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2018年12月

2018年12月31日 (月)

「ムンクとフェルメール展」

あっという間に大晦日が来てしまった。
2018年を無事過ごすことができたことに感謝すると共に、今年も思ったことの10分の1も出来なかった悔いの念を胸に新しい年を迎える。

旧聞もいいところになってしまったが、年の最後のブログとして以下を取り上げたい。

11月21日(水)に上野で開催されている表記の展覧会へ行って来た。共に年明け後しばらく迄の会期だが、年内に行こうと考えていて、旅行を終えてから調べてみたら、「ムンク展」がこの日「シルバーデー」で65才以上は無料入場できると知り、「フェルメール展」の方は20時まで開場しているので、2つをはしごすることにしたのだった。

「フェルメール展」は日時指定入場制を取っており、余裕を見て17:00~18:30の枠にした。入場料は\2,700と高めで、ネットの前売りで購入したので\200割引された。

都内の展覧会は2年半振りで、上野は3年半振りになる。その直近が森アーツセンターギャラリーでの「フェルメールとレンブラント」展だった。

先ず腹ごしらえをすることにして、文化会館2階の精養軒でハヤシライスを久し振りにいただく。

この日の人出はものすごかった。西洋美術館前の広い通路が往来する人波で埋まっていた。
都美術館のロビーもシルバー世代でごった返していた。
横4列に並ばされ、入場口まで30分位だったか、それほどのストレスを感じることもなく会場へ入ることが出来た。

「ムンク展」、副題は「-共鳴する魂の叫び」、英語で「A Retrospective」とある。
総数101点の中では油彩が主体で、リトグラフ等の版画を含む初期から晩年に至る回顧展示である。
私は「叫び」をこの目で見たくてこの「ムンク展」へ来た。

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ムンク作品を見て感じたのは、その色彩感覚の非凡さである。また「叫び」に象徴されるように、作品から醸し出される不安、焦燥、絶望へ対峙する実存主義的な自己といった切迫感に包まれる。

都美術館を17時頃出て、時間に余裕があったので公園内のレストラン「パークサイドカフェ」で食事をした。チキン、野菜付きジンジャーカレーとコーヒー。

まだ18時前だというのにすっかり夜の帳が下りていた。特に上野の森美術館への道は人通りもなく、寂しいことといったらない。
こちらは予想に反して待ち時間ゼロで会場へ入ることが出来た。

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2階から見ていくようになっていて、フェルメール・ルームは1階にある。
可成り広く、ここにフェルメールの作品が8点展示されていた。入り口から正面の長い壁に右から製作年代順に6点(「赤い帽子の娘」と「手紙を書く婦人と召使い」だけは何故か順番が逆)が、右側の壁に「マルタとマリアの家のキリスト」、左側の壁に「牛乳を注ぐ女」が掛けられていた。

フェルメールが8点も一堂に会するというのは相当に贅沢なことで、これはニューヨークのメトロポリタン美術館の5点、フリック・コレクションの3点を合わせた数で、ニューヨークへ行ったとしてもこの2館を渡り歩かなければならない。

「マルタとマリアの家のキリスト」の額下側に銅板があり、「Mr.M.A.COATSコレクションを引き継いだ2人の息子達により1927年に寄贈・・・」という趣旨の英文が刻まれていた。
単眼鏡を持参していたので読めた。絵を単眼鏡で覗くと細部の表現の見事さに絶句させられる。「ワイングラス」の窓のステンドグラスとそれを透かして見える曇りガラスの精密な描写。「牛乳を注ぐ女」の鉢へ注がれるミルクのらせん、壁のピン穴、床に接する壁のタイルの模様・・・単眼鏡で見ているとその精細さに驚かされた。

フェルメールと同時代の17世紀オランダの風俗画39点の展示の方も興味深いものだった。過去の展覧会で見た作品も散見されたが、その中で23エマニュエル・デ・ウイッテ「ゴシック様式のプロテスタントの教会」は森アーツセンターの「フェルメールとレンブラント」展でも見ていて、その際にブログでも触れた。(→2016.4/4

気が付いたら20時の閉館時間が近付いていた。人の山もなく理想的な鑑賞をすることが出来た。

今回の「フェルメール展」は以下の9作品(数字は出品番号、日本初公開=☆、今回初めて見た=★)。
40「マルタとマリアの家のキリスト」
41「取り持ち女」(☆、’19年1月からの展示)
42「牛乳を注ぐ女」
43「ワイングラス」(☆、★)
44「リュートを調弦する女」
45「真珠の首飾りの女」(★)
46「手紙を書く女」
47「赤い帽子の娘」(☆、★、12月20日まで)
49「手紙を書く婦人と召使い」
年明けに「赤い帽子の娘」と入れ替わる「取り持ち女」を私は見ていないが、今のところもう一度見に行こうとは思っていない。まだまだフェルメールオタクを自称するまでになっていない。(^^;

