« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2016年4月

2016年4月29日 (金)

東京散歩4

4月は何という月だったろう!
雌伏していた植物が一斉に爆発的な成長を始めた。
散歩ルートの水路沿いの桜は見る々る内に緑の葉を出しているし、寒い間控え目だった雑草もめざましい増殖をしている。
昨12月に妻の実家に植えた苗木の数々も順調に葉が茂って来た。2季咲き金木犀、アーモンド、ポロタン栗、流泉しだれもみじ、とげ無しウコギ等々驚くほど生命力を感じさせてくれる。そんな中、一緒に植えてこれまで変化の兆しが見られなかった胡桃の苗木が遂にこの1週間で葉の芽を出し始めた。

4月16日銀座4丁目交差点にある鳩居堂へ妻の友人が出品した書道展へ行って来た。
木更津から総武快速で新日本橋で銀座線へ乗り換え、銀座まで。

新日本橋は2月に三井記念美術館へ来ており、今回も三井タワーでランチを摂った。入ったのは1F千疋屋総本店直営の「カフェ・ディ・フェスタ」

1img_5597
大変おいしいマンゴーカレーだ。フルーツポンチも千疋屋の名に恥じないもの。これで\730はリーズナブルだ。

銀座線日本橋から銀座間は5分弱、A2出口から地上へ出ると目の前が鳩居堂だ。店の入り口右にエレベータがあって4Fギャラリーが会場である。
書道展の作品は多彩な題材で且つ個性も様々で、門外漢の私にも充分楽しむ事が出来た。
妻の友人は杜甫の五言律詩をしたため、地の紙に青墨で「月夜」と大書した作品。

3Fの方も個展が開催中で、源氏物語宇治十帖、紫式部日記他を題材に、かな書きのみならず、料紙、表具すべてを製作したという大変な労作の数々が展示されていた。個展は10年毎という大変に長いスパンで続けているとの事だった。

鳩居堂で買い物後、4丁目交差点へ。銀座大通りは歩行者天国で、人で賑わっていた。

1img_5601
山野楽器入口でウクレレ・ライブをやっていた。サウンド・ボックスというのかBGMはカラオケみたいな感じで、ウクレレ自体もアンプを使っていた。

メロディーが主体で殆んど親指のみで爪弾いている。演奏はプロのそれだ。
2FCD売り場でクラシックの面白いものがあればと思ってみたが、これというものに当たらず何も購入せず。ここへ来たのは何年ぶりか思い出せないが、2F売り場はジャズが半分を占めるようになり、クラシックのスペースは縮小されていた。ちょっと寂しい思いをさせられた。

山野楽器を裏側から出てシネスイッチ銀座へ。この日から封切の「グランドフィナーレ」を見た。

1img_5617
傑作の呼び声高い触れ込みだが、見た印象は正直あまり良くなかった。
まず映像美が売りの一つだが、平凡なものにしか見えず、画面に登場する滞在客たちからは老人病院やトーマス・マンの「魔の山」のサナトリウムを連想してしまい、また夜毎催されるのはポップスのコンサートで、とても高級ホテルという実感は持てない。

一つインパクトを受けたのは、ジェーン・フォンダである。体当たりの演技というものはこれか、という熱演。
かつての瑞々しい彼女が脳裏にあるだけに、時の移ろいの非情さというか無常感を覚えた。

エンディングのコンサートの「シンプルソング3番」も何かポピュラーソングめいていて、格調高さに欠けるものがあるように感じた。
もう一度見たら或いは受け止め方が変わるかもしれないが・・・

1img_5602
映画館を出るとすっかり夜の帳が下りていた。上は晴海通り方面を見ている。
晴海通りを日比谷方面へ歩いて「ホテル・ペニンシュラ」を目指す。日比谷通りをはさんで皇居、日比谷公園と向かい合うロケーションで、かつてはこの場所に日活国際ホテルがあったという。新婚旅行で来日したマリリン・モンローが宿泊したのがこのホテルだそうだ。(宇田川悟「小野正吉」P.129-130)

有楽町駅側の回転ドアの入口から入り、2F中国レストラン「ヘイフンテラス」ヘ。

窓寄りの円テーブルへ着き、メニューを見る。
飲み物はお茶にする。通常お茶はサービスだが、ここは有料。
烏龍茶にして、ウエイターの薦めに従い台湾の凍頂山烏龍を注文。
料理は「海鮮と野菜入りあんかけ焼きそば」、「海老とチャーシュー入りチャーハン」にした。

