vol.18翰林書房2005)

作中で生起する時間はパート1が11日、パート2は未完に終わってはいるが3日という短い時間の中で小説が展開していく。
パート1の第1日から第4日までは津田、第5日から第8日までは一部津田の部分はあるがお延がそれぞれメインキャラクター(視点人物)として書かれている。
テンポ感としては津田がメインのはじめの部分は快調であると言って良いが、お延へメインが移動する第2部分は叙述が徐々に肥大化し、部分としてみれば精密微細な描写が展開されていると言えるかもしれないが、いわば第2部分のみの限局的なエピソードが延々と詳述される形になってしまっている。

以下にパート1を具体的に整理してみる。
「明暗」パート1に費やされている紙数は以下のとおり。頁は旧全集による。

    連載番号  頁数(旧全集)   主人物   備  考
第1部分
第1日    1~  8   23(P.5~27)     津田    清子の伏線(2)
第2日    9~ 15  20(P.28~47)    津田      〃  (11、13)
第3日  16~ 18    9(P.48~56)    津田      〃  (17)
第4日  19~ 38  64(P.57~120)    津田    藤井家訪問、小林と居酒屋で会談
第5日  39~ 44  21(P.121~141)  津田    津田の手術、入院
第2部分
       45~ 58  46(P.142~187)  お延    お延の観劇、継子の見合い
第6日  59~ 79  70(P.188~257)  お延    お延の岡本家訪問、津田への疑念発生(78)
第7日  80~ 91  41(P.258~298)  お延    小林の来訪    お延の疑念(89)
       92~102  38(P.299~336)  津田    お秀の来訪
             103    3(P.337~339)  お延    お延の疑念+ 清子の伏線
     104~113  37(P.340~376)  津田、お延 津田、お秀へお延が加わる
第8日 114~122前半 32(P.377~408) 津田   小林の来訪
     122後半~130 27(P.409~435) お延    堀宅のお秀への訪問  
     131~142  46(P.436~481)  津田    吉川夫人の来訪
     143~152  38(P.482~519)  お延、津田  
第9~11日 153    4(P.520~523)  津田     津田の退院

以上をまとめると

第1部分 137頁
第2部分 382頁(内お延の部分 187頁(0.49) 津田 〃 120 (0.31) 津田、お延 75 (0.20) )

となり、第2部分/第1部分≒2.8となり、またこの構成表を見ると、第2部分が日を追う毎に膨らんでいることがよくわかる。そしてこの部分の主役がお延であることは、お延の部分が0.49であることからも明らかである。
以上で明らかなように、「明暗」は構成において均衡を大きく欠いていると言える。

また以下に示すとおり、津田の造形には問題が多く、私は読んでいて津田が主人公に値しないのではないかと疑問を感じた。
津田は「利害の論理に抜け目ない機敏さを誇」り(134)、「自己の快楽を主題にして生活」し(141)、父の経済援助の一部返済の約束を履行せず(95)、「畢竟女は慰撫しやすい」(150)とうそぶく非誠実で自己本位の打算家である。
津田は非倫理的で、人間的に共感出来ない人物として描かれている。
また第8日の吉川夫人の半ば言いなりで清子の逗留する温泉行を決意するのは、完全に主体性を失っている。そればかりか、この温泉行がいわばお延への裏切りであり、人妻である清子への接近という背徳行為であることの責任の自覚も欠如している。

対するお延の方は、夫を愛し、夫に自分を愛させることを理想に、日々生活するひたむきさがよく描かれていて、その姿勢に共感もでき、主人公としての魅力を持っている。(*3)
江藤淳は「明暗」において近代小説の重要な構成要件となる女性がよく描けているとし、
「これらの女性達で最も魅力的なのが、・・・お延である」
「お延の魅力は言葉の厳密な意味でのheroineの魅力である。」(*4)
とお延を高く評価する一方、津田を「冷笑的で、自己の保身には敏感な、・・・強い虚栄心を持った」「俗物才子」と切り捨てる。
そして結末を予想して津田は救済されず(津田の死を予想)、よって清子は救世主とはならないと言う。
パート1において構築されたお延の世界が否定されるような結末は有り得ないと云う。
また江藤は上層中産階級の外延に位置する人物として小林に注目し、「明暗」の世界をより相対的にして、超越的自然の視点よりは社会的視点へ重心があり、漱石の視点は小林に同化していると書く。

(*3)飯田祐子「「明暗」の「愛」に関するいくつかの疑問」(「漱石研究」NO.18(2005)、翰林書房)では、お延の「愛」は真実なのかと疑義が提起されている。一例を挙げると、津田の自身への愛を疑い、ついに根拠が瓦解したのに津田への愛が揺るがないというのは不合理である、とか何点かもっともな指摘をしている。
また池上玲子は、「女の「愛」と主体化」(同上)を以下のように締めている。
「「明暗」とは、自己の眼が気づく津田の、結婚生活での個々のノイズを封印し、自己の意志によって自らを夫に従属する主体へと教育していく物語なのである。」
以上はお延に限定された論文だが、大正初年期の状況も踏まえ、女性ならではの洞察が示されていて、大変参考になった。
(*4)江藤淳「夏目漱石」第8章「「明暗」―近代小説の誕生」 これが江藤の慶応在学中の評論であることに改めて驚かされる。

現在残された「明暗」のテキストは、こういう二人の主人公と、更に過去の女性(清子)との関係を絡めて漱石がどういう解決を図ろうとしていたのか、わからないまま未完になっている。

次回以降は、解決の一例ということになる水村美苗「続明暗」を中心に綴ってみたい。
(続く)

2018年4月14日 (土)

夏目漱石「明暗」を読む-1

漱石の「明暗」を読んだ。

漱石メモリアルイヤーに因む朝日新聞の一連の漱石作品の連載も平成29(2,017)年3月28日をもって終了した。その都度私は感想をこのブログへアップしていたが、それ以来漱石からは離れている。
が、以前谷崎潤一郎の「芸術一家言」を読み(→'16.3/19)、「明暗」が完膚なきまでに酷評されている点がずっと気になっていて、今度繙くこととなった次第である。

私が目にした範囲では、「明暗」の評価は谷崎以外で作品の価値を否定する者はいないようだ。
以下に今回の読書体験を記してみたい。

「明暗」は、主人公津田が30歳、もう一人の主人公である津田の妻お延は23歳で、結婚して半年あまりの若い二人に生起して行く愛憎劇といってよいだろう。

作中に明示はないが、津田の父親は推定55歳前後、叔父の藤井が50歳になるかならぬか位、その他お延の叔父岡本にしても、その子供達の年齢からして還暦には間がある年回りと思われる。

