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2016年3月

2016年3月29日 (火)

「富士川英郎展」

3月18日(金)県立神奈川近代文学館「文人学者・富士川英郎展」へ行って来た。
昨年4月の谷崎潤一郎展以来なので、ほぼ1年振りになる。((2015年4月27日 (月))参照:http://guit-kichi.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-5668.html)
なお今年は3月26日(土)から始まった「漱石展」にも行く予定である。
朝日新聞夕刊水曜の展覧会情報で知り、逃せないと思いつつ最終日まであと3日というこの日に至った。大変暑い日で、冬物の厚手のシャツにセーター、ウインドブレーカーを着込んで出たので港の見える丘公園までの急な階段を上っている内に汗をかいてしまった。

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木更津からアクアライン経由の高速バスがベイブリッジを通行中、横浜港越しにみなとみらい地区を望む。ランドマークタワーの左にうっすらと富士が見える。

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大佛次郎記念館を過ぎたあたりの案内標識。

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そしてこの橋を渡ると文学館だ。ちなみに橋下には付属の資料館がある。

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文学館。ガラス窓は喫茶室。かつて天下一コーヒー(だった?)を飲ませてくれた老マスターの頃は、コーヒーとホットサンドイッチのセットがここへ来た時の楽しみの一つだったが、マスターが引退して熟年のママさんへ経営が変わり、今は入らないが、展示を見終えてここでコーヒーで一息入れるのもよいので、時々は利用したいと思っている。

受付でチケットを購入。400円と格安だと思いつつ支払いを済ませ、コインロッカーへ脱いだセーター、セカンドバッグを入れ展示室へ・・・自宅に帰ってから気付いた事だがチラシに65歳以上は半額とある。受付の女性には若く見られたということで、大変気を良くしている。

展示は生涯を編年で辿っていて、大変興味深い内容が多かった。その幾つかを記すと、
1.17、8歳、旧制広島高等学校時代に萩原朔太郎が「日本詩人」、「近代風景」へ発表した詩論へ質問し、朔太郎の返事のはがきがあったが、朔太郎がたじたじなのが微笑ましく、富士川の優秀さを窺わせる資料だ。
2.鴎外との関係
・父富士川游(1,865-1,940)は医者、医学史家で鴎外と知己の間柄だったようで、游宛ての鴎外の書簡(1,916(大正5)年1月1日)は渋江抽斉の師の一人の池田京水の墓所について教示を求めたもの。
・同じく父富士川游と神田須田町交叉点で乗り込んだ市電で鴎外が向かいの座席に座っていて、父と談笑するのをまんじりともせず脇で聴いていた思い出は鮮烈である。これは富士川英郎の生涯のベースとなる体験となったようだ。(*1)
・鴎外史伝には富士川游の名が随処に出て来るようだが、一例として「伊澤蘭軒」その20が当時の新聞連載の写しで展示されていた。
・鴎外史伝への評価は、「蘭軒伝」がベストであるとし、「北条霞亭」はその支流、「渋江抽斉」は「蘭軒伝」には及ばないとしている。(*2)

そもそも富士川英郎の名を知ったのは、鴎外史伝を50代初めに読んでいた頃、図書館から岩波書店「鴎外歴史文学集」vol.6を借りて来て巻頭の凡例中に富士川の「伊澤蘭軒標注」を見出した時が初めてだった。そこには森潤三郎「校勘記」、「校勘記補遺」も挙げられていて、岩波版第3次全集月報、付録からコピーを取って、それらを座右にしながら「蘭軒伝」を読み進めていた。
今回の展示ではこの「標注」は多分取り上げられていなかったが、富士川の中で鴎外が占める位置の重要さを思うとこの労作は落とせないところではなかったかと思う。
それともう一つは、矢張り「蘭軒伝」を読んでいた頃だったと思うが、神田の八木書店の棚に富士川英郎著「菅茶山」を見出した事も忘れられない。菅茶山は「蘭軒伝」の主要人物である。後にも先にも神保町で「菅茶山」を見たのはこの時だけだが、今考えると入手しておけば良かったと思う。
また岩波版第1次全集の月報は「鴎外研究」と称し、かつて鴎外記念図書館でその一部と図書館作成の目録のコピーを取ったが、これを見ると昭和13年12月には「鴎外とリルケ」、昭和14年3月には「独墺の小説家」というタイトルで富士川が寄稿している。
これを見た時は、第1次、3次全集に30年余の時間的隔たりがあり、そのいずれにも富士川英郎が記事を寄せている事に驚きと奇異の念を抱いて来たが、今回の展示で第1次全集への寄稿時は富士川が29、30歳で、既に旧制6高教授の時代だったことを知り、永年の疑問が氷解した。

