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2017年10月

2017年10月29日 (日)

「武満徹・音楽創造への旅」-8最終回(武満のギター作品)

武満全集Vol.2書籍の作品ガイドには、「現代ギター」からの引用が3件ある。それを認識したのは、「ラスト・ワルツ」の鈴木一郎の文章からだ。
「現代ギター」を見てみると、追悼特集「武満徹のギター音楽」がグラビアに続く本文の冒頭を飾っている。1996年7月号で、6月下旬発行なので、タイミングとしては遅い感があるが、内容は大変充実している。

まず座談会で、武満と縁の深いギタリストの荘村清志と佐藤紀雄、そして司会もギタリストの黃敬、読むと黃も武満作品全般をよく研究しており、興味深い内容である。
そして武満のギター全作品リスト。ギター独奏作品、協奏曲、室内楽作品はおろか、ギターが入っている管弦楽作品がリストアップされている大変貴重なもの。
管弦楽作品を聴いていて、はっきりギターの音が認識できたのは、私は「クロッシング」だけだった。(^^;
それが、「樹の曲」、「カシオペア」、「カトレーン」、「ジェモー」etc.でもギターが入っていたとは!!
あとは、ギター作品のディスコグラフィー。
最後はギター界ゆかりの人達の追悼文。
この中に鈴木一郎の文章がある。同じく全集へ引用されている伊部晴美の談話他、主として内外のギタリストが文章を寄せている。その最初がジュリアン・ブリームのもので、他の4倍はあろうかという長文である。

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社交辞令的な追悼文ではなく、武満音楽についての小論文のような内容というべきか、翻訳ではあるが原文の格調高さがうかがえ、武満の音楽への尊敬の念に満ち、かつ作品への深いアプローチ(ギター作品にとどまらず)をして来ていることがわかる。驚くべきは、音楽全般に亘る学識の広さ、深さである。
読んでブリームへ畏敬の念を覚えると共に、これだけ熱意に満ちた文章を寄せたブリームの武満への思いの大きさを感じた。

そのブリームだが、武満全集では、ギター協奏曲「夢の縁へ」(Vol.1)、「すべては薄明かりの中で」(Vol.2)の2作品の奏者として登場する。
CDは「夢の縁へ」の次が「虹へ向かって、パルマ」で、当初図書館は書籍を貸し出してくれなかったので、奏者がわからなかった。「虹へ向かって、パルマ」の方は、J.ウイリアムスであることはすぐわかったが・・・。
いずれにしても次のジョンと比べて遜色のない演奏を繰り広げる奏者が誰なのか、興味を持ったことを覚えている。

「すべては薄明かりの中で」は周知のようにブリームの委嘱により作曲され、ブリームへ献呈された作品であり、ニューヨークで彼が世界初演している。
私は武満をブリームで聴くのは、この全集が初めてである。

「すべては薄明かりの中で」のCDへ耳を傾けると、和音を余韻豊かに、美しく響かせていることにまず心を奪われた。演奏が全般的にふくよかで、何より音の美しさへ心が奪われる。

「すべては薄明かりの中で」の全集の作品ガイドに「現代ギター」のブリームと武満の対談の長い引用が載っている。
1988年に「ジュリアン・ブリーム・コンソート」(古楽アンサンブル。ブリームはリュートで参加。)として来日(*)した際に実現したものだ。

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「現代ギター」への掲載は1989年1月号。作品ガイド欄外に1989年11月7日に対談、とあるのは1988年の誤りだ。

*:11月5日のサントリーホールのコンサートでブリームのギター独奏で「すべては薄明かりの中で」が日本初演された。

作品ガイド欄外には、ニューヨークの世界初演時のプログラムが載っているので、以下に掲げる。
これでわかるように日本初演は、世界初演のわずか1ヶ月後だったわけだ。

Sunday  Afternoon  October  9 . 1988  at 3 : 00
Alice Tully Hall at  Lincoln  Center

DE VISEE  Suite in A major
    Allemande
    Courante
    Sarabande
    Gigue
BACH   Sonata No.1 , BWV1001
    Adagio
    Fuga
    Siciliano
    Presto
REGONDI  Introduction et Caprice , op.23
  Intermission
LUTOSLAWSKI Melodie Ludowe (Polish Folk Melodies)
TAKEMITU  All in Twilight , Four Pieces for Guitar
   (World Premiere)
RODRIGO  Tres Piesas Espanoras
    Fandango
    Passacaglia
    Zapateado

また武満には、ブリーム60歳を祝って彼に献呈した「群島S. 21人の奏者のための」という小管弦楽作品があることをこの全集により知った。
ブリームへの献呈作品ではあるが、ギターは入っていない。

「現代ギター」から作品ガイドへの引用の最後は「リング」で、「ラスト・ワルツ」の鈴木一郎と同じ1996年7月号の武満追悼特集へ寄せた伊部晴美の談話である。全体の半分ほどが引用されている。
全集によると、伊部は1933年生まれで、武満と同じ1996年に没している。ある意味この談話は彼の遺言でもあるわけだ。談話へ、病気で武満の葬儀へ出席できなかった無念を語っている。
談話に拠れば、昭和32(1957)年頃に、オーケストラの現代音楽へエレキギターで参加したという。武満が「弦楽のためのレクイエム」を作曲した年だ。
武満との出会いは、鎌倉の佐助に武満が住んでいた頃というから武満の新婚時代の1955(昭和30)~60(昭和35)年頃だろうか。1961年の「リング」誕生、その後の系列化の作品が作曲された背景に、伊部の存在があったことがわかる。’60年代から’70年代はじめ頃に小澤、若杉、岩城、渡辺暁雄等と協演(!!!)して、「バレリアⅠ」(Ⅰは入らない?)、「樹の曲」、「クロッシング」を弾いている!!!!
「リング」で協演している濱田三彦(リュートを担当)は、「現代ギター」の追悼文で伊部から図形楽譜の読み方、呼吸の取り方を学んだ、と述懐している。

(付記)
●古い本を整理していて偶然派生した事を最後に記しておきたい。
河出書房新社の世界文学全集のロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」の3巻目の月報を見たら、武満が一文を寄せていた。

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「ロマン・ロラン 芸術家と社会の問題」という表題で、社会を形成する個人と歴史の機能、それに芸術はどう関係しているか、という大問題を取り上げている。
武満は、ベン・シャーンという画家の言を借りて一つの社会(ある時代)の性格は、代表的な芸術によって象徴される、という考え方を紹介する。
またジャン・クリストフはべートーヴァンをモデルとしていることは認めつつ、ドイツの音楽評論家の著作によってロマン・ロランとエドガー・ヴァレーズの交流と、ヴァレーズがジャン・クリストフのモデルの一人とされている記述に遭遇して興奮を覚えたことを述べ、ロランへの共感を示している。
短い文章だが、扱っている内容は気宇壮大であり、かつ大変難しい。
この文章が何時書かれたものなのか興味がある。
私のものは昭和47年1月の第31版で、初版は昭和35年6月と奥付けにある。これは、安保闘争の時である。
1960年から1971年と幅があるが、ヴァレーズへ言及している部分から、その没年である1965年以前のような気がするので、あるいは初版が出た1960年頃の文章なのかも知れない。とすれば、まさに「リング」を作曲している頃になる。
第3回で触れた「美術手帖」’59年1月号の座談会の出席者駒井哲郎(版画家)からヴァレーズのレコードを聴く誘いを受けたりしていた(立花P.136)時期なので、可能性は高い。(→第3回
30歳前後のことになるわけで、瀧口修造の影響の下で書かれたのかも知れない。 
新潮社「武満著作集」へこの文章は収録されているだろうか?