これで私が見たフェルメール作品は22となった。(*)
現存するフェルメール作品は37で、その内2点は真作か否か結論が出ていないようだ。また「合奏」は盗難に遭って行方不明だという。しかも作品は欧米の美術館に分散しているので、全作品を目にするのは大変にむつかしい。

(*)ブログ「フェルメールとレンブラント」展(’16.4/4、上のリンク参照)で18点としたが、これは19が正しい。その時見た「水差しを持つ女」を数えていなかった。(^^;

私が今見たいのは、
・「士官と笑う娘」(フリック・コレクション、ニューヨーク)
・「デルフト眺望」(マウリッツハイス美術館、デン・ハーグ)
である。

NHK「100分で名著」12月のスピノザ「エチカ」テキスト口絵にフェルメールの「天文学者」の図版があって、「モデルがスピノザとの説がある」とあった。ちなみにスピノザとフェルメールは同い年で共に1632年生まれだ!
(了)

2018年12月30日 (日)

「ぱしふぃっく びいなす クルーズ」-3

(11月10日の続き)
午後4時頃停泊中の「ぱしふぃっくびいなす」号へ帰着。
キャビンで今夜のイベントを再確認後、サンドイッチバーへ。

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私はレモンティー。

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妻はアイスカフェオーレ。

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午後5時新宮港を出港した。
岸壁では地元主催による送迎イベントが催され、和太鼓の演奏等で盛大にもてなしてもらった。
デッキからテープを投げたが、風は強くなかったのに上手く飛んで行かなかった。

5時30分からは7階のメインラウンジでビンゴ大会。カードが通常の穴を開けていくタイプでなくてスライド式だった。妻共々ビンゴは強くなく、今回もリーチ止まりに終わった。
その後は「All That JAZZ!!」。セントトロペスバンドというピアノ、フルート(アルトサックス掛け持ち)、ベース、ドラムスと女性ヴォーカルのユニット。
Around the World(Disneyのテーマソング)、You’d be so Nice!位しか曲名を覚えていないが、いずれも馴染みのある曲をジャズ風に演奏していた。女性ヴォーカルは若いだけあってエネルギーがすごい。
メジャー契約クラスではないが、プロの演奏である。

船は外洋に出てから揺れ始めた。前後に大きくうねるように上下する揺れで、周期は長目。
そして夕食となった。ちょっと遅めに会場へ行ったので、テーブルはほぼ埋まっていた。
紀州の旬の食材をふんだんに用いた会席コースで、可もなく不可もないというのが正直なところだ。

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お通しと前菜

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お造り(紀州梅真鯛、海桜鮪)

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お吸い物(和歌山産太刀魚の素麺、紀州南高梅、舞茸、酢橘)

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熊野牛の山椒焼き、椎茸、銀杏、里芋添え。しらすと百合根のかき揚げ。

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栗ご飯、お吸い物、香の物。

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梅餅。

夕食はほぼ9時頃まで続いた。
9時15分からメインイベントというべき麻倉未稀のコンサートがあるので、忙しい。
「Voice of Power」と題しただけあってパワーはすごかった。ソロコンサートでBGMはカラオケ。トークが多めで、それも即興のようだったのでやや冗長な感じがした。
コンサート中も揺れがすごくて、麻倉未稀は途中から椅子へ座って歌っていた。デビューしたての頃の清新なイメージが強く記憶に残っているだけに、現在の彼女の歌唱は私の望む方向とは違っているように感じながら聴いた。

11月11日(日)第3日目
昨夜の揺れは就寝中もずっと続いていた。
一夜明けてみると船は相模灘を航行中で波は静かで揺れは全くない。
昨夜のような揺れは決して快適ではないものの、航海ならではの経験が出来たと思う。

キャビンの窓からご来光を迎えた。日の出前から空は明るく、6時29分頃から太陽が見えてきた。

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この写真は6時31分頃のもの。左に見えるのが三浦半島。太陽の下に微かに見えているのが房総半島。

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7時15分頃にアーリーモーニングティー。この時はコーヒーをいただく。フレンチトーストはgood!

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お茶の後にボートデッキへ。7時26分頃で浦賀水道あたりか?左の陸地は房総半島。

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陸地は横須賀の街並みか?

