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2017年4月

2017年4月30日 (日)

夏目漱石「吾輩は猫である」-6(最終回)

漱石「吾輩は猫である」もようやく最終回へこぎ付く事が出来た。
既に書いた事だが単なる滑稽小説にとどまらぬ広がりと深さを持ち、以後の漱石を予感させるすべてがここに内包されていると言ったら言い過ぎだろうか?

とまれ、人生の折々に作品へ親しみ、その都度新鮮な感興を受けて来た漱石であるが、残された時間はあとどの位なのかわからないが、今後も漱石は読んで行きたいと思っている。

今回は、寒月のモデルである寺田寅彦関連で「猫」を契機に派生した事を綴り、また末尾へ本ブログ「猫」シリーズにあたっての参考書目を記して終わりたい。

森まゆみ「千駄木の漱石」の「寺田寅彦の原町、曙町」冒頭に、
「友だちが「僕にとって最初の、一番性的興奮を感じた文学作品は寺田寅彦の「団栗」だ」と言うのを聞いて驚いた。今読み返してみると彼の言った意味がよくわかる。」
とあり、書き出しが刺激的なので手元の「寺田寅彦全集」第1巻をあたってみると「どんぐり」があった。読んでみたが、森が書いているような意味合いは私には理解できなかった。

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上は岩波版寺田寅彦全集第1巻。

が、この章は寺田のプロフィールを漱石との交友も絡め、簡潔に紹介していて大変参考になった。

寺田の文章は淡々として無駄がなく、そして格調が高い。底には科学者らしい冷静さも備わっている。
漱石の文章から移ると、ほっとするような感じも受ける。
ちなみに「どんぐり」は明治38年4月の「ホトトギス」へ掲載された。漱石の「猫」第三、「幻影の盾」と同じ号だ。寅彦27才。その5年前にして既にかくも厳しい悲哀を経験しているとは!

また旧版全集(昭和49年版)附録として入手した昭和10年版全集月報の中谷宇吉郎の文章も併せ読んだ。中谷が月報へ寄せた3編の文章は、漱石と寺田の交友、漱石作品への寺田の関わりについて寺田寅彦から直接耳にしたエピソードを、師である寺田への追懐の念を込めて記された今となっては大変貴重で、興味深い内容である。

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上は中谷宇吉郎「科学の方法」(岩波新書)昭和33年第1刷。私のは昭和46(1,971)年の第16刷。10年余でのこの増刷で、当時はよく読まれていた事がわかる。

中谷の3編中の昭和12(1,937)年の月報第17号の「冬彦夜話」に、寅彦の述懐で上の「猫」第三に出て来る金田家の令嬢とのエピソードが、最初の妻を亡くし意気消沈していた寅彦を慰める意味合いも込めて漱石によって書かれたという話が出て来る。「ホトトギス」の同じ号に載った「どんぐり」が亡き妻の追憶の文章である事を思うと、複雑な思いがあるが・・・。

また昭和11(1,936)年の月報第9号の「「光線の圧力」の話」では、「三四郎」についての話だ。
大学の地下の実験室に籠もって研究に余念がない野々宮さんが描かれるが、これも寺田がモデルとなっている。その物理の知見に関する記述は、漱石が寺田の助言により「三四郎」へ反映させており、連載時の初出と単行本初版とで訂正、削除があってテキストが異なっている由。
その異同は小宮豊隆の教示のようだが、中谷の目で見ても訂正後の記述が妥当である由。当時の全集は「勿論単行本の際に訂正されたもの」を採用していると中谷は強調している。
「その4」で触れた本文テキストに関する話になる訳だが、これを記している時点で、私は自分の目で定本版と旧版のテキストを比較確認していない(定本版は現在刊行中で、「三四郎」の巻は多分発売済みだと思う)。
この「三四郎」のケースでは、自筆原稿優先という原則は適当でない事になる。
(終わり)