●全集Vol.2書籍の巻末エッセイはいずれも武満の人柄に魅せられ、心からの敬慕と哀悼の念に満ちた胸に沁みるものばかりだが、立花隆と鈴木大介のものが印象に残った。立花は、自著「音楽創造への旅」を通しての武満との交流過程での様々な回想と興味深いエピソードに触れ、特に戦争後半武満が埼玉山中での学徒動員の際の見習士官が密かに聴かせてくれたシャンソンのレコードの話(*)、武満自身エッセイのいくつかでこのエピソードを取り上げ、ジョゼフィン・ベーカーだったと述べているのが誤りで、リュシエンヌ・ボアイエだったことを突き止める話は、納得するまで取材の手を抜かない立花の姿勢をよく示す話だと思った。

*:このシャンソン(パルレ・モア・ダムール)を聴いて武満は音楽をやりたいと決意した、いわば作曲家武満徹誕生の原点というべきエピソードである。

鈴木のエッセイは、武満のギター作品集のアルバム製作を巡り、完成半ばで武満が逝去してしまったため、武満から十分なアドヴァイスを受ける機会を永遠に失うという事態になりながら、内心の葛藤を克服しつつアルバムを完成させたこと等を綴り、彼の真摯な姿勢、何より心優しさが行間ににじみ、読み終えて心が和む思いをした。
(終わり)

「武満徹・音楽創造への旅」-7

前回まで武満徹の初期の軌跡を見てきたが、今回はまとめとして武満の音楽観、武満作品の一断面を見て、次回にギターに関連することを書いてみたい。

立花隆「音楽創造への旅」第13章に、武満が立花のインタビューへ答えて、「無数の具体音で充満された音の河が、・・・滔々と流れている。・・・音の河の中から、聞くべき音をつかみ出してくることが作曲するということだ」、と述べる件がある(P.219)。
同じページの下段には、武満の第1エッセイ集「音、沈黙と測りあえるほどに」から「自然と音楽」で「音の河」へ言及する箇所が引用されている。
「音の河」は、武満の音楽創造の根底を成す重要な概念だと思う。

第6回でも引用した吉田秀和「武満徹と静謐の美学について」の中で吉田は、
「彼には<音>は自然の中にすでに存在しているものであり、私には、彼の創作は、もっぱら、そこから不要のものを削りとることに集約されているかのように見える」。
と書き、あくまでも「リング」系列の作品(‘58~61年)に対して述べた見解であるが、上の武満の考え方と符合していることに驚かされる。

やはり今夏、福岡伸一の「新版動的平衡」(小学館新書)を読んでいて、武満の「音の河」を思い出した。
「そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私達の身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。」(P.261)
生命体としての個体には、目に見えるほどの早い変化はないが、分子レベルでは外界からやって来る物質とひたすら置き換わり、再び外界へ流れていくプロセスの中に生命が位置付けられている。福岡は流れの中で一定の状態を保つ動的平衡が生命の本質だという。

また武満は、「死の巡り」(「音楽の余白から」)という’70年代の文章で、死に対する考察を行っている。
「私たちは身近な死の汀(みぎわ)から想像を絶する遙かな死の涯までを満たしているものの、滴り(したたり)のひとつに過ぎないのだと謂うことを知るとき、はじめて生の意味を把握できるにちがいない。」
武満40代の文章だが、幼少期、青年期から死を切実なものとして受け止めて来たからこそ抱くことができる死生観であり、またそれは、あくまで謙虚というか、淡々としたものだということが伝わってくる。どこか「音の河」に通じる捉え方であり、これも武満の音楽観の基礎を成していると思う。

「遠い呼び声の彼方へ」(武満の第五エッセイ集)に、「普遍的な卵(ユニヴァーサル・エッグ)」という講演録が収められている。
また、その前(エッセイ集冒頭)の「東の音・西の音」の中では、「宇宙的卵(コスミック・エッグ)」という言葉が出て来る。
「卵」という語が象徴するように、未形成ではあるが音楽はやがて東西の区別が取り払われ、グローバルな形で孵化していくべき方向性があるという考え方だ。

どこか空想的で、理想主義的な印象があるが、第3回で触れた「美術手帳」座談会での瀧口修造の発言に見られるような瀧口から受けた薫陶、邦楽器を含む自作品の作曲経験、’72-3年のインドネシア、バリ島でのガムラン音楽体験、’80年8月のオーストラリア北端のグルート島でのアボリジニ音楽の体験等を通して武満の中で徐々に醸成されていったのだろう。

この考え方は以前このブログでも触れた池澤夏樹の「現代文学」のグローバル化、文学は或る特定の言語で書かれているが、翻訳によっても充分享受できるという考え方、また入江昭のグローバル史観、’90年代以降の歴史研究がグローバル・ヒストリー(NOT=世界史(World History))という観点が主流となっているという指摘が思い出された。(→'15.2/17

また武満は、西洋古典派音楽で完成を見たソナタ形式に否定的で、起承転結がはっきりした構成へ異和感を唱える一方で、邦楽の一音に込められている奥深さに魅かれ、独自の境地から作曲をしてきた。

武満作品を聴いて、気付いたことを箇条書きすると、
・長い作品がない。
・作品名にユニークなものが多い。作品名と作品の中身は深い関係性がある。
「地平線のドーリア」、「鳥は星形の庭に降りる」、「遠い呼び声の彼方へ!」etc.枚挙に暇がない。
・起承転結が曖昧。終わりらしい終わりがない。
・追悼作品を多数書いている。
・シリーズでグループ化出来る作品が多い。

最後のシリーズ化について、武満は「音とことばの多層性」(「音楽を呼びさますもの」(‘85年12月))で、「・・・作曲する時、「夢(ドリーム)」、「数(ナンバー)」、「水(ウオーター)」に強く影響されている。」と述べ、不定形である「夢」と定形の「数」を対立するものと捉え、それを統合するものとして「水」を位置付けているという。
そして「夢」と「数」シリーズ、「水」シリーズの系列作品を例示している。
また、二つのシリーズが合流する作品として、「遠い呼び声の彼方へ」を挙げている。

