2018年6月 7日 (木)

箱根・富士宮の旅-5(最終回)

5月16日水曜日、最終日だ。7時起床、既に雲が出ていて富士は見えない。大浴場へ。富士を見ながらであれば最高の気分が味わえただろう。8時過ぎに朝食をいただき、9時にフロントで精算を済ませた。

9時20分にロビーに集合し、隣接地にある田貫湖ふれあい自然塾で「富士山自然スライドショー&ネイチャーガイド」を受講した。
最も印象に残っているのは、青木ヶ原樹海の森のジオラマと溶岩洞窟の模型。溶岩洞窟は1フロア分の高度差があり、慎重に下りないと転がり落ちてしまう。また、這わないと進めない狭い洞窟もあって、本物そっくりに出来ているので、富士周辺にはこんな所があるのかと身をもって学ぶことができた。

また田貫湖は農業用の人造湖だそうだ。
そして田貫湖はダイヤモンド富士観測の名所で、例年4、8月の20日前後に見られるそうだ。
富士を西から見るわけだが、頂上は右上がり、右には測候所があるのだそうだ。そして西側には大沢崩れがあって、それは山頂から麓まで達している。日々崩落しており、崩落量は300t/日になるそうだ。

最も興味深かったのは、富士山の火山活動の話で、淵源はフィリピン海プレート(伊豆半島)がユーラシア・プレート、北アメリカプレート(本州)と衝突し、噴火しやすい環境が作られ、約70万年前に箱根、愛鷹山と共に小御岳(こみたけ)が形成された(それに先がけて先小御岳が形成)。10万年前に古富士ができ、そして約1万年前に新富士が形成され、現在の富士になったという。
1707年の宝永噴火(噴火口は山のホテルからも見える)が最後の噴火の由。

富士周辺の地層は噴火の影響によっていて、泥生堆積層(不透水層)の上に、溶岩層(時間はかかるが、伏流水としての水流ができる)、そしてスコリア層(火山噴出物層)から成っているのだそうだ。
これにより富士山には川がなく、富士から流出する水は伏流水として周辺へ流れているそうだ。

富士山の伏流水は、忍野八海(おしのはっかい)や白糸の滝といった地形を生み、共に世界遺産富士山の構成資産になっている。

12:15休暇村富士を出発。今回の旅の最後の目的地の白糸の滝へ約10分で到着した。
往復の経路の途中に位置しているので都合がよかった。
今回初めてだったが、落差20mの滝が、150mにわたり続く光景は見応えがあった。

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上は遠景。
以下何枚かに分けて撮ってみた。

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ここはもう一つ音止めの滝がある。

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午前の講習会でも学んだが、観光案内コーナーのパネルによれば、白糸の滝は下部の古富士泥流堆積物と上部の新富士白糸溶岩流とが崖となって露出し、両層の境目、上部から湧出した水が滝となっている。よって、上流の川はない。
音止めの滝は落差25m、上下流とも芝川の本流。上の写真の右にも認められるが、白糸の滝と同じ地層で、湧水がある。

14:00白糸の滝を出発し、約30分後新富士ICから新東名に入る。
更に30分後御殿場JCで、妻が富士を発見、麓までよく見えていた。
15:00足柄SAで約30分小休止。
16:00頃海老名SA着。頑固市場、成城石井、箱根ベーカリー等でお土産を買い、16:53出発。
東名の流れはスムーズで約10分で横浜町田ICへ到達、保土ヶ谷バイパスを経て狩場線経由で湾岸を上り、17:32アクアラインに入った。17:44金田料金所を出て、18:06無事自宅へ到着した。
(終わり)

2018年6月 6日 (水)

箱根・富士宮の旅-4(休暇村富士)

ポーラ美術館へは約2時間滞在し、15:40この日に宿泊する休暇村富士を目指して出発する。
来た道路を引き返し、仙石原へ入った。右手に「星の王子様ミュージアム」が見えてきた。2012年に訪れている。すぐの所に今度は左側に「箱根ラリック美術館」。ここも2008年に来ている。近くにはやはり2012年に訪れた「箱根湿生花園」もあって、仙石原は観光資源が多い。
富士のビュー・ポイントの乙女峠を越え、御殿場へ、国道401号へ入り、東名御殿場インター第1入口から東名下り線へ入った。すぐに(7km程度)御殿場ジャンクションで、新東名に入る。新東名は今回が初めてだが、新しいだけに走りやすかった。トンネル内はサングラスのままでもOKなくらいだ。また景観が良くないという人がいるようだが、そんなこともないと思った。
新富士インターで新東名を降りて、西富士道路の無料区間(道路工事中で渋滞がひどい箇所があり、やや時間がかかった)、国道139号を北上し、上井出ICで県道に入る。414号に入った頃、右に富士が見えていた。田貫湖の案内看板で左折、間もなく鬱蒼とした森の中の道となり、17:30無事休暇村富士へ到着した。

ここの最大の魅力は、田貫湖越しに富士を間近に(約20km!!!)臨めることだが、滞在中は雲に遮られ、残念ながら今回は見ることができなかった。(翌朝6時頃、妻が富士が見えると言うのでカーテンを聞けてみると、強烈な光の中で辛うじて形を認識することはできたが、とても富士を見たと言える見え方ではなかった。湖面へ目を移し、逆さ富士を認められたのはよかったが・・・)
チェックアウト後、3Fテラスで会ったここの常連だという婦人によると、早朝5時頃はよく見えていたそうだ。

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上は客室から見た田貫湖。15日18:00頃に撮影。晴れていれば、その先に富士が見えるのだが、残念ながら雲で隠れている。
休暇村富士は5階建て、3Fに玄関、ロビー、フロントがあり、レストランは2F,4Fに大浴場、客室は各Fにあり、我々は最上階の5F洋室だった。地図を見ると長者ヶ岳中腹の傾斜地への立地で、地形を上手く利用した造りになっているようだ。

夕食はまぐろ懐石をいただく。
全品まぐろづくしで、ヴォリュームは我々にはあり過ぎた。アサヒスーパードライ中瓶を1本注文。

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左手前から奥へ、お造り用の醤油2種と戸田の塩、先付け3種、一番奥が前菜3種(まぐろの心臓、皮、胃袋)、右手前はしゃぶしゃぶのたれ、そしてお造り。

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豪華なお造り。本マグロの大トロ、南まぐろの中トロ、鉢まぐろの中トロ、ハラモ、手前左からアワビ、あじ、サザエ、右端はわさび。

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まぐろのカマの塩窯焼き。ローズマリーが見えている。
その次は、まぐろのテールと目玉の煮付け。牛蒡と生姜、ハス添え。この辺でお腹が苦しくなり始める。

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まぐろのハラモのしゃぶしゃぶ。野菜は、しめじ、えのき茸、舞茸、白菜と水菜。
次にまぐろ赤身のレアカツ。ソースはアボカドのタルタルソース。
この辺りになると、お腹いっぱいで本来ならば舌鼓を打ちつつ、いただくのだろうが、口に入れるのがやっとという状態。(^^;

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次は握り。左から本マグロの大トロ、天然南まぐろ(の大トロ、中トロ?)、鉢まぐろのハラモ。素材が良いので、こういうコンディションだったがおいしかった。

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まぐろのカマの味噌汁。あおさ、小葱がたっぷり入っていた。脇の湯飲み茶碗と較べればその巨大さが分かる。これも本来ならばおいしくいただけるはずだが、満腹状態で止むを得ずカマへは手を付けず。
最後はイチゴのシャーベット。
食事が終わったのは21:00近くになっていた。

