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2017年10月23日 (月)

「武満徹・音楽創造への旅」-3「弦楽のためのレクイエム」

今回は「弦楽のためのレクイエム」を中心に記したい。
小学館版「武満徹全集」をVol.1(管弦楽作品集)から聴いたので、「二つのレント」よりあとの作品であるが先ず「レクイエム」からにする。

「弦楽のためのレクイエム」は内省的、禁欲的で暗い闇、あたかも宇宙空間を彷徨するような深遠な音楽で、聴いた途端に自分の波長と合い、音楽へ引き込まれてしまった。
現在も全武満作品の中で一番好きな曲だ。

ちなみに全集は、岩城宏之、オーケストラ・アンサンブル金沢による’96年9月のもの。

「弦楽のためのレクイエム」は1,957年6月20日東京交響楽団の定期で初演された。
武満が最初期に師事した早坂文雄(1,914~55)に献呈されている。
その時のプログラムが興味深い。

武満徹「弦楽のためのレクイエム」
ルーセル「小管弦楽のための協奏曲」
シューベルト「交響曲5番」
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲3番」

「武満徹全集」Vol.1の書籍を見ると新聞評が2件紹介されていて、その内「東京新聞」の山根銀二のものは何と翌日の6月21日付けで出ている! 立花も触れているが(18章)、「二つのレント」では武満作品を相手にしなかった山根が「レクイエム」へは好意的な批評を寄せている。

立花は船山隆の「武満徹論」(’68「季刊芸術」)の「レクイエム」についての記述の紹介もしている。

全集書籍の武満の言葉として「二つのもの-作家の生活」(「音楽を呼びさますもの」(’85年12月))から「レクイエム」へ言及する部分が引用されているが、その直前の「思えば五十歳に達して最も初歩的な段階へ立ち戻ったような気がする。」としみじみ綴っているのが印象的だ。(この文章は「レクイエム」の’57年+25年=1,982年のものと思われる。)52歳で武満の意識は「レクイエム」の頃へ回帰していたことを裏付ける興味深い文章である。

私は「レクイエム」を聴いた時、専門教育を受けずに独学で修行を重ねた青年がこれほど高い境地の作品を生み出したことに驚きの念を禁じ得なかった。
が、これはこの時期の武満の歩みを整理してリビューしてみると納得できる。

「二つのレント」が初演された1,950年は、秋に武満が生涯真の師と尊敬した瀧口修造(1,903~79)と出会う記念すべき年である(立花P.116)。「音楽創造への旅」第7章では、瀧口を通して文学、美術そして西欧の芸術全般の最新情報を学ぶと共に、出入りする若手芸術家達の知己を得ていく過程が書かれている。

そして瀧口修造が命名した「実験工房」同人として活動することになる。
この時期の作品に瀧口の詩集「妖精の距離」からインスピレーションを受けて作曲した「妖精の距離」(’51、ヴァイオリンとピアノ、新作曲派協会第8回発表会)、「遮られない休息」(’52、ピアノ作品、「実験工房」第4回発表会)、「ルリエフ・スタティク(Static Relief)」(’55ミュージック・コンクレート)(*)がある。

*:1955年11月23日の新日本放送(毎日放送)のラジオドラマ「炎」の音楽を再構成した。

一方この時期の武満は重度の結核に罹っていて、創作活動に空白がある(’53年頃)
武満にとって幸いなことに浅香夫人との出会い、結婚(’54年)が闘病生活においても奇跡的な快癒へ至り、その後の活躍の原点の一つにもなったことである(結核が良くなるのは’58年頃から(立花P.175))。

この頃、芥川也寸志、黛敏郎という当時の気鋭の作曲家の映画音楽のアシスタントを努め、オーケストレーション、音楽上の技術を学んでもいる。

’50年代の武満は優れた先達に恵まれ、経験を積み重ね、その才能を開花させていったわけだ。

この時期の資料として「全集」を貸してくれた友人から興味深いものを見せてもらった。
「美術手帖」’59年1月号の座談会「クレエの芸術から享けるもの」で、瀧口修造が駒井哲郎、武満徹の質問を受ける形で進行している。前年、瀧口はヴェネツィア・ビエンナーレ審査員として渡欧、以降欧州各地を巡りその最後にスイスを訪れ、クレエ作品をまとめて見る機会を得たことをテーマに話は進められる。
末尾では、芸術へ社会性を持ち込むことに否定的な武満に対し、それが自然に創作動機となるならば許容されるとか、駒井からの作品の民族性についての問いかけに対しては、作品個々の民族色はあってしかるべきであるものの、芸術は本来自由で宇宙的なものだと述べて、後段は後年の武満の音楽観の原点を見るようだ。

2,011年11月~12年1月千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録の巻末年譜を見ると、瀧口は上の’58年の渡欧で、8月にスペインのダリを訪問の際にデュシャンと初対面して以来、親交を重ねるようになった。
この展覧会はデュシャン、瀧口ゆかりの芸術家が紹介されていて、武満が注目していたジョゼフ・コーネルとか、ジャスパー・ジョーンズ、またジョン・ケージの造形作品と「4分33秒」のスコアも展示されていた。
それと図録の頁を繰っていると瀧口と周辺作家による《漂流物 標本箱》という箱型の作品に9つに分けられた区画の上段中央に武満のオブジェ作品があるのに目が止まった。作品と言っても、液体が入っているコルク栓のある大小のガラス瓶であるが。

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上がそれで、瀧口は中央にモナリザのハンカチを置き、その上が武満。

マルセル・デュシャンと言えば、「鳥は星形の庭に降りる(A Flock Descends into the Pentagonal Garden)」(’77)の作曲動機となったマン・レイの写真の当人である。

瀧口修造との関わりの話をもう一つ。これも上の友人の提供によるものだが、「パウル・クレエと音楽」という武満徹のエッセイである。「アトリエ」1,951年6月号に掲載され、見開きの片側にクレエの「AD MARGINEM」(’30)という作品が載っている。

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このエッセイには立花も触れていて(P.134)、瀧口の計らいで掲載の運びとなった由。武満の原稿は瀧口の朱書きで埋まったらしい。
また「音とことばの多層性」(「音楽を呼びさますもの」)で「マージナリア」(’76)の命名の根拠となったものを列挙し、それは瀧口の詩、そして上のクレエ「AD MARGINEM」、そしてサム・フランシス等々を掲げている。
立花は「音楽創造への旅」最終章冒頭で触れて、「マージナリア」の語義について大変参考になる考察をしている。曰くマージナリアとは、「欄外の書き込み」を意味する由。
そして、瀧口修造の「マージナリア(「MARGINALIA」:邦題「余白に書く」)」(’66、みすず書房)を紹介している。装幀は瀧口自身のもので、上の千葉市美術館の図録にあり、サム・フランシスの図柄を採用しているのが面白い。

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上の右ページ上が瀧口の「余白に書く」

(続く)

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