以下シリーズ毎の系列作品を示すと、
1.水シリーズ
「波」(’76)
「ウオーターウエイズ」(’77-8)
「ア・ウエイ・アローン」(‘80) 弦楽カルテット作品 以上室内楽作品
「ア・ウエイ・アローンⅡ」(‘81)
「I hear the Water Dreaming」(’87)
2.夢と数シリーズ
「カトレーン」(’75)
「鳥は星形の庭に降りる」(’77)
「ドリームタイム」(’81)  オーストリア原住民アボリジニの神話から想を得た。
「夢の縁へ」(’83) ギター協奏曲。「虹へ向かって、パルマ」(’84) (やはりギター(とオーボエ・ダモーレ)協奏曲)と対を成す作品(武満)。
「夢の引用」(’91) 以上管弦楽作品
3.星座シリーズ(武満自身による)
「アステリズム」(’68)
「カシオペア」(’71)
「ジェモー」(’71-86)
「オリオンとプレアデス」(’84)  以上管弦楽作品
4.E.ディキンソンの詩に触発された作品
「夢の引用」(’91) 上の夢と数シリーズへ位置付けられる作品。副題(Say sea , take me!)はディキンソンの詩の一節。(武満自身による)
「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」(’91) 作品名はディキンソンの詩の一節。(武満自身による)
「そして、それが風であることを知った」(’92) 同上
「スペクトラル・カンティクル」(‘’95) 同上。ヴァイオリン、ギターと管弦楽の協奏曲。管弦楽は日本の回遊式庭園から着想した一種の変奏曲で、ソロ(ヴァイオリン、ギター)は、庭園の鑑賞者という位置付けとのこと。(これも武満自身による) 以上管弦楽作品
5.J.ジョイス「フィネガンズ・ウエイク」からから想を得た作品 
「遠い呼び声の彼方へ!」(‘80)
「ア・ウエイ・アローン」(‘80)  本作品のみ室内楽作品
「ア・ウエイ・アローンⅡ」(‘81)  以上二作品は水シリーズに入る。(武満自身による)
「riverrun」(’84)  「フィネガン」出だしの言葉だ。柳瀬尚紀が「川走(せんそう)」と訳した部分。
6.「海」の音列(E♭=ES=S、E、A すなわちSea)が用いられている作品
「遠い呼び声の彼方へ!」(‘80)
「ア・ウエイ・アローン」(‘80
「海へ」(‘81) アルト・フルートとギター
「ア・ウエイ・アローンⅡ」(‘81)
「海へⅡ」(‘81) アルト・フルート、ハープと弦楽オーケストラ
「海へⅢ」(‘88) アルト・フルートとハープ
7.絵画からインスピレーションを得た作品
「マージナリア」(’76)  クレーの作品から。(→第3回)。
「閉じた眼」(’79) ルドンの同名作品からの印象による。本作は瀧口修造への追悼曲。
「閉じた眼Ⅱ」(’88) 同上
「すべては薄明かりの中で」(’87) クレーの同名作品から。ギター独奏作品。
「エキノクス」(’93) ミロの同名作品から。ギター独奏作品。
「森の中で」(’95) 第一曲「ウエインスコットポンド」は、知人である画家コーネリア・フォスの絵画の印象から。ギター独奏作品。(→'16.10/15
以下は管弦楽作品
「夢の縁へ」(’83) ベルギーの画家ポール・デルヴォーへのオマージュ
「虹へ向かって、パルマ」(’84) ミロへのオマージュ
「I hear the Water Dreaming」(’87) オーストリア原住民アボリジニ絵画に触発される。
「ヴィジョンズ」(’90) ルドンの絵画作品名を各楽章名としている。

以上のように複数の要素を併せ持つ作品も多く、文学・美術的モチーフから音楽を着想する傾向があることが分かる。
第4エッセイ集「音楽を呼びさますもの」(’85年12月)の後記で武満は以下のように記す。
「・・・身裡にある曖昧な感情を見きわめ、明確にするために、どうしてもことばに頼らざるを得ない。そうして見えてきたものを、さらに、ことばが撹拌し波立たせる。その繰り返しの中で、音楽への機は熟す。・・・ことばは、ことばを超えて、音楽を呼びさますものの実質に私を近づける。」
音楽のイメージを言語で鮮明にして行く武満の方法が語られている。
(続く)

「武満徹・音楽創造への旅」-6「リング(環)」続き

前回触れた「リング」および武満にとっての「第4回現代音楽祭」の意義、また「リング」の武満作品全体における位置付けについて書いてみたい。

吉田秀和は「武満徹と静謐の美学について」(吉田秀和全集第3巻)で述べているように、「リング」の底流に漂う「静謐の美と、浄福(Seligkeit)とでも呼びたい静かで浄らかな光」を感じ取った。

上の吉田の見解は、私には理解しうるものではないが、「リング」の間奏部分で採用している不確定性の音楽は、奏者の演奏の自由度が大きいため、究極的には演奏毎に異なる演奏が出現することとなって、聴き手にとっても据わりが悪いことになりかねないように思う。
また、この種の音楽をCD等の媒体で固定してしまうことが無意味になってしまう様にも考えられる。

以上の私の感想に対して吉田は、
「いわゆる抽象楽譜による書法は演奏家のイニシアティヴを尊重し自発的な即興を刺激することを通じて、音楽家の創造の自由を拡大してゆく点で大きな意味をもつ。・・・けれども人間には、くり返しを求めるという、本然の要求がある。・・・そのくり返しが、芸術を惰性化し形骸化する危険をもっていることは事実だし、一度しか味わえないものの魅力も貴重なものだというのも本当である。しかし、一度きかれ、そうして消えていったものは二度ときかれることはないということには、私は不満―というよりも、音楽の中からかけがえのないものが欠けてしまうのではないか。」(「能と現代音楽」(吉田秀和全集第3巻))
と述べ、また、
「これまできいた限りでは、私の共感は、ケージ流に全面的にこれ(「偶然性の技法」)によった作品よりも、それを部分的に適用した武満の方にある。」(「武満徹「フリュート、ギター、リュートのための環」」(吉田秀和全集第3巻))
とも言い、上の私の感想があながち見当違いではないことを裏付けてくれている。
それにしても、吉田の感覚の鋭さと一貫性、曖昧模糊とした対象への分析力の高さ、更には読む者へ的確にそれを伝える文章表現力には驚かされる。
この吉田の叙述は、下に述べるように武満の音楽の方向性と一致している。

「第4回現代音楽祭」が武満にとり大きな意義を持つのは、この時彼がジョン・ケージの音楽を初めて耳にしたという事実である。
しかもこの時武満が聴いたケージの作品は、「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(*)で、ピアノを一柳慧が務め、指揮は黛敏郎だった(立花P.413)。一柳は米国留学から帰国したばかりで、留学当初の’58年にケージと出会い、その頃作曲されたばかりのこの作品を知って、ケージへ傾倒するようになった当の作品を紹介したわけだ。