絶筆の未完作「明暗」を書いていた漱石にして49歳という若さである。

従って老人として登場する人物は皆、私よりはるかに若い人達ということで、その点も「明暗」を読みながら常に念頭にあったことだ。

開始早々に脱線してしまうが、一月に発表された第158回芥川賞受賞者の若竹千佐子さんは何と私の地元の方だった。
「おらおらでひとりいぐも」という作品名から東北の作者だとばかり思っていたところ、妻のコネクションにより地元の人だと知って読み始め、抱腹絶倒しつつ読み終え、たくさん元気を貰った。
主人公は74歳になる女性で、独り平凡な日々を送っているが、尽きない豊かさに満ちた内面に向き合う幸せな「老人」である。
作者も63歳だそうだが、分身であるだろう主人公の精神の健全さ、バイタリティ、したたかさが遺憾なく表現されており、「明暗」の世界よりもこちらの方に若々しさを感じ、かつもう一人の受賞者も54歳であることと併せ高齢化社会を象徴する今回の芥川賞だと感じた。

閑話休題。
「明暗」は188回で未完に終わった。
「明暗」を読んで釈然としないのはスタート早々に清子の存在、お延と結婚する前のこの女性との交渉が津田の心に深く巣喰っていることが暗示されながら、小説は大きく迂回してお延を中心とする世界が延々と展開していき、突如津田は温泉地の清子の元へと走る、という脈絡のなさ加減である。
谷崎が「瑣末的な事が紆余曲折してだらだら続き、本筋が出て来ない。人物相互でくだらない事で腹の探り合いをする場面が長すぎる」(「芸術一家言」)、と誇張気味に書いているのもあながち的外れとも言い切れない。

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上は「芸術一家言」の最終頁(中央公論社版「谷崎潤一郎全集」第20巻(昭和43年刊))

そして様々な疑問が置き去りのまま作品が中断してしまったことが読者へ大きなフラストレーションを与えている。

連載第2回で津田はいきなり、
何うして彼の女は彼所へ嫁に行ったのだろう。・・・さうして此の己は又何うして彼の女と結婚したのだろう。・・・」
などと述懐しておきながら、中々その問題が出て来ない。
読み進めればアンダーライン部分の「彼の女」が誰と誰かはわかるが、述語の部分は全く未解明である。自身前段にばかり関心が向いていて、後段は等価であるのに、これを記しながらそれと認識するまでこの後段部分は全く関心の外にあった。

津田が吉川宅を訪問して吉川夫人と会談する場面で、吉川夫人から
「お延さんばかりぢゃないわ、まだ外にもう一人ある筈よ」(11)
夫人宅を辞去後の帰宅途上歩きながら
「あの細君はことによると、まだあの事件に就いて・・・」(13)
というように思わせぶりな言葉が出て、これは上の前段の「彼の女」の事だとわかるが、約400頁後の津田の入院している病院へ吉川夫人がやって来る場面を待ってようやくその顛末が明らかにされる。(「清子」という名が読者へ初めて提示されるのもこの場面である。(*))
(131)から(142)の約50頁にわたる部分で、読者としてはその唐突さに面食らうが、ここまでの叙述が何だったのかと思う程あれよあれよという風に重要な事が次々に提示される。
・清子を愛するよう仕向けたのは、そもそも吉川夫人だった。
・清子は結婚する寸前まで行きながら津田から去り、関と結婚した。
・夫人は清子の逗留する温泉へ津田を行かせようとする。それを「笑談みたいなもの・・・大袈裟に云った所で面白半分の悪戯よ」と遊び半分に投げかける。
・お延を奥さんらしい奥さんに育て上げてみせる、とうそぶく吉川夫人へ危惧を抱く津田。
(*)1975(昭和50)年6月の漱石全集第7巻(以下旧全集という)460頁(137)

第17回では津田が病院でばったり出会った友人と晩飯を一緒に取りつつ、「性(セックス)と愛(ラヴ)に就いて六づかしい議論をした」という、漱石にしては刺激的な叙述に驚かされる。直後に「彼との間には、其の後異常な結果が生れた」と記される。
(131)から(142)を踏まえれば、この友人は清子の夫となった関で、「異常な結果」という用語は、津田を去って友人の関と清子が結婚した事を意味していると解釈できる。
ここは大岡昇平も「「明暗」の結末について」(「小説家夏目漱石」筑摩書房1988)で触れ、「多くの「明暗」論を読んでやっと気付」いたと述べている。

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私はいかにも露骨な表現だったので頭に焼き付きはしたが、「異常な結果」の意味へはすぐは想到できなかった。
(続く)

2018年3月22日 (木)

身辺雑記

毎度の事ながらあっという間に3月も下旬、彼岸の中日も過ぎ、桜の開花も始まった。
私の地元は雨だったが、昨日は異例の春分の日の雪でTVでも箱根とかの中継をしていた。地元では1月22日が雪だった。とはいえその時も日中は雨で、夕方以降に雪となった。

1月31日には皆既月食があった。スーパー・ブルー・ブラッド・ムーンという可成りレアな皆既月食だったようだ。
私も自宅玄関前で見たが、月食に入ると部分食より月全体が見え、ブラッドというよりは小豆色ぽく見えた。

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上は月食に入る直前の部分食で21時35分頃のもの。

2月10日に石牟礼道子が逝去した。朝日新聞に月1回「魂の秘境から」というエッセイが待ち遠しかったが、それも1月31日付けが最後となってしまった。

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担当記者によると、パーキンソン病で口述筆記だった由。
それであれだけの文章をものしていたとは、ちょっと考えられない。
「苦海浄土」はいつか読んでみたい。

将棋界では、藤井聡太、羽生善治の二人の活躍が目立っている。
藤井は2016年のデビュー以来公式戦29連勝の新記録を樹立後も勝ちまくり、順位戦全勝でC!昇級を決め四段から五段へ、2月17日に朝日杯史上最年少優勝(佐藤天彦名人、羽生善治竜王等を破って!)により更に2週間余で六段への史上最年少昇段を遂げた。2017年度の将棋界の記録部門の対局数71対局、勝ち数60、勝率0.845(*)、連勝部門において4冠王が確定、と驚異的な実績を上げている。