部屋へ戻って休憩後、22:00過ぎに大浴場へ。ここの温泉は単純アルカリ泉で、富士山の裾野1,200mの源泉から伏流水のように流れて来ているそうだ。これは、この地域の特長で翌日参加した自然塾の講習会で学んだ富士山の地質学的な話と、やはり翌日訪れた白糸の滝の資料コーナーの説明パネルなどで理解できたので、次回に記したい。
(続く)

2018年6月 5日 (火)

箱根・富士宮の旅-3(ポーラ美術館)

5月15日12:45山のホテルを出発、ポーラ美術館を目指す。
途中、道路脇に自生している見事な山藤が目を楽しませてくれる。程なくすすき野原を右に見つつ仙石原へ入った。ポーラ美術館へこのルートから行くのは初めてだったので、曲がり損ねてしまう。今回のドライブで唯一の運転ミスとなった。(^^;
13:20ポーラ美術館着。2007年8月以来2度目で、前回は強羅からの往復だった。

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上はアプローチの渡り通路。右が美術館。

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エントランスのブロンズ(?)のオブジェ。

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エントランスからエスカレーターで1Fロビーへ。左端女性が立っているところがチケットカウンター。正面に見えるのがB1F。更にB2Fがあり、2フロアが展示スペースになっている。

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ポーラ美術館の模型。台ヶ岳山麓となる傾斜地に立地し、建物と擁壁を分けて免震構造にする耐震設計になっているそうだ。

受付で確認したが、展示作品の撮影は原則OK。但しポーラ美術館以外の所蔵作品等、一部不可の作品があるとの事。昨年のMOA美術館を思い出した。(→箱根・熱海-5(MOA美術館その1)

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展示室1の最初のスペースを飾るディスプレイ。
「EMILE GALLE COLLECTING NATURE」とあり、今回の特別展「エミール・ガレ自然の蒐集」を素敵にデザイン化している。

この展覧会は4月8日夜の日曜美術館アート・シーンで紹介され、是非会場で直接目にしたいと思い、楽しみにしていた。
アール・ヌーボーの装飾芸術家であるエミール・ガレのガラス器130点を東大総合研究博物館の植物、鉱物、昆虫標本、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの海洋生物図譜と併せて展示して、植物、昆虫、海洋生物等を装飾モチーフとしたガレ作品へのより深い鑑賞が可能となるよう配慮されている。

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上のコーナーは、植物、蝶、鉱物標本がガレ作品と共に展示されている。

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上はモネの「睡蓮」(1907)。この右に同じくモネの「睡蓮の池」(1899)を展示し、両作品の間にガレの睡蓮をモチーフにした趣が異なる3作品が置かれていた。
モネの「睡蓮」は私の好きな絵画で、一時は折に触れ「睡蓮」を目当てにブリジストン美術館へ通ったものだ。ポーラ美術館の「睡蓮」は、大きさはブリジストン美術館のものとほぼ同サイズで、旅行から帰ってきて分かったが、2002年の川村記念美術館(千葉県佐倉市)の「モネ展 睡蓮の世界」でこの作品を見ていた。
ブリジストン美術館は、1903年と1907年の2作品を所有し、ポーラ美術館の作品と共に1903年から5年余にわたる睡蓮の第二の連作に入っている由。

ガレ作品の特徴は、鮮やかな色彩を駆使し、緻密で繊細な装飾モチーフが表現されているところにあるが、それはガレのたゆまぬ探究心が生んだ多彩な技法に裏付けられており、見る者を魅了して止まない。
展示の始めの方で、ガレが用いている数々の技法の説明パネルがあったが、興味深いのは「パティネ」というガレが特許を取った技法で、ガラスに化合物を加えてガラス面に偶発的な変化を醸し出して、あたかも陶磁器の曜変天目を思わせる。

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上は「骨と犬」という作品。象徴主義の系列に分類される作品で、夫人の同名の詩が刻まれている。図録によると、他にヴィヨン、シェークスピア(フランス語)、ゴーティエ、ボードレールを引用した作品が展示されていたようだ。

B2Fへと順路に従って進んで行き、第3展示室のガレ最晩年の作品を見た後は、ポーラ美術館所蔵の西洋近代絵画作品を鑑賞した。セザンヌ、アンリ・ルソー、ゴッホ、マティス、ピカソ、ブラックetc.の傑作が一堂に会している。

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上はマティスの「リュート」(1943)。赤系の色彩が基調となっていて、「大きな赤い室内」(1948)を連想した。共に晩年の作品。マティスも私は好きだ。

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フロア案内に「じっくり」と記されているコーナー。マティス晩年の切り紙絵の連作「ジャズ」(1947)。

展示室5の東洋陶磁作品も佳品が揃っていた。「黒釉油滴班碗(こくゆうゆてきはんわん)」(中国金代。12~13世紀)。大阪の東洋陶磁美術館の油滴天目茶碗(国宝)は南宋期で、本作品と同時代にあたる。4年前に岡田美術館で見た油滴天目茶碗を思い出した。(→箱根(その2)

●追記
本アーティクルをUP後、今夜のNHK「ニュースウオッチ9」でポーラ美術館所蔵のピカソの「海辺の母子像」(1902年)へのワシントン・ナショナル・ギャラリー、アートギャラリー・オブ・オンタリオと今年4月に実施した共同調査により、カンヴァス下層部にフランスの日刊紙「ル・ジュルナ ル」(Le Journal)の貼付け、右上の角に上下逆方向の下層部の絵画向けのピカソのサインが確認されたというニュースが流れた。
3週間前に目にしたばかりなだけに、ちょっとびっくり。
ポーラ美術館ホームページを確認したら、新着情報として今日6/5付けのプレスリリースが載っていた。
(続く)

2018年6月 1日 (金)

箱根・富士宮の旅-2(山のホテルのホテルライフ)

六十代もあとわずかとなり、七十を意識しつつある今日この頃だが、何より今年もこうして山のホテルに滞在することが出来たのはありがたいことと思っている。
部屋から庭園、芦の湖、また天候に恵まれた際は雄大な富士が望める絶好のロケーションがこたえられない。箱根温泉の大浴場での入浴も至福の一時である。ゆったりとお湯に浸かっていると無心の境地になれる。今回は夕食前と朝食後の2回入った。

ロビー脇にショップがあり、ここでしか入手できないものが種々販売されていて、今回は山のホテルブランドのコーヒー2種の内スペシャルブレンド、マンゴーアップルジャム、フレーバー・ティー(紅茶)のお試しセット、そして「元箱根見南山荘風景」という川瀬巴水が制作した昭和10年当時の庭園の版画6点のポストカードを、妻の方はお土産にうす塩曽我の小梅干しとクッキーを購入した。帰って来て分かったことだが、コーヒーのパッケージの裏のラベルが変わっていた。倍くらいの大きさになり、ラベルに賞味期限が印字されるようになったりとかしているが、一番の変化はメーカー名を明示するようになったことだ。

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ロビーの様子。上はエントランス方向、下は和食レストラン「つつじの茶屋」方向。壁のデザインが素敵だ。

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そしてレストランでの食事である。
順番は前後するが、朝食の方から報告したい。
15日。テラスでの朝食は、芦ノ湖を視界にさわやかな大気を感じつつ、鳥の鳴き声を耳にしながら、開放感にあふれた至福の時間を過ごすことができる。

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テラスの様子。正面に富士が見えている。

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フレッシュジュース(パインアップル)、フルーツ(メロン、ブルーベリー、ミント)

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コーヒー

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プレーンオムレツ、ソーセージ。

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妻はフライドエッグ、味噌漬けベーコン。

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クロワッサンとミルクパン。クロワッサンをお代わりした。
バスケットの上左から、カシスとニューサマーオレンジ(伊豆の特産)のジャム、ケチャップ