このように私は富士川英郎を鴎外を通してしか知らなかったので、今回の展示は大変有意義であった。

3.リルケ
富士川英郎はリルケに魅了されドイツ文学を専攻し、学者となりリルケ、ホーフマンスタールを研究した。これは今回知った。
4.菅茶山研究
東大を定年になる頃から江戸後期の漢詩文研究にいそしむ様になり、論文、エッセイ等を旺盛に発表、著書も多数出版されている。
「鴎外雑志」(小沢書店。'83年7月)、「鴟鵂庵閑話」(しきゅうあん(しきゅう=みみずく)。筑摩書房。'77年7月)等の著書が展示されていて、是非読んでみたいと思った。
菅茶山「黄葉夕陽村舎詩」に関する寺田透との往復書簡の寺田宛書簡も興味深かった。

東大退官後は、日課として北鎌倉の自宅から源氏山を越えて鎌倉までの散歩を欠かさなかったようで、行き付けの喫茶店でコーヒーを飲み、時には友人と顔を合わせると談笑し、と実に羨ましい日常を送っていたようだ。

そして展示の最後に「夕陽無限好」というエッセイから抜粋されたパネルの文章を読み深い感銘を受けた。

「私はヘッセの「老年について」という随筆を久しぶりに再読して同感するところが多かった。この随筆の中でヘッセは、人生の他の段階と同じように、「老年」にもその固有の特徴があり、使命があると言い、「老年」はvita contemplativa(観想の生)であると言っている。(中略)このような「観想の生」のうちにある老年の心境を最もよく語っているのは、晩唐の詩人李商隠の「夕陽無限に好し。只だ是れ、黄昏に近し」と云う詩句だろう。」(*3)

(注)(*1)~(*3)すべて展示場出口のカウンタに置かれていて購入した富士川英郎(高橋英夫編)「読書清遊」(講談社文芸文庫)所収。
(*1)「父富士川游のこと」(昭和17年)巻頭の文章。この時の鴎外の印象を形容して「親采奕々(しんさいえきえき)」と表現している。鮮やかな表現である。
この表現は次の「西方町九番地」にも出て来る。市電の鴎外体験は「私の東京」でも語られる。(P.212)
(*2)「「伊澤蘭軒」のこと」(昭和37年)(P.62).。菅茶山研究へのめり込むきっかけは「伊澤蘭軒」だったようだ。それは「江戸漢詩文とわたし」に語られていて、この文章には菅茶山「黄葉夕陽村舎詩」、福山市備後郷土史会誌「備後史談」の共に揃いを神保町で手に入れた経緯など、実に嬉しそうに綴られているのが微笑ましい。
(*3)(昭和61年)巻末に所収。展示の引用では李商隠の後段「只だ是れ、黄昏に近し」が理解できない。(中略)となっている部分で富士川は「老年」における「死」に対する意識について、達観とも言うべき淡々とした心境を語っている。これを読んで、洪自誠「菜根譚」の一節を思い出した。
「日既に暮れて、而も猶お烟霞(えんか)絢爛たり。歳将に晩(く)れんとして、而も更に橙橘芳馨(とうきつほうけい)たり。
故に末路晩年、君子更に宜しく精神百倍すべし。」(前集196)

2016年3月19日 (土)