*:脂がのりきった壮年期に書かれたケージの最高傑作だと一柳は言っている。不確定性音楽で、ピアノパートは84種類のグラフィック・スコアとなっている由(第2回で触れたNHKFM「ケージとメシアンの音楽」での一柳慧の発言(→第2回)。

全集Vol.2書籍巻末の船山隆「武満徹の音楽詩学」は、武満作品へ船山が長年傾注してきたことを実感させるものだが、あれれ、と思う部分があったのでここに記しておく。
それは、「(3)武満の「歌」」というセクションで(P.291)、
「1965年、谷川俊太郎の詩「死んだ男の残したものは」を歌詞に作曲・・・同年、武満は磁気テープのための<水の曲>、不確定性を持つ<環>を作曲している。彼は実際、一柳慧を通じて、ジョン・ケージの音楽について正確に知ったのである。」
と記しているが、<水の曲>は’60年、<環>は’61年の誤りだ。
また「彼は実際、一柳慧を通じて・・・」という箇所も、文脈上<環>があたかもその過程で作曲されたように受け取れる書き方だが、一柳は帰国したばかりなので、<環>は「一柳慧を通じて」ではなく、不確定性の技法を武満が独自に取り入れて作曲したものと考えるべきだろう。

ケージとの出会いは、以降の武満の作曲活動へ深い影響を与えることになる。(立花P.376)。
立花隆のインタヴューで、武満はケージから受けた影響について率直に語っている。(29、31章)
それは、以下のように2点へ要約することができる。
1. 既存の音楽を破壊し、作曲する上ではすべてが許されるという、絶対的肯定者の立場を取ったケージの音楽観へ共感した。
2. 日本の音楽へ目を開かれた。
ケージの自由な音楽観への共感が、以後の武満の作曲の指標となった。
ケージとは生涯にわたり親しく交友するようになるが、二人はあらゆる束縛から音楽は自由であるという基本的姿勢において一致するも、作品の具体的内容においては全く方向性が違っていた。
またケージにより日本の音楽を再認識したことが、「ノヴェンバー・ステップス」の誕生の遠因となった意義は大きい(直接的には小澤征爾の貢献も無視できない)。
武満は、演奏者の自由に委ねる不確定性音楽よりも、作曲家の意図を厳密に書き込む記譜法へ回帰し、やがて不確定性音楽から離れて行く。
そして終生作品を構築する論理の探求を続けて行くこととなる。
(続く)

2017年10月26日 (木)

「武満徹・音楽創造への旅」-5「リング(環)」

小学館版「武満徹全集」Vol.1(管弦楽作品集)、Vol.2(器楽曲、合唱曲)とVol.5のテープ音楽(ミュージック・コンクレート)(*)により、武満作品の芸術音楽(?)の全貌に触れることが出来たのは貴重な体験だった。
最初期から晩年へ至る作風の変化は感じ取れるものの、短期集中的だったので明確な理解を得るまでは至っていないが。

*:雑誌の対談で武満は、「ミュージック・コンクレートはデッサンに過ぎず、作品とは言わない。」と述べている。(立花隆「音楽創造への旅」P.427~8)

今回の武満体験により、自分が音楽を何もわかっていないことを思い知らされた。
音楽の奥深さ、厳しさを武満作品、著作により痛切に感じている。

「弦楽のためのレクイエム」発表の翌1,958年武満は「ソン・カリグラフィ(Le Son Calligraphie)」を作曲した。この作品はこの年8月の二十世紀音楽研究所第2回現代音楽祭第2日の作曲コンクールへ応募するために作曲され、一位を獲得している。松下真一という人と分け合う形で、予選通過者6名には実験工房時代の仲間である福島和夫も残っていた。

「ソン・カリグラフィ」(’Son’は「音」、’Calligraphie’は「習字」もしくは「書」の意。)は、「レクイエム」のアンチテーゼとして構想され、以降この時期の武満作品は「叙情の拒否、ストイシズム、沈黙といった要素」(立花P.326)を帯びていく。

翌1,959年の第3回現代音楽祭では「マスク」というフルート2本のための作品を発表した。

二十世紀音楽研究所は吉田秀和を所長として、柴田南雄、入野義朗、黛敏郎、諸井誠等により1,957年に組織され、現代音楽祭の開催を行っていた。
長木誠司は、二十世紀音楽研究所を「’50年代の日本音楽界最大の事件」と言っている。
吉田秀和は、二十世紀音楽研究所が発足した’57年に「二十世紀音楽研究所にふれながら」(吉田秀和全集第3巻)で、’53~4年にかけての米・欧行でのドナウエッシンゲン音楽祭(現代音楽の祭典)の体験に触れたあと、大都市のコンサートの聴衆が孤独な個人の集合体となっていることの分析と、二十世紀(当時の現代)音楽の意義についての示唆に富む考察をしている。
吉田をはじめ、黛、諸井等も海外の現代音楽祭を目の当たりにして、現代音楽祭の開催により、最先端の作品を紹介すると共に、新しい才能の発掘を通して日本の音楽界の発展を期していた。

また1,958年に設立され、当時の前衛芸術の拠点だった草月アートセンターと連携した「作曲家集団」が1,960年に発足した。芥川也寸志、黛敏郎、三善晃、諸井誠他で、武満も同人として名を連ねている。
この年4月の「作曲家集団」の発表会で武満は「個展」で新作4曲を含む5作品を発表した。(「武満徹の世界」(集英社、1,997年)の年譜(秋山邦晴編)から)
新作の4曲は「ランドスケープ」(弦楽四重奏曲)、「ソン・カリグラフィⅢ」(4Vn,2Vla,2Cello 第2回現代音楽祭受賞曲はⅠで、同年更にⅡが作曲されている。楽器編成はすべて同じ。)、「水の曲」(テープ音楽)、「マスクⅢ」(第3回現代音楽祭で発表されたのはⅠ、Ⅱ)。

翌1,961年4月「作曲家集団 group exhibition 1」で、武満の「ピアノ・ディスタンス」が高橋悠治によって初演される(全集作品ガイドによる)。「音楽創造への旅」で立花が「六十一年四月、草月ホールで開かれた高橋悠治のはじめてのリサイタルのために書かれた」(P.18)とあるのは誤りだろう(演奏場所は正しく、また献呈されたのは高橋だが)。

そしてこの年8月、第4回現代音楽祭で「リング(環)」が初演された。
吉田秀和「武満徹と静謐の美学について」(吉田秀和全集第3巻)によると、武満の「リング」は二日目で、一日目は黛敏郎と一柳慧の構成による「アメリカ前衛の夕べ」だった。

「リング」はフルート、テルツ・ギターとリュートのために書かれ、指揮者を入れている。
初演者は、野口龍(フルート)、伊部晴美(テルツ・ギター)、大橋敏成(リュート)、そして指揮が小澤征爾。

