« 福田進一のバッハチクルスの事など | トップページ | 谷崎潤一郎「吉野葛」、「蘆刈」を読む »

2016年6月12日 (日)

箱根・熱海行(その5・最終回)

熱海起雲閣へ行く。大正時代に実業家の別荘として建設され、昭和初年には別の実業家の所有となり増築され、戦後、さらに所有が変わって平成に廃業されるまで高級旅館として営業され、現在は熱海市有形文化財として市が管理し文化施設として一般公開されている。

歴史を感じさせる和風、洋風の建物内の造作が見ものだが、私が一番感じ入ったのは熱海、起雲閣にゆかりの文学者の展示部分だった。
展示されている作家は、武田泰淳、舟橋聖一、三島由紀夫、太宰治etcさまざまで、関わりの度合いは濃淡があり、三島のように新婚旅行で宿泊しただけというものから、執筆のため逗留した作家でも武田泰淳のような一度きりの人から、舟橋聖一のように熱海、起雲閣を愛し、繰り返し、かつ長期に滞在して執筆した作家もいたようだ。
展示品も舟橋聖一でいえば、原稿、愛用のパーカー万年筆、「花の生涯」の色紙etc大変充実している。

展示を見てわかったが、熱海と正真正銘最も深い関係にある文学者は坪内逍遥(1,859~1,935)だろう。面白かったのは坪内が学生時代だった明治12(1,879)年に「ふと」訪れた頃は、鉄道は「神奈川(横浜のことか?)」止まり、小田原までは人力車、その先は山かごという交通手段だったということ。神奈川、小田原そして熱海までを人力車と山かごを乗り継いで移動したというのはその隔世の感に驚かされるが、これは庶民とは住む世界が違うのかな、という感じもする。川端康成の「伊豆の踊子」を連想するが、これは高等学校の学生が、伊豆大島から出稼ぎに来ている旅芸人の一行と修善寺から下田までの道行きを共にする小説で、主人公の学生は全行程を徒歩で通していたはず。こちらは大正末年の作品だ。

坪内はその後も折に触れ熱海を訪れ、やがて別荘を構えて冬を熱海で過ごすようになる。晩年(大正9(1,920)年~昭和10(1,935)年)は熱海に居を構え(双柿舎(そうししゃ))、シェークスピアの全翻訳を成し遂げ、この地に没した由。また大正12(1,923)年に熱海町歌を作詞(作曲は弘田龍太郎)、市となった現在も市歌として歌われているようである。

別荘といえば谷崎潤一郎は晩年に熱海へ別荘を持った。谷崎は昭和17(1,942)年に初めて熱海へ別荘を持ち、「細雪」執筆にあたり、戦後も昭和20年代は避暑、避寒のため京都と熱海を行き来していたそうで、「源氏物語新訳」等の重要な仕事が熱海で為されている事を思えば、谷崎もまた熱海との関わりは浅からぬものがある。
また谷崎は生涯を通して引っ切り無しに転居を続けており、熱海に限っても5回も居を変えている(*)。こういう人もめずらしいのでは?

(*)芸術新潮2,015年12月号「谷崎特集」P.76-7。これを見ると谷崎は生涯で43回引っ越ししていて、享年79歳なので平均2年弱のペースで住まいを変えていたことになる。

そしてここ起雲閣にも足跡を残していて(下写真)、昭和23(1,948)年3月15日に志賀直哉と共に起雲閣を訪れ、滞在中の山本有三と会談した際の写真が展示されている。
昭和23年という年は、谷崎はこの時期熱海へ滞在して「細雪」の完結に追われていて、志賀もこの年から7年間熱海に別荘を構えていた。
下写真の小机左側は昭和56(1,981)年西武百貨店での日本近代文学館「志賀直哉展」の図録で、熱海別荘における志賀の写真の頁が開かれている。同右は谷崎の中央公論社「源氏物語新訳」。全12巻のはずだが、数えると13冊ある。その右端の小さめの本は「志賀直哉全集」。昭和30(1,955)年から翌年にかけて岩波書店から出版された新書版全集か(全17巻)?左から17,15,14,12巻の4冊。
これらの書籍は(財)神奈川文学振興会が寄贈したものだそうだ。

1img_5989

下は麒麟の間からガラス越しに見た庭園。格子の枠組が味わい深い。ここで囲碁の呉清源と岩本薫(当時は本因坊薫和)の十番碁の第10局が昭和24(1,949)年2月23、4日に打たれたそうだ。
別棟の「孔雀」では将棋第5期竜王戦第6局が谷川竜王(当時)と羽生王座によって平成4(1,992)年12月23、4日に戦われている。

1img_5970

下は麒麟の間の上階の「大鳳」からやはりガラス越しに見た庭園。
この部屋は太宰治が昭和23年3月18、9日に愛人の山崎富江と宿泊した由。

太宰は3月7日~31日まで別の場所にあった起雲閣別館へ滞在し、「人間失格」の執筆にあたったそうで、上の谷崎、志賀等の会談と同時期だったのは大変感慨深いものがある。
太宰はこの3カ月後に山崎富江と玉川上水へ入水した。

この大鳳の間に掛かっていたのが「霊峰飛鶴」という山本観月の軸装の日本画。どこかで見た気がして調べてみると、横山大観「富嶽飛翔」の構図と酷似していることがわかった。私は切手('67年の「国際観光年」)で大観の絵をおぼろ気に記憶していて、誰の作品なのか管理者へ質問したところ予期しない作家の名だったので、帰ってから確認した次第。
とまれここに富士の絵が飾られているのは太宰に「富嶽百景」があるからか。

1img_5973

下は昭和になって増築された「玉姫」のサンルームの天井。ステンドグラスになっている。
谷崎潤一郎、志賀直哉、山本有三が会談したのは隣の「玉渓」だった由。

1img_5979

下は尾崎紅葉展示室にあった「尾崎紅葉生誕100年記念四大文豪展」図録。

開かれた頁には、紅葉はじめ正岡子規、幸田露伴、夏目漱石の写真が出ている。どのような展覧会だったのか興味を覚えたが展示室には説明が一切なかった。帰って日本近代文学館の成田での「近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む」展図録('16.5/10「夏目漱石」展)をあたると、展覧会の記録に昭和41(1,966)年に「生誕100年記念 四大文豪展 紅葉・露伴・子規・漱石」展を松坂屋で開催した記録があった。名称が違うが、起雲閣の図録は多分これだろう。ただ近代文学館の展覧会の開催年は1,966年で、百年前は1,866年。紅葉1,868年、露伴・子規・漱石は皆1,867年と誰も1,866年生れではないのが疑問点である。

1img_6005

とまれ尾崎紅葉の「金色夜叉」により熱海が全国の注目を集めることとなった事を記念して海岸には「お宮の松」と貫一、お宮のブロンズ像がある。

1img_6035

1img_6037

起雲閣では「池田満寿夫展」、地元写真愛好会の発表展示会も開催されていて、庭園の散策とかもしたりして、思わず滞在が約3時間半と長時間になった。

« 福田進一のバッハチクルスの事など | トップページ | 谷崎潤一郎「吉野葛」、「蘆刈」を読む »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 箱根・熱海行(その5・最終回):

« 福田進一のバッハチクルスの事など | トップページ | 谷崎潤一郎「吉野葛」、「蘆刈」を読む »