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8時15分朝食をいただく。

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フードバーから。ハッシュブラウンポテトはまずかった。

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8時40分頃食事中にベイ・ブリッジを通過した。

9時に横浜港大桟橋へ着岸、そしていよいよ下船である。
バスの待機場所までフィリピン人の女性スタッフが荷物を運んでくれた。レストランにしても、キャビン内清掃にしても、船内のベーシックな仕事はすべて外国人だった。
最近はTV、新聞でもニュースになるが、クルーズ船は正に日本社会の縮図のようだ。

途中東京湾アクアライン海ほたるのトイレタイムを経て、無事木更津へ帰着した。
(終わり)

2018年12月29日 (土)

「ぱしふぃっく びいなす クルーズ」-2

11月10日2日目
順調な航海で大きな揺れもなく盛り沢山な船内イヴェントもあって、疲労からぐっすり眠ることが出来た。
カーテンを開けると強烈な光がキャビンへ差し込んでくる。
7時過ぎにボートデッキへ行った。1周336mある。

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左舷側から後方(東)を見ている。夜が明けて間もない頃。波は静かだった。

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航跡が長く続いている。その延長に太陽の光がある

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右舷側。救命ボート。

下は定員25人の救命筏。膨張式のようだ。

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上は救命筏用シューター。

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船首。陸地(紀伊半島)が見えている。

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7階へ下りてアーリーモーニングティーをいただく。このティーサービスのスタッフの女性はすべてヨーロッパ系で、ウクライナ、クロアチア、モンテネグロ出身だそうだ。

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朝食。洋食主体のフードバーもあったが、あまり食欲もなく見合わせた。
正直言ってあまりグレードは高くない。

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フードバーからフルーツとコーヒーだけいただいた。

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予定通り9時に新宮港へ到着した。

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海水がエメラルドグリーン。

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タグボート。

シアターでは9時から「キミサラズ」(2015年)の上映が始まっていた。木更津を舞台に木更津市出身者が中心となって製作された映画と言うことなので見た。独立プロ系の作品だが、観客の共感を得る普遍性を持つ処までは至っていないように感じた。この映画の存在を知ることが出来たのはよかった。
昨夜もそうだったが観客は我々以外に数組だった。

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11時頃モーニングティーへ行く。アイスティーを飲む。

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11時45分メインダイニングで昼食。

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ポークカツカレー

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マンゴープリン

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コーヒー

午後はオプショナルツアー。我々が参加したのは「熊野古道・大門坂と那智の滝」。参加者は30名くらいだったか、大型バス1台でベテランのガイドさんが付いた。

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大門坂。

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ヘアピンカーブの路肩へバスを停車させて一部を歩いた。

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杉並木の間に石段が熊野那智大社まで延々と続く。

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那智の滝入り口。
熊野那智大社の別宮となっていて「飛瀧神社」という。由緒書きに神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)により、大瀧を大穴牟遅神(おおなむちのかみ、大国主命)のご神体として祀ったとある。
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滝見台へ続く石段。

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那智の滝。落差133m、水量毎秒約1トン。約40年振りだ。形が美しく、再た見たいと思い続けてきただけに感無量だった。

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以上で予定箇所は終わりだが、時間が余ってしまったので勝浦港へ行った。

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リアス式の複雑な地形を持った天然の良港。正面遠方はホテル浦島。

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手前の漁船は高知県土佐市から来ている。正面は勝浦湾を囲む半島と島。
漁港周辺には観光客向けの商業施設や足湯もある。

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勝浦の商店街。遠方に見えるのは那智山。
(続く)

「ぱしふぃっく びいなす クルーズ」-1

11月9日から11日まで「ぱしふぃっく びいなす 秋の味覚と世界遺産・熊野古道クルーズ」というクルーズ旅行をして来た。
奈良・京都旅行から1週間余で、余韻が冷めるか冷めないかというタイミングだったが、この機会を逃すと次のチャンスが来るかどうか分からないので決断した。
とはいえ、実は順番からするとこちらを先に決めていた。
5月1日発行の「広報きさらづ」5月号のトップページで、市の協賛事業としてこのクルーズが実施されるのを知って、妻共々一度は体験してみたかったクルーズ旅行を申し込んだのだった。

延べ3日間だが実際は横浜出港が17時で、帰着は3日目の朝9時なので最終日はあってないも同然。実質1泊2日みたいな日程である。
目的地の紀州新宮と横浜間は430km余りで、片道16時間の航海だから平均27km/hr(14.6ノット)出ているわけだ。往復とも夜間の運航なので、のんびりデッキで茫洋とした大海原を眺めるという船旅の醍醐味を味わうことは出来ない。