(*)3月21日時点。22日20時頃、王座戦2次予選の糸谷八段との対局に勝利し、72対局、勝ち数61、勝率0.847となった。

一方羽生は昨年の棋聖位を防衛後、王位、王座と連続でタイトルを失うも、渡辺明から4勝1敗で竜王位を奪取し、永世竜王の称号資格を得て待望の永世7冠資格者となった。通算タイトル獲得数はなんと99となった。
そして昨3月21日順位戦プレーオフ(*2)の最終第5局で稲葉陽(あきら)八段に勝ち、第76期名人戦の挑戦者となった。

(*2)今期順位戦最終局は3月2日に静岡市の料亭「浮月楼」で行われ(羽生は全対局を終えていて、この日は抜け番)、A級11人中6人が6勝4敗で並んだ結果、パラマス方式のプレーオフとなっていた。

先週3月17日(土)に農溝の滝へ妻と行って来た。
房総スカイラインから県道千葉鴨川線へ入り、鴨川方面へ約3km下ったところにある。ネットでブレークして有名になって久しいが、今回初めて行った。
洞窟が水面に写る影と併せハート型に見える形が評判を呼ぶこととなったが、年間を通して春先と秋のみに見ることが出来るのだそうだ。今は正にその貴重な時期に当たっているが、日の出の時間帯限定ということで、寝坊の当方は無理をせず、着いたのは正午を回った頃になっていた。

そもそも有名になった場所は、「亀岩の洞窟」というのだそうで、「農溝の滝」は約50m下流にあるそうだ。

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この洞窟は手掘りで、川廻しと言うそうだが、その言葉とは逆に蛇行する川の直近の箇所にショートカットさせるトンネルを通して流れを変え、元の水路だった所を水田として利用する農業土木技術の所産との事。
上流側との段差で洞窟からの流れは滝状になり、岩の形が亀に似ているところから「亀岩の洞窟」と命名された由。

「農溝の滝」は、かつて精米用の水車小屋に水を引き込むための溝があって農家なので「農溝」、水車小屋の脇にあった滝なので「農溝の滝」というのだそうだ。

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上は農溝の滝かどうか自信がないが、その近辺の写真。

帰りは久留里経由で千葉信用金庫久留里支店隣にある「すや」というお茶屋さんで煎茶を買った。ここのお茶は本当に美味しく、こちら方面へ出かけた際は立ち寄る事にしている。

昨21日に三谷太一郎「日本の近代とは何であったか」(岩波新書)を読み終えた。

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昨年三谷氏81歳の時の刊行だったわけだが、「あとがき」を読み、その学問への情熱の熱さに打たれた。
「老年期の学問」という考え方、10年前に大病なされ、その病後に漱石の「思い出す事など」を読まれ、その中でW.ジェイムズ、ベルグソン等に触れている事に触発されて、R.ホーフスタッターの著作を読み直し、序章のテーマとしたW.バジョットの著作に当たる決意をされた事とか、心境をありのままに綴られている事に感銘を受けると共に励まされる思いがした。
また第1章第3節では鴎外の史伝に触れ、特に「北條霞亭」への評価には啓発された。

「思い出す事など」は読むつもりでいたが、「北條霞亭」も是非読もうと思った。

2018年1月 9日 (火)

ウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサート2018

2018年が明けた。
今年もウイーン・フィル・ニューイヤー・コンサートを視聴することが出来た幸福を噛みしめている。
指揮はリッカルド・ムーティ。1941年生まれ()なので今年は77歳となるわけだが、やや太目気味ながらムーティの指揮ぶりは年齢を感じさせないスタイリッシュで優雅でかつエネルギッシュで、このブログへ記録するようになってから今回が最も魅了された。
例年ご愛敬でどこかにジョークが入るのだが、選曲にもよるのか今年のムーティはひたすら格調高く指揮をした。
なおムーティは1993年の初登場以来、今回が5回目のニュー・イヤー・コンサートとなり、前回の2004年から14年振りと久々の登場である。

)クラシカルギターのジョン・ウイリアムスと同年になるわけだ。

手元に2005年のウイーン・フィル来日公演の録画DVDがあるが、指揮はムーティ。この時は64歳だったが、やはり華麗かつダイナミックな指揮ぶりでサントリーホールの聴衆を魅了していた。なおコンサートマスターは2016年に退団したライナー・キュッヒル、次席はライナー・ホーネックだった。二人のファースト・ネームが同じなのが面白い。またヴァイオリン・パートに今年のNHKにゲスト出演したウイーン・フィルのチェロ奏者へーデンボルク直樹の兄、和樹の姿もあった。

キュッヒルは昨年ギタリストの福田進一とデュオCDをリリースした。福田がライナー・ノートへ寄せたコメントで、「再スタートの共演者として選ばれたことに驚き」以外言葉がない、と正直に述べているが、福田の高いポテンシャルを改めて認識させる快挙であったと共に、どういうコネクションでこのセッションが実現に至ったのか大変興味を覚えたことが記憶に新しい。

今年のコンサートマスターはフォルクハルト・シュトイデ。次席はホセ・マリア・ブルーメンシャイン、2016年に退団したライナー・キュッヒルの後にコンサートマスターとして入団した人だ。(→2017.1/10

ニュー・イヤー・コンサートの前に放送された特集番組で印象深かったのは、ウイーン・フィルが使用している楽器(ヴァイオリン)についての紹介の部分。団員が使用するのは楽団所有のもので、ウイーン製。概ね1800~1940年頃の製作のものを使用している由。そしてコンサートマスターはいわゆる名器を弾いているらしい。
ライナー・ホーネックはストラディバリウス「シャコンヌ」、1725年製とのこと。ちなみに所有者はオーストリア銀行らしい。

来年の指揮者はクリスティアン・ティーレマン

以下プログラムのメモを記す。
2018年はウイーンの建築家オットー・ワグナー没後100年、そして1918年第1次世界大戦終結と共にハプスブルク帝国が崩壊して100年となり、それに因む映像が挿入されている(○印)。
下の記号は凡例だが、今年は初登場の曲が紹介されなかった。あったのにマークしなかったのか、実際になかったのかわからない。
選曲は基本的にウイーン・フィルが行っているようだが、ムーティに相応しい、優雅かつ格調高いプログラムだった。