1img_5608
焼きそばの上に乗っているのは、ホタテ、金目鯛、チンゲン菜、木耳・・・

1img_5610
下は、中央奥がお茶のつまみ「胡桃と白ゴマの餡炊き」、デザートは右「フレッシュフルーツ入り杏仁豆腐」、左「カスタードクリームのエッグタルト」

1img_5614

2016年4月21日 (木)

鴎外記念館行(東京散歩3)

4月1日(金)文京区立森鴎外記念館へ行って来た。
神奈川近代文学館の「富士川英郎展」(富士川英郎展)により、富士川の著作に触れ、富士川の鴎外への思い入れの深さを認識して、鴎外との関わりにおける資料閲覧、コピーをするべく記念館行を思い立った次第。

先ず休館日でない事を確認するため電話した。
そして、資料の有無等を問い合わせた。
一旦電話が切れ、先方から返事が来てわかったのは、かつての「文京区立鴎外記念本郷図書館」は、文京区立本郷図書館とかつての鴎外記念室が森鴎外記念館とに分離され、図書館は近隣の別の場所へ移り、記念館の方が観潮楼跡の鴎外ゆかりのこれまでの場所に設置されることとなったという事だ。
記念館の電話番号を教えてもらい、改めて電話し直し、目指す資料のある事を確認して・・・と電話の遣り取りで手間取ってしまい、自宅を出るのが大幅に遅くなってしまった。

よって昼食は地元で済ます事にし、駅近くの「浜長」(お気に入りの店-2)で天丼を食べた。
内房線で千葉から総武快速に乗り、錦糸町で中央線へ乗換え、お茶の水から千代田線で千駄木下車、団子坂を上りきった辺りが記念館だ。

1img_5514
表通り側から見た記念館のアプローチ。最奥右手が入口。
無機質で暖か味に欠けるデザインだが、これはこれで悪くはないと思う。
奥に見える銀杏の木は鴎外の頃からのものだそうで、その左手が当時の正門で観潮楼跡のプレートが据えられ、見ると鴎外生誕150年を記念して平成24(2,012)年に完成した由。また旧鴎外記念本郷図書館は、昭和37(1,962)年、生誕100年の年に建設されたとある。
私は今回が2度目で、旧鴎外記念本郷図書館時代の平成14年11月に来て以来14年振りになる。

1img_5517
入口と反対側に設置されている案内板。

1img_5522
案内板の右端は文学散歩図で上はその部分図だが、左の方に茶色の字で「ファーブル昆虫館(虫の詩人の館)」が!!奥本大三郎先生の私設博物館ではないか。今回は時間がないので行けなかったが、これで次回の楽しみができた。

記念館では企画展開催中で、受付で観覧料300円を支払うも、展示は後にして2Fの図書室へ直行する。

岩波版第1次、第2次鴎外全集月報閲覧を申し込む。共にハードカバーがあしらわれ立派に製本されて、前回とは様変わりしていた。
第1次はコピー元自体がコピーで、判読は出来るが精細度に欠ける。第2次の方はB6の見開きで小さく、しかも糸綴じされているので中央部分が充分開かず、片側1行分コピーに入らなかったので止むを得ず筆写した。
今回コピーを取ったのは以下のとおり。
第1次月報
NO.2(昭和11年7月)「森先生の伊澤蘭軒を読む」(永井荷風)のみ
NO.26(昭和13年12月)(富士川英郎「鴎外とリルケ」所収)
NO.29(昭和14年3月)(富士川英郎「独墺の小説家」所収)
NO.30(昭和14年4月)

NO.26の富士川の文章は、NO.25の馬場久治「森鴎外とライネル・マリア・リルケ」が契機となって草されたもので、全集編集部への投書だとの付記がある。鴎外の小品でリルケの小品に触発されたと考えられる作品について、その根拠となる確証を全集所収の鴎外日記を読んでいて得た事とか、昭和5、6年頃東大独文の学生時代に図書館で見たリルケの著作は悉く旧鴎外蔵書だった事(*1)とかが述べられていて、全集の一読者の立場から書かれたものではあるが、リルケを専門とする独文学者の熱心かつ真率な文章なので例外的に月報へ採用される事となったのだろう。
NO.29の方は「鴎外全集」所収の鴎外が翻訳した19、20世紀初頭の独墺の小説の作者の概略説明と主要作品が列挙されるだけのもので、私が名前を知っているのは「牡猫ムルの人生観」のホフマンのみだった。