ある意味クルーズ旅行のさわりを知る入門編のような企画だった。
「ぱしふぃっく びいなす」の旅客定員は680人。カードキーにスペックが記載されており、
総トン数:26,594トン
長さ:183.4m、幅:25m、最高速度:21.60ノット(40km/hr)
などとなっている。
大型客船といっていいのだろうが、横浜港で桟橋の隣へ停泊中の船ははるかに巨大で(*)、「ぱしふぃっく びいなす」はそれほどの規模の船ではなさそうだ。今年は就航20周年だそうで、設備もそろそろ傷み始める時期かも知れない。

(*)下出の写真参照

12階までありパブリックゾーンは5階から。
キャビン(客室)は5、6、8、9、10階でメインダイニングは7階、8階にイベント会場のメインホール、ボートデッキがある。その他様々なアミューズメント施設を備えている。

我々は6階のGタイプのステートルーム、船内図で見るとかなり船首寄りで、波の影響を受けやすいポジションのようだ。主催会社の指定なので如何ともし難い。ただ階段、エレバーターへは近く、非常時には逆に好位置といえる。
映画上映をするシアターを挟む位置なので、シアターへのアクセスもGood。
キャビンのグレードはピンキリで、料金の差が大きい。我々の分相応の部屋にしたという次第だが、15.3㎡はいかにも狭く、水回りスペース、特にシャワーブースにしわ寄せされていて、水勢も弱くはっきり言って使い物にならない代物と言っていいが、居室の方はあまり狭さを不自由に感じることはなかった。

11月9日(金)12時木更津港を出港。

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岸壁で催行されたイベント。

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よさこい演舞。地元のゆるキャラも参加。

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岸壁を離れた。

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岸壁が遠くなっていく。

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船内に掲示されていた航海図。現在位置が示されていた。

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出航後間もなく昼食となる。バラチラシ。

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抹茶、わらび餅。

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キャビン。

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6階にあるライティングルーム。図書の棚。ざっと見たが興味を惹かれる本はなかった。新聞もある。

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アフタヌーンティー。ティータイムはふんだんにあって、無聊の慰めになった。
ケーキはオープンバーで自由にチョイスできる。

午後4時30分から避難訓練があった。キャビンで待機させられ、訓練の緊急船内放送を聞いて救命胴衣を装着し、8階のメインホールへ集合。グループ毎に分けられて、ボートデッキの救命ボートのナンバーを知らされ、有事の際は当該ボート所在場所へ集合するよう指示があった。
船なのでいざとなれば逃げ場がない。11月でもあり、遭難となれば助からないかも知れない。またTV等で南海トラフ地震のリスク増大についても最近しばしば流れるので、津波に襲われればこの客船はひとたまりもないだろう、とか不吉な事が頭をよぎっていた。

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横浜港で隣の桟橋に停泊していた超大型客船。あまりの大きさに度肝を抜かれてしまった。
写真ではほとんど隠れているが、船体に’MILLENNIUM’と書かれているらしいことは辛うじてわかる。
たまたまだったが、後日この船は「セレブリティ・ミレニアム」であることが分かった。総トン数91,000、乗客定員2,158人、乗組員数は999人!!!

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予定通り午後5時に横浜港を出航。あいにくの雨だったので、出航のセレモニーは7階のプロムナードで行われた。専属バンド(セントトロペスバンド)のBGMで乾杯をした。

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サンドイッチバー。6時近い頃。夕食は2部制で我々は遅い方なのでこの時点で約2時間あった。6時からのコンサートを聴こうと思っていたが、シアターで上映されていたメリル・ストリープの「マダム・フローレンス」(2016、イギリス)という映画を覗いてみると面白いので席を離れることが出来なくなってしまい、最後までスクリーンに釘付けになってしまった。

そして夕食。
7階のメインダイニングで7時40分頃に席に就いた。

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参加者が多いので料理が運ばれるまでしばらく待たされた。

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鯖のマスタード風味のミルフィーユ仕立て

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鮪とオクラのタルタル。春菊といりこのソース。

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栗のポタージュ。シナモンの香り。

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真鯛のポアレ、浅蜊ソース。長葱のグラチネ添え。

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大葉のグラニテ。

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レーズンパン、バゲット。共に自家製。

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牛ほほ肉の赤ワイン煮ブルゴーニュ風。茸3種のグリル。

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フルーツコンポート、ピスタチオのムース。

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コーヒー

夕食は概ね9時まで。料理毎に皿が代わり、盛り付けも趣味が良く、楽しくいただく。

食後もイベントは続き、9時20分から10時までメインホールで落語を聴いた。柳亭芝楽という木更津市出身の落語家。
10時30分から11時までは11階オブザベーションラウンジで「ロス・ペイサノス・トリオ」。レキント(?)ギターと普通のギターそしてベースの外国人3人。9曲演奏。「キサス、キサス」、「コモエスタ東京」、「イエスタデイ」、「ダイアナ」、「また会う日まで」etc.演歌主体に幅広い。リードボーカルは3人が曲毎に交代していた。
この時は妻はキャビンにいた。

