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2016年7月27日 (水)

谷崎潤一郎全集第21巻拾い読み

谷崎潤一郎全集第21巻を図書館から借りて来て拾い読みをした。
3月の神奈川近代文学館「富士川英郎展」(「富士川英郎展」)では資料が展示室の丁度半分位だったので、残余部分を常設展示資料等で埋め合わせていたが、その中に谷崎の「東京をおもふ」(*1)の中央公論連載第1回の最初の頁があって、関東大震災当日に箱根で地震に遭遇する書き出しに強い印象を受けて一度読んでみたいと思いつつ時間が過ぎて行き、中央公論社の昭和43年刊行の旧全集の目録を見ていて21巻に収録されている事を発見し、借りてきた次第。

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執筆当時関西に居を構えていた谷崎が、震災を分岐点としてその前後の都市としての東京、東京人の人間性、文化などについて関西、時には西洋を引き合いに出して考察したものだが、今ひとつインパクトに欠けているような印象だ。
谷崎は震災前の東京市街の乱脈ぶり、当時の日本の工業製品(マッチ、懐中電灯etc)の劣悪な品質に嫌気がさしていたようで、当時は若かったこともあってか西洋志向だったようだが、震災後10年を経、近代都市へと復興を遂げつつある中、今度は幼時の東京へ郷愁を感じるようになり、西洋嫌いになったと述べる。
震災を契機に関西へ移り、東京、関西を比較できる視野の広さを身に付け、また明治期を知る身から東京人の言葉が変化している事へも言及する。いわく、下町、山の手言葉の区別が昭和9年当時にはなくなっていた。

他に数編を読んだが、以下のテーマの文章について記したい。
1.義太夫等の古典芸能
「所謂痴呆の芸術について」(*2)で義太夫を中心に歌舞伎、文楽なども論じている。
義太夫の「合邦(がっぽう)」を例に荒唐無稽、不自然、矛盾に満ちた筋立てに不快感を示すと共に、義太夫道は一生をかけても名人芸に達することが出来る才能はごく一部で、その他の者の芸は醜悪そのものと手厳しい。
「合邦」は謡曲の「弱法師」が踏まえられていて、「弱法師」の高雅、幽玄、優美な作風および自然、素朴なストーリーとは似ても似つかない猥雑、不自然、醜悪な作であり、また巣林子(近松門左衛門)のような自然、素朴な一流作品でなく何故「合邦」をはじめとする2流作品が江戸期に歓迎されたのか疑問を呈している。

歌舞伎、文楽については、義太夫に基づく人形浄瑠璃、時代狂言以外は以上の限りでないとしている。
上の理屈と矛盾するようだが、文末近く京都南座顔見世('47)の3世梅玉による玉手御前に感銘を受けたことを述べている。
谷崎が本文を草したのは、当時の義太夫の名人の山城少掾(やましろしょうじょう)(元2世豊竹古靱太夫(こじんだゆう))から辰野隆(ゆたか)(*3)の義太夫への文章に対する反論を依頼された事に拠るようだ。辰野は歌舞伎の6世菊五郎(谷崎は「饒舌録」で菊五郎を絶賛している)へも同種の事を書くか言ったかしていたらしい。
「痴呆の芸術」とは当時正宗白鳥が歌舞伎に対して称した語らしいが、上に見る如く依頼に反して谷崎は本論で辰野と同断することとなる。

先月この年令になって初めて歌舞伎座へ行き、夜の部の「狐忠信」(「道行初音旅」、「川連法眼館」)を見て来た(6月は第1部からすべて「義経千本桜」が演目だった!)。上の谷崎の論旨とはややずれるかもしれないが、佐藤忠信に化けた狐が静御前の旅のお供をしているのは、静が携えている初音の鼓がこの狐の親の皮から作られていてそれを慕っての事だという理屈なのだが、人間によって鼓に成り果ててしまったことは、自分から見れば許し難い行為に思え健気に静に随う子狐の心理は理解できない。根本のところで「狐忠信」は破綻しているように思えてしまうが、展開される舞台は永年蓄積されて来た一つの精華であることは間違いない所だろう。
解説用のイヤホンを妻と交代で聴きながら観たが歌舞伎の舞台の作法、囃子方、源平合戦の知識等初心者には分からぬことずくめで、何が何やらちんぷんかんぷんの内に終ってしまったという感が強い。
この時購入したパンフレットには6月の出し物の上演記録が載っていて、驚くべきことに70年前からの記録が網羅されている!「狐忠信」の前半「道行初音旅」を見ると昭和21年10月の大阪歌舞伎座で6世菊五郎の忠信、3世梅玉の静御前が出ている!