参考書目
1. 「吾輩は猫である」全224回 平成28年4月1日~平成29年3月28日 朝日新聞 
2. 定本漱石全集第1巻(吾輩は猫である) 2,016年12月9日 岩波書店
3. 漱石全集第1巻(吾輩は猫である) 昭和49年12月9日第2刷 岩波書店
4. 漱石全集第2巻(短篇小説集) 昭和50年1月9日第2刷 岩波書店
5. 漱石全集第8巻(小品集) 昭和50年7月9日第2刷 岩波書店
6. 漱石全集第13巻(日記及断片) 昭和50年12月9日第2刷 岩波書店
7. 漱石全集第27巻(年譜他) 1,997年12月19日 岩波書店
8. 漱石全集第35巻(補遺 漱石作品発表月次表他) 1,980年5月6日 岩波書店
9. 漱石全集第1巻月報1 平成5(1,993)年12月9日 岩波書店
10. 漱石全集月報(昭和3年版、昭和10年版) 漱石全集(昭和49年版)附録 昭和50年12月9日岩波書店
11. 「寺田寅彦全集」第1巻 1,977年7月12日第9刷 岩波書店
12. 荒正人著、小田切秀雄監修「増補改訂 漱石研究年表」 昭和59年6月20日第1刷 集英社
13. 大岡昇平「小説家夏目漱石」 1,988年8月25日初版第6刷 筑摩書房
14. 小宮豊隆「夏目漱石二」 昭和49年4月30日第15刷 岩波書店
15. 森まゆみ「千駄木の漱石」ちくま文庫 2,016年6月10日第1刷 筑摩書房
16. 富士川英郎「読書清遊」講談社文芸文庫 2,011年6月10日第1刷 講談社
17. 北野豊「漱石と歩く東京」 2,016年4月10日第4刷 雪嶺文学会
18. 「100年目に出会う 夏目漱石」展図録 2,016年3月26日 神奈川近代文学館

夏目漱石「吾輩は猫である」-5

今回は、NHKFMで今年の2月4日に漱石生誕150年に因んで放送された「クラシックの迷宮―夏目漱石と音楽」について触れたい。

「クラシックの迷宮」は、ユニークなテーマで構成される土曜夜の1時間番組で、片山杜秀の博識が見事だ。片山はこの3月まで朝日新聞で文芸時評も担当していた。こちらはほぼ毎回愛読し、やはりその博識ぶりに舌を巻いていた。

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上はその最終回(朝日新聞平成29年3月29日(水)。終わってしまい残念。

漱石の西洋音楽への親しみは、さほど深くはなかったそうだ。
それでも「猫」で寒月がヴァイオリンを手にしたり、「それから」で代助がピアノに触れる場面とか作品へ登場させている。
「猫」でも明らかなとおり、漱石はどちらかというと、能楽とか義太夫といった邦楽へ親しんだようだ。
寺田寅彦との交友から東京音楽学校のコンサートでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いたりもしている由。

「クラシックの迷宮」当夜の曲目は以下のとおり(2,3以外は部分的な紹介)。
1. 宝生流「高砂」
2. ケーベルの歌曲2曲(ソプラノ、ピアノ伴奏)
  「何故薔薇はかくも白いのか?」(ハイネの詩による)
  「陽光眩しい日々」(ガイベルの詩による)
3. 滝廉太郎「恨み」(ピアノ独奏)
4. 広瀬量平「夢十夜」(和楽器アンサンブル)
5. 林 光 オペラ「吾輩は猫である」から
第1場 橋
第2場 庭
第21場 座敷、夜
6. 林 光 映画「心」テーマ音楽
(以上)

「高砂」が冒頭置かれたのは、一時は漱石が謡曲の手習いをしていた事から。

次のケーベルは、漱石全集の「ケーベル先生」でその名は知っていたが、今回の放送でケーベルの音楽との関わりについて初めて知り、ちょっと驚かされた。
以下にケーベルの経歴をメモ風に記す。
ラファエル・ケーベル(1,848-1,923)は、代々ロシア在住ドイツ人の家に生まれ育ち、モスクワ音楽院でチャイコフスキーに作曲を師事(!)。やがて音楽の道を断念し、ドイツで哲学、美学を修め、ハルトマンの元で哲学の研究にいそしむ。井上哲次郎の招聘で東京帝国大学哲学科教授として来日、1,893(明治26)-1,914(大正3)年まで教鞭を執り、哲学、美学、ギリシア語、ラテン語等を講じた。来日の初年度、学生だった漱石もケーベルの講義を受講している。
また1,898(明治31)-1,909(明治42)年東京音楽学校においてピアノ、音楽理論も講じた。

以上だが、改めて「ケーベル先生」(明治44年)へ目を通すと、その篤実、謙虚で寡黙な人柄が漱石の文章から伺え、且つ漱石が深くケーベルを敬愛していた事はその経歴からも納得できる。
1,914(大正3)年に離日するはずが、第1次大戦の勃発により急遽中止となり、結局日本で生涯を終えたというドラマティックな晩年だ。没年は1,923(大正12)年、関東大震災の年である。
漱石は「ケーベル先生の告別」(大正3年8月12日)で離日にあたっての送別の辞を、「戦争から来た行違ひ」(大正3年8月13日)で離日が中止となってしまった事の訂正文をその翌日に、それぞれ朝日新聞へ寄稿している。