◎映像挿入
○2018年のアニバーサリー
△バレエ映像
(伊):イタリア(ムーティ)に因む曲
第1部
1.ヨハン・シュトラウス : 喜歌劇「ジプシー男爵」から「入場行進曲」
2.ヨーゼフ・シュトラウス : ワルツ「ウィーンのフレスコ画」op.249◎
映像:オーストリア国立図書館の天井のフレスコ画。王宮の一角にあり、書物がうず高く納められた書架が並ぶ広大な空間の高い天井へ豪華絢爛たるフレスコ画が描かれている。
文学博物館の興味深い資料映像、アウグスティーナ閲覧室も紹介されている。
3.ヨハン・シュトラウス : フランス風ポルカ「花嫁探し」op.417
「ジプシー男爵」のアリアを用いている。
4.ヨハン・シュトラウス : ポルカ・シュネル「浮き立つ心」op.319
5.ヨハン・シュトラウス(父) : マリアのワルツop.212
6.ヨハン・シュトラウス(父) : ウィリアム・テル・ギャロップop.29b(伊)
ロッシーニの序曲のマーチから入る。今年はロッシーニ没後150年。

第2部
7.フランツ・フォン・スッペ : 喜歌劇「ボッカッチョ」序曲 (伊)
ウイーン風の優雅な序奏とロッシーニを思わせる軽快かつ明るいアレグロから成る。
8.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「ミルテの花」op.395◎
ミルテは祝いの花。生誕160年のオーストリア皇太子ルドルフとベルギー王女ステファニーの結婚式で演奏された。
映像:今年創設300年のウイーンの磁器工房。装飾に花をあしらった白磁器をはじめ、カラフルで、華やかな、見事な磁器の数々が画面に繰り広げられる。
9.アルフォンス・チブルカ : ステファニー・ガヴォットop.312○△
皇帝一家専用の駅舎「ホーフ・パビリオン」。設計はオットー・ワグナー。
ドーム付きの白壁のシックな建築で、開口部の枠の緑が目に鮮やかだ。また駅舎内は皇帝が使用しただけに、ホールの壁面の装飾、大きな壁画、床は総絨毯と、絢爛豪華。ドーム天井には円形の明かり取りを幾何学的に配置し、中心部からシャンデリア風の照明を吊り下げている。
10.ヨハン・シュトラウス : ポルカ・シュネル 「百発百中」op.326
150年前ウイーンで開催された射撃の国際大会の舞踏会のために作曲された。射撃の音は大太鼓、ティンパニで。
11.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「ウィーンの森の物語」op.325◎
チター奏者(バルバラ・ライスター・エブナー(女性))が入る。
作曲されて150年になる。この作品は2014年にも演奏されている(バレンボイム)。このブログへニュー・イヤー・コンサートを綴り始めた年だが、それ以来で重複するのはこの曲だけである。
映像:ウイーン郊外からの市街遠望。ブドウ畑。エリーザベトの礼拝堂。マウエルバッハ修道院。ハイリゲンクロイツ修道院。
導入部分に長目の、そして最後の2箇所にチター独奏が入る。アップで映し出された楽器を見ると、張られている弦は多いが、ギターのようにフレットが打たれているのは奏者側の5本のみでほとんどその部分で演奏している。その他の弦は開放弦のみを時に弾弦しているようで、あとは倍音を響かせて音を豊かにしているのかも知れない。音量的に会場にどの程度響いていたか?
12.ヨハン・シュトラウス : 祝典行進曲op.452
ヨハンと交流のあったフェルディナント1世とイタリア公女の結婚にあたり作曲された。
1893年6月初演。
13.ヨハン・シュトラウス : ポルカ・マズルカ「都会と田舎」op.322
ウイーン園芸協会開催の演奏会のために作曲された。
前半は都会、中間部は田舎の生活を鮮やかに対比的に描写。とテロップにあったが、それほど明確な対比には聞こえなかった。3部形式というには前半の再現が短かすぎて、最後はコーダというのか、短いが華麗な終結部で終わる。
14.ヨハン・シュトラウス : 「仮面舞踏会」のカドリーユop.272(伊)
「仮面舞踏会」はヴェルディのオペラ(1858年ローマで初演)。ヨハン・シュトラウスとヴェルディはお互いを尊敬し合っていたそうだ。
恐らくは原曲の旋律を組曲のように緩急交えて構成している。
昨年のブログに書いた「カドリーユ」の注(→2017.1/10の注を参照)を念頭に聴き直してみると、確かに6曲から成っている。
1急速2軽快かつ伸びやか。ABAの3部形式。3ロンド形式(ABA‘CABA’)4軽快かつ洒脱5諧謔的、そして6フィナーレABA(2回目のAはアッチェレランド)という風に聴いた。
15.ヨハン・シュトラウス : ワルツ「南国のばら」op.388○△(伊)
南国はイタリアを指す。
演奏前に映し出された花々の中で、黄色の薔薇の花びらにテントウ虫のようなものが付いていた。
どのような意味合いなのか?
映像:エッカルツァウ城(ハプスブルク帝国終焉の場所)。ここでカール1世が退位を宣言し、600年以上の帝国の歴史が終わった。ウイーン・フィルはパトロンを失い存続の危機に陥るが、団員の内外での積極的な活動と聴衆の支持により、以来自主運営で今日に至る基盤を築いてきたのだそうだ。
豪華な宮殿で繰り広げられるダンサー達の踊りは、みずみずしく、しなやかで、生命力に溢れており、若さの素晴らしさを感じた。
16.ヨーゼフ・シュトラウス : ポルカ・シュネル「短い言づて」op.240
「短い言づて」とは新聞の投書欄の名前の由。
ウイーン・ジャーナリスト協会の舞踏会のために作曲された。業界ごとの舞踏会がウイーンの伝統で、現在に至っているそうだ。
アンコール
1.ヨハン・シュトラウス:ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」op.324
本曲も作曲されて150年。芸術家協会の舞踏会のために作曲された。
ムーティとウイーン・フィルの演奏は大変に洗練された上質なもの。
2.ヨハン・シュトラウス:「美しく青きドナウ」op.314◎
ムーティの合図でウイーン・フィルの新年の挨拶。
映像:ドナウ川とその流域の美しい景観。
参考:’15年ニューイヤー「美しく青きドナウ」を参照(→2015.1/12その(2)
3.ヨハン・シュトラウス(父):「ラデツキー行進曲」op.228

(完)

2017年12月 3日 (日)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-6(最終回)

18時35分京都着。地下鉄烏丸線今出川下車。最遠の出口から出てしまったので300m余計歩く羽目になった。
烏丸通り沿いを南下し、京都平安ホテルを目指す。
荷物を持ちながら、暗い中を歩くのは結構つらいものがあった。
途中、金剛能楽堂があり、何か公演があるようだった。
この通り沿いは虎屋一条店(30年以上はここで営業しているはず)もあり、翌日明るい中を歩くと雰囲気がまるで違っていた。

