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2016年11月30日 (水)

奈良・京都旅行-5(正倉院展)

朝食後部屋へ戻り、小憩後フロントでチェックアウトした。
荷物はホテルへ預け、第68回正倉院展の会場の奈良国立博物館新館へ向かう。
入り口前はいつもの事ながら長蛇の列が出来ていた。

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今回は旅行前日の10月30日(日)に日曜美術館で正倉院展の特集が放送され、タイミングよく予習ができた。
今回印象に残ったのは、漆胡瓶(しっこへい)で、優美な形状と表面を覆う精緻な装飾文様が見事だった。

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それと、「鳥木石夾纈屏風(とりきいしきょうけちのびょうぶ)」。布地を染める夾纈(きょうけち)という技法で作られた屏風で、平成19('07)年の第59回で見た「羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」を思い出した。平成15('03)年の切手趣味週間の図柄となった屏風だ。
また初出陳となる当時の貨幣である「和同開珎(わどうかいちん)」①と「神功開宝(じんぐうかいほう)」②。②は一枚のみの展示だったが、①は15枚で、それぞれ少しずつ大きさとか字体とかが異なっている。今年1月に行った「三井家伝世の至宝」展で三井高陽(たかはる)の切手コレクションを見た時と同種の感慨を覚えた。「和同開珎」とかが古銭市場に出回っているとは思えないが、出ているとしたら価値は切手の竜文切手どころの話ではないだろう。
日曜美術館でも取り上げていたが、貨幣鋳造の材料として当時使用されていたらしいアンチモンのインゴットが展示されていた。錫の代替として国内で産出するアンチモンを銅との合金の材料として使ったようだ。

また聖武天皇(*)一周忌斎会で使用された大幡関係が一室を占有し、特集のような形で展示されていた。これに因んだ図録巻末の内藤栄氏(*2)の小論「聖武天皇の輿(こし) 葬儀と一周忌斎会をめぐって」を興味深く読んだ。
葬儀と一周忌斎会の儀式がどんなもので、どのような教義によったのかを考察している。基本資料を「続日本紀」に拠り、他の研究者の論考を参考にして論を進めている。

一周忌斎会で動員された僧侶は何と千五百人!
教義として採用されたのは「梵網経(ぼんもうきょう)」で、その根拠として、聖武天皇崩御の年である天平勝宝八歳(756)12月30日の孝謙天皇の勅を示している。
「梵網経」は、天平勝宝六歳(754)に鑑真和上から聖武天皇が、光明皇后、孝謙天皇と共に授けられた菩薩戒の際にテキストとなったと推定されているとの事。
また「梵網経」による功徳により、冥界の聖武天皇を「花蔵の宝刹(けぞうのほうさつ)」へ到ることを願意としている由(*3)。
「花蔵の宝刹」とは盧舎那仏の世界のことで、「梵網経」では「蓮花台蔵世界界(れんげだいぞうせかいかい)」という由。

一周忌斎会は、天平勝宝九歳(757)5月2日に東大寺のみならず、全国の国分寺で一斉に行われたというから、当時の国家権力の基盤のゆるぎなさが偲ばれる。
(*)図録は年表以外は「聖武天皇」で統一しているが、崩御時すでに譲位していたので「太上天皇(だいじょうてんのう)」と称するのが正しいが、煩を避けるため、敢えて「聖武天皇」と云っているのだろう。同様に光明皇后は「皇太后」が正しい。
(*2)日曜美術館へも解説者として今年も出演した。
(*3)やはり内藤氏が執筆した図録巻頭の「概説」でも、国家珍宝帳の光明皇后の願文に、聖武天皇の御霊が「花蔵の宝刹」に到ることを宝物献納の目的だったと記されている事に触れている。

今年も会場内はどこも混雑していて、じっくり鑑賞する環境からは程遠かったが、自分なりに正倉院展を味わう事は出来て、来てよかったと思っている。
ホテルへ戻り、ティー・ラウンジでコーヒーを飲み、ショップで買い物をし、タクシーで近鉄奈良駅へ行った。
15時35分発の特急へ乗り込み、京都へ向かった。

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