全集のCDを聴くと、左から右へリュート、ギター、フルートの並びであることがわかり、各楽器の音がはっきり分離して立体的な音像がスピーカーから出て来る。
抒情性、ロマンティシズムとは無縁で、無機質で即物的、言うなればシュールリアリスティックな音楽だ。
緊張感のある音が紡ぎ出されていくが、聴いていて私の能力では楽曲の構造を全く把握することが出来ない。
何度か聴き直してみて、ようやく朧気ながら楽章(といって良いのか?)の区切りが分かってきた。

またここまで見てきたとおり、ギターとリュートを主役とした作品を武満が書いたのは「リング」が最初である。
全集の書籍だったと思うが、後年武満は最も好きな楽器はギターであると述べているように、ギターを愛していた。

以前本ブログで記した時はわからなかったが、演奏者も上のように判明した。(→参照)その時はステージの演奏風景を紹介する写真で、右端の人間を打楽器奏者と決めつけてしまったが、これは指揮をした小澤征爾だった。(^^; 他の奏者の位置はCDと同じだ。
武満と小澤は「リング」の初演を通して初めて顔を合わせたそうで、小澤は「リング」のスコアを見て武満の才能の大きさを知り、武満の方もリハーサルから本番までの小澤の振る舞いをつぶさにして、その才能に感嘆を覚えたという(立花P.450~1)。

なお全集CDの演奏者は、フルートとテルツ・ギター:初演者、リュート:濱田三彦、指揮:若杉弘。

「リング」の構造はR(Retrograde=逆行)、I(Inversion=反行)、N(Noise=ノイズ)、G(General Theme=主題)の4部分から成り、それぞれを演奏する順は任意で、各パート間に間奏があって円形の図形楽譜で表現されている。図形楽譜のスタート点、終点、回転方向、テンポはすべて奏者の自由、と不確定性音楽の要素が採用されていた。
全集のCDはR、I、N、Gの順で演奏されている由。

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上は{リング}の「R」冒頭部。見ながら聴いていると、確かに「R」から入っていることが分かる。

下は間奏部分の図形楽譜。

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武満は以後、ギターもしくはリュートを使用した作品を以下のように書いている。
「サクリファイス」(’62)アルト・フルート、リュート他
「ヴァレリア」(’69)ヴァイオリン、チェロ、ギター他
この作品は当初「ソナント」として、第6回現代音楽祭(’65)で上の楽器以外の編成が違う形で発表されているが、レコーディングにあたり「ヴァレリア」と改作された。
以上が「リング」3部作といわれる。
「スタンザⅠ」(’69)ギター、ピアノ、ハープ、女声(ソプラノ)他。ギターの伊部晴美に献呈されている。全集作品ガイドには、女声のテキストはヴィットゲンスタイン「論理哲学論考」からの引用である旨の記載がある。
「サクリファイス」にギターは入っていないが、その他はすべて初演、全集版の録音で伊部晴美がギターを担当している点が注目される。このギタリストについては別項で改めて触れてみたい。
以上の作品は通常の五線譜で書かれているようだが、「リング」で部分的に採用された図形楽譜による作品は以下のようである(立花P.431)
・全面的に図形楽譜による作品
「ピアニストのためのコロナ」(’62)
「弦楽のためのコロナ」(’62)
「クロッシング」(’62) 立花が挙げているこのピアノ作品は、全集CDには収録されていない。周到な編集によるこの全集から洩れている理由は分からないが、先に引用した秋山邦晴編の作品表へは記載があり、一柳慧が初演している。
ちなみに同名の「クロッシング」(’70)は、管弦楽曲でギターパートがある。この作品の第一部の独奏パートへは、「スタンザⅠ」が使われている由。
・部分的に図形楽譜である作品
「環礁」(’62)
「ピアノと管弦楽のためのアーク第一部」(’63)
以降も若干書かれているようだが、図形楽譜による作品は、’61 - 3年に集中していることが分かる。

(続く)

2017年10月25日 (水)

「武満徹・音楽創造への旅」-4「二つのレント」

「武満徹・音楽創造への旅」を読んでいて感じるのは武満徹の人間的魅力である。大変親しみやすい人柄を彷彿とさせる。
生前から武満は世界各所から遍く作曲委嘱があり、音楽祭、記念コンサート等で頻繁にその作品が演奏されてきた大変幸福な作曲家だった。

「二つのレント」は武満20歳の作品だが、その頃の武満の生活は、親から自立し経済的苦境の中で音楽修行をするのだが、前回も見たとおりその時々で重要な人物と出会い、その薫陶を受けつつ、一歩一歩成長していった点でも大変幸福な人だった。

すごいと思うのは、一日3本とか半端でない量の映画を毎日のように見つつ、どうやって時間を作ったのか不思議な限りだが、専門の音楽教育を受けることなくほぼ独学で作曲の技術を習得したことだ。驚くのは音楽のみならず美術の教養をも深く蓄積していることである。

「二つのレント」へ至る過程での武満は、十代後半に鈴木博義、福島和夫といった作曲仲間、清瀬保二(1,900~81)、早坂文雄(1,914~55)という師と出会い、1,949年には一柳慧と知り合い、彼を通してメシアン(*)を知る、というのも出来過ぎのシナリオのようだ。

*:一柳の父親は音楽家で洋譜をしばしば購入していて、武満はその中からメシアンのピアノ曲「プレリュード」を借りたのがメシアンとの初めての出会いだったという。(「音楽創造への旅」P.92)

1,950年12月7日新作曲派協会第7回発表会でピアノ作品「二つのレント」は初演された。

「二つのレント」という奇妙な作品名にまず戸惑う。ドビッシーの「レントよりおそく」という作品を連想させる名称だ。1曲目はAdagioとあり、Lentであるのに妙な感じ。随分苦労して完成させたらしいが、2曲目のLento misteriosamenteは一気呵成に書き上げたそうだ。
聴いた感じは、1曲目は印象的な不協和音が出て来て面白いが、どこか座りが悪く、屈折した音楽であるのに対し、2曲目の方は洒脱で仏印象派風で、中間部は軽快な16分音符(?)のパッセージを持ち、流れもスムースで、というように対照的な作品だ。

初演会場の読売ホールの楽屋の武満を、終演後秋山邦晴と湯浅讓二が感動の余韻覚めやらぬ状態で訪問した。これが彼等の初対面だったようだが、武満のキャリアの出発点で彼等は知り合い、やがて実験工房同人として、その後も終生の交友を結ぶこととなる。
特に秋山邦晴は武満の最大の理解者として、後年ディスクのライナー・ノート執筆、武満の著作集のために年譜、ディスコグラフィーを作成したりしている。また武満が没した半年後の同じ1,996年8月に逝去している。これも、偶然とはいえ出来過ぎのシナリオのようだ。