遅いチェックインをして、部屋で気息を整えてから1Fの和食レストラン「帆舟(ほふね)」で「小鼓膳」をいただく。
茶碗蒸し(椎茸、銀杏、三つ葉、百合根、柚子皮)
野菜炊き合わせ(カボチャ、里芋、紅葉麩、野菜入り真丈)
小鼓形の器(上下二つに分かれる)
上側:出汁玉子、鴨肉、サンマ佃煮、白和え(人参、コンニャク、青菜、はじかみ、蓮芋の茎)他
下側:お造り(鮪、鯛、烏賊、大葉、大根のつま)
天ぷら(海老、茄子、シシトウ)
鰆幽庵焼き
ご飯、赤だし味噌汁(ナメコ、丸麩)、香の物(胡瓜他)
柚子シャーベット

低廉な価格で、内容もリーズナブルだった。
また、お茶は茶托が出て来なかった。
最後の夜なので瓶ビール(アサヒスーパードライ中)を注文した。ここまで無事に来られたとの思いで飲むビールの味は格別だった。

明けて11月2日(木)、最終日の朝が来た。カーテン越しでも陽光の強さが感じられる。
最後まで天候に恵まれた旅となった。
チェックアウトまでの少ない時間だが、意を決して一人、周辺散策に出かけた。
先ずホテルの庭園を見る。事前に届いていたパンフレット(庭園散策マップ)は、丁寧な作りで期待が大きかっただけに、実際目にしたら比較的平凡かつ規模も小じんまりしていて、がっかりとまではいかないにしても、肩すかしを食ったような気持ちになった。

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ただパンフレット裏面の記述は興味深く、敷地の変遷は平安時代までさかのぼり、現在の庭園は大正11年小川治兵衛により改造されたものだとのこと。この人の作庭の実績は、桂離宮、修学院離宮の修築、平安神宮神苑、山県有朋「無鄰庵(むりんあん)」(*)、南禅寺(*)他、名だたる場所は全て手がけているというすごさ!

*:昨年行った瓢亭は、無鄰庵の隣の料亭。南禅寺参詣者の茶店だったそうで、面している道は東西へ走り、南禅寺へ向かっている。(→'16.12/14

烏丸通りを南へ下(さが)って行くと、すぐ蛤御門が見えてくる。

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幕末の「蛤御門の変」の名の由来となる場所だ。目を正面へ戻すと護王神社が見えてきた。その角を曲がって下長者通りへ入る。しばらく歩くと「茶の間」というお店があった。
扉を開けるとコーヒーの香り。結構広めで、先客が其処此処のテーブルを占めており、空いていた奥の席に着いた。間髪を置かず老夫婦が入ってきて、タイミング良く席を立ったお客のテーブルへ入れ替わりに着いて、「モーニング」とこれも即座に注文の声を上げた。
自分もそれにつられるようにモーニングをオーダー。

待ちの先客が何組かあり、新聞は誰かが読んでいて、「週間文春」最新号(11月9日号)を取る。表紙が新品で自分が最初の読者かも。その内京都新聞が空いた。御所の秋の一般公開、護王神社の「亥子祭(いのこさい)」等京都新聞ならではの記事に目が止まる。このすぐ近くに両方あるのもまた格別の気分だ。

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厚めのふっくらしたトーストと野菜サラダ、そしておいしいコーヒーをいただいた。
常連のお客がママさんと交わす会話に他のお客が入って、すごくアットホーム。BGMはメドレーでクラシックが流れていた。1曲だけ覚えていてバッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番BWV1042第1楽章」。
短いが、一生の思い出になるかも知れない濃密な一時だった。

次に護王神社へ。御祭神は「和気清麻呂公命」、「和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)」。
広虫姫は和気清麻呂の姉君。

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上は拝殿。手前に猪の石像があり、和気清麻呂の故事に因み狛犬の代わりに置かれている。
護王神社のシンボル的存在で、「茶の間」で見た京都新聞の記事、「亥子祭」は丁度昨日執り行われた重要な行事だったわけだ。
御利益は足腰の健康保持、けが・病気の回復で、足・腰の御守りをGET。

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足腰の御守りが他でもあるかどうかはわからないが、自分は初めての経験。

蛤御門から御苑へ入った。

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左の築地塀は京都御所。中程が建礼門。遠く見えるのは大文字山。
こちらも京都新聞の記事によれば、平成の即位の礼で用いられた高御座(たかみくら:天皇の御座)が紫宸殿で公開され、清涼殿では人形による「叙位・除目」という宮中行事の展示がされたようだ。
一般公開は1~5日だった。我々も平成17年に参観した経験があるが、早や12年前のこととなり、時の流れの速さには今更ながら驚かされる。
蛤御門から入ってすぐの案内板によると、御苑は東西700m、南北1,300mのほぼ長方形の敷地に、京都御所、大宮御所、仙洞御所と京都迎賓館と広大な公園その他があり、江戸時代は御所周辺の敷地内に公家屋敷が約200軒あって、公家町が形成されていたそうだ。

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上は平安ホテルの部屋から見た御苑の紅葉と東山の山並み。

フロントで荷物の宅配便手続きをして、11時にチェックアウト、烏丸線今出川駅へ向かう。

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上は今出川駅の降り口。右のレンガ色の建物は同志社大学。

京都駅に来て、ホテルグランヴィア京都の日本料理「浮橋」で昼食をいただく。お昼時だったので、盛況だったが、スタッフの手際が良くあまり待たされることもなく食事ができた。

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「いろどり箱」。お昼のメニューで最も安価だったが、なかなか充実していた。
<いろどり箱三段>写真手前:お造りの小鉢3つ(左から鮪(下に出汁で茹でた大根の角煮)、鯛(上におぼろ昆布、下は白ハス)、やり烏賊(下に出汁で茹でた人参の拍子切り))
上左から:白和え(春菊(湯通しなし)、コンニャク、人参)、焼魚(鰆)、水菜の煮浸し(上に松茸)
写真にはないが、もう一段:枝豆豆腐(山葵乗せ、下に湯葉)、天ぷら(海老、シシトウ、カボチャ(衣にシナモンが入っていた))、里芋の饅頭(クコ、山葵乗せ) 
<お豆腐蒸し>フカヒレ餡をかけた絹豆腐と白身魚の茶碗蒸し。
<じゃこご飯(亀岡のこしひかり(お代わり自由。米粒が立っていて、炊きたてでおいしかった。)、香の物(大和芋の漬け物、柴漬け)、赤だし汁(ナメコ、若布、小葱)>
<デザート>シャーベット
ランチとしては、お造りなど細かいところまでこだわりが見られ、また美味しかった。
JR西日本ホテルズカードのポイントを行使し、一人分の料金負担でいただいた。