そして14日のディナー。和食と洋食とあるが、もっぱら洋食のフランス料理「Vert Bois(緑の森)」を利用している。印刷されたメニューは、見開きの左にフランス語、右に日本語で記されている。下にシェフの名前が記されているのも例年通りで、昨年と違うような気がしたので訊ねてみると、昨年9月に交代したとのこと。
昨年と同じ19時30分からで、一番奥の窓際のテーブルへ着いた。窓側へ案内されたのは今回が初めてだ。

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一口オードブル。左から人参のムース、小海老のせ、右上わかさぎのフリット・人参、バジルの素揚げ添え、レモン

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前菜盛り合わせ。手前左からサーモンと野菜テリーヌ、マヨネーズクリームと緑はクレソン・ソース、フォアグラのテリーヌ、ジュレ・木苺・イチジク、バルサミコ・ソース、パン、上左からほたるいかのエスカベッシュ・人参、赤・黄パプリカ、セロリと右がサラダ

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パンも美味しい。上はくるみとイチジク入り、他に全粒粉パンが出た。共にお代わりした。

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帆立貝と彩り野菜のスープ、サフラン風味。小玉葱、人参、蕪、他。

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尾長鯛のグリル、白ワインソース、インゲン・素揚げのバジル添え、グリーンアスパラガス、ラタトゥイユ

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肉料理は3品からチョイス。上は私の北海道産仔羊肉のロースト、ソース・ジュ・ダニョ。下は妻の牛タンのブレゼ、赤ワイン風味、じゃが芋のピュレ添え。添え野菜はグリーンピース、人参、小玉葱、蕪等。共にヴォリュームがあり食べ応え充分なのが嬉しい。私のは仔羊肉という感じがせず、繊細というよりダイナミックな野趣を感じる味付けだった。

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シェフが変わって一番目立つ変化はデザートだ。盛り付けがより芸術的で、皿の上の幾何学的配置に目を見張る。ヴォリュ-ムは抑えている。4品からチョイス。上は私のチョイス。「赤い果実のムース 旬のグラスを添えて」下は妻のチョイス。「塩キャラメルのクレーム・ブリュレ マンゴー・ソルベと共に」。添えられているフルーツは同じ。

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小菓子。左から生チョコレート、マドレーヌ、ラズベリーのメレンゲ

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妻はハーブティー。カモミール、ペパーミント等をミックス。蜂蜜付き。

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私はコーヒー。
全般的な印象としては、西洋料理でありながら淡泊な味わいだったが、コース料理を堪能した満足感を得ることはできた。
(続く)

2018年5月29日 (火)

箱根・富士宮の旅-1(山のホテルの庭園)

5月14~16日箱根・富士宮方面へドライブ旅行をしてきた。
出発前日午後から降り始めた雨は夜にかけて強くなったが、一夜明けると何事もなかったような穏やかさ、時間を追って晴れて行き、予報を覆す好天となった。
13:30に出発。途中海老名SAで約50分小憩し、いつも通り小田原厚木道路から箱根新道経由で大観山インターから元箱根に入った。
大変順調なドライブで16:30山のホテルへ到着した。

17:00から30分ほど、いつものように庭園へ。遠目には色とりどりの花が目を楽しませてくれるが、既に見頃は過ぎていて近付くとしおれかかったり、変色し始めたりしている花が目立った。遅咲きもあって、蕾のものもあったが。シャクナゲも同様で昨日の雨の影響か、地面に落ちている花が目立った。

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上は翌朝8時半頃部屋から見た庭園。富士が半分見えている。左に芦ノ湖。
下はシャクナゲ園入口から見たつつじ庭園と芦ノ湖。真ん中に見えるのは見南(けんなん)山荘の石碑。

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ゴールデンウィーク入り頃、ホテルのホームページのスタッフブログに早くも3分咲きの書き込みが入り、6日には見頃になったとあり、今年は異常に開花が早いのに驚かされ、やや意気消沈気味だったが、14日の出発直前にNHKで八代亜紀がナビゲーターで山のホテルのつつじ庭園が生中継され、確かに盛期は過ぎているがまだまだ楽しめる感触が得られ、元気付けられたのだった。

この番組でこの庭園の中心部分にある「八重げら」という株が、樹齢百年、3mを越える樹高を誇っていることを知った。

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「八重(やえ)げら」

また翌朝食後に、妻とこの株の前に立っていたら、番組に出演していたホテルの庭園スタッフの大橋氏がやって来ていろいろお話を聴かせてもらった。
14日は雲があって富士を見ることはできなかったが、翌朝は快晴で庭園から富士を見ることが出来、幸運を喜んだ。

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共に15日朝の庭園からの富士。

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5年連続この時期にここを訪れているが何と毎回富士を見ている。
つつじは昨年来た5/10-11が3分咲きだったので、それを踏まえて予約を入れたが見事に期待を裏切られてしまった。
それ以前は、2014(5/13-14)、16年(5/12-13)はほぼ見頃だったが、15年(5/20-21)は今年同様見頃を過ぎていた。
その年々の自然の状況に影響を受けるので、見極めは難しい。

それと今回の収穫というべきなのは、15日11:00からの「岩崎男爵が造った山のホテルの庭園 ツツジとシャクナゲの歴史」という講演を聴いたことだ。
講師は倉重祐二氏といい、ツツジ・シャクナゲの研究者で現在は新潟県立植物園長。山のホテルの庭園プロジェクトへ参画して、品種調査で来られたのを機に実現した企画との事。
ツツジ・シャクナゲの栽培の歴史と山のホテルの庭園のツツジ・シャクナゲについてと、家庭での栽培方法の話で、あっという間に1時間が過ぎていった。
ツツジは江戸期に全品種が出尽くしたそうで、1692(元禄5)年に出た「錦繍枕(きんしゅうまくら)」という図鑑をスライドで紹介しての説明、山のホテルのツツジ・シャクナゲの品種数と、貴重種が多いこと等、大変興味深かった。

講演のチラシを見ると、庭園プロジェクトは2014年の大雪でツツジ・シャクナゲが大きな被害を受けたことが契機となったそうだ。何気なく周回しているのみで、よもやそんなことがあったとは毫(ごう)もわからなかった。2014年は2月に私の地元においても、間を置かず2回、10年~20年にあるかないかの雪が降っている事を思い出した。

受講者へお土産に、樹齢百年の「八重げら」から採った穂木の苗木が一株づつ配られた。栽培法を教示されたのでしっかり育てたいと思っている。

庭園は14日と、15日8時と朝食後に計3回散策した。
下はつつじ庭園。

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小田急初代社長安藤楢六銅像が見えている。

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部屋の窓から。ほんのりした色付きなのも悪くない。ランドマークの杉と芦ノ湖、外輪山。

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西脇呉石生誕百年顕彰碑へ向かう途中下側からのつつじ庭園。
以下はシャクナゲ庭園。

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シャクナゲ園入口の様子。

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山の斜面に造園されており、階段を上り下りしての鑑賞になる。

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(続く)

2018年4月25日 (水)

夏目漱石「明暗」を読む-4(最終回)