この日の締めは夜食。妻ときつねそばを食べた。
(続く)

2018年12月27日 (木)

「京都の漱石句碑について」

今年の京都・奈良旅行前に、一日目の夕食を予約していた「梅むら」の位置をGoogle Mapで確認していたら、近くに漱石の句碑があることを知り、折角の機会なので行ってみた。

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上のように句碑は御池通に面していて脇に銘板が立っている。
彫られている文字は、最後の「漱石」以外私には判読できなかった。
銘板には、詞書き付きの俳句と、漱石の京都との関わり、この俳句で詠まれている最後の京都行で出会った女性との交友等が記されているのだが、長文で文字も遠目には見にくく、時間もなかったのでとりあえず写真に納めて旅行から帰って来てから読み解いた次第。

句は
「木屋町に宿をとりて川向のお多佳さんに
春の川を 隔てて 男女哉(おとこおみなかな)  漱石」

一方の銘板の要点は以下のとおり。

句碑は、昭和41 (’66) 年に漱石生誕百年を記念し「漱石会」が建立した。
漱石の京都行は4回で
1. 明治25(1892)年7月に正岡子規と。
2. 明治40(1907)年春に朝日新聞へ入社し、「虞美人草」連載のため。
3. 明治42(1909)年秋、中国東北部への旅の帰路。
4. 大正4(1915)年春「硝子戸の中」稿了直後、津田青楓のすすめで木屋町御池の「北大嘉(きたのたいが)」に投宿。祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友を持つが、ある日二人に小さな行き違いが起きる。鴨川を隔てた祇園の多佳女を思いながら詠んだのが碑の句。
銘板は「京都漱石の会」発足(平成19(2007)年)を機に、平成20(2008)年に建てられた。

以上だが、句碑の主人公である磯田多佳女がどういう人で、漱石との「小さな行き違い」とはどういったものだったのか興味を覚えた。
以下にStudyした顛末を記す。

漱石の京都行の1と3は旅行の通過地点としての滞在で京都を目的としたものではなかった。荒正人「漱石研究年表」によれば、1は東京帝大文科大学2年次の学年末試験を終えて夏休みに入り、松山へ帰省する子規に大阪まで同行した途中の滞在で、7月8日に京都に到着し翌9日には発っている。因みに子規と別れた後漱石は次兄の妻の岡山の実家へ約一ヵ月滞在後、子規のいる松山へ足を運び二週間余りを過ごして帰京している。
3は10月15、16日で、「研究年表」によると「万屋(よろずや)」という旅館に宿泊している。後述するが、この宿は磯田多佳女に関連している。銘板にあるとおりこの時は帝大時代の学友で当時満州鉄道総裁だった中村是公の招きで行った満州韓国旅行の帰途だった。この旅行は、9月2日(*)から10月17日に亘る大旅行で、朝日新聞へ「満韓ところどころ」という旅行記を連載している。伊藤博文がハルビンで暗殺されたのが10月26日で、漱石は既に帰国していたがすれ違いみたいな時期的な近さであり、翌年の小説「門」冒頭部で取り上げていることを見てもこの事件は漱石に強烈な印象を与えたのだろう。私も来年は伊藤の享年である69才に達する。

(*)12月23日(日)の午後2時近く、NHKFM「トーキング ウィズ 松尾堂」を聴きながら車を運転していたら、今年の一冊という話題でゲストのサンキュータツオが挙げたのが「漱石研究年表」だった。それも「増補版」と断りを入れて。
そして例示したのが何と明治42年9月2日!満韓旅行出発の日だ。何を話していたかというと、記事にあるこの日の天候、そして新橋停車場の発車時刻と御殿場停車場の到着時刻について。
サンキュータツオによると、「研究年表」が書かれていた当時、広島の古書店がこの頃の時刻表の復刻版を出版していたとの事で、天候についても情報源がある由。
発車時刻の特定は、漱石の日記に「箱根にて日暮る」とあることと、時刻表のダイヤから割り出している由。
偶然に貴重な情報を得ることが出来た。