腹ごしらえを済まして、いよいよこの日のメイン・イベント、「北斎」展が開かれている大阪の「あべのハルカス美術館を目指した。
東海道本線の新快速で大阪までは28分で行ってしまう。それから環状線へ乗り換え、ほぼ大阪駅の対極に位置する天王寺駅まではほぼ同じくらいかかる。よって片道約1時間を要する。
あべのハルカスはJR天王寺駅南側すぐ前の今年3月開業3周年になった超高層ビルで、美術館は16Fにある。

専用エレベーターを降りて、ロビーへ行くと、ものすごい人。常軌を逸したその状況になじむのにしばらく時間を要したが、長蛇の行列に並ばなければならないのだと納得してよく見ると、入場券購入のための行列と、入場待ちの行列の2つがある。
それぞれ待ち時間は、80分、70分と表示されている。我々は入場券を持っていないので、トータル150分、2時間半並び続けなければ会場へ入ることは出来ない。
帰りの新幹線に乗れなくなってしまうので、やむを得ず入場をあきらめ、代わりにショップで図録をGET。

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16Fからの眺望は限られているが、しばし大阪市街を眼下にする。天王寺公園とその中にある市立美術館が見えた。かつてここへフェルメールを見に来た時は公園に長蛇の列が出来、なんと3時間待ったことを思い出した(2000(平成12)年)。
「北斎」展が空振りになってしまって、京都の「国宝」展、奈良の「正倉院展」と並べて完結させる予定が達成できなくなってしまった。

環状線、東海道本線と乗り継ぎ、京都へ戻った。

逆に時間に余裕が出来たので京都タワーへ登った。妻は初めてだったそうだが、私は2度目で高校2年の修学旅行の自由行動で登って以来なので、実に50年振り!
その時は何故か遅い時間で、夜景を見たのだったが、今回は午後の明るい中から夕暮れにかけて360度の眺望を楽しむことが出来た。
京都タワーはロウソク型とでも云うのか、鉄塔と違って鋼板を円筒形につなぎ合わせる「モノコック構造」という独特なもの。展望フロアは地上100mだが、超高層建築がない京都では一番の高さになるそうだ。
京都市街は勿論、大文字焼きの五山、自由に見られる望遠鏡で行って来たばかりのあべのハルカスも見ることが出来、景色を堪能した。

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上は入場パンフレットのイラスト(部分)。

暮色濃くなった頃京都駅へ移動した。新幹線構内で、弁当、土産をGET。
18:35分京都発のぞみ46号へ乗る。6号車6番D、E席。
20:53分東京着
21:30東京発特急さざなみ9号
22:32木更津着
(終わり)

2017年11月30日 (木)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-5(第69回正倉院展)

奈良ホテルから荒池を過ぎ、春日大社の一の鳥居脇の石段を上がり、料理旅館「江戸三」へ立ち寄る。
7月27日付け朝日新聞夕刊の「都ものがたり 奈良」で、小林秀雄が滞在していたという「縁由(えんゆ)の間」を見ておきたかったので。
「江戸三」は奈良公園の中に立地し、鬱蒼とした木立ちに囲まれて起伏のある随所に小屋が点在している。
皆似た造りで、「縁由の間」は斜面の低い位置にあった。

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記事には老朽化で現在は使われていないとあるが、スタッフの休憩所として利用されているようである。
記事によると、1928(昭和3)年東大卒業直後に東京から関西へやって来て、「縁由の間」へ約一年滞在した。当時近くに居を構えていた志賀直哉の支援があったようだ。
この頃を回想している「秋」(1950)とか、「モオツァルト」(1946)の有名な一節、「道頓堀でト短調シンフォニーが鳴った」のもこの時期の事だという。
そして翌1929(昭和4)年に「様々なる意匠」が「改造」懸賞論文の二等賞を取る。
と「江戸三」に滞在した頃が、小林秀雄にとり重要な時期に当たっているのが大変興味深い。

スタッフからもらったパンフレットを見ると、志賀直哉が命名したという「若草鍋」(10~3月)の写真があった。

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春日大社参道を横切り、奈良国立博物館側へ入ったあたりの鹿の群れ。右の並木が参道。

正倉院展はこのところ3年連続来ている。
奈良公園の中の立地、そこここに鹿がいるのがここの特長で、新館前の行列に並んでいると、もう一年が過ぎてしまったのかという感慨が湧いてくる。

正倉院宝物は、宮内庁の所管なので国宝の指定こそされてないが、正倉院展に出陳される宝物の品々はいずれも国宝級のものばかりである。

今回印象に残るのは、「21碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ)」。直方体の小箱で、薄い青緑色の地、焦げ茶色の縁取り、鳥と草花、蝶が金、銀色で描かれ、優美な出来栄えに目を奪われる。

「27緑瑠璃十二曲長杯(みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)」。深い緑色のガラス製の楕円形の杯。
今回の図録表紙を飾っている。ちなみに今年の表紙の色調は今までで一番良い。

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図録によれば、鉛ガラスで、銅が含まれているので緑色をしている。中国に多く、対してソーダ石灰ガラスは西、中央アジアに多い。一方形状(十二曲長杯)の原形は、ササン朝ペルシア(3~7C)に見られる。
ということで、中国産が濃厚だが、形状は中央アジア方面と不確定で、明治37年に初めて宝物帳に記載され、経緯が不明、と謎に包まれた宝物なのだそうだ。

「5羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」。「6熊鷹臈纈屏風(くまたかろうけちのびょうぶ)」と共に丁度10年前の第59回(2007(平成19)年)に出陳されている。

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「羊木臈纈屏風」は、今年の入場券の図柄に採用されている。
昨年も書いたが、羊は2003年の切手趣味週間の図柄にも採用された。
この宝物は、布(絁(あしぎぬ))が調布であることから国産であるが、巻き角の羊はエキゾチックで、西域のソグド人(中央アジアのイラン系民族)の7世紀頃の都市遺跡、アフラシアブ(ウズベキスタン)の壁画に似たものが見いだせるそうだ(図録130頁)。
上の27共々、中央アジア方面のイスラム、西域文化とシルクロードを通じた中国、果ては日本と、1,300年前の世界のつながりを裏付ける宝物であることは、興味深い。 