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上は早稲田南町時代の書斎の漱石。恬淡とした様子が千駄木時代より好もしい。旧版全集第8巻口絵のもので、「ケーベル先生の告別」を書いた大正3年12月のもの。

放送で流れたケーベルの2つの歌曲は片山が言っていたように19世紀ロマン派の典型的ドイツ・リートで、シューマンともシューベルトとも違う、哀愁を帯びた第1級作品だと思う。

ケーベルは、東京音楽学校で滝廉太郎を指導したそうで、滝のドイツ留学にあたっては推薦状を認めているそうだ。放送された彼のピアノ曲「恨み」は、素朴な、どちらかと言えば稚拙な作品だが、滝の才能の片鱗を感じさせるものがあり、ケーベルが推薦したのも頷ける。
富士川英郎によると、滝が一時(1,895(明治28)~98(明治31)年)住んだ西片町九番地は富士川の生地であるらしい。富士川は1,909(明治42)年生まれなので、滝が転居してから11年後になるわけだ。

林光のオペラ「猫」は、ユーモリスティック、諧謔的な曲調が「猫」によく合っていると思う。オペラよりオペレッタという方が妥当と思うが。2時間30分の大作で、演奏は登場人物(猫を含む)と、楽器はヴァイオリンとピアノ各1台のみ。放送では当然ながら部分的な紹介をした。
第1場は漱石のテキストではなく林自らのもので、日露戦争へ出征する兵士の壮行場面のようで、マーチ風の威勢良い音楽は「猫」にピッタリだと感じた。
第2場は「猫」第1章冒頭部分のテキストをピックアップしている。
第21場「座敷、夜」(最終場と思われる)は、第11章の寒月がヴァイオリンを購入するに至る経緯を東風、迷亭等へ語る場面で、話が中々先へ進まず聞き手が焦れるところ、放送で流れたのは定本版P.494~P.502(旧版P.468~P.476、連載198~200回)で、テキストはやはり随所のピックアップだ。
それに続く猫のモノローグは、聴いた範囲でもそれと頷けるが、片山によるとこのオペラでは猫は死なずに旅に出るのだそうだ。始めと終わりを林自身がテキストを書き、作品としてユニークなものとなっているようだ。

番組最後の曲も林光作品。林が作曲した新藤兼人監督作品、映画「心」のテーマ音楽である。ジャズ風な洗練された曲で、トランペットのソロが哀愁あるメロディーを奏で、そこにピアノ、更にダブルベースの伴奏が加わる。ピアノが淡々と刻む和音が切なさを募らせる。やがてそこへチェロ、そしてヴァイオリンの対旋律が入り、物憂い、やるせない感情を表現して行く。
「心」に相応しい音楽と言えるだろう。
(続く)

2017年4月26日 (水)

夏目漱石「吾輩は猫である」-4

その1に書いたように今回は第九から定本版で読んだ。偶々図書館の書架で目にした事が定本版で読むきっかけだったが、為に以下のような体験が出来た。
第十の出だし、或休日の苦沙弥家の朝、散々妻君から催促されてようやく寝床から起き出し、洗面所から茶の間に苦沙弥が座を占める件り。このすぐ後に三人の女の子達(とん子、すん子、坊ば)のドタバタが始まる直前の場面で以下の記述に遭遇した。
「長火鉢と云ふと欅の如輪木か、銅の総落しで、洗髪の姉御が立膝で、長烟管を黒柿の縁へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが。わが苦沙弥先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない。」
(定本版P.420 l.11~13)
上の通り2センテンスに分れているが、中間の句点を読点として1センテンスとするのが普通なのではないかと読んでいて思った。念のため手元の旧版の当該箇所へあたってみると、こちらは読点となっている。朝日の連載(岩波文庫版)も読点である。
定本版の巻末の校異表を見てみると、「420 12 が。わが (単)が、わが」と拾われている。最初が定本版に採用されたテキスト、後の(単)とは単行本初版(ここでは下編)の事である。
以降定本版で読み進めて、同様に気が付いた箇所を以下に整理してみた。

   章      定本版              旧版         連載 校異表 定本版の底本 テキスト
1 第十   P.420 l.12              P.397 l.15(最終行)  172   有    ホトトギス    上の箇所
2  〃     P.464 l.14(最終行から2行目) P.440 l.1          188   無    ホトトギス     下の2
3  〃     P.470 l.2               P.444 l.15(最終行)  189   無    ホトトギス    下の3
4 第十一  P.534 l.11               P.506 l.11            212    無    原稿          下の4