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昨年末のEテレで放映された京都南座顔見世興行では「義経千本桜吉野山」とあり、囃子方、舞台、衣裳etcことごとく違っていて個人的には南座の方へ軍配を上げたいと思っている(上記上演記録にあり)。また南座では頼朝の手勢逸見藤太の部分は省略されていた。

また「雪」(*4)で地唄を随筆風に論じている。
東京日本橋で生まれ育った谷崎は長唄、清元には幼時から親しんでいたらしいが、関西の地唄は成人するまで知らなかった由。
その地唄の名曲「雪」を40代前半頃に菊原検校という名人で聴いてからその魅力に取りつかれた由。
この曲は、天明~寛政年間に峰崎勾當により作曲された。「勾當」は盲人の官位で「検校」に次ぐもので、この人には「手事もの」に「残月」という傑作もある由。「手事もの」とは曲中器楽部分が大きく入るものを言う。これに対して「雪」は唄ものという由。

谷崎はこれらを実演のみならずレコードで聴きこんでいたようだ。同一曲を数種所有していたようで、例えば「残月」はヴィクター赤版の尺八(吉田清風)、筝(宮城道雄)なども持っていたらしい。
戦時熱海に別荘を持って「細雪」の執筆に専念した谷崎はその合間にこれらのレコードを聴いて疲れを癒していたようだ。
取り分け繰り返し聴いたのは「雪」、そして上の山城少掾と4世鶴澤清六(三味線)の「合邦」だったようだ。
義太夫に生理的嫌悪感を語る谷崎だが、名人による演奏には理屈では説明できない魅力を感じていたようだ。

2.源氏物語の現代語訳について
「谷崎源氏」は谷崎の業績の中でも最も重要な一つと言えるだろう。この全集第21巻でもこぼれ話という感じで訳業について語っている文章が入っている。
「源氏物語の現代語訳について」(*5)は、昭和10('35)年秋から他の仕事をほぼ絶って専念した現代語訳の作業の目途が立った頃に発表され、基本方針、作業体制、簡単な所感等に触れている。
校閲に山田孝雄(谷崎潤一郎展-2)を迎え、博士の添削は懇切丁寧を極め、谷崎もその真摯さに背中を押され、訳業に打ち込むことが出来たそうだ。
博士の助言を参考に、テキストは「湖月抄」とし、「岷江入楚」(古い注釈書)を最も参考にして、文学的に訳す事を心がけたそうだ。
「源氏」の文章の魅力は、「色気」にあり、西鶴物と並び古典中随一と云う。
原文の曖昧な表現は訳文に踏襲させたそうだ。10回読み返してようやく意味が理解できる感じを、訳文では2、3回で分かるようにしたとのこと。
使われている語彙は多くないようで、形容詞では「面白し」、「をかし」、「なまめかし」等少数の定型的な語が繰り返し使われる中で微妙な綾が表現されている由。

絶筆「にくまれ口」(*6)は、文字通り「源氏」へのにくまれ口を叩いている。
「源氏」へ最初にチャレンジしたのは中学4,5年頃で、やはり「湖月抄」を参考に読むも挫折を何度か繰り返し、最後まで通読し終えたのは一高時代だったそうだ。
「帚木」で空蝉とか軒端の荻といった行きずりの女へ、やっと17になった青二才(光源氏)が似つかわしくない白々しい口説き文句で迫るのは、藤壺という女性に恋心を持つ者が倫理的に出来る筈のものでないという。
「夕顔」でも光源氏は、六条御息所の面前で仕えの女房へ手を出すような所作をしているのが谷崎にはどうにも許し難かったようだ。
等々谷崎は光源氏は好きになれなかったそうで、光源氏の肩を持った作者の紫式部へも反感を抱いていたそうだが、作品としては偉大なこと古今及ぶものがないと断ずる。
「源氏」の文章の対極にあるのは鴎外だそうで、鴎外は「源氏」を一種の悪文とした由。