残る2と4が京都を目的とするもので、2は3月28日から4月11日までの約2週間に及び、その目的は、かつての僚友狩野亨吉(こうきち)、菅虎雄に会い、また大阪朝日と近付きになる為と、「書かねばならない小説の材料を拾うといふ下心」とであったと小宮豊隆「夏目漱石二」の「四九京都」(P.254)にある。
漱石はこの3月に帝大、一高を退職して朝日新聞へ入社し、小説第一作の「虞美人草」は6月23日から連載がスタートしている。
この時の滞在について漱石は「京に着ける夕」というエッセイを書いている。題名のとおり京都へ着いた3月28日の夜について書かれている。漱石全集第八巻「小品集」(昭和50(1975)年7月9日第2刷)冒頭に収録されており、末尾に明治40、4、9-11とあるが、これは新聞へ掲載された日付だろう。
またこの時は高浜虚子が奈良への取材旅行の途次、京都に滞在していて、漱石は虚子の滞在先である「万屋」を訪れ、虚子と祇園へ都踊りを見に行ったりしている。高浜虚子は漱石の没後の大正6年に「京都で会った漱石氏」でその時の様子を回想している。(改訂新版「漱石全集」別巻)
荒「研究年表」によればこれが4月10日の事で、翌11日に漱石は京都を発っている。

さて4である。滞在は3月19日から4月16日までの約1ヶ月に及び、これは漱石が当初から胃痛に悩まされ体調を大きく崩したことによるもので、遂には東京から鏡子が呼ばれたほどだった。
小宮「夏目漱石三」の拾い読みから始め、江藤淳「漱石とその時代」第5部の12「京に病む」、13「「事業」の色」に可成り詳しく多佳女とのいきさつが記されていて、これにより概ねを理解することができた。

漱石の宿となった「北大嘉(きたのたいが)」は「現在の御池大橋の西詰の川畔で、下側が橋にかゝる位の位置にあったらしい。大きな宿ではない。」(→京都漱石の会公式ブログ「漱石京都句碑の出来るまで」

大正4年当時には御池大橋はまだなかったようだ。(→東京紅団「夏目漱石の京都を歩く(大正4年)-1-

江藤上掲書では読みを「きたのだいか」としているが、現地の銘板、改訂新版「漱石全集」17巻(俳句・詩歌)(P.465、2440注)、荒「研究年表」(P.799)のいずれも「きたのたいが」とルビが振られているので、江藤のミスか誤植によるものと思われる。

多佳女との「小さな行き違い」というのは、多佳女からの誘いで3月24日北野天神の梅見を予定していたが、当の多佳女はダブルブッキングしていたのか宇治へ行ってしまい、漱石との約束が反故にされた事のようだ。
そして碑の句が詠まれたようだ。

3月30日に多佳女の「大友」へ舞子の踊りを見に行くも、胃の具合が悪化しそのまま大友で横臥してしまい、北大嘉へ戻ったのは4月1日の夕方だった。翌2日に鏡子が到着して、大友へ多佳女を訪れたりもしたようだ。
そして漱石夫妻が京都を発つのはそれから2週間後の16日だった。
そして6月3日からは「道草」の連載がスタートしている。

また江藤により谷崎潤一郎に「磯田多佳女のこと」という文章があることを知った。手元の没後版谷崎潤一郎全集の略目録には当該作品名はなく、以前目次をコピーしてあった20,21巻にも入っていない。決定版全集の方のパンフレットを見ると、こちらは第20巻にある。同名の単行本があり、収録作品は当該作の記載しかなく、一作のみで本になったということは結構な長さなのかも知れない。初収録作品であることを示している「*」が付されていないから没後版に入っているのは間違いない、とかあれこれ思いつつ要領を得ないまま図書館へ行った。
閉架書架から随筆小品を収めた22巻を出してもらい確認するも見当たらない。レファレンスのスタッフが調べてくれて16巻に入っていることがわかった。
この巻は冒頭に「磯田多佳女のこと」、他に「同窓の人々」、「「潺湲亭(せんかんてい)のことその他」、「疎開日記」等々興味深い文章が並んでいる。
いずれはこれらも是非読みたいと心に期し、今回は「多佳女」のみを対象に借りて来た。それが末尾の高浜虚子宛て書簡を入れてもわずか34頁。これ一作で本になったということは考えられないが・・・

とまれ、今度のstudyの最大の収穫は谷崎の「多佳女のこと」を読んだことである。
これを読み、谷崎の奥の深さを思い知るというか、こういう小文へも全力を尽くすというと大袈裟になるが、細部に至るまで気が抜けない密度で書かれている。

その白眉は書き出し部分かも知れない。
昭和21(1946)年5月多佳女の一周忌を記念する演芸会へ谷崎は赴く。会場は知恩院の塔頭源光院。その所在地を説明する記述の巧みさ!多佳女のお茶屋「大友」の場所をやはり説明する明快さ(*2)!その鮮やかな語り口には感嘆させられる。この際には「サライ」H18年18号付録の京都市街図が役立った。
演芸会場には軸装された件の漱石の句が掛けられていたことを谷崎は記している。
また谷崎は空襲がなかった京都にも戦時疎開により取り壊された建物はあって、多佳女の大友も戦争が終わる直前にその憂き目に遭った無情を淡々と記す。