小学館版「武満徹全集」Vol.2書籍の作品ガイドを見ると興味深い記事がある。
「ロマンス」には、清瀬、早坂等と共に写る武満と鈴木博義の1,950年の写真がある。
「二つのレント」には、立花「音楽創造への旅」第5章P.89~91(「文學界」’92年10月号)の引用、「東京新聞」の山根銀二の批評、武満の「ピアノ・トリステ」(‘61)、吉田秀和のライナー・ノートとか面白い記事が満載されている。

山根銀二の批評-といっても「武満徹の「二つのレント」は音楽以前である。」だけだったようだがーは、武満には後々までトラウマとなったようだ。
山根銀二は当時のベートーヴェン研究の第一人者だったようで、岩波新書に「音楽美入門」という著書があり、かつて読んだことがある。
また「現代ギター」の1,967年7月号から1年間、巻頭随筆「音楽を考える」を連載している。
私は手元の第1~3回に目を通してみたが、文章が読みづらく、言いたいことが明確に伝わってこないもどかしい印象を受けた。

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吉田秀和のライナー・ノートは立花も取り上げている。第6章冒頭で、全集の前後の部分も含めて引用している。この文章は実に初演から16年後のもので、文章を草するにあたって当時の記憶のみを頼りに書き上げたという途方もないもので、立花を唸らせている。
「奇妙な曲」といい、「レント」を二つ連ねる処へ違和感を覚えながらも、ひたすら内部へ沈潜して行く音楽が記憶へ刻み込まれたといった趣旨のことが綴られている。

立花「音楽創造への旅」では、「二つのレント」の一曲目(Adagio)が何十回となく書き直しをした末に完成された事、初演の楽譜は残っておらず、福島和夫宅のピアノの裏で見つかったスケッチが唯一残されたものであることが武満から語られる部分がある。

この全集のCDに収められた「二つのレント」はそれを元に武満自身が清書したものだそうだから、初演時に演奏されたものではない。ただ聴いてみると大体吉田が書いているのと同じなのは感じ取れる。

武満は後年この作品を元に「リタニ」(’89)を作曲した。全集に収録されているこの二つを比較すると、「リタニ」の方に、音の洗練、滑らかさを感じるが、「人を寄せ付けない孤独狷介」(吉田秀和)な人の魂へ直接訴えかける強度はむしろ「二つのレント」の方が勝っているかも知れないと思った。
(続く)

2017年10月23日 (月)

「武満徹・音楽創造への旅」-3「弦楽のためのレクイエム」

今回は「弦楽のためのレクイエム」を中心に記したい。
小学館版「武満徹全集」をVol.1(管弦楽作品集)から聴いたので、「二つのレント」よりあとの作品であるが先ず「レクイエム」からにする。

「弦楽のためのレクイエム」は内省的、禁欲的で暗い闇、あたかも宇宙空間を彷徨するような深遠な音楽で、聴いた途端に自分の波長と合い、音楽へ引き込まれてしまった。
現在も全武満作品の中で一番好きな曲だ。

ちなみに全集は、岩城宏之、オーケストラ・アンサンブル金沢による’96年9月のもの。

「弦楽のためのレクイエム」は1,957年6月20日東京交響楽団の定期で初演された。
武満が最初期に師事した早坂文雄(1,914~55)に献呈されている。
その時のプログラムが興味深い。

武満徹「弦楽のためのレクイエム」
ルーセル「小管弦楽のための協奏曲」
シューベルト「交響曲5番」
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲3番」

「武満徹全集」Vol.1の書籍を見ると新聞評が2件紹介されていて、その内「東京新聞」の山根銀二のものは何と翌日の6月21日付けで出ている! 立花も触れているが(18章)、「二つのレント」では武満作品を相手にしなかった山根が「レクイエム」へは好意的な批評を寄せている。

立花は船山隆の「武満徹論」(’68「季刊芸術」)の「レクイエム」についての記述の紹介もしている。

全集書籍の武満の言葉として「二つのもの-作家の生活」(「音楽を呼びさますもの」(’85年12月))から「レクイエム」へ言及する部分が引用されているが、その直前の「思えば五十歳に達して最も初歩的な段階へ立ち戻ったような気がする。」としみじみ綴っているのが印象的だ。(この文章は「レクイエム」の’57年+25年=1,982年のものと思われる。)52歳で武満の意識は「レクイエム」の頃へ回帰していたことを裏付ける興味深い文章である。

私は「レクイエム」を聴いた時、専門教育を受けずに独学で修行を重ねた青年がこれほど高い境地の作品を生み出したことに驚きの念を禁じ得なかった。
が、これはこの時期の武満の歩みを整理してリビューしてみると納得できる。

「二つのレント」が初演された1,950年は、秋に武満が生涯真の師と尊敬した瀧口修造(1,903~79)と出会う記念すべき年である(立花P.116)。「音楽創造への旅」第7章では、瀧口を通して文学、美術そして西欧の芸術全般の最新情報を学ぶと共に、出入りする若手芸術家達の知己を得ていく過程が書かれている。

そして瀧口修造が命名した「実験工房」同人として活動することになる。
この時期の作品に瀧口の詩集「妖精の距離」からインスピレーションを受けて作曲した「妖精の距離」(’51、ヴァイオリンとピアノ、新作曲派協会第8回発表会)、「遮られない休息」(’52、ピアノ作品、「実験工房」第4回発表会)、「ルリエフ・スタティク(Static Relief)」(’55ミュージック・コンクレート)(*)がある。

*:1955年11月23日の新日本放送(毎日放送)のラジオドラマ「炎」の音楽を再構成した。

一方この時期の武満は重度の結核に罹っていて、創作活動に空白がある(’53年頃)
武満にとって幸いなことに浅香夫人との出会い、結婚(’54年)が闘病生活においても奇跡的な快癒へ至り、その後の活躍の原点の一つにもなったことである(結核が良くなるのは’58年頃から(立花P.175))。

この頃、芥川也寸志、黛敏郎という当時の気鋭の作曲家の映画音楽のアシスタントを努め、オーケストレーション、音楽上の技術を学んでもいる。

’50年代の武満は優れた先達に恵まれ、経験を積み重ね、その才能を開花させていったわけだ。

この時期の資料として「全集」を貸してくれた友人から興味深いものを見せてもらった。
「美術手帖」’59年1月号の座談会「クレエの芸術から享けるもの」で、瀧口修造が駒井哲郎、武満徹の質問を受ける形で進行している。前年、瀧口はヴェネツィア・ビエンナーレ審査員として渡欧、以降欧州各地を巡りその最後にスイスを訪れ、クレエ作品をまとめて見る機会を得たことをテーマに話は進められる。
末尾では、芸術へ社会性を持ち込むことに否定的な武満に対し、それが自然に創作動機となるならば許容されるとか、駒井からの作品の民族性についての問いかけに対しては、作品個々の民族色はあってしかるべきであるものの、芸術は本来自由で宇宙的なものだと述べて、後段は後年の武満の音楽観の原点を見るようだ。