前回記したように水村美苗「続明暗」は、漱石の「明暗」を見事に補完している。
その際に触れた「人生の贈りもの」によれば、水村は自作品に触発されて様々な「続明暗」が出て来ることを予想していたようだが、今日に至るまで水村版以外は出ていない。
また水村は、「作家の意図より書かれたものを重視するという、学生時代に学んだ文学理論(*)に助けられ、漱石がどう「明暗」を終えようとしていたかより、すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよいと」考えた。「漱石なら少し違う展開になったでしょうね。古い時代の男性だから。私は女だから、女性に精いっぱい花を持たせてしまいました。」
自尊心を粉々に破壊され、自身の存在意義を見失うまでにボロボロになったお延が、山の頂上から朝日に輝く眺望を目にして、自然の平等性を体感し透明無私の境地へ達する。水村が言う「女性に精いっぱい花を持たせた」と言うのはこのことだろうか。
ただ「すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよい」という点では、原作で温泉へ出発する前に津田が小林と会いに出かけるところでのお延の
「何時か一度此のお肚(なか)の中に有(も)ってる勇気を、外へ出さなくちゃならない日が来るに違いないって」「近いうちなの。もう少ししたらの何時か一度なの」「貴方のためによ。夫のために出す勇気だって」(154)
という勝ち気で、積極的な性格を象徴する発言が置き去りになっている事がわかる。
水村版では、現地へ乗り込みはしたが、為す術もなく押しつぶされてしまう、か弱いお延となっている。この点も含め様々な展開があり得ると言うことなのだろう。

(*)第3回ではご夫君との出会いやら、イエール大での文学履修の話、武満徹との出会い、加藤周一と柄谷行人への師事とか(!!!)20代の頃の濃密な学業が語られている。

2で記したとおり津田は共感出来る人格ではないが、救済されるというと受動的だが、前回触れたように水村版では津田にも最終盤でお延との絆が強まり、精神的更生を予感させる書きぶりが認められる。江藤淳のように津田は罰せられ死をもって報われると云う結末は流石にないだろう。津田はまだ若干30歳という若さなのだ。

清子について大岡昇平「「明暗」の結末について」は、「(清子の)創造はその場の即興で作り出され」たというユニークな解釈を示している。(*2)根拠を「書きはじめ一ヵ月前と推定される不可解な断片」(*3)に置き、お延との真の和合を究極のテーマとしつつ、「立ち去った女との姦通」のモチーフを加えた、という大胆な推理を加えている。
(*2)「小説家夏目漱石」P.414-5 この本が出た1988年は奇しくも大岡の没年となった。享年79歳。本は5月が初版第1刷で、私のは第6刷で8月のもの。「「明暗」の結末について」は1976(昭和51)年5月早稲田大学での講演に手を加えたとある。その当時で大岡は67才、丁度私と同じ年齢だったのが感慨深い。この本には江藤淳と朝日新聞紙上でやり合った(という表現がぴったりの)江藤の博士論文「漱石とアーサー王伝説」を巡る論争の大岡部分も納められている。こちらは1975年で大岡66才、江藤の方は42才、当時20代だった私は、はらはらしつつ両大家の言い合いをリアルタイムで読んだ事を思い出す。
(*3)旧全集第13巻「日記及断片」P.835-6

そして清子を入れた事で、サスペンスは増大したが、筋は不自然、煩瑣になってしまったといっている。
大岡も清子をサブキャラクターと見ており、水村版は津田と清子の交渉を「続明暗」のハイライトシーンとしつつ、大岡の指摘をも盛り込み、見事に模範的に描写したと云ってよいだろう。

水村版を読んでいて気付かされたのは、随所に漱石の表現をパロディー的に引用していることである。
・「(つれない素振りの清子に)津田の舌は上顎へ密着(ひっつい)て仕舞ったやうに自由を失った儘だった。」(244)これは「三四郎」終結部で教会から出て来た美禰子と対した三四郎の印象的な場面だ。
・「(清子と馬車の幌の中で)津田はいつしか(清子の)微かな香を眼の眩(ま)う程強く感じてゐた。さうして嗅覚の刺激のうちに一種の幸(ブリス)を覺えていた。」(238)
「それから」の代助が三千代を迎えるにあたり百合をあしらい、その香りが充満する中で感じた幸(ブリス)を思い出す。
・「(宿に着いて風呂の中で我を忘れた津田が自分を取り戻し)何処かで聞いた事のある父母未生以前の己れといふ言葉が津田の胸に思ひ起こされた。」(246)
これは「門」で参禅した宗助に課された公案「父母未生以前本来の面目は何か」が連想される。
というように漱石作品を自在に駆使しているあたり、水村の上品な遊び心を感じる。

最後に漱石の原作の方で気付いた事を記したい。
・第5回で津田が二階の書斎へ上がり机上の洋書を開くところ。
今回は手元の旧全集で読んだが、図書館から定本版を借りて来て、たまたまこの箇所の違いに気付いた。
旧全集:結婚後三四ヶ月目から読み始めた。それから二ヶ月以上になるが三分の二にも達していない。
定本版: 〃 二ヶ月目   〃       〃 三  〃        〃
定本版は原稿、旧全集版は初版本に拠っている訳だが、こうして比較してみると結構違いが目立つ。ここは津田夫婦の結婚後の経過時間を示唆するもので、いずれも概ね半年前後となる。
ちなみに初出(5)では単に「比較的大きな洋書」となっているが、(39)では「経済学の独逸書」とあり、大岡は「これがマルクスであろう、という拡大解釈があります」と疑義を挟みつつも紹介している。長山靖生氏も「漱石研究」(*4)に寄せた論文で他者の意見とした上で、これがマルクスの「資本論」との見解があることに触れている。両者とも確定的とするには根拠が乏しいが、面白い見解だということで敢えて取り上げたようだ。漱石全集の蔵書目録(付記3:6)にあたってみたら、マルクスの「資本論」はあったが英訳版だった。ちなみに余白への書き込みはない(模様)。
(*4)「不可視と不在の「明暗」」(付記3:9)

・パート1第5日のお延の観劇。漱石は「芝居」と書き、「劇場」とも記すが、歌舞伎とは書いていない。水村は当然のように「歌舞伎」と明示している。((203) P.58)大岡も「「明暗」の結末について」で同じく当然のように「歌舞伎」と書いている。これが私には引っかかっていたが、最近読み始めた古川隆久「昭和史」(付記3:15)で(尤もこちらは大正から昭和へ変わる頃での記述だが)、「演劇で人気だったのはなんといっても歌舞伎である」という箇所を読み、大正初年もほぼ同様だったであろう事から納得することが出来た。

・第150回の「事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。」というイレギュラーなセンテンス。
しばらく受け入れ難かった部分だ。
何故「事後の夫婦は、もう事前の夫婦ではなかった。」でないのか?
津田とお延は、津田が申し出た妥協をお延が受け入れる事で「何時の間にか我知らず相互の関係を変えてゐた。」
そして大岡が言うような「理屈っぽ」いテキストが以下長々と続く。理詰めで、決してわかりやすく書かれてはいないこの箇所は正直読むのがつらい。
どうにか理解できるようにも思うが、いまだにこのセンテンスは釈然としない。

谷崎から与えられた宿題は力及ばず白黒を付けるには至らず、結論を今後へ積み残す事となってしまった。「明暗」、「続明暗」とセットで読んでみて言えるのは、水村版として完結を見て、読者としてカタルシスは覚えることができた。
谷崎の「芸術一家言」が発表された1920(大正9)年、谷崎は若干34才、既に旺盛な作家活動をしていた。「明暗」は1916(大正5)年5月26日から東京、大阪朝日新聞に同時掲載で始まったが、その前の連載小説が谷崎作品だったというのも面白い符号である。(*5)

