« 2016年7月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月

2016年9月 5日 (月)

「マチネの終わりに」を読む

平野啓一郎の「マチネの終わりに」を読んだ。

面白く、読み応えがあり、充実した読書をすることができた。
恋愛小説である。作者がその年代ということから40代の恋愛が描かれている。

1img_6121

「マチネの終わりに」は「現代ギター」誌で知って、クラシカル・ギタリストが主人公ということで読んだわけだが(*)、それは作品の一要素に過ぎず、作品世界の広さに瞠目させられた。「現代ギター」では作中に出て来るギター作品をリストアップしていて、確かにそれは少なからぬ数ではあるが、ギター曲もしくはギターにちなむエピソードが出て来る頁は相対的にはむしろ余り多くないと言ってよいかもしれない。

*(福田進一のバッハチクルスの事など('16.6/5)

それにしても何という展開であることか!
そして何という魅力的な登場人物を創造し得たことか!

この作品で一番衝撃的だったのは第6章後半の主人公同士の無体な別離の顛末だ。恩師の不測の病を発端に、様々な要素が積み上げられ、決別するに至ってしまう不条理!
ただ作者も共感を持って書いているように別離の触媒(?)役をすることになる女性は、道義的に許し難い事をしているにも関わらず、そのひた向きさ故に、作品中にその存在の場をしっかり確保している。その説得力に作者の力量を感じた。

「マチネの終わりに」はエピソードを丁寧に展開して行き、その成り行きが読者によっては納得できない方向へ行ったとしても、説明も尽くされており、一つのストーリーとして受け止め得るものとなっている。また恋愛当事者の女性が、これほどの才色兼備であるのも類を見ないのでは。

小峰洋子というヒロインは、クロアチア人の映画監督の父、被爆体験をした長崎出身の母を持ち、パリを拠点に内紛のバグダッドを取材するジャーナリスト(結果PTSDを病んで、第6章の破局を主導することとなる)、小説後半ではニューヨークでの結婚生活、離婚後は国際人権監視NGOのジュネーヴ支部とニューヨーク本部を行き来する生活、と世界を股に架ける才媛だ。
そして父であるイェルコ・ソリッチ監督の「幸福の硬貨」というパルチザン映画の主題曲がギターを用いており、この曲が小説の印象的なシーンで奏でられ、重要な役割を果たすという心憎い演出。それに留まらず、「幸福の硬貨」という題名の由来にまで話は及び、リルケの「ドゥイノの悲歌」から採られたものだというくだりに来て、またも作者に瞠目させられた。

3月に行った神奈川近代文学館の「富士川英郎展」(「富士川英郎展」(3/29))でリルケに「ドゥイノの悲歌」という重要作品があることを初めて知り、一度読んでみようと記憶に留めていた矢先だっただけに、本作でこの名を目にした驚きは大きかった。巻末には小説に引用される第5の悲歌の部分を平野自らが訳したとある。
小説ではめずらしいと思うが、ここには参考文献が列記されていて、現代史へも目配りが行き届き、彼の勉強家ぶりを窺わせる。4月に行った鴎外記念館で見た彼の鴎外文学への鋭い指摘を思い出す。(鴎外記念館行(4/21)

スペインの盲目の作曲家ホアキン・ロドリーゴに「トッカータ」というギター作品があることもこの小説で知った。ロドリーゴのギター曲は大体頭に入っていた筈が、「トッカータ」は記憶になく、調べてみると最近発見された曲とのこと。最近ギターから縁遠くなっていて、引っかかってしまった次第。

またキューバの作家アレッホ・カルペンティエールの「失われた足跡」も作品名が出て来る。かつてFMファン誌上に載った辻邦生のエッセイで知って読んだことがあり、印象深い作品である。蒔野の「難儀な本」というのは当たらないと思うが・・・

エピローグの最後、多分ミスプリントだと思う箇所があり、それはP.401の後ろから5行目文末の「・・・そこいる」の部分だが、脱字で「そこ<に>いる」が正しいのでは。

それにしても、ロドリーゴ以外にもソル、ヴィラ=ロボス、タンスマン、ブローウェル、バリオスといった作曲家達の名前が当たり前のように出て来て、「練習曲集」、「ガヴォット・ショーロ」、「カヴァティーナ組曲」、「黒いデカメロン」、「大聖堂」他々といった曲名が随処に出て来る小説に巡り合えるとは思いもしなかった。
取り分けギター音楽においても格別の地位を占めているバッハ作品(本作では無伴奏チェロ作品)が本作においても重要な役割を与えられていることも印象的だった。

« 2016年7月 | トップページ | 2016年10月 »