2,011年11月~12年1月千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録の巻末年譜を見ると、瀧口は上の’58年の渡欧で、8月にスペインのダリを訪問の際にデュシャンと初対面して以来、親交を重ねるようになった。
この展覧会はデュシャン、瀧口ゆかりの芸術家が紹介されていて、武満が注目していたジョゼフ・コーネルとか、ジャスパー・ジョーンズ、またジョン・ケージの造形作品と「4分33秒」のスコアも展示されていた。
それと図録の頁を繰っていると瀧口と周辺作家による《漂流物 標本箱》という箱型の作品に9つに分けられた区画の上段中央に武満のオブジェ作品があるのに目が止まった。作品と言っても、液体が入っているコルク栓のある大小のガラス瓶であるが。

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上がそれで、瀧口は中央にモナリザのハンカチを置き、その上が武満。

マルセル・デュシャンと言えば、「鳥は星形の庭に降りる(A Flock Descends into the Pentagonal Garden)」(’77)の作曲動機となったマン・レイの写真の当人である。

瀧口修造との関わりの話をもう一つ。これも上の友人の提供によるものだが、「パウル・クレエと音楽」という武満徹のエッセイである。「アトリエ」1,951年6月号に掲載され、見開きの片側にクレエの「AD MARGINEM」(’30)という作品が載っている。

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このエッセイには立花も触れていて(P.134)、瀧口の計らいで掲載の運びとなった由。武満の原稿は瀧口の朱書きで埋まったらしい。
また「音とことばの多層性」(「音楽を呼びさますもの」)で「マージナリア」(’76)の命名の根拠となったものを列挙し、それは瀧口の詩、そして上のクレエ「AD MARGINEM」、そしてサム・フランシス等々を掲げている。
立花は「音楽創造への旅」最終章冒頭で触れて、「マージナリア」の語義について大変参考になる考察をしている。曰くマージナリアとは、「欄外の書き込み」を意味する由。
そして、瀧口修造の「マージナリア(「MARGINALIA」:邦題「余白に書く」)」(’66、みすず書房)を紹介している。装幀は瀧口自身のもので、上の千葉市美術館の図録にあり、サム・フランシスの図柄を採用しているのが面白い。

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上の右ページ上が瀧口の「余白に書く」

(続く)

2017年10月20日 (金)

「武満徹・音楽創造への旅」-2

まず「武満徹・音楽創造への旅」を読むまでの武満徹体験について振り返ってみたい。

手元の資料で最も古いのは小澤征爾、トロント響のLP(RX2355,’79年)で、「ノヴェンバー・ステップス」、「アステリズム」、「グリーン」という中期の代表作が入っている。「アステリズム」のピアノは高橋悠治。解説は船山隆。
録音時期が明示されていないが、或いは武満全集Vol.1所収の’69年1月の録音と同じかもしれない。
このLPレコードが武満初体験かどうかはっきりしないが、「ノヴェンバー・ステップス」の尺八と琵琶、殊に尺八が脳裏に焼き付けられたのを覚えている。「アステリズム」の終わり近くのロング・クレシェンドも強烈だった。今回の全集で、「アステリズム」(’68)に先立つ「アーク(弧)」の第1部第3曲「Your love and the crossing」(’63)、第2部第1曲「Textures」(’66)でも同様なロング・クレシェンドが出て来ることを知った。

1,984年6月7日放送のNHKFM「日本現代音楽の夕べ」(4月6日簡易保険ホール)には一柳慧、石井真木、柴田南雄等に混じって武満の「夢の縁へ」(外山雄三、N響、鈴木一郎(ギター))が入っていた。

同年6月13日「作曲家の個展’84 武満徹」(岩城宏之、N響、鶴田錦史、横山勝也、堤剛、東京文化会館)は聴きに行った。

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「地平線のドーリア」、「ノヴェンバー・ステップス」、「鳥は星形の庭に降りる」、「オリオンとプレアデス」そして「ドリームタイム」が演奏された。
岩城のタクトに清潔感があり、刻みを見ていると何となく音楽が明確になってくるような気がした。演奏終了後に武満がステージへ上がり、聴衆の拍手に応えていた。
終演後のロビーで今回全集を貸してくれた友人とばったり出会ったのも懐かしい。

またこのコンサートはNHKFM「FMクラシックアワー」でオンエアされた。

武満の没年である1,996年9月23日放送のNHKFM「武満徹の音楽を聴く」(同年8月6日サントリーホールでの追悼ロングコンサート(昼・夜)の抜粋。スタジオ司会は池辺晋一郎、ゲスト篠田正浩)は、管弦楽、室内楽、独奏、合唱作品に至るまで幅広く演奏されている。全集収録の演奏者も多い(岩城宏之、木村かおり、東混、堤剛、荘村清志、佐藤紀雄etc.)。
放送では、池辺晋一郎、篠田正浩が興味深い話を繰り広げて大変貴重な録音である。
別項で触れるが、武満を語る上で欠かせない人である秋山邦晴の夫人が高橋アキで、彼女が池辺とは芸大の同期だったことetc.

1,997年2月20日の「武満徹に捧ぐ その命日に」という追悼コンサート(紀尾井ホール)も聴きに行った。ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ギター等の独奏作品を中心としたプログラムで12曲中ギターソロ3作品をはじめギターが入る作品が5作品を占めていたことが印象的だった。

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このコンサートも同年6月5日にNHKFM「FMベストオブクラシック」でオンエアされている。

これも1,997年8月31日NHKFM「海外クラシックコンサート」で「グレン・グールド国際音楽賞の武満徹」がオンエアされた。(→参照:'16.10/15
同音楽賞授賞記念コンサートをはじめ1,996年に武満作品を含むヨーロッパ(ベルリン、ヘルシンキ)のコンサートを紹介したもの。

2,011年にNAXOS から出たNHK「現代の音楽」アーカイブシリーズ「武満徹」のCD(NYNG003)は、「地平線のドーリア」、「テクスチュアズ」、「「風の馬」よりⅠ、Ⅱ」、「ノヴェンバー・ステップス」、「ピアニストのためのコロナ」、それと武満と杉浦康平の対談(4分弱)が収められている。’63年6月NHKで放送された対談「「環礁」を聴き終えて」から取られたもの。杉浦は「コロナ」等で図形楽譜作成にあたり、武満に協力している。

あとギター関係は福田進一、鈴木大介、John Williams等により独奏作品、室内、協奏作品をカバーしてきた。
今回のギターに絡む体験については項を改めて報告したい。