(*1)「森鴎外記念会」機関誌の「鴎外」創刊号(昭和40年10月)の森於菟「砂に書かれた記録」第3章に鴎外蔵書を東大図書館へ寄付する事とした内面の経緯が記されている。寄付された時期は大正末~昭和初年頃と思われる。したがって富士川は寄付されて間もない鴎外蔵書を手にしていたわけだ。森於菟は鴎外の長男。この文章は長文で、鴎外の思い出とか、遺品は本郷の記念館と津和野の郷土館へ一部が寄贈された事とか、本郷の記念館設立に関する事等、大変興味深い内容である。また現在記念館で見られる展示品はこれらの遺品である事を思うと感慨深い。

第2次月報
今回のテーマは富士川英郎関係の記事で、第1次月報のような図書館作成の目録がないので、号毎の目次を順に見て行った。結果第2次には、富士川執筆の記事はなかった。
そこで、「富士川英郎展」で名前を記憶していた寺田透が寄稿している号と、荷風の第1次と同タイトルの文章が出ている号とをコピーした。
NO.10(昭和27年3月)(寺田透「鴎外全集三・四巻」所収)
NO.16(昭和27年9月)(荷風「森先生の伊澤蘭軒を読む」所収)

寺田は、鴎外の小説が新しさを失わないことについて考察し、独創性と奇を衒わないことへ帰結させている。また全集三・四巻中の白眉は「妄想」、「雞」(とあるが、第3次全集著作年表明治42年8月の「鶏」か?ちなみに第3次では、2作は各々Vol.8、5所収。)としている。
荷風の文章はタイトルが同じなので、第1次の再録と思ったが、念のため比較すると出だしが違う。ので、同名異文と即断してしまったが、帰宅して改めて比較してみたら始めの7行が第2次ではカットされているのみで、以降は全く同じだった。
この文章は荷風全集に入っていて(岩波版第15巻(昭和38年))、第1次の方で載っている。また「鴎外記念館のこと」という小文もあって、後記を見ると記念館が完成する3年前の昭和34年に書かれていて、これは荷風の歿年でもあり文章に締りがなく、鴎外との思い出を取り留めなく綴り、焦点がぼけて題名にそぐわぬ内容になってしまっている。
第1次月報の荷風の次に掲載されている斎藤茂吉の「「伊澤蘭軒」寸感」の方がインパクトがある。「蘭軒伝」の先駆けとして富士川游(富士川の父)「伊澤蘭軒先生」を鴎外が失念していた件と井伏鱒二の「蘭軒伝」連載中の中学生時代の投書のエピソードの件を紹介している。

今回は的は絞ったが出発が遅れた事と、閲覧、コピーに意外に手間取った事とで他の資料まで目が届かなかった。
鴎外関係書籍は、開架棚に参考になりそうなものがいろいろ並んでいた。
「鴎外」最新号も目に止まった。頁を開くには至らなかったが、帰宅して手元にある「鴎外」を見たら、NO.10(昭和47年1月)に富士川の「「伊澤蘭軒」補遺と正誤」を見出した。
これは第3次全集月報NO.16~26まで11回にわたって連載された「「伊澤蘭軒」標注の母体とも言うべきもので、ここで記述されている「蘭軒伝」各章の記載内容は殆んどそのまま「標注」へも採用されている。月報への連載開始は昭和48年2月と「鴎外」掲載のほぼ1年後だ。富士川自身が「鴎外」に記しているように、「長年耽読し、さまざまの啓発を受けつづけ」た「蘭軒伝」への愛着が感じられる。

展示室は「1,915-16-100年前の鴎外とその時代」展中だった(4月3日まで)。企画展は第2展示室で、第1展示室の方は常設展示。こちらは鴎外の業績を編年で見て行く構成。いずれも貴重な資料が多かったが、時間もなく、広範なものなので充分鑑賞するには至らなかった。
映像室では加賀乙彦、安野光雅、平野啓一郎の鴎外観(感?)が流れていた。安野は津和野出身で鴎外と同郷、「即興詩人」を推奨、平野は鴎外文学の本質を「諦観」に帰して、「鴎外は生涯人間にはどうにもならない事があるという意識があったのでは」としていた。