(*2)「四条通の、南座のすぐ向うを北へ這入ると、大和大路、・・・あれを北へ進むこと数丁、白川が賀茂川に注ぐあたりに架した大和橋を渡り、ちょっと行って東へ折れた横町が・・・」(谷崎潤一郎「磯田多佳女のこと」)と律儀な書きぶりで大変分かりやすい。
南座といえば、NHKEテレ「にっぽんの芸能」11月16日の放送で南座の新開場記念公演の模様を紹介していた。平成28年から3年がかりの耐震改修工事が終わり、例年12月からの顔見世興行が今年は特別に11月1日から始まった由。これを予め知っていたら旅行スケジュールに反映させたかも・・・
南座は出雲の阿国ゆかりの四条河原へ立地した江戸期元和年間に幕府の許可を得た7つの芝居小屋の一つで、明治期に南座のみとなり現在に至っているとのこと。
一度観劇したい場所である。

漱石が多佳女と近付きになったのは大正4(1915)年だが。谷崎はそれより3年早い明治45(1912)年に多佳女と会っている。大正4年時点で漱石48才、多佳女は37才だった。
明治45年の谷崎は若干27才、一体何のために多佳女に会いに行ったのか?その後折に触れ「大友」を利用していることが行間から窺われるが、多佳女と如何なる交流があったのか興味を覚える。
谷崎は多佳女と深い交流があった岡本橘仙(猶吉)にも触れ、上述の旅館「万屋」の主人だったことが語られる。
谷崎は多佳女が「明治45年以来三十五年間岡本橘仙の「おもいもの」で「友達」で・・・「好伴侶」であった」と書き、江藤淳はそれを無批判にそのまま引用している。(「漱石とその時代」第5部(P.210)
明治45(1912)年の35年後は1947年で岡本橘仙も多佳女も昭和20(1945)年にそれぞれ78才、67才で亡くなっているので、これは谷崎の単純なミスである。そのミスを引きずるのはいただけない。この文章が多佳女の没年に関することから始められているだけに信じられない不注意と云える。
(了)

2018年12月21日 (金)

「京都・奈良の旅’18」-8(最終回「正倉院展」)

奈良ホテルから徒歩で「正倉院展」へ向かう。
荒池を挟む道路沿いの歩道を抜け、だらだらの坂を登り切ると春日大社の一の鳥居が見えてくる。

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春日大社は今年創建1250年を迎えた。

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奈良公園へ入る。まっすぐ歩いて行くと「正倉院展」会場の奈良国立博物館新館へたどり着く。

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仏像館脇の鹿。正面のテントは仮設のコインロッカー用。

奈良ホテルで前売り券を購入していたので、入館待ちの行列に並んだ。正面入り口まで1回半の往復。平日でもあり、左程でもない混みようだ。

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今年で第70回の節目を迎えた「正倉院展」は戦後のスタートで、第1回が昭和21年(1946)に開かれている。
私は五十代半ばに初めて参観してから今年で8回目になる。平成27年(2015)からは毎年来ている。

今回印象的だったのは
⑮玳瑁螺鈿八角箱(たいまいらでんはっかくのはこ)→図録表紙を飾っている
⑯沈香木画箱(じんこうもくがのはこ)

「正倉院御物」の中核を成している聖武天皇遺愛の宝物の数々は北倉へ納められていて、「正倉院展」の目玉になっているのだが、上の2品はいずれも中倉の宝物だ。
NHK日曜美術館で11月4日に放送された「正倉院展」特集へゲスト出演した奈良博館長の松本伸之氏が述べていたが、単眼鏡は必須アイテムで、肉眼では認めるのが困難な微細な部分の精密丹念な加工を単眼鏡越しに見ていると、余りの見事さにため息が出てくる。
⑯は蓋と側面の採絵に目を奪われてしまったが、改めて今これを図録で見ると色彩の鮮やかさ、生命力溢れる図柄の魅力が伝わってくる。更に採絵を縁取る木画が見事だ。箱根の寄せ木細工を連想させられた。
そして展示では気が付かなかったが、下側に透かし彫りの羽目板が付けられており、これも精密で実に見事。

過去の展示との関連では
① 平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)
私が初めて「正倉院展」を参観した第57回(2005年)に出陳されていた。その時は図録の表紙を飾っていた。

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⑤古人鳥夾纈屏風(こじんとりきょうけちのびょうぶ)
昨年の第69回の「5羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」、「6熊鷹臈纈屏風(くまたかろうけちのびょうぶ)」を思い出した。(→ 2017.11/30