(*5)「鬼の面」。1月15日から5月25日までの116回。東京朝日新聞へ掲載。谷崎の朝日への第1作。(以上は、荒正人「漱石研究年表」(付記3:7)による。)「明暗」はその翌日からだ。(*6)
「面白い符号」という点で、序でにいうと水村は「谷崎潤一郎は漱石と並んで尊敬する小説家である。」(*7)と書き、「決定版谷崎全集」(中央公論社)のパンフレットには推薦のことばを寄せている。
今回の私のブログは奇しくも漱石―谷崎―水村の3者が絡んだが、水村が漱石と谷崎を殊更に愛読する人であることに、我が意を得た。
(*6)中央公論社版旧谷崎潤一郎全集第3巻所収の「鬼の面」タイトルページ裏面には「大正5年1月-4月東京朝日新聞」と誤記載されている。
(*7)水村美苗「谷崎潤一郎の「転換期」―「春琴抄」をめぐって」(付記3:10)
(終わり)

(付記1)長崎新聞のスクラップ(前回参照)に関しては思い出がある。
1990(平成2)年(もう28年前になる!!)私の地元のギターアンサンブルで共に活動していた友人が帰郷し結婚する事になって、披露宴へ妻共々招待され、はるばる長崎へ行ったのだった。
このスクラップはその時のものである。
友人の父君は長崎市の収入役を務めておられ、当時の市長の本島等氏が列席されていた事を思い出す。私はキャンドルサービスで「アルハンブラの想い出」と、彼の従妹にあたる女性のメゾソプラノへ、シューベルトの「アヴェ・マリア」のギター伴奏をしたのだった。
丁度「長崎旅博覧会」が開かれていた。グラバー邸や平和公園、浦上天主堂も周り、また「山下和仁アートサークル」事務局だった喫茶店「ギタルラ」へ行き、マスターに長崎ギター合奏団のライブ・テープ(たしかベートーヴェンの「運命」第1楽章だった)を聴かせていただいたり、長崎ギター音楽院へ山下亨氏(和仁の父君)を訪問してお話を伺ったりした。その場で山下和仁がマネージャーらしき人と打ち合わせていた事が思い出される。
雲仙温泉へも一泊した。この直後の11月17日に普賢岳が噴火し、翌年2月12日に再噴火があって、その後火口付近に形成された溶岩ドームの崩壊により発生した大規模な火砕流により多数の犠牲者を出す大惨事となったのだった。
(付記2)今回の本文へは取り上げなかったが、2で触れた2,016年の神奈川近代文学館の「夏目漱石」展について書いた私のブログで取り上げた「漱石と歩く東京」の著者北野豊氏のホームページ「勝手に漱石文学館」を最近全く偶然に知る事となった。興味のある方のためにここへリンクを張らせていただく。(→「勝手に漱石文学館」
また「漱石と歩く東京」は、漱石を読む上で必須と言っていい北野氏の労作である。ホームページから購入できるようになっており、文句なく推奨できる私の座右の書である。北野氏から頼まれて記しているわけではなく、このような貴重な情報が満載された本を共有したいという一念からであることをお断わりしておく。
「明暗」を読みながら随時「漱石と歩く東京」を参照し、今度も様々な示唆を本書から受けた。
一つだけ粗探しさせていただく。同書第2章「小石川を歩く」の江戸川橋の項に「明暗」(21)からの引用があり、「・・・彼は残酷に在来の家屋を掻き?って、・・・」と「?」の文字化け(挘(むし)が正しい)を見つけた。(^^)
(付記3)参考書目一覧
1. 漱石全集第7巻「明暗」 昭和50年6月9日 第2刷 岩波書店
2. 定本漱石全集第11巻「明暗」 2017年10月11日 岩波書店
3. 水村美苗「続明暗」 平成2年9月30日 初版第2刷 筑摩書房
4. 谷崎潤一郎全集(没後版)第20巻「芸術一家言」 昭和43年6月25日 中央公論社
5. 漱石全集第13巻「日記及断片」 昭和50年12月9日 第2刷 岩波書店
6. 漱石全集(改訂新版)第27巻「漱石山房蔵書目録」 1997年12月19日 岩波書店
7. 荒正人著、小田切秀雄監修「増補改訂 漱石研究年表」 昭和59年6月20日 第1刷 集英社
8. 大岡昇平「小説家夏目漱石」 1988年8月25日 初版第6刷 筑摩書房
9. 「漱石研究」終刊号(no.18) 特集「明暗」 2005年11月25日 翰林書房
10.「文芸別冊 谷崎潤一郎」 2015年2月25日 初版 河出書房新社
11.図録「100年目に出会う 夏目漱石」 2016年 県立神奈川近代文学館
12.江藤淳「夏目漱石」 昭和51年6月30日 13版 角川文庫
13.長崎新聞「続明暗」評 1990(平成2)年10月30日
14.朝日新聞夕刊「人生の贈り物」2014年8月11日~15日
15.古川隆久「昭和史」 2016年5月10日 第1刷 ちくま新書
16.小宮豊隆「夏目漱石 三」 昭和49年8月30日 第18刷 岩波書店
17.北野豊「漱石と歩く東京」 2016年4月10日 第4刷 雪嶺文学会

2018年4月21日 (土)

夏目漱石「明暗」を読む-3(「続明暗」をめぐって)

水村美苗「続明暗」は、今回の「明暗」を読むにあたりセットで読もうと思っていた。
通して読んでみての率直なところは、「続明暗」の方への賛嘆の念である。

「続明暗」は創作ではあるが、「明暗」を前提としているところが通常の作品と異なる点で、発表から28年経過しており、最近余り話題になることはないかも知れない。
初版帯には「漱石諸作品からの引用をちりばめながら、漱石そっくりの文体、言い回し、用語を駆使して完結」とあり、当時読書界にセンセーションを興したと記憶している。

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先ず何よりも読んで面白い。筋の進行に無駄はなく、前後の脈絡、漱石の原作は勿論のこと、「続明暗」の中においても見事に前後の脈絡が付いていて、読んでいて唸るしかない。
文体は漱石に確かに似ているが、漱石の方がねちねちしているというか、「続明暗」の方はよりサラサラしている印象で、漱石との違いを感じた。
構成もまた見事で、漱石の新聞連載番号を引き継ぎ、一回分がほぼ同じ分量で綴られ、丁度100回分で終わらせている。
「明暗」最終回(188)は温泉行第2日目になり、「続明暗」はここから始まるが、大団円となるのが第7日で6日間という時間が流れる。津田の視点が多いがお延の部分も見事に織り込まれ、まさに柄谷行人が示す「多声的な世界」が表現されていると思う。
時代考証も怠りなくされているようである。
例えば(211)でお延が温泉の津田へ電話しようとする場面、当時の電話システムでは過疎地へは自動電話ではつながらず郵便局まで交換手を通した電話をしに行くところとか、(230)で安永夫妻を送って津田と清子が軽便鉄道に乗る場面とか、(235)で当時の横浜伊勢崎町の盛況が語られる場面(電気館、又楽館、オデオン座etc.)とか大正初年の風俗を描くにはやはり下調べは必要だろう。

「続明暗」は平成2(1990)年9月発行で私は30日の初版第2刷を持っている。今回繙くと中に新聞切り抜きがあった。同じ平成2年10月30日付け長崎新聞の「続明暗」評(付記1:次回参照)である。評者名は記されておらず、学芸担当の記者の手になるものと思われるが、短い字数の中で的確に要点が書かれているところに端倪すべからざるものがある。

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大岡昇平「明暗の結末について」への言及とか、水村が柄谷行人へ師事したことがあるということをこの書評で教えられたりとか、多々勉強になった。