聖語蔵(しょうごぞう)の経巻を見るのも楽しみの一つだ。
勿論判読はできないが、整然と記されている文字群に何ともいえない魅力を感じる。
唐代の中国で書かれた経巻が特に優れていると思う。
今回は「56阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまだいびばしゃろん)巻第七」。
図録によると、インドの説一切有部(せついっさいうぶ)派の根本経典「阿毘達磨発智論(あびだつまほっちろん)」を解釈した全200巻の論書で、唐代に玄奘三蔵により漢訳された。
なお、第57回(2005(平成17)年)に「大毘婆沙論巻第百七十八」を見ている。巻第百七十八は、この年1979(昭和54)年以来26年振りで、あと巻第百七十が1988(昭和63)年に出陳されている由。

今回は久しぶりに本館の仏像を見た。時間がなくて、中央ロビーとその北側、第1~7室までしか廻れなかった。

午後5時夕闇がそろそろ押し寄せようという頃、博物館を後に、再び奈良ホテルへ向かう。

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上は春日大社の一の鳥居を参道から見ている。

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上は荒池越しの奈良ホテル。

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ホテルのラウンジでコーヒーで一息入れた。
タクシーで近鉄奈良駅へ行き、18時の京都行き特急で、再び京都へ。
(続く) 

2017年11月28日 (火)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-4(奈良ホテル)

午後6時前に奈良ホテルへチェックイン。昨年も同月同日に宿泊した。
昨年は本館だったので、今年は新館スタンダードツインにした。
本館の1階が新館では5階となっていて最上階になり、ゲストルームは4階から下である。
奈良ホテルは小高い丘に立地していて新館は斜面へ増築されたので、このようになったのだろう。 
ホテルのパンフレットを見ると、斜面を有効活用した「吉野建て」という吉野地方の建築様式だそうだ。

今は解体されてしまっているが、ホテルオークラ本館のロビー階が5Fで、地上階は1Fまであったのが正に奈良ホテル新館と同じ立地条件だったであろうことを連想した。ホテルオークラは、本館4Fと別館B1Fが同レベルで、連絡通路で行き来できるようになっていた。ただし本館側にエスカレーターがあってロビーフロアにつながっていた。

我々は2Fの客室へ案内された。
部屋に落ち着くとどっと疲労が出て来た。夫婦共々日常の運動不足がたたった。歩数計を見ると、前日が11,000歩、この日は約9,000歩を記録している。この頃両下肢外側の筋肉痛が出ていた。痛みは旅行中ずっと続き、簡単には取れないと覚悟していたが、帰ってから翌々日には不思議にもきれいに消えてしまった。

ホテルの和食レストラン「花菊」を7時に予約していたが、30分繰り延べてもらった。
季節限定メニューの「INOKURA」。結婚記念日の食事として予約したので、メニューへ反映されていた。
「INOKURA」は、奈良市のティーファーム井ノ倉製の茶葉を一部に使用したコース。

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写真の上側がメニュー。料理名を縁起の良いものにしている。

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千代久(先付け) フォアグラと南京の二見寄せ(生ハム、クコの実、セルフィーユ(ハーブ)乗せ)

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祝儀肴(前菜) 左から、
海老柴煮(松茸、柚子添え)、千枚数の子かに黄味卸し和え(イクラ、色三つ葉同)、焼き茄子の胡麻浸し

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御吸物 清し汁仕立て(甘鯛新蒸(大根薄切り、三つ葉、人参(形抜き)、柚子を重ねる)、松茸、紅葉麩
崩すのが憚られる趣味の良い盛り付けだ。

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御造里 手前左から、鯛、烏賊、奥はかんぱち 醤油皿の色の薄い方が、月ヶ瀬の緑茶風味の醤油
月ヶ瀬は地名で、ティーファーム井ノ倉の所在地

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家喜物 あわびうに風味クリーム焼き(茶葉をまぶす) 林檎甲州煮、かぼす添え

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御蒸し物 栗饅頭(胡桃、鶏そぼろ)、鼈甲餡、とき山葵

御小鉢 大和まなのお浸し、柚子
写真を撮るのを忘れてしまった。(^^;

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御煮物 金目鯛の焙煎茶煮付け、大根

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御壽物(酢物) 帆立貝酒蒸し、虹鱒の砧巻き、蓮根、胡瓜、右の小皿は緑茶風味ソース

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留め椀 オプションで松茸ご飯にした それと香の物。梅干しに見えるのはコンニャク。

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デザート 楕円形の板チョコレートに金文字でグリーティングが書かれている。

翌日(11月1日)もよく晴れて好天に恵まれた。
朝食はメインダイニングの「三笠」のテラスでいただいた。

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昨年と同じく私はアメリカンブレックファスト、妻は茶粥定食。
上はオレンジジュースとサラダ。蓮根が入っていたのがちょっと珍しい。

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茶粥定食。まだお粥と味噌汁が届いていない。
鰆の煮魚、だし巻き玉子、はじかみ、ひじき煮(人参、油揚げ)、野菜煮物(里芋、人参、いんげん、小帆立、小がんもどき)、胡麻豆腐、香の物(奈良漬け、大根、刻み菜)、小梅干し、塩昆布
茶粥、赤だし(ワカメ、丸麩)

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プレーンオムレツにソーセージ

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トースト立ては奈良ホテル以外では見たことがない。ジャムはスイスのヒーローのストロベリーと地元奈良産富有柿のジャム。

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コーヒーはオムレツの前に出してもらい、この写真は2杯目をいただいた時のもの。
リッツカールトン京都のように淹れ直しではなかったようで、1杯目の味ではなかった。

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テラスの様子。レトロでクラシックな雰囲気がよい。窓越しに興福寺の五重塔が望める。

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テラスからの五重塔。塔の左は工事中の中金堂。

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新館は南に面しており、好天の日は快適である。
レイト・チェックアウトを選択したので、窓際のソファで奈良新聞をひろげた。旅先でご当地の新聞を見るのは格別なものがある。妻は本館のショップへ買い物に行った。
奈良漬け、朝食で出た柿ジャム、奈良ホテルオリジナルコーヒー等を購入した。

午後1時。チェックアウトをして、荷物を預け、奈良国立博物館へ向かった。
(続く) 