谷崎潤一郎「饒舌録」他を読む

中央公論社版「谷崎潤一郎全集」第20巻(昭和43年刊)から評論数編を読んだ。
はじめは「「門」を評す」(漱石「「門」を読む-3('16.2/26))を読むため図書館から借りて来たのだが、「饒舌録」に芥川龍之介との論争を見出し、「芸術一家言」の漱石「明暗」評、そして「「つゆのあとさき」を読む」と読み、大変勉強になった。

「饒舌録」は芥川との論争のみならず、東洋と西洋の文学、文明比較論、また論は演劇にも及び、歌舞伎、就中6代目菊五郎、人形浄瑠璃、戯曲論と守備範囲の広い所を見せ、最後は露伴論で終わる。
芥川との論争は芥川の「文芸的な、余りに文芸的な」と併せ読んだが、印象を一言で云えば谷崎の方が堂々とした論調であるのに対し、芥川の方は読んでいて何かこせこせした感じを受けた事だ。
谷崎は「饒舌録」に芥川自殺後の所感も記しており、曰く「故人の死に方は筋のない小説であった。」「芥川君は小説家ではなかった。小説」「には不向き」「だった。」芥川に欠けているのは見識ではなく、それを発表しようとする勇気である。・・・「何と云う傷ましい人であることか。」と慨嘆している。
概して谷崎の文章には、行間におおらかさ、豪放磊落な人間性を感じる。

「芸術一家言」(大正9年「改造」4、5、7、10月号)では漱石の「明暗」を論じる。事件、人物に伏線が張られても、瑣末的な事が紆余曲折してだらだら続き、本筋が出て来ない。人物相互でくだらない事で腹の探り合いをする場面が長すぎる、とし、漱石は「東洋芸術の精神に傾倒する詩人で、新しい意味の近代の小説家ではない」と断じる。
「明暗」は通俗小説であり、だらだら書かれた低級な作品である、と酷評している。
大正9年といえば「明暗」発表後4年目であり、世評が高かった中での批判には勇気を要したと思う。現在に至るまで「明暗」は漱石の到達点として高い評価を受けている。江藤淳も「夏目漱石」の中で「近代小説の誕生」というサブタイトルを付して「明暗」を論じている。
もう一度「明暗」を読み直し、自分の頭で判断しなければならないと思った。「芸術一家言」は私に大きな宿題を与えた。

「「つゆのあとさき」を読む」(昭和6年「改造」)は、谷崎の荷風文学への深い理解を物語る評論だ。のみならず紅葉を明治中期文学の最高峰と位置付け、続く自然主義文学を硯友社のマンネリズム打破の通過点とみなし、何らかの形で鴎外、漱石、荷風へも影響が及んでいるとするなど、視野の広さをも示している。
衝撃的だったのは「雨瀟瀟」(あめしょうしょう)に荷風の陰惨孤独な境涯を見出している件りだ。「雨瀟瀟」は大正10年、荷風42歳の作品だが谷崎は、老境に入り、創作熱の衰え、芸術的感興が枯渇してしまうみじめさに思いを致している。
その末に「つゆのあとさき」を位置付け、青年期の夢、情熱が消え、人生を冷やかに見る視点を得て、淫蕩なストーリーを脱俗的に叙述し、難しい理屈をこねずに東洋の文人らしく淡々と綴る事で得られた境地の作品と捉える。
また末尾の注へ「改造」掲載時にこれを読んだ荷風からの書簡が抜粋で掲載されている。内容は本論への荷風の全面的な賛辞で、谷崎としても忌憚なく論じた「つゆのあとさき」論が荷風自身から支持されて、意を強くしたことの反映だろう。

2016年3月 4日 (金)

東京散歩2(恩地孝四郎展)竹橋~神保町

2月26日(金)国立近代美術館の恩地孝四郎展へ行って来た。
西船橋で東西線に乗り換え、竹橋で下車。地下で直結しているパレスサイドビル(毎日新聞社屋)へ入り、1階アーケードの百人亭で昼食(週替わり定食)を摂った。