「続明暗」は全編が印象的描写なので、ここでは特に心に残った場面を記す。

第4日。津田の留守宅。寒さが日増しに募る日の午後、二階の津田の書斎でガラス越しの暖かい日射しの中、岡本の小切手で買った反物の仕立ての準備を始めるお延と、庭で隣家の椎の落葉焚きをする下女のお時の平穏な描写。ほのぼのしていて好きなところだ。
それを破る吉川夫人の来訪。日曜(第7日)の継子の再見合いへの立ち会いの要請だった。また津田の温泉行についての虚偽を吹き込まれたお延の心は千々に乱れ、居ても立っても居られなくなり1泊での温泉行きを決意する。
前後の描写の対照が鮮やかだ。
第5日。前日夕刻夫人から翌朝の来訪を促され、津田の温泉行が清子を追っての事だったことを悪意をもって夫人の口から聞かされ、その帰途降りしきる冷たい雨の中を不図思い立って小林宅へと足を運ぶ場面。
打ちのめされてはいるが、こうと思ったら遮二無二突き進むお延がよく描かれている。
特に小林が不在で電車通りへ戻る道中、ラビリンスのような脇道を雨中泥水にまみれ、堂々巡りして中々元来た大通りに戻れないくだりは、お延の絶望的な心理を象徴しており、見事な表現力に唸らされる。
そして帰宅すると小林が来訪していた。そして小林により、津田が入院中に「来るな」というお延宛ての手紙をくれた時に吉川夫人が訪れていた事を知るに至る。

露悪的で徹底的に嫌らしい人物として造形されていた小林を水村は真摯で人間味ある好漢へ変貌させ、特にラストでは重要な役割を与えている。

いわく、お延がお時へ指示した岡本家への仮病による見合いの欠席の電話。その電話で継子が見舞いに訪れたことで嘘が発覚し、岡本の知るところとなり、お時からお延が出発前に小林と会っていた事を聞き、相談に訪れた藤井宅に居合わせていた小林へお秀に同行する形で現地への出向を依頼。という風に漱石の原作のエピソードを前半で取り入れ、それを最後に有機的に関係付ける綿密な筋が用意された。
最終節(288)の「奥さん、人間は人から笑われても、生きてゐる方が可(い)いものなんですよ」(87)という小林の言葉を反芻するお延の描写。漱石の原作の小林の言を引用しているが、このシチュエーションではしみじみと心に沁みる名言として聞こえて来る。

一方吉川夫人には徹底的に卑劣な役回りを与えている。お延へのあしらいはとても感情教育を踏まえたものとは言えず、悪意以外の何物でもない。津田は滝の前での清子とのやり取りで吉川夫人の底に潜む悪意を思い知り、岡本からの電話へ出ようとするお秀へ「吉川夫人の媒介する話は廃(よ)した方が可(い)い」(285)と言うように指示する。ここは津田が汚名を挽回する小気味よい場面だ。

お延が東京で悪戦苦闘していた第5日、軽便鉄道の終点(国府津)の料亭で津田と清子が安永夫妻を送別する会食をする場面。磊落な安永の宴席向きの話題で盛り上がる座と、水商売上がり風の妻君の手慣れた応接、この場面も心に残っている。(*)

(*)2014(平成26)念8月朝日新聞夕刊「人生の贈りもの」で水村さんご本人が「漱石は物語を離れた細部がとてもいい」と言われているが、(232)~(236)のここは正にそんな箇所である。とても印象的な場面だ。

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会食中から降り始めた雨は強まり、津田と清子は幌付きの馬車で宿へ帰る。津田と清子の交渉は夜が更けるに伴いクライマックスへ向かい、一方夕刻の遅い出発となったお延へも雨が伴い、やがて大暴風雨となって進行の波乱を象徴するが、常套手段とはいえその手腕は見事と言うほかはない。

馬車の中で津田は医院で関と会った話(17)をする。そして関が「公には云い難い疾に罹っ」ていた事を話してしまう。「性(セックス)と愛(ラヴ)に就いて六づかしい議論をした」ことについても津田の回想の形で具体的に展開し、享楽的だった関に清子を奪われた理不尽から、清子へ卑怯な態度を取っている津田の矛盾と、刹那主義者の関へ走ったことによる清子の聖性の喪失をここは象徴しているのだろうか。(239)~(241)

大団円はお延の精神が昇華されて終わる。津田の人格に絶望し、自死を決断して滝へ向かうも朝日にきらめく滝の奔流を見て思いとどまり、山へ入り頂上からの美しい眺望に、「自然の全くの無関心が」お延の心を打つ。(287)
津田はと言うと、連日の疲労がたたり出血の苦痛に呻き、お延を追いつめてしまった痛恨の思いと、吉川夫人への絶縁宣言。
小林の津田への「事実其物に戒飭(かいちょく)される方が遙かに覿面(てきめん)で切実でいいだろう」(167)という予言がここに成就している。また出血をいとわずお延を追って起き上がった時点で、津田の精神的再生は約束されたと読める。
見逃せないのは(261)である。滝の前の津田と清子にお延が忽然と現われる。清子は面倒はご免とばかりさっさとその場を去って行く。そして津田は残されたお延が清子と姿格好がそっくりなのに気付く。(P.269)
ここは重要で、津田の深層で清子からお延への遷移が為されたと私は解釈した。
お延はと言うと、これは紛れもない「則天去私」の境地そのものと言えるだろう。
旧漱石全集の小宮豊隆の解説が言うところの、「より高きイデー」=「則天去私」の世界が水村美苗版「明暗」の到達点だった。
また小宮は「明暗」の最重要な鍵は、「倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。」(「日記及断片」大正5年5月(旧全集第13巻P.839))であることをも指摘している。
未完の漱石の原作では、必ずしも反映されているとは言い難いこの命題が、「続明暗」においては見事に達成されている。
(続く)

2018年4月18日 (水)

夏目漱石「明暗」を読む-2

「明暗」は二つの部分に分けることが出来る。
津田が入院して退院するまで(1~153)のパート1と、温泉地への転地(154~188)のパート2の二部分である。

2,016年の神奈川近代文学館の「夏目漱石」展の図録解説者奥泉光がいう「三人称多元」の視点人物(*)(→'16.5/10)、具体的には津田とお延になるが、はじめは津田の視点でスタートした小説はやがてお延の視点から叙述され、進むにつれお延から津田、またお延へ、二人の渡り合いの場面では一部作者の視点と、視点が場面で変わりながら進行する。

(*)2月28日付け朝日新聞夕刊に「雪の階(きざはし)」という彼の新作小説が紹介されていた。昭和初年の東京を舞台とした女性が主人公の長編とのことだが、図録解説で述べられている三人称多元の叙述法をこの作品へ採用しているそうである。

引用で知ったのだが(*2)、柄谷行人の新潮文庫版「明暗」への解説で述べられているという「明暗」で実現されている「「多声的な世界」-一つの視点=主題によって”完結“されない世界」」という見方も、恐らくはこの「三人称多元」による展開を基本にしているのだろう。

(*2)高橋修「<終り>をめぐるタイポロジー-「明暗」の結末に向けて」(「漱石研究」Vol.18翰林書房2005)

作中で生起する時間はパート1が11日、パート2は未完に終わってはいるが3日という短い時間の中で小説が展開していく。
パート1の第1日から第4日までは津田、第5日から第8日までは一部津田の部分はあるがお延がそれぞれメインキャラクター(視点人物)として書かれている。
テンポ感としては津田がメインのはじめの部分は快調であると言って良いが、お延へメインが移動する第2部分は叙述が徐々に肥大化し、部分としてみれば精密微細な描写が展開されていると言えるかもしれないが、いわば第2部分のみの限局的なエピソードが延々と詳述される形になってしまっている。

以下にパート1を具体的に整理してみる。
「明暗」パート1に費やされている紙数は以下のとおり。頁は旧全集による。

    連載番号  頁数(旧全集)   主人物   備  考
第1部分
第1日    1~  8   23(P.5~27)     津田    清子の伏線(2)
第2日    9~ 15  20(P.28~47)    津田      〃  (11、13)
第3日  16~ 18    9(P.48~56)    津田      〃  (17)
第4日  19~ 38  64(P.57~120)    津田    藤井家訪問、小林と居酒屋で会談
第5日  39~ 44  21(P.121~141)  津田    津田の手術、入院
第2部分
       45~ 58  46(P.142~187)  お延    お延の観劇、継子の見合い
第6日  59~ 79  70(P.188~257)  お延    お延の岡本家訪問、津田への疑念発生(78)
第7日  80~ 91  41(P.258~298)  お延    小林の来訪    お延の疑念(89)
       92~102  38(P.299~336)  津田    お秀の来訪
             103    3(P.337~339)  お延    お延の疑念+ 清子の伏線
     104~113  37(P.340~376)  津田、お延 津田、お秀へお延が加わる
第8日 114~122前半 32(P.377~408) 津田   小林の来訪
     122後半~130 27(P.409~435) お延    堀宅のお秀への訪問  
     131~142  46(P.436~481)  津田    吉川夫人の来訪
     143~152  38(P.482~519)  お延、津田  
第9~11日 153    4(P.520~523)  津田     津田の退院

以上をまとめると

第1部分 137頁
第2部分 382頁(内お延の部分 187頁(0.49) 津田 〃 120 (0.31) 津田、お延 75 (0.20) )

となり、第2部分/第1部分≒2.8となり、またこの構成表を見ると、第2部分が日を追う毎に膨らんでいることがよくわかる。そしてこの部分の主役がお延であることは、お延の部分が0.49であることからも明らかである。
以上で明らかなように、「明暗」は構成において均衡を大きく欠いていると言える。

また以下に示すとおり、津田の造形には問題が多く、私は読んでいて津田が主人公に値しないのではないかと疑問を感じた。
津田は「利害の論理に抜け目ない機敏さを誇」り(134)、「自己の快楽を主題にして生活」し(141)、父の経済援助の一部返済の約束を履行せず(95)、「畢竟女は慰撫しやすい」(150)とうそぶく非誠実で自己本位の打算家である。
津田は非倫理的で、人間的に共感出来ない人物として描かれている。
また第8日の吉川夫人の半ば言いなりで清子の逗留する温泉行を決意するのは、完全に主体性を失っている。そればかりか、この温泉行がいわばお延への裏切りであり、人妻である清子への接近という背徳行為であることの責任の自覚も欠如している。

対するお延の方は、夫を愛し、夫に自分を愛させることを理想に、日々生活するひたむきさがよく描かれていて、その姿勢に共感もでき、主人公としての魅力を持っている。(*3)
江藤淳は「明暗」において近代小説の重要な構成要件となる女性がよく描けているとし、
「これらの女性達で最も魅力的なのが、・・・お延である」
「お延の魅力は言葉の厳密な意味でのheroineの魅力である。」(*4)
とお延を高く評価する一方、津田を「冷笑的で、自己の保身には敏感な、・・・強い虚栄心を持った」「俗物才子」と切り捨てる。
そして結末を予想して津田は救済されず(津田の死を予想)、よって清子は救世主とはならないと言う。
パート1において構築されたお延の世界が否定されるような結末は有り得ないと云う。
また江藤は上層中産階級の外延に位置する人物として小林に注目し、「明暗」の世界をより相対的にして、超越的自然の視点よりは社会的視点へ重心があり、漱石の視点は小林に同化していると書く。

(*3)飯田祐子「「明暗」の「愛」に関するいくつかの疑問」(「漱石研究」NO.18(2005)、翰林書房)では、お延の「愛」は真実なのかと疑義が提起されている。一例を挙げると、津田の自身への愛を疑い、ついに根拠が瓦解したのに津田への愛が揺るがないというのは不合理である、とか何点かもっともな指摘をしている。
また池上玲子は、「女の「愛」と主体化」(同上)を以下のように締めている。
「「明暗」とは、自己の眼が気づく津田の、結婚生活での個々のノイズを封印し、自己の意志によって自らを夫に従属する主体へと教育していく物語なのである。」
以上はお延に限定された論文だが、大正初年期の状況も踏まえ、女性ならではの洞察が示されていて、大変参考になった。
(*4)江藤淳「夏目漱石」第8章「「明暗」―近代小説の誕生」 これが江藤の慶応在学中の評論であることに改めて驚かされる。

現在残された「明暗」のテキストは、こういう二人の主人公と、更に過去の女性(清子)との関係を絡めて漱石がどういう解決を図ろうとしていたのか、わからないまま未完になっている。

次回以降は、解決の一例ということになる水村美苗「続明暗」を中心に綴ってみたい。
(続く)

2018年4月14日 (土)

夏目漱石「明暗」を読む-1

漱石の「明暗」を読んだ。

漱石メモリアルイヤーに因む朝日新聞の一連の漱石作品の連載も平成29(2,017)年3月28日をもって終了した。その都度私は感想をこのブログへアップしていたが、それ以来漱石からは離れている。
が、以前谷崎潤一郎の「芸術一家言」を読み(→'16.3/19)、「明暗」が完膚なきまでに酷評されている点がずっと気になっていて、今度繙くこととなった次第である。

私が目にした範囲では、「明暗」の評価は谷崎以外で作品の価値を否定する者はいないようだ。
以下に今回の読書体験を記してみたい。

「明暗」は、主人公津田が30歳、もう一人の主人公である津田の妻お延は23歳で、結婚して半年あまりの若い二人に生起して行く愛憎劇といってよいだろう。

作中に明示はないが、津田の父親は推定55歳前後、叔父の藤井が50歳になるかならぬか位、その他お延の叔父岡本にしても、その子供達の年齢からして還暦には間がある年回りと思われる。

絶筆の未完作「明暗」を書いていた漱石にして49歳という若さである。

従って老人として登場する人物は皆、私よりはるかに若い人達ということで、その点も「明暗」を読みながら常に念頭にあったことだ。

開始早々に脱線してしまうが、一月に発表された第158回芥川賞受賞者の若竹千佐子さんは何と私の地元の方だった。
「おらおらでひとりいぐも」という作品名から東北の作者だとばかり思っていたところ、妻のコネクションにより地元の人だと知って読み始め、抱腹絶倒しつつ読み終え、たくさん元気を貰った。
主人公は74歳になる女性で、独り平凡な日々を送っているが、尽きない豊かさに満ちた内面に向き合う幸せな「老人」である。
作者も63歳だそうだが、分身であるだろう主人公の精神の健全さ、バイタリティ、したたかさが遺憾なく表現されており、「明暗」の世界よりもこちらの方に若々しさを感じ、かつもう一人の受賞者も54歳であることと併せ高齢化社会を象徴する今回の芥川賞だと感じた。

閑話休題。
「明暗」は188回で未完に終わった。
「明暗」を読んで釈然としないのはスタート早々に清子の存在、お延と結婚する前のこの女性との交渉が津田の心に深く巣喰っていることが暗示されながら、小説は大きく迂回してお延を中心とする世界が延々と展開していき、突如津田は温泉地の清子の元へと走る、という脈絡のなさ加減である。
谷崎が「瑣末的な事が紆余曲折してだらだら続き、本筋が出て来ない。人物相互でくだらない事で腹の探り合いをする場面が長すぎる」(「芸術一家言」)、と誇張気味に書いているのもあながち的外れとも言い切れない。