「春琴抄後語」(*7)では、「帚木」の雨夜の品定めの條の文体、会話と地の文が複雑である点を挙げ、それが文章の美しさを出していて、自作品の「卍」とか「蘆刈」(谷崎潤一郎「吉野葛」、「蘆刈」を読む)へ応用した事を述べている。
蛇足になるが、この文章は「春琴抄」の体裁にについて述べたもので、小説の形式には会話と地の文が明確に分かれた本格(近代)小説と地の文が主体の物語とがあり、本格小説は老齢に及ぶと面倒になって来るのだそうで、作者としても場面描写、会話の推敲が面倒で、読者も叙事文で一枚で足りる事を長々読まされるのが煩わしくなると言う。
荷風を例に「つゆのあとさき」(谷崎潤一郎「饒舌録」他を読む)が本格小説、「榎物語」(*8)が物語として、本当らしさでは「榎物語」が勝るという。

「源氏」はやはり読んでおきたいと改めて思った。自分に残された時間からして、少なくも「谷崎源氏」ででも。

その他読んだものは以下の(*9)~(*11)参照。

(*1)「東京をおもふ」 「中央公論」昭和9('34)年1~4月号
(*2)「所謂痴呆の芸術について」 「新文学」昭和23('48)年8~10月号
(*3)仏文学者(1,888~1,964)。父は辰野金吾(建築家。東京駅の設計者)。谷崎とは府立1中、1高時代からの親友。
加藤周一「羊の歌」(岩波新書)に「仏文研究室」という章があって、太平洋戦争の頃東大医学部の学生だった加藤は文学部の講義も聴講し、特に仏文科へ足繁く顔を出していたそうで、当時の仏文科は教授が辰野隆、助教授は渡辺一夫他、中村真一郎は仏文科の学生だったようだ。辰野の教え子は他に伊吹武彦、小林秀雄、井上究一郎、中村光夫等がいる。

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「羊の歌」には「ある晴れた日に」という章で、開戦の日の晩に新橋演舞場へ文楽を観に行くくだりがある。この時の義太夫が2世豊竹古靱太夫だったそうで、出し物は文脈から「艶容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)だったようである(安永元年12月26日(西暦1,773年1月18日)大坂豊竹座で初演)。このブログを書くまで開戦の日の晩に加藤が観たのは水道橋の能楽堂の謡曲と勘違いしていたが、今回その誤りに気が付いた。謡曲の方は、戦時中の灯火管制の中、能楽堂で加藤は梅若万三郎(これも文脈から推して一世か?)等を聴いていた。それは「仏文研究室」の次の「青春」という章に記されている。
辰野の著書「忘れ得ぬ人々」(講談社学芸文庫。'91年)は是非読んでみたい。
(*4)「雪」 「新潮」昭和23('48)年10月号
(*5)「源氏物語の現代語訳について」 「中央公論」昭和13('38)年2月号
(*6)「にくまれ口」 「婦人公論」昭和40('65)年9月号
(*7)「春琴抄後語」 「改造」昭和9('34)年6月号
(*8)「榎物語」 「中央公論」昭和6('31)年5月号(荷風全集第8巻(昭和38('63)年)) 東京市郊外の小寺の住職の遺言(懺悔)を候文体で綴る。煩悩、人生の偶然性がテーマ。百両の大金を運命のいたずらで手にした事から始まる住職の人生が語られる。
(*9)「私の貧乏物語」 「中央公論」昭和10('35)年1月号 作家が作品を紡ぎ、生活するために必要な費用。谷崎は月々百円という。現在で幾ら位になるのだろう?また彼の遅筆へも言及。 
(*10)「明治回顧」 「東京タイムズ」昭和33('58)年1月 少年時代について。隅田川中州にあった土佐藩下屋敷。人形町界隈。米問屋(蠣殻町)、魚河岸(日本橋川沿いの日本橋北岸(今の日本橋本町あたり?))
(*11)「気になること」 「中央公論」昭和34('59)年1月号 新聞雑誌で日頃目に付いた悪文の例示。文学においての例示として、斎藤茂吉の短歌、大江健三郎「他人の足」からの例を挙げる。大江作品は当時東大在学中のもので、単行本「死者の奢り」所収のものを取り上げている。新進の作品への目配りをしている点が注目点。

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