2017年11月23日 (木)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-3

旅行2日目の10月31日の朝食前、鴨川沿いを散歩した。
ホテルを出るとすぐ河川敷へ降りて行く階段があり、河川敷にはゆったりとした遊歩道が整備されている。
ホテル直近の二条大橋、丸太町橋間を一周した。快晴で喧騒からも遠く、大変気持ちよく歩けた。

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降り立った場所から上流を見る。護岸の随所に水面近くまで行ける階段があった。

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鴨川と平行して流れているみそヽぎ川。河川敷へ降りる途中にあり、やはり上流を見ている。みそヽぎ川は高瀬川の源流でもある。
それほど多くはないが、犬の散歩、ジョギングをする人、通勤途上と思われる人とか、出会うのはほとんど地元の人だ。

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上がみそヽぎ川のスタート点。鴨川の水を取り込んでいる。

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左岸側から。中央の傾斜屋根の低層建築がリッツ・カールトン京都。その右の高層ビルは京都ホテルオークラ。

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御池大橋より上流の橋の配置図。二条大橋、丸太町橋間は0.5km。この図にはないが、両橋のほぼ中間点左岸側に琵琶湖疎水からの合流点がある。

朝食後、島津製作所創業記念資料館へ行った。

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瓦屋根二階建てが資料館。ホテルとは目と鼻の先。
昨日ホテルへの帰途、高瀬川一の船入に隣接するこの資料館に遭遇して、是非とも見たいとの思いから訪れた。
創業者島津源蔵がこの場所で創業し、資料館の外観は創業当時のもの。展示は可成り充実しており、時間がなかったので駆け足になってしまったのが残念。
見学者は団体が複数と個人も何人かいて、団体にはスタッフの解説が付いていた。
写真撮影OKだったので、展示の様子を一部紹介したい。

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遊び心があふれた製品のコーナーにあった「昼夜の長短説明器」。カラフルな地球(?)の中央には婦人と子供(老人?)のフィギュアがある。(大正期?)

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大正期の製品コーナー。

島津製作所といえば分析計測機器のメーカーというイメージが強いが、当初は理化学器械の製造からスタートし、1895(明治28)年、初代の急逝で二代目源蔵を名乗った梅次郎は、X線装置、関連技術の高電圧発生装置、また鉛蓄電池の開発等を行って、その工業化を図り、事業を大きく拡大して行く。
日本電池(現GSユアサ)は二代目源蔵が興したのだそうで、GSとは「Genzo Shimadzu」のイニシャルだとのこと。

以降昭和平成と編年で展示されていて、下はその最後、1995(平成7)年~2005(平成17)年のコーナー。

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その時々のトピックスと共に島津製作所の取り組みが紹介されている。
2002(平成14)年の田中耕一さんのノーベル化学賞授賞式の写真、2005(平成17)年の小泉首相(当時)の三条工場視察時の記念写真等がある。

また機会があればじっくり見学してみたい施設だ。

12時にリッツ・カールトン京都をチェックアウトし、手荷物をホテルに預けてバスを乗り継いで京都国立博物館へ向かった。
河原町通りを南下、五条を過ぎ、七条へ差し掛かろうというあたり、通りの西側に長い土塀が見えてくる。涉成園で、東本願寺の別邸だ。かつて枳殻(からたち)の生け垣で囲まれていたので枳殻(きこく)邸とも称されるそうだ。入口は西側のようだ。

七条河原町で乗り換え、博物館前下車。2年振りである。前回は琳派展(参照:'15.11/26)だった。
今回は京博120周年記念「国宝」展
目録によると全210件を展示するが、会期を4つに分け、全会期展示する作品は少なく、見たいと思うものがすべて見られるわけではない。

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ところで、今まで疑問に思わなかった「国宝」だが、ちょっと調べてみた。
根拠法は文化財保護法で、文部科学省が歴史的、芸術的、学術的価値が高い美術工芸品、歴史・考古資料、建造物に対して指定した重要文化財の内、特に世界文化の見地から価値が高いとして指定されたものが国宝なのだそうだ。
また今回の「国宝」展でも出品されているが、中国等外来の美術工芸品も多数指定されていて、それらも含め文化財保護法により海外への流出防止、修復等の際の国の補助等、保護の施策が定められている。

文化庁のホームページによると11月1日現在の国宝件数は、美術工芸品885件、建造物223件で合計1,108件。よって今回は美術工芸品の約4分の1に及ぶ件数が展示されたことになる。

我々が鑑賞した10月31日はⅢ期の初日にあたり、目録によると96件が展示されていた(10/31~11/3)。
予めチェックして臨んだので、見たいと思う作品へ重点を置いて回ったが、それでも人が多かったので誘導スタッフの指示に従い順路とは逆になる1Fから見始めたので、やや巡りづらく感じた。

Ⅲ期のみ見られるのは、
148 日本霊異記 巻上
149 日本書紀 巻第22(岩崎本)
150 御堂関白記 自筆本
198 金印
等だが、殊に「金印」(漢委奴国王)は、間近で観るための特別な行列が出来ていて、約30分待ちとのことだったので後方からの鑑賞で我慢した。折角の単眼鏡を荷物の中へ置いてきてしまったことをこの時ほど悔いたことはない。
が、金色が目に鮮やかで、思ったよりも小さな金印を目に焼き付けることは出来た。

その他も逸品揃いで、
21 源氏物語絵巻 柏木
23 平家納経
31 信貴山縁起絵巻(延喜加持巻)
40 伝源頼朝像
58 松林図屏風 長谷川等伯
63 雪松図屏風 円山応挙
116 油滴天目茶碗 (東洋陶磁美術館)
等々を観ることが出来、感銘を新たにした。

Ⅲ期で見られなかったものは、
1 吉祥天像 (薬師寺)
47~52 雪舟6点
61 風神雷神図屏風 俵屋宗達
62 燕子花図屏風 尾形光琳
115 曜変天目茶碗 (京都龍光院)
121 天寿国繍帳 (奈良中宮寺)
等は目にしたかったが、1、47~52、61はかつて見たことがある。
京都龍光院の曜変天目茶碗は通常は非公開のようで、今回の展示は貴重な機会だっただけに残念(なんと、我々が鑑賞した10月31日の2日前までは展示されていた!)。
大阪藤田美術館、静嘉堂文庫美術館の2品は目にしているだけに惜しい。

三十三間堂脇に待機しているタクシーでホテルへ戻り、荷物を引き取って京都市役所前から市バスで京都駅へ。
京都発17時の近鉄特急に乗り、17時35分奈良に到着。
タクシーで奈良ホテルへ向かう。
(続く)

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