カセットに録音時期が記されておらず、同種のテープで時期のわかるものから推すと’84年7月か8月頃の放送と思われるNHKFM「FM音楽手帳<音楽家訪問 武満徹>」というお宝テープがある。埋もれていたテープをチェック中に、ホロヴィッツの来日公演と共に目に止まったものである。(→参照:'14.9/15)インタヴューの聴き手は慶応大教授(当時)中野博詞。質問は周到に用意され、恐らく放送枠に合わせて30分弱へまとめたものと思う。
武満の日常について、趣味の探偵小説は1/3ほど書いている自作品があること、修行時代のこと等多岐に亘り、現在の音楽観について中野氏の問いかけに対して、西洋、東洋音楽への向き合い、「沈黙」が重要なモチーフとなっていることを淡々と語っているのが印象的である。

また関連するものとして、1,992年12月31日の大晦日のNHKFM「ケージとメシアンの音楽」も今回改めて聴き直したが、大変貴重な録音であることを再確認した。ケージとメシアンの追悼番組で7:15から夕方(16:00?)まで様々なゲストの話を交えて両作曲家の軌跡を振り返るという破格の番組だったが、私は正午前のメシアン「トゥーランガリラ」抜粋を放送するあたりと、午後のはじめのケージの音楽についてのあたりのみを120分テープへ録音した。武満徹も座談会へ出ていたようだが、残念なことに録音外だ。
司会は先のLPレコードの解説者である船山隆と白石美雪。ゲストは、一柳慧、秋山邦晴、高橋アキetc.
高橋アキはメシアン「音価と強弱のモード」(’49)を演奏している。
秋山は博識振りを伺わせ、何よりその肉声が聴けるのは貴重だ。

2,013年5月19日放送のNHKEテレ「言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~」では、以前もこのブログで触れたが、1,961年8月の二十世紀音楽研究所第4回現代音楽祭での武満の「リング(環)」初演を取り上げている。(→参照:'13.5/19

「武満徹・音楽創造への旅」を読むまでの私の武満体験は概ね以上のとおりだ。
「音楽創造への旅」は、「ノヴェンバー・ステップス」に至る迄は詳細な記述が一貫しているといえるが、武満没後の連載となった第42章以降は時系列的な記述から覚え書き的になって、断片的な内容なのが残念といえるのだが、武満の貴重なコメントも入っており、価値は高い著作である。

以下、「弦楽のためのレクイエム」、「二つのレント」と「リング(環)」を核として今回の武満体験を報告していきたい。
(続く)

「武満徹・音楽創造への旅」-1

早いもので10月も終わろうとしている。ついこの間まで暑さに辟易していたのに、その暑さに懐かしさを覚えるほどである。先週来連日のような雨が続くに連れ、秋を通り越して冬のような寒さに驚いている。

今年は暑さが殊のほか厳しいと大いに脅されたが、いざ夏を迎えてみればさほどでもなく、残暑も比較的早く終わってしまった。

今年の夏は、立花隆「武満徹・音楽創造への旅」を繙いて武満徹にどっぷり浸かった。

立花隆は30、40代の頃「宇宙からの帰還」、「アポロ13号奇跡の生還」とか、科学朝日に連載されたレポート記事を書籍化した「サイエンス・ナウ」のシリーズ数冊とかを読んだ程度だから、熱心な読者というにはほど遠い。また、印象的な著述家の一人ではあるものの、自分の立花隆のイメージの中には音楽はなかった。

「武満徹・音楽創造への旅」は武満徹没後20年の昨年刊行され(第1刷の発行日は武満の命日にあたる2月20日)、私は新聞の書評で出版を知って購入し(第3刷)、1年後の今年の初夏から読み始めた。

780頁という桁外れのヴォリュームで、はじめは読み流すような気楽な気持ちで読み始めたが、読み進めるに連れぐんぐん引き込まれて行き、結果大げさだが記念すべき武満三昧の夏となった次第である。

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巻頭に「文學界」’92年6月号~’98年5月号への連載に加筆・修正し、構成・内容は連載のままだが、武満の生前と没後でⅠ、Ⅱ部に分け、連載各回に新たにタイトルを付けたとあるので、最終章が66章なので連載回数は66回ということになるが、連載期間は丸6年だから72回、20章冒頭により一回休載していたことがわかるので71回となるはずで、恐らくその他にも休載となった号が5回あるのだろう。

立花隆の武満徹へのインタビューを核に、武満の著作、「音楽芸術」等関連資料、武満の関係者へもインタビューが及んで、それらを織り交ぜて武満の軌跡を綿密に追っている。

「文學界」への連載というのは奇異な感があるが、文藝春秋は立花隆の古巣であり実現した企画なのだろう。それはともかく、彼が音楽、更に愛好者がぐっと狭まる現代音楽にも深い造詣があって、ツボにはまった質問を受けて武満の方も興が乗り、初めて明かす話もあって二人の息がぴたりと合い、途方もない超ロングインタビューとなって、結果比類のない成果として結実することとなった。

武満は、1,993年10月14日付け毎日新聞夕刊掲載の「人間の「存在」について」(「時間の園丁」)の中で立花の連載に触れている。時間的には16,17章あたりまで進んでいた頃と思われるが、武満自身この連載を楽しみにしていたのではないか。そして惜しみない時間を立花のために割き、全面的に立花に協力した。

31章まで読み進め、その大分前からだったが、武満の初期の作品、「二つのレント」とか「弦楽のためのレクイエム」、また「ルリエフ・スタティク」をはじめとするミュージック・コンクレート作品、また頻繁に本文へ引用される武満の著作を是非とも聴きたい、読みたいとの気持ちを抑える事が出来なくなり、しばらくは立花の著作から離れ、直接それらと向き合う日々を送った。

地元図書館にあたり、小学館版「武満徹全集」Vol.1(管弦楽作品集)が隣市にある事を知り、貸し出しを受けた。

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地元図書館からは著作集最後の2冊「遠い呼び声の彼方へ」、「時の園丁」を借り、県立中央図書館所蔵の「音楽の余白から」、「音楽を呼びさますもの」を取り寄せてもらい、最後に「樹の鏡、草原の鏡」を借りた。

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「弦楽のためのレクイエム」は「全集」Vol.1に入っているが、「二つのレント」と「ルリエフ・スタティク」はそれぞれVol.2とVol.5に収められており、直近では千葉市中央図書館にあることがわかり、あたってみると市民以外への貸し出しは制約があり(予約不可etc.)、移動に片道1時間はかかることもあって、どうしようか思い惑っている内に全集を所有する友人に思い当たり、相談すると快く貸し出しに応じてくれ、しかも好きな時に返せばよいとまで言ってくれて、Vol.2とVol.5へも触れる事が出来た。友人の厚意がありがたく、嬉しく思っている。

武満の処女エッセイ集「音、沈黙と測りあえるほどに」は現時点で目を通していないが、立花隆を読んでいて無性に体験したいと思った事はほぼ達成できた。

「武満徹・音楽創造への旅」はまだ読み終えていないが、以下今回の武満作品鑑賞で派生した事共について報告したい。

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