1img_5523
鴎外「沙羅の木」の詩碑。鴎外三十三回忌の記念に製作され、荷風が書写、昭和29年7月に森於菟等から文京区へ寄贈された。この経緯も前掲、森於菟「砂に書かれた記録」第46章に記されているが、冒頭「昭和29年」とあるべきを「昭和39年」とあって、これはミスプリントだろう。

1img_5528
横長の石が「三人冗語の石」。森まゆみ「鴎外の坂」第6章扉に写真があり、左にこの石に座す鴎外、中央に露伴、右に斎藤緑雨の三人が写っている。
「鴎外の坂」第6章は観潮楼が細木香以(*2)のゆかりの地である事に触れ、香以の姪(儔(とも))が芥川龍之介の養母である事にも言及している。「細木香以」には、鴎外は「龍之介さんは儔の生んだ子である。」と記しているが、芥川が面談の上情報提供したにも関わらず、実母と誤解する事があり得るのだろうか?腑に落ちないところである。

(*2)鴎外「細木香以」がある。

1img_5535
文京区が設置した「藪下通り」の案内板。観潮楼時代の正門が面している通りがそれで、旧正門の道路向かいに立っている。今回は東京散歩と言うにはおこがましいが、記念館を出てこの通りを歩いた。かつては鴎外の散歩ルートだった由。先の「細木香以」第3章に「藪下の道」として紹介されている。

1img_5533
この日満開だった桜。この桜は崖下に位置する文京第八中学校の敷地内にあった。

1img_5538
千駄木町57番の漱石住居跡の石碑。「吾輩は猫である」が執筆された家として有名だ。おりしもこの日(4月1日)から朝日新聞で「猫」連載がスタートしている。この家は漱石に先立ち鴎外も住んでいたとの事で、稀有な例だ。前掲、森於菟の文章の第10、11章で藪下通りと漱石住居跡前が彼の小学校、一高、帝大時代の通学路だった事や、家主だった斎藤阿具(一高教授、漱石の学友)からのこの家に絡む書簡の事とか、この家との貴重なエピソードが綴られている。

再び藪下通りに戻り、根津神社境内に入ってお守りでもと思ったが、既に18時を回っていて入手できなかった。神社の正門側へ出ればS坂だったが、寒さも身に沁みて来ていたので裏門坂側へ戻って不忍通りに出て、千代田線の千駄木駅へ向かった。

2016年4月11日 (月)

国立歴史民俗博物館行

桜のみずみずしい若葉が日毎に目に付くようになって来た。今朝(4月10日)は桜花がひらひらと舞うように散る中を散歩した。地面は桜の花弁が敷きつめられたような状態だった。
朝日新聞では1日から漱石の「猫」の連載がスタート。面白くて読みながらげらげら笑ってしまうほどだ。苦沙弥先生の行状へ、漱石は自分自身をストレートに反映させているようなのが又ユーモラスだ。
恩地孝四郎展の図録が届いた。4月中旬頃と聞いていたので早く手元に届いて大変嬉しい。
県立神奈川近代文学館で入手した「読書清遊」にある富士川英郎著「江戸後期の詩人たち」(東洋文庫)を図書館から借りて来て見ている。はじめの「六如上人」を読み、「あとがき」と「解説」を次に見たが、富士川の「あとがき」(昭和48年)に紹介されている、本書を読んで富士川へ手紙を書いた当時の東大大学院生だった当人が平成24年(2.012)東洋文庫(平凡社)版の「解説」の筆者で、富士川への傾倒ぶりが並々でなく、愛情のこもった書きぶりに感銘を受けた。

3月30日(水)佐倉市の国立歴史民俗博物館へ行って来た。
木更津市郷土博物館主催の地域学講座第3回「縄文人の植物利用」(2月13日)の講師が歴博の工藤さんという准教授で、その時に歴博の招待券を持参してくれて期限が3月末だったので、折角なので利用させてもらう事にした次第。
千葉駅で内房線から総武本線への乗り換え時間が14分あったので、ペリエBF「みよ川」の銀鮭弁当\660を電車内で食べた。この弁当にあり付く機会は余りないが、大変お得感のある弁当だ。
千葉駅は延々と構内の工事をやっていて、動線が乗客の利便性を全く無視していて、迷惑がはなはだしいことこの上ない。千葉駅を利用する時は不愉快になってくる。