テキスト(上:定本版、下:旧版、連載(岩波文庫版))
2「女は中々利口だ、考へに筋道が立って居る苟も人間に生まれる以上は・・・」
 「女は中々利口だ、考へに筋道が立って居る。苟も人間に生まれる以上は・・・」
3「傍にあった読売新聞の上に・・・」
 「傍にあった讀売新聞の上に・・・」(旧版)
 「傍にあった『読売新聞』の上に・・・」(連載(岩波文庫版))
4「だから貧時には貧に縛せられ。富時には富に縛せられ。憂時には憂に縛せられ。喜時には喜に縛せられるのさ。才人は才に斃れ、智者は智に敗れ。苦沙弥君の様な・・・」
 「だから貧時には貧に縛せられ、富時には富に縛せられ、憂時には憂に縛せられ、喜時には喜に縛せられるのさ。才人は才に斃れ、智者は智に敗れ、苦沙弥君の様な・・・」

あと、その3で触れた第八の「三帀」(定本版)と「三匝」(旧版、連載(岩波文庫版))という漢字の違い。
1,2,4共に句点と読点の選択及び句点を入れるか否かの違いで、これらに限れば、私はすべて定本版でない方を取りたい。
3は読売新聞に括弧が付くか否かで、全集版は新旧共に付かない。また定本版は新字体を採用している。
何故定本版が不自然としか思えないテキストを選択したのか、素朴な疑問を覚えるが、それについては巻末の後記にテキスト確定の方針が記されている。
優先順位として、まず自筆資料(原稿)、次に初出資料(「猫」の場合は「ホトトギス」)に拠った由。
ただ「猫」は参看できる原稿が少なかったようで(ほとんどの原稿が現存しないか否かの記述は曖昧)、ほとんどは「ホトトギス」に拠っているわけだ。
上の比較で明らかなとおり、校異表にあったのは1のみである。後記によると定本版テキストとの校異は、自筆原稿、「ホトトギス」、初版本、上編第六版のみを対象としている。
また、そもそも校異表は第一義的には底本を修正した場合にその内容を示すためのものだと明記されている。
以上から2、4の箇所は、定本版テキスト、原稿、「ホトトギス」、初版本に違いがないと解釈できる。

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上は「猫」初版本表紙カバー(朝日新聞平成28年3月19日から)

下は上、中、下編のそれぞれ左からカバー、表紙、扉絵、そして捜画(同上)

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とすると、旧版全集は何に拠ったのだろう?まさかテキストを勝手に変更してしまったのではあるまい。あるいは校異表の不備か?

それはともかく、そもそも定本版のテキスト確定の方針自体が特殊だと思う。普通は原稿よりは初出誌、「猫」の様な連載は更に単行本化された書籍、更に幾次にも亘る全集がある訳だから過去の全集、と云う具合に後ほど優先度が上がるのではないかと思うのだが、定本版の方針は逆である。

とまれ、定本版を通して貴重な体験が出来たと思っている。
(続く)

2017年4月21日 (金)

夏目漱石「吾輩は猫である」-3

漱石が一高の講師となった明治36年5月、日光華厳滝で藤村操が投身自殺をした。
「猫」十終わり近くに苦沙弥を訪問した生徒が悄然と引き上げるところを、猫が「巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない」と揶揄する場面がある。
注解には藤村の遺書全文が載っていて、何と藤村は一高で漱石の生徒だったとある。
森まゆみ「千駄木の漱石」は「寺田寅彦の原町、曙町」で、自殺の1週間前漱石は授業で藤村を厳しく叱り、それが自殺に影響したのではと責任を感じ、一時は気に病んでいたと記述するが、その3年後に「猫」十を書く時には気持ちの整理がついていたのだろう。
なお、森まゆみ同上書は藤村の自殺を最後の授業の1週間後と書いているが、誤りで2日後の5月22日である。
他にも同上書のちくま文庫用に書き下ろした「千駄木以後の漱石」でも、「明治42年の「三四郎」」(*)とか、「「門」執筆中に胃潰瘍で・・・入院」(*2)と書き、これらもそれぞれ「明治41年」、「連載終了後」の誤りだ。
とても面白く、示唆に富む好著であるだけに素人でもわかるミスがあるのは残念だ。
(*)P.327
(*2)P.329