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写真は清水濠に架かる竹橋。右手石垣の上、樹木の先に見えるのが美術館。
恩地孝四郎展の会期は2月28日までだった。
日曜美術館の放送を見て、作風、技法に興味を覚え、足を運んだ次第。

最初期から最晩年まで約400点に及ぶ作品が一堂に会す充実した展示だ。

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上は作品目録。
Ⅰ(1,909~1,924)明治末から大正末までの初期。Ⅱ、Ⅲ期とりわけⅠ期は大半が和歌山県立近代美術館の所蔵。
Ⅱ(1,924~1,945)大正末から敗戦まで。
Ⅲ(1,945~1,955)戦後から死去まで。
各セクション毎に注目作、代表作がピックアップされ、簡単な解説を付し、その後に作品リストをジャンル毎にナンバリングして並べている。
Ⅲ期は日曜美術館に拠ればGHQの一員として来日したエルンスト・ハッカーが収集した恩地作品は大英博物館へ寄贈されたとのことだが、今回のリストを見るとボストン、シカゴ美術館、とりわけホノルル美術館が目立っている。この時期の作品は実材版画という、紐とか様々な素材を用いて画面に形象を構成して行く技法で版木、原版のない作品も製作したとの事。

Ⅰ、Ⅱ期のペン画、油彩の何点かは確かなデッサン力を感じさせる。メインの木版の多数は細部(刷りの荒さ、緻密さの欠如)が雑で、むしろ凡庸な感じだ。「新東京百景」など、色彩も豊かで印象に残る作品ではあるが、巴水などと較べると見劣りがする。作風が異なるので一概に言う事は出来ないが。

室生犀星、萩原朔太郎、泉鏡花等の書籍、山田耕作の楽譜の装丁、また自著も展示されており、大変興味深かった。
図録は売り切れで、増刷中だったので予約した。おって4月半ばに郵送してくれるとの事。

近代美術館を出て神保町へ行った。
白山通りに入ってすぐ一ツ橋を渡る。

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写真は渡って竹橋方面を見ている。上にのしかかるようなのは首都高速都心環状線。架かっているのは内濠川で、神田川から分岐し隅田川へと合流している。
大正14年(1,925)に架かったコンクリート製の橋だそうだ。渡ってすぐ左が如水会館。元一橋大の跡地だ。将棋の丸山九段がかつて名人就位式を行った会場でもある。

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程なく白山通りの右手に学士会館が見えて来る。
そして神保町交差点に辿り着くのはあっという間だ。一ツ橋からは600mくらいか。

前回は逆に神保町から竹橋へ歩いたのだった。(神田古本まつり'14.11/2)
駿河台方面へ靖国通りを歩く。大雲堂、一誠堂、巌松堂、田村、小宮山、玉英堂、八木各書店、三茶書房で谷崎全集昭和40年の20巻の在庫を聞いて回るもバラはどこも在庫なしだった。谷崎の全集自体、最近の取り扱いがない所が多かった。

三茶書房で翰林書房の「漱石研究」Vol.18「明暗」特集号GET。また三省堂2Fで谷崎「文章読本」(中公文庫)他文庫を2冊GET。レジは1F。八重洲ブックCもそうだ。
駿河台下交差点(漱石「門」2章で宗助が路面電車を降りたのが駿河台下だ)を過ぎ、源喜堂を素通りし(以前F・ジロー「ピカソとの生活」をGETした店だ)、外堀通りとの交差点にある丸ノ内線淡路町駅を目指した。神保町交差点から大体1.4kmくらいか。

2月28日にNHKFM「日曜喫茶室」がオンエアされた。この放送の収録は2月15日に行われたそうで、司会のはかま満緒は翌16日に急逝した。
いずれはこの時が来るとは思っていたが、新年が明けて早々なので驚いている。
この番組は私が20代の頃から続いていた超長寿番組だっただけに、大変残念である。

ギターを趣味としているので、ギタリストの中林淳真、荘村清志、スペイン滞在歴のある画家石井崇がゲストの回とか、木更津出身の俳優中尾彬の回とか印象深い。これらは録音があるので時々聴いている。

はかま満緒の冥福を祈る。合掌。

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