閑話休題。
歴博は今回4回目くらいになる。この日は老若男女、グループの来館者が目立ち、賑わうほどではないが入館者は多かった。

1img_5401

展示が膨大で、半日弱の時間ではとても足りないので、今回は年代を逆に新しい時代から見て行こうと考えた。
展示室は6あって、今回は第3展示室「近世」と第6展示室「現代」の2室のみを見た。それでも駆け足気味になってしまい、第6展示室の方は半分しか見られなかった。
また殆んどの展示はフラッシュを焚かなければ撮影OKである。展示物の撮影許可がある所は今まで経験がなく、ちょっとびっくりしたが、これは大変有り難く、メモではとてもこれだけのヴォリュームへは対処できない。

順路からすると出口側から入ったので、まず見たのは「村から見える「近代」」の「夢の浮橋」(三方領地替え反対一揆。1,840(天保11)年)。
水野忠邦の天保の改革に絡む事件。庄内藩の一揆の指導者の一人が顛末を絵巻にしたものが展示されている。

1img_5410

隣室になるが同テーマの展示で、「阿波人形」。阿波、淡路の人形浄瑠璃を大阪との関係を含めて説明している。小豆島の農村歌舞伎も中山の現在の歌舞伎をイラスト(高宮良子)で見せてくれて、芝居見物のための弁当作りの模様と、独特な弁当箱(わりご)も展示されていて、谷崎潤一郎「蓼喰う虫」の淡路島の人形浄瑠璃見物のくだりが連想され、興味深かった。
また幕末の百姓の日記「浜浅葉日記(夕鑑(ゆうかがみ))」は、農事その他日常生活全般についての詳細な記録で大変興味深いものだ。

1img_5431

今回最も印象に残ったのは「江戸図屏風」。たしか将軍家光が描かれているので、書かれたのは寛永年間だろう。明暦の大火(1,657年)で焼失した江戸城天守閣、二の丸(現在の皇居東御苑に当たる)が描かれている。江戸城に入る朝鮮通信使一行も見える。

6曲1双2幅の大作だ。

1img_5444
上は左隻江戸城天守閣はじめ下方には日本橋が描かれている。

1img_5447
日本橋の部分。今回いただいた招待券の図柄はこの辺りが採用されている。

その他「大日本沿海輿地図(伊能図)」関係とか、盛り沢山でとても見切れない。

第6展示室の方も更に駆け足になってしまったが、半分は見残してしまった。「現代」の展示は最近のことだそうで、太平洋戦争に至る戦前と戦後にセクションが分かれている。
20世紀初頭第1次世界大戦の教訓を踏まえた国際条約の数々、日本の軍隊のシステム、歴博の立地する佐倉歩兵第57連隊(ほぼ=千葉県)福井部隊の'37~'39年の中国南部の軍事行動、レイテ戦、沖縄戦、原爆投下等前半だけでも盛り沢山だった。

1img_5463
上は「満州事変から日中戦争」「帝国内の人の移動」コーナー。

1img_5505
歴博は佐倉城址公園内にあり、これは隣接する二の丸の濠跡。

1img_5511
バス停のベンチを占領していたのはなんと黒猫だった。「吾輩は猫である」の「猫」はどうも黒ではないが、初版本の扉絵等が黒で描かれているので、「猫」というと黒猫を連想してしまう。ここで黒猫と出会ったのも面白い巡り合わせだなと思わず笑ってしまった。

2016年4月 4日 (月)

「フェルメールとレンブラント展」

3月23日(水)六本木ヒルズ森アーツセンターギャラリー「フェルメールとレンブラント 17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち」展へ行って来た。
六本木ヒルズは今度が3回目になり、前回は2,005年の「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」でレスター手稿を見て以来なので、11年ぶりである。

東京から丸ノ内線で霞が関で日比谷線へ乗り換え、六本木下車。メトロハットB2F「六本木百鳥」で「鶏ささみさび焼きとアボカド重」を食べる。
B1Fから大エスカレータで2Fに相当する66プラザへ。開放的な屋外空間で、チューリップが色鮮やか。「ママン」と言うらしい巨大なクモのモニュメントが目を引く。

森アーツセンターギャラリーは森タワーの52Fで専用のエレベータがある。
展示作品は60点で、フェルメールとレンブラントが目玉。それぞれ「水差しを持つ女」(1,662年頃)と「ベローナ」(1,633年)が出品された。