小宮豊隆は全集解説で「猫」第一と第二以降との相違点として、「殊に第三以下の溌剌として、天馬空を行く」感がある一方、第一は高浜虚子により添削されて生気を失っていると述べている。
一方、新版全集(93年)の月報1で寺田透は「猫」随所の冗長さが看過ならぬようで、「猫が・・・くだりは、・・・大幅削除の下心を目覚めさせる」と書き、苦沙弥の三人の女の子を登場させるのは無駄etcと述べている。
また、昭和3年版月報1号の高浜虚子「「猫」の頃」を見ると、第一では無心に意見を言い合えたのが、漱石の名声が高まるに連れ、言いたいことも言えなくなってしまったとあり、第二以降でも虚子にとって冗句は幾つもあったようで、寺田の感想を補強する趣旨の内容となっている。

苦沙弥一家のほのぼのとした描写は「猫」を生き生きとしたものにしているし、私は十章で三人の女の子が朝食の食卓で繰り広げるドタバタは「猫」に無くてはならぬ箇所だと思う一方で、第一の引き締まった文章は作中随一だとも思うし、第二以降、特に第十、十一に至っては文章自体の冗長さが正直読んでいて鼻についた。
そういった文章の調子以外でも「猫」の記述は不統一であり、迷亭は第一では美学者、独仙が第八で初登場する時は、哲学者となっていて、それらを修正する機会は単行本化する際にあったにも係わらず、そのままで今日に至っているわけだが、そういった諸々の細かいアラが「猫」の価値、漱石の非凡さを逆に高めているように思う。

寺田透という人を、私は神奈川近代文学館で昨年の「富士川英郎展」(2016年3月29日 (火))で初めて知り、その約一月後「鴎外記念館」でコピーした鴎外全集第2次月報でも氏の文章を読んだ。(2016年4月21日 (木))
富士川と云えば彼の随筆「夏目漱石の手紙」で、「猫」の甘木医師のモデルの尼子四郎へ言及し、漱石の神経衰弱の治療へも関与していた由へ触れている。
富士川は、寒月のモデルの寺田寅彦の子息の寺田正二の友人で、何と生年月日が同じだったそうだ。東大独文科在学中仏文の辰野隆(ゆたか)(2016年7月27日 (水)*3)のフランス文学の講義も聴いて傾倒するようになり、辰野の随筆集は出る度に入手、愛読した由。(富士川「思出の記」27、22)

「猫」の白眉は第二だと思う。
苦沙弥の偏屈な人となり、妻君とのドタバタ(摂津大掾を見に行こうとするが果たせず)、迷亭のトチメンボー、首懸けの松の話、何と言っても吾輩の猫仲間の登場は第二までである。
「太平の逸民」という言葉が出て来たり(注解を見ると「趣味の遺伝」では「天下の逸民」とあるらしい。そう言えば約40年前これを読んだ際に、どういう訳か頭へ刻み込まれたのが、「余の如きは黃巻青帙の間に起臥して書斎以外に如何なる出来事が起るか知らんでも済む天下の逸民である。」というフレーズだった。「三四郎」の広田先生、「それから」の長井代助、「こころ」の先生等、漱石作品にしばしば登場する高等遊民の系譜の端緒がここにある。)、妻君を相手に真面目なのか冗談なのか「many a slip 'twixt the cup and the lip」(*3)とうそぶいたり、吾輩は台所で雑煮の餅を歯に引っ掛けて、踊りを踊って一家の笑いを誘ったりと豊富なエピソードに満ちている。
第二の出だし近くに苦沙弥の日記を借りて、寒月との散歩が披露される。コースは根津、上野、池之端、そして神田に至っている。かなりの広範囲だ。
「猫」で具体的な散歩が出て来るのは ここだけだ。これも昨年の神奈川近代文学館の「漱石展」でGETした「漱石と歩く東京」(2016年5月10日 (火))を見ると、池之端仲町の項に紹介されている。(*4)「宝丹」とある江戸からの老舗薬局は今も営業中の由。
(*3)注解を読むと大筋理解できる。人間万事塞翁が馬に対応する西洋の故事のようだ。
(*4)同書第4章「上野を歩く」P.63

私が「猫」で好きなのは第七、第八だ。明治38年末に一気呵成に6日で書き飛ばした2章だ。
第七は、運動と称して、吾輩が蟷螂狩りや蝉取り、松滑り、垣巡りをするくだりが絶品である。
そして銭湯探訪。
落ちに入って、苦沙弥が妻君相手に猫の鳴き声が感投詞か副詞かとか、訳のわからない質問をするところは独特の可笑しみがあるにしても、作者の精神の尋常ならざる面が露呈している感があるのが引っかかるが・・・。
第八は苦沙弥と落雲館中学の生徒達とのドタバタ。生徒達が校庭で野球をやって、打球がすぐ隣の苦沙弥家へ飛び込んで来て、無断で邸内に入った生徒に苦沙弥が怒り・・・と摩擦がエスカレートして行く。
この辺り、ボールをダムダム弾と云ったり、トロイ戦争や三国志を引用したりと漱石の筆は冴え渡るが、やはり落ちに難がある。
鈴木藤さん、甘木医師、そして最後は哲学者(独仙)の三者三様の苦沙弥への助言が、本題のナンセンス、滑稽趣味と余りにも遊離し過ぎている。

また第八を読んでいて、以下の事に気付いた。
「定本版」P.330  l.5                 「三帀」(さんそう)
「旧版」P.311  l.10、朝日連載(岩波文庫版)  「三匝」(  〃  )
「三匝」という語自体の意味が解らず、辞書を引いたのが契機。

第九以降は、第八迄とは明確に異質な書きぶりである。
ここでは瑣末な事でお茶を濁すに留めたい。
第九早々、苦沙弥の書斎について言及していて、「大きな机・・・長さ六尺、幅三尺八寸高さ之に叶う・・・寝台兼机」「机の上へ昼寐をして寐返りをする拍子に縁側へ転げ落ちた」という箇所が出て来る。
全集第1巻の口絵の書斎での漱石の写真がそれだが、昨年の神奈川近代文学館の「漱石展」図録の写真の方が机全体が入っていてより分かりやすい。

下は図録写真:書斎の漱石

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これを見ると机上を筆記用具多数が占領していて、流石に漱石はこの上で昼寐はしなかっただろう。
なお同文学館常設展示の漱石コーナーの漱石山房書斎の机は早稲田南町時代の小ぶりな紫檀文机だ。千駄木時代は若かった事もあり、漱石の風貌は精悍な印象。
(続く)

2017年4月20日 (木)

夏目漱石「吾輩は猫である」-2

「猫」は全体の密度にむらこそあれ、文章は歯切れが良く、気取りがなくてテンポ良く読める小説だ。
章毎に惜しげもなく出て来る知的エピソードの数々には、漱石の和漢洋に亘る教養の深さ、広さを思い知らされる。

これも第1章のやはり迷亭の「ニコラス・ニックルべーがギボンに忠告し彼の・・・仏国革命史を仏語で書くのを・・・英文で出版・・・」と云う下り。
すぐ後に「ハリソンの歴史小説セオファーノ・・・」と云う冗談話も出て来て後者は私には言及する資格がないが、「ローマ帝国衰亡史」という著作があるギボンは知っていたので、ここに目が止まり「衰亡史」が当初仏語で書かれようとされたのを他者の助言により英語で書かれたというエピソードを仏国革命史へ置き換えているいたずらが面白いと思った。
仏国革命史は漱石が心酔したカーライルの著作の由で、先の「ハリソンの・・・」共々サラッと書き付けるところは漱石の凄みを感じさせる部分だ。

上のギボンのエピソードのところは、平成5(‘93)年改訂新版第1巻月報の安藤文人(定本注解者の一人)の「名の無い猫の生涯と意見」に深い考察が述べられていて興味深かった。
曰く「猫」構想段階の明治37,8年断片七では「ニコラス・ニックルべー」が「トリストラムシやンデー」となっている事、また「猫」七の「トイフェルスドレック」の解説に及び、ホフマンの「牡猫ムル」と「猫」との相関についての読み解きに至っている。

「トイフェルスドレック」はカーライル「衣装哲学」という小説の主人公で、伊藤氏も簡単に触れているが、大岡昇平「小説家夏目漱石」に収められている「「猫」と「塔」と「館」と―作家漱石の発車―」に詳しい言及がある。
そして大岡は「猫」の着想は「衣装哲学」から得たのではないかと推測している。

共に慧眼と云うべきで、「トリストラムシャンデー」、「衣装哲学」の原題は何と以下の通り!
The Life and Opinions of Tristram Shandy,Gentleman
・Sartor Resartus,The Life and Opinions of Herr Teufelsdröckh

また大岡はここで、「猫」が書かれた明治38,9年に併行して書かれている他系列作品も視野へ入れて漱石の最初期の作家活動を論じている。
この時期を大岡は「堰を切ったように溢れ出た文才は文学上の奇跡」と最上級の賛辞を送っている。
それは質量を兼ね備えた意味でのもので、小宮豊隆の全集解説もそれに触れている。
そのスピードが「恐るべく早」い例として「猫」七、八が明治38年12月12~17日の6日で書き上げられたこと、当時漱石は帝大と一高で教えていた傍らの仕事だった事に触れている。
以下に整理してみる。

明治38(1,905)年
  1月 「吾輩は猫である」1(ホトトギス 1/1)    「倫敦塔」(帝国文学 1/10)①
                                  「カーライル博物館」(学燈 1/15)②
  2月 「吾輩は猫である」2(ホトトギス 2/10)
  4月 「吾輩は猫である」3(ホトトギス 4/1)    「幻影の盾」(ホトトギス 4/1)③
  5月                             「琴のそら音」(七人 5/1)④
  6月 「吾輩は猫である」4(ホトトギス 6/10)
  7月 「吾輩は猫である」5(ホトトギス 7/1)
    9月                             「一夜」(中央公論 9/1)⑤
  10月 「吾輩は猫である」6(ホトトギス 10/10)         「吾輩は猫である」(大倉書店・服部書店 10/6)1~5
    11月                            「薤露行」(中央公論 11/1)⑥
明治39(1,906)年
  1月 「吾輩は猫である」7,8(ホトトギス 1/1)  「趣味の遺伝」(帝国文学 1/10)⑦
  3月 「吾輩は猫である」9(ホトトギス 3/10)
  4月 「吾輩は猫である」10(ホトトギス 4/1)    「坊ちゃん」(ホトトギス 4/1)⑧
  5月                                   「漾虚集」(大倉書店・服部書店 5/17)①~⑦
  8月 「吾輩は猫である」11(ホトトギス 8/1)
    9月                            「草枕」(新小説 9/1)⑨
    10月                            「二百十日」(中央公論 10/1)⑩
    11月                              「吾輩は猫である」中編(大倉書店・服部書店 11/4)6~9
明治40(1,907)年
    1月                               「鶉籠」(春陽堂 1/1)⑧~⑩
    5月                                 「吾輩は猫である」下編(大倉書店・服部書店 5/19)10~11

上で明らかなとおり、「猫」ともう一方をバランス良く書いている。
森まゆみ「千駄木の漱石」に明治38年4月27日付け漱石書簡が引用され(*)、「盾は礼服、塔は袴、猫は平常服の喩、尤も吾意を得」と先方の指摘に賛意を示している様子で、漱石の本音と思う。 
また、( )内の数字は発行日。大岡に拠れば「今と違って、正直に発行日を記し」ている由。
森まゆみ同上書の記述はそれを誤解している節がある。(*2)曰く「「猫」の第四編を書いたのは・・・四、五月ととんで、六月号に掲載されているから・・・四月上旬であろうか。」としているが、上の表に照らせば5月上旬と考える方が自然だ。
(*)「泥棒ようこそ御入来」P.233
(*2)「食牛会あるいは太平の逸民」P.220

ロンドン留学から帰国した明治36年の4月に一高の英語嘱託(20時間/月)、東京帝大文科大学講師(2時間×3/週)の辞令を受け、翌37年からは明治大学高等予科講師も毎土曜掛け持ちするようになって、明治40年3月にそれらを辞し、朝日新聞入社を決意し、早くも5月から「虞美人草」の連載が東京、大阪朝日新聞で始まっている。「三四郎」(2,015/2/28)、は41年、「それから」(2,015/8/282,015/9/22,015/9/13)は42年だ。
上の通りで、当初二足のわらじでスタートした作家生活から、息つく暇も無く朝日での連載を次々とこなす専業の作家生活へなだれ込み、大正5(1,916)年に至る10年で数々の傑作を残したわけだ。
(続く)

夏目漱石「吾輩は猫である」-1

漱石の「吾輩は猫である」を読んだ。

朝日新聞は平成26(2,014)年4月20日から「こころ」を皮切りに漱石作品を連載して来て、その都度私は感想をこのブログへアップしており、今回もその一環として書いている。
「猫」は昨年4月1日にスタートして3月28日で終了した。丸3年続いた漱石作品の連載も「猫」をもって終わりを告げた。

周知のように「猫」は「ホトトギス」へ連載された小説である。朝日が何故この小説を選んだのかは不明だが、漱石の処女作であり、以降の全作品の要素が既に何らかの形でこの小説の中に内包されている事を今回読んで感じ、漱石のメモリアル連載を「猫」で終えるのも深いものがあるように思った。

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上は:連載第1回、下は最終回

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紙面へは日々目を通して来たが、翌日には前日の内容がリセットされてしまい、全体把握が出来なかったので改めて手元の岩波全集版ではじめから読み直した。
これまでは連載が終わるまでにはアップして、今回もそのつもりだったが、雑用に紛れて中々はかどらない上に、3月中旬には少々季節外れ気味だったが風邪を引いてしまって臥床2~3日に及んだりもし、大きく遅れてしまった。(^^;

とまれ、ここに感想というか「猫」及び関連書を含めた今回の読書体験を綴ってみたい。

私が初めて「猫」を読んだのは昭和49(1,974)年で、何ともう43年前の事になる。その年初1~3月にかけて新潮文庫で読んだ。
その時はとりあえず通読したという感じで、ただの滑稽小説ではない深さを持った作品である事は理解し、それ以来脳裏には再読すべき作品だという意識はありながらも今日に至り、今度の朝日連載を契機として、やっとそれを果たした次第だ。

「猫」を読んだ昭和49年は、他にも9月末~10月初に「道草」、11月初に「明暗」をそれぞれ5日、9日をかけて読んでいる。

あと春から夏頃には、小宮豊隆の「漱石の芸術」、年末には「夏目漱石」の二を読んだのだった。
「夏目漱石」は新書版で3巻に分かれているが、一だけはいまだに読んでいない。

そしてその年、漱石の命日である12月9日から漱石全集の刊行がスタートしたのだった。
第1回配本が第1巻の「猫」だったが、上のとおり全集により「猫」のページを開くのは今回が初めてになる。

全集は8章までを所蔵の旧版で読み、9章からは昨年12月にスタートした最新の「定本漱石全集」を地元図書館から借りて来て読んだ。

定本版はデザインが一新され、新鮮な印象を受けた。
まず、これまで一貫していた表紙、背の「漱石全集」の書体が変わった。
平成14(2,002)年の二次刊行(平成5(1,993)年の新版に対してだと思うが)までは変わらなかった表紙が、中国古代の石鼓文の拓本である事は同じだが、文字部分の色が今回から変わった。

図書館の貸出には函が付かないが、新聞の広告(*)を見るとこれも一新されている事がわかる。

下は:定本版全集見本

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(*)2,016年12月11日付け朝日新聞掲載の岩波書店広告

見返しも、これまでの「こころ」初版のものから「断片」等に書き込まれた漱石自筆の図式になった。そして扉裏には、これも「こころ」初版の扉と向き合う見返し裏に付けられた漱石自らが彫った「ars longa , vita brevis.」(芸術は永し、人生は短し。)の朱印が刷られ、「猫」執筆当時の千駄木宅書斎の漱石の口絵写真と向き合っている。

下は:定本版の見返し

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本文は平成5年版と変わらず、今回読んでみて旧版よりはるかに読みやすいと感じた。
旧版は総ルビで、菊判、小説の活字は10ポイントとあり、紙型、活字とも今の私には大きい(その内丁度良くなるかも知れないが(^^;)
ただし新版は総ルビでないところは五月蠅くなくていいが、漢字は新字体を採用しているところが気に入らない。
なお朝日連載の方は岩波文庫に拠っており、すべて現代表記となっている。1行の字数が少ない上、5段組で一段あたりの行数も多く、それが心理的負担になり読みずらかった。

新旧で私が感じた大きな違いは、新版では小宮豊隆の解説がないことである。旧版全巻に付されたこの解説は懇切を極め、私はそれと知らず全集購入前に「漱石の芸術」として一冊の形で読んでいた。
尤も鴎外にしろ、荷風にしろ、個人全集で解説があったのは漱石全集位でむしろ旧版が例外的だったのかも知れないが、私なぞは小宮解説が「漱石全集」と不即不離のように思っていただけにそれがないと物足りなさを感じてしまう。

注釈は旧版に比べ質量共に可成り充実している。
例えば冒頭早々出て来る「アンドレア・デル・サルト」の旧版の注は「バロック様式を発展させた」と私にもわかる誤りを記している。新版の方は美術史上の位置付け、同時代の画家との関連等が記され、長短は明白だ。
森まゆみ「千駄木の漱石」は示唆に富む好著だが、その「我等猫族」でデル・サルトをマニエリスムの画家と断言しているが、果たしてどうなのか?
因みにアンドレア・デル・サルトの名を知ったのは、他ならぬこの「猫」を初読した時の事だ。
(続く)

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