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上は「芸術一家言」の最終頁(中央公論社版「谷崎潤一郎全集」第20巻(昭和43年刊))

そして様々な疑問が置き去りのまま作品が中断してしまったことが読者へ大きなフラストレーションを与えている。

連載第2回で津田はいきなり、
何うして彼の女は彼所へ嫁に行ったのだろう。・・・さうして此の己は又何うして彼の女と結婚したのだろう。・・・」
などと述懐しておきながら、中々その問題が出て来ない。
読み進めればアンダーライン部分の「彼の女」が誰と誰かはわかるが、述語の部分は全く未解明である。自身前段にばかり関心が向いていて、後段は等価であるのに、これを記しながらそれと認識するまでこの後段部分は全く関心の外にあった。

津田が吉川宅を訪問して吉川夫人と会談する場面で、吉川夫人から
「お延さんばかりぢゃないわ、まだ外にもう一人ある筈よ」(11)
夫人宅を辞去後の帰宅途上歩きながら
「あの細君はことによると、まだあの事件に就いて・・・」(13)
というように思わせぶりな言葉が出て、これは上の前段の「彼の女」の事だとわかるが、約400頁後の津田の入院している病院へ吉川夫人がやって来る場面を待ってようやくその顛末が明らかにされる。(「清子」という名が読者へ初めて提示されるのもこの場面である。(*))
(131)から(142)の約50頁にわたる部分で、読者としてはその唐突さに面食らうが、ここまでの叙述が何だったのかと思う程あれよあれよという風に重要な事が次々に提示される。
・清子を愛するよう仕向けたのは、そもそも吉川夫人だった。
・清子は結婚する寸前まで行きながら津田から去り、関と結婚した。
・夫人は清子の逗留する温泉へ津田を行かせようとする。それを「笑談みたいなもの・・・大袈裟に云った所で面白半分の悪戯よ」と遊び半分に投げかける。
・お延を奥さんらしい奥さんに育て上げてみせる、とうそぶく吉川夫人へ危惧を抱く津田。
(*)1975(昭和50)年6月の漱石全集第7巻(以下旧全集という)460頁(137)

第17回では津田が病院でばったり出会った友人と晩飯を一緒に取りつつ、「性(セックス)と愛(ラヴ)に就いて六づかしい議論をした」という、漱石にしては刺激的な叙述に驚かされる。直後に「彼との間には、其の後異常な結果が生れた」と記される。
(131)から(142)を踏まえれば、この友人は清子の夫となった関で、「異常な結果」という用語は、津田を去って友人の関と清子が結婚した事を意味していると解釈できる。
ここは大岡昇平も「「明暗」の結末について」(「小説家夏目漱石」筑摩書房1988)で触れ、「多くの「明暗」論を読んでやっと気付」いたと述べている。

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私はいかにも露骨な表現だったので頭に焼き付きはしたが、「異常な結果」の意味へはすぐは想到できなかった。
(続く)

2018年3月22日 (木)

身辺雑記

毎度の事ながらあっという間に3月も下旬、彼岸の中日も過ぎ、桜の開花も始まった。
私の地元は雨だったが、昨日は異例の春分の日の雪でTVでも箱根とかの中継をしていた。地元では1月22日が雪だった。とはいえその時も日中は雨で、夕方以降に雪となった。

1月31日には皆既月食があった。スーパー・ブルー・ブラッド・ムーンという可成りレアな皆既月食だったようだ。
私も自宅玄関前で見たが、月食に入ると部分食より月全体が見え、ブラッドというよりは小豆色ぽく見えた。

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上は月食に入る直前の部分食で21時35分頃のもの。

2月10日に石牟礼道子が逝去した。朝日新聞に月1回「魂の秘境から」というエッセイが待ち遠しかったが、それも1月31日付けが最後となってしまった。

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担当記者によると、パーキンソン病で口述筆記だった由。
それであれだけの文章をものしていたとは、ちょっと考えられない。
「苦海浄土」はいつか読んでみたい。

将棋界では、藤井聡太、羽生善治の二人の活躍が目立っている。
藤井は2016年のデビュー以来公式戦29連勝の新記録を樹立後も勝ちまくり、順位戦全勝でC!昇級を決め四段から五段へ、2月17日に朝日杯史上最年少優勝(佐藤天彦名人、羽生善治竜王等を破って!)により更に2週間余で六段への史上最年少昇段を遂げた。2017年度の将棋界の記録部門の対局数71対局、勝ち数60、勝率0.845(*)、連勝部門において4冠王が確定、と驚異的な実績を上げている。

(*)3月21日時点。22日20時頃、王座戦2次予選の糸谷八段との対局に勝利し、72対局、勝ち数61、勝率0.847となった。

一方羽生は昨年の棋聖位を防衛後、王位、王座と連続でタイトルを失うも、渡辺明から4勝1敗で竜王位を奪取し、永世竜王の称号資格を得て待望の永世7冠資格者となった。通算タイトル獲得数はなんと99となった。
そして昨3月21日順位戦プレーオフ(*2)の最終第5局で稲葉陽(あきら)八段に勝ち、第76期名人戦の挑戦者となった。

(*2)今期順位戦最終局は3月2日に静岡市の料亭「浮月楼」で行われ(羽生は全対局を終えていて、この日は抜け番)、A級11人中6人が6勝4敗で並んだ結果、パラマス方式のプレーオフとなっていた。

先週3月17日(土)に農溝の滝へ妻と行って来た。
房総スカイラインから県道千葉鴨川線へ入り、鴨川方面へ約3km下ったところにある。ネットでブレークして有名になって久しいが、今回初めて行った。
洞窟が水面に写る影と併せハート型に見える形が評判を呼ぶこととなったが、年間を通して春先と秋のみに見ることが出来るのだそうだ。今は正にその貴重な時期に当たっているが、日の出の時間帯限定ということで、寝坊の当方は無理をせず、着いたのは正午を回った頃になっていた。

そもそも有名になった場所は、「亀岩の洞窟」というのだそうで、「農溝の滝」は約50m下流にあるそうだ。

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この洞窟は手掘りで、川廻しと言うそうだが、その言葉とは逆に蛇行する川の直近の箇所にショートカットさせるトンネルを通して流れを変え、元の水路だった所を水田として利用する農業土木技術の所産との事。
上流側との段差で洞窟からの流れは滝状になり、岩の形が亀に似ているところから「亀岩の洞窟」と命名された由。

「農溝の滝」は、かつて精米用の水車小屋に水を引き込むための溝があって農家なので「農溝」、水車小屋の脇にあった滝なので「農溝の滝」というのだそうだ。

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上は農溝の滝かどうか自信がないが、その近辺の写真。

帰りは久留里経由で千葉信用金庫久留里支店隣にある「すや」というお茶屋さんで煎茶を買った。ここのお茶は本当に美味しく、こちら方面へ出かけた際は立ち寄る事にしている。

昨21日に三谷太一郎「日本の近代とは何であったか」(岩波新書)を読み終えた。

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昨年三谷氏81歳の時の刊行だったわけだが、「あとがき」を読み、その学問への情熱の熱さに打たれた。
「老年期の学問」という考え方、10年前に大病なされ、その病後に漱石の「思い出す事など」を読まれ、その中でW.ジェイムズ、ベルグソン等に触れている事に触発されて、R.ホーフスタッターの著作を読み直し、序章のテーマとしたW.バジョットの著作に当たる決意をされた事とか、心境をありのままに綴られている事に感銘を受けると共に励まされる思いがした。
また第1章第3節では鴎外の史伝に触れ、特に「北條霞亭」への評価には啓発された。

「思い出す事など」は読むつもりでいたが、「北條霞亭」も是非読もうと思った。

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