1img_5580

1img_5581
上はチラシと作品目録。

「水差しを持つ女」(ニューヨーク メトロポリタン美術館)は他作品とは別格で、独立した展示スペースを占めていたが、45.7×40.6cmとサイズは大きくない。
フェルメール作品はどれもそうだが、実物と図録等の複写との色合いが全く異なる。実物を見てしまうと図録の図版なんぞ見るに堪えなくなってしまう。
筆使いがそれほどに繊細精緻なのだろう。
銀メッキの水差しとその下の洗面器にテーブル・クロスのタペストリが反射している。女性が被る白い頭巾と肩掛けの微細な陰翳描写。背景の白壁も実物を見るとどこも同じ描き方はしていない。

白壁と書いたが、会場の解説は確か「クリーム色の漆喰壁」とあった。水差しと洗面器を「銀メッキ」としたのは会場の解説によったのだが、面白い事に「フェルメールとその時代」展(2,000年大阪市立美術館)P.201の解説(①)は「金」、「フェルメール」展(2,008年都美術館)P.71の解説(②)では「真鍮」と書かれていて全て違う見解になっている。チラシで改めて見ると銀メッキではないように思えるが。

この作品から連想するのは「天秤を持つ女」(ワシントン ナショナル・ギャラリー)だ。「水差しを持つ女」が明るい光で部屋全体が満たされているのに対し、「天秤を持つ女」は画面左上方から右側斜め下へ向かう光が当たる画面斜め上半分が薄明るい、と光の処理はまるで違うが、白い頭巾を被る女性は同じモデルに見える。(ただし、「天秤を持つ女」の方のお腹は妊婦のそれだ。)
両方ともキャンバスの寸法もほぼ同じ。(「水差しを持つ女」は①、②同じだが、「天秤を持つ女」は①が39.7×35.5cmに対し、②は40.3×35.6cmと違う。)
また、「水差しを持つ女」の製作年代も、①は1,664-5年頃としているが、今回の作品目録は1,662年頃とあり、2-3年の隔たりがある。②から8年経過して、フェルメール研究はまだまだ進化の過程にあるということか。

昨年のブログ (フェルメール('15.6.7)参照)に抜けがあった事が分かった。
下の2つを見ていたことを忘れていた。(^-^;

・「恋文」(「レンブラント、フェルメールとその時代」展.2,000(平成12)年7月.国立西洋美術館)

・「レースを編む女」(「ルーブル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」 2,009(平成21)年3月.国立西洋美術館)

1img_5594

よって'00年以降の来日展で行っていないのは4回、目にしたフェルメール作品は18点/20点となる。

ポストカードは「水差しを持つ女」ともう1枚エマニュエル・デ・ウイッテ「ゴシック様式のプロテスタント教会」(1,680-85年頃)をGET。

1img_5579

英文の作品名は「Interior of the Protestant Gothic Church with Motifs from the Oude and Nieuwe Kerk in Amsterdam」とある。
「with」以下が邦訳へ反映されていないので調べてみたら、Oude、Nieuwe、Kerk はオランダ語のようで、それぞれOld、New、church の意。ここでは in Amsterdam とあるのでアムステルダム市内の旧、新両教会双方からモチーフを使用して描いた教会内部、という意味になるようだ。固有名詞なのでオランダ語で表記されているわけだ。

よってこの絵は単なるスケッチではなく、仮想の教会が描かれているということなのだろうが、②の図録を見るとへラルト・ハウクヘースト、ヘンドリック・コルネリスゾーン・ファン・フリート、そしてデ・ウイッテのデルフト教会内部を描いた建築画があり、掲載論文に拠れば、これらは概ね忠実に描かれているのではなく、遠近法を操作したり、邪魔な柱を省略したり、実際の視界以上に対象を画面に入れてしまったり、恣意的な画面操作を色々とやっているのだそうだ。

デ・ウイッテはデルフトで活動していてこの作品の頃はアムステルダムへ拠点を移していた由。

会期が残すところ1週間余と云うこの日、観客は結構多かったが、殆んどストレスを感じることなく鑑賞する事が出来た。
ミュージアムショップの壁にフェルメール全作品の実物大レプリカが展示されていた。

ここを出ると52Fからの眺望ゾーン。直下に青山墓地、国立新美術館が見え、徐々に視線を上げて行くと東京ミッドタウン、赤坂迎賓館、そして新宿御苑、新宿副都心のビル群etcが見える。

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »