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2017年4月21日 (金)

夏目漱石「吾輩は猫である」-3

漱石が一高の講師となった明治36年5月、日光華厳滝で藤村操が投身自殺をした。
「猫」十終わり近くに苦沙弥を訪問した生徒が悄然と引き上げるところを、猫が「巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない」と揶揄する場面がある。
注解には藤村の遺書全文が載っていて、何と藤村は一高で漱石の生徒だったとある。
森まゆみ「千駄木の漱石」は「寺田寅彦の原町、曙町」で、自殺の1週間前漱石は授業で藤村を厳しく叱り、それが自殺に影響したのではと責任を感じ、一時は気に病んでいたと記述するが、その3年後に「猫」十を書く時には気持ちの整理がついていたのだろう。
なお、森まゆみ同上書は藤村の自殺を最後の授業の1週間後と書いているが、誤りで2日後の5月22日である。
他にも同上書のちくま文庫用に書き下ろした「千駄木以後の漱石」でも、「明治42年の「三四郎」」(*)とか、「「門」執筆中に胃潰瘍で・・・入院」(*2)と書き、これらもそれぞれ「明治41年」、「連載終了後」の誤りだ。
とても面白く、示唆に富む好著であるだけに素人でもわかるミスがあるのは残念だ。
(*)P.327
(*2)P.329

小宮豊隆は全集解説で「猫」第一と第二以降との相違点として、「殊に第三以下の溌剌として、天馬空を行く」感がある一方、第一は高浜虚子により添削されて生気を失っていると述べている。
一方、新版全集(93年)の月報1で寺田透は「猫」随所の冗長さが看過ならぬようで、「猫が・・・くだりは、・・・大幅削除の下心を目覚めさせる」と書き、苦沙弥の三人の女の子を登場させるのは無駄etcと述べている。
また、昭和3年版月報1号の高浜虚子「「猫」の頃」を見ると、第一では無心に意見を言い合えたのが、漱石の名声が高まるに連れ、言いたいことも言えなくなってしまったとあり、第二以降でも虚子にとって冗句は幾つもあったようで、寺田の感想を補強する趣旨の内容となっている。

苦沙弥一家のほのぼのとした描写は「猫」を生き生きとしたものにしているし、私は十章で三人の女の子が朝食の食卓で繰り広げるドタバタは「猫」に無くてはならぬ箇所だと思う一方で、第一の引き締まった文章は作中随一だとも思うし、第二以降、特に第十、十一に至っては文章自体の冗長さが正直読んでいて鼻についた。
そういった文章の調子以外でも「猫」の記述は不統一であり、迷亭は第一では美学者、独仙が第八で初登場する時は、哲学者となっていて、それらを修正する機会は単行本化する際にあったにも係わらず、そのままで今日に至っているわけだが、そういった諸々の細かいアラが「猫」の価値、漱石の非凡さを逆に高めているように思う。

寺田透という人を、私は神奈川近代文学館で昨年の「富士川英郎展」(2016年3月29日 (火))で初めて知り、その約一月後「鴎外記念館」でコピーした鴎外全集第2次月報でも氏の文章を読んだ。(2016年4月21日 (木))
富士川と云えば彼の随筆「夏目漱石の手紙」で、「猫」の甘木医師のモデルの尼子四郎へ言及し、漱石の神経衰弱の治療へも関与していた由へ触れている。
富士川は、寒月のモデルの寺田寅彦の子息の寺田正二の友人で、何と生年月日が同じだったそうだ。東大独文科在学中仏文の辰野隆(ゆたか)(2016年7月27日 (水)*3)のフランス文学の講義も聴いて傾倒するようになり、辰野の随筆集は出る度に入手、愛読した由。(富士川「思出の記」27、22)

「猫」の白眉は第二だと思う。
苦沙弥の偏屈な人となり、妻君とのドタバタ(摂津大掾を見に行こうとするが果たせず)、迷亭のトチメンボー、首懸けの松の話、何と言っても吾輩の猫仲間の登場は第二までである。
「太平の逸民」という言葉が出て来たり(注解を見ると「趣味の遺伝」では「天下の逸民」とあるらしい。そう言えば約40年前これを読んだ際に、どういう訳か頭へ刻み込まれたのが、「余の如きは黃巻青帙の間に起臥して書斎以外に如何なる出来事が起るか知らんでも済む天下の逸民である。」というフレーズだった。「三四郎」の広田先生、「それから」の長井代助、「こころ」の先生等、漱石作品にしばしば登場する高等遊民の系譜の端緒がここにある。)、妻君を相手に真面目なのか冗談なのか「many a slip 'twixt the cup and the lip」(*3)とうそぶいたり、吾輩は台所で雑煮の餅を歯に引っ掛けて、踊りを踊って一家の笑いを誘ったりと豊富なエピソードに満ちている。
第二の出だし近くに苦沙弥の日記を借りて、寒月との散歩が披露される。コースは根津、上野、池之端、そして神田に至っている。かなりの広範囲だ。
「猫」で具体的な散歩が出て来るのは ここだけだ。これも昨年の神奈川近代文学館の「漱石展」でGETした「漱石と歩く東京」(2016年5月10日 (火))を見ると、池之端仲町の項に紹介されている。(*4)「宝丹」とある江戸からの老舗薬局は今も営業中の由。
(*3)注解を読むと大筋理解できる。人間万事塞翁が馬に対応する西洋の故事のようだ。
(*4)同書第4章「上野を歩く」P.63

私が「猫」で好きなのは第七、第八だ。明治38年末に一気呵成に6日で書き飛ばした2章だ。
第七は、運動と称して、吾輩が蟷螂狩りや蝉取り、松滑り、垣巡りをするくだりが絶品である。
そして銭湯探訪。
落ちに入って、苦沙弥が妻君相手に猫の鳴き声が感投詞か副詞かとか、訳のわからない質問をするところは独特の可笑しみがあるにしても、作者の精神の尋常ならざる面が露呈している感があるのが引っかかるが・・・。
第八は苦沙弥と落雲館中学の生徒達とのドタバタ。生徒達が校庭で野球をやって、打球がすぐ隣の苦沙弥家へ飛び込んで来て、無断で邸内に入った生徒に苦沙弥が怒り・・・と摩擦がエスカレートして行く。
この辺り、ボールをダムダム弾と云ったり、トロイ戦争や三国志を引用したりと漱石の筆は冴え渡るが、やはり落ちに難がある。
鈴木藤さん、甘木医師、そして最後は哲学者(独仙)の三者三様の苦沙弥への助言が、本題のナンセンス、滑稽趣味と余りにも遊離し過ぎている。

また第八を読んでいて、以下の事に気付いた。
「定本版」P.330  l.5                 「三帀」(さんそう)
「旧版」P.311  l.10、朝日連載(岩波文庫版)  「三匝」(  〃  )
「三匝」という語自体の意味が解らず、辞書を引いたのが契機。

第九以降は、第八迄とは明確に異質な書きぶりである。
ここでは瑣末な事でお茶を濁すに留めたい。
第九早々、苦沙弥の書斎について言及していて、「大きな机・・・長さ六尺、幅三尺八寸高さ之に叶う・・・寝台兼机」「机の上へ昼寐をして寐返りをする拍子に縁側へ転げ落ちた」という箇所が出て来る。
全集第1巻の口絵の書斎での漱石の写真がそれだが、昨年の神奈川近代文学館の「漱石展」図録の写真の方が机全体が入っていてより分かりやすい。

下は図録写真:書斎の漱石

Img_6664_2

これを見ると机上を筆記用具多数が占領していて、流石に漱石はこの上で昼寐はしなかっただろう。
なお同文学館常設展示の漱石コーナーの漱石山房書斎の机は早稲田南町時代の小ぶりな紫檀文机だ。千駄木時代は若かった事もあり、漱石の風貌は精悍な印象。
(続く)

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