また妻が聖語蔵の経巻3点に引かれている罫線についてスタッフへ質問したところ、下のような参考書のコピーをもらった。最後の部分に「正倉院展」へ出陳された参考例が挙げられているが、何時のものなのかこのコピーではわからない。今年の図録から遡って見ていくことにしたら、あっさり昨年の図録の55であることが分かった。

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なお今年の図録冒頭の概説「宝物の献納について-光明皇后による宝物献納を中心に」(内藤栄氏)は「国家珍宝帳」を中核とする5回に及ぶ光明皇后による宝物献納の意味を国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり 天平13年(741))、「国家珍宝帳」の7件の「除物」との比較考証により解き明かす試みで、そこに浮かび上がる関連人物を、系図(*)によりその相互関係の複雑さに見入りつつ、大変興味深く読んだ。(*2)

(*)坂上康俊「平城京の時代」(岩波新書)P.99、197
(*2)献納宝物の内「種々薬帳(しゅじゅやくちょう)」の願文に該当するものが「建立の詔」にない点に着目し、聖武天皇が鑑真により受戒した折のテキスト「梵網経」の第九軽戒(きょうかい)の疾病人への供養の教えを対応させている点に内藤氏の深い洞察力を感じる。

今年は東大寺大仏殿の北側にある正倉の見学をした。

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2年前公開時間を知らずに閉門後に行ってしまい、苦い思いをしているので今回は予め時間を確認して行った。
通常は午後3時までのようだが、この日は特別公開中で午後4時直前だったが見学することが出来た。

正倉前に置かれた柵までが立ち入り可能で、やや距離はあるものの眼前の正倉と向き合うことが出来る。可成りの大きさで私のカメラでは全体を捉えることは出来ない。写真では中倉と南倉が写っている。左後方に見えている瓦葺き(?)の広い屋根の建物は西宝庫。昭和37年に完成し、正倉院宝物は現在ここに保管されている由。(杉本一樹「正倉院」(中公新書))
日曜美術館でも冒頭で紹介していた「開封(かいふう)の儀」は、勅封とされている西宝庫に宮内庁の勅使立ち会いの元、宝庫の扉が開封されて宝物の曝涼が行われる。それに併せて「正倉院展」で宝物が一般公開されるわけだ。

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鹿の群れ。写真右に戒壇院がある辺りのショット。

近鉄奈良駅発16時30分の特急京都行きへ乗る。

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平城宮跡、大極殿の右に工事中のクレーンと大規模な足場が見えているが、大極殿の南門の復元工事の現場のようである。

18時45分京都発のぞみ135号で帰途に着く。
21時30分東京発さざなみ9号へ乗車。
22時32分木更津着。
最後まで天候に恵まれ、病み上がりの身ながら日を追うに連れ体調も上向いていき、予定通りの旅が出来たのは幸いだった。
(終わり)

「京都・奈良の旅’18」-7(奈良ホテル)

午後5時頃奈良ホテルにチェックイン。
本館236号室。クラシックツインルーム。予約のメールでは25.5㎡とあったが、フロントでは広めの部屋にしたとの事だったので、多分面積はそれよりある部屋だと思われる。
本館は耐震改修工事中とのことで、それに併せて内装も改修しているのだろうが、レトロが売りでもあるので古色蒼然としたイメージは残すようにしているのだろう。
この部屋が改修を終えているのかどうかは分からなかったが、水回りスペース、洗面、バス、トイレが居室と別区画となっていて、お世辞にも褒められない洗面台、何世代か前のウオッシュレット、それとこのスペースは寒くて洗面・入浴・トイレに不自由な思いをしなければならない。と設備面では合格点を与えることは出来ない。

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一方居室は落ち着いた雰囲気で窓も広め、ベッドメイキングはGOODで寝心地は大変良い。

夕食はメインダイニングの「三笠」。17時30分に予約していたので一息入れて「三笠」へ向かう。
これまでは和食レストラン「花菊」を利用していて夕食で「三笠」を利用するのは初めてだ。

コースメニューの「高円」をいただく。

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テラスの北側手前から2番目のテーブルに就く。

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オードブル。軽く炙ったサーモンのサラダ仕立て。ソースはバジルとトマト、オレンジの粉末を一面にふりかけている。プチトマト他

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ビーフ・コンソメスープ。

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妻はホワイトアスパラガスのクリームスープ(タピオカ入り)をチョイス。

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かんぱちのポアレ(茹でキャベツの上に)、海老添え。赤ワインソース。トマトとシメジの素揚げ、椎茸のフリッター添え。

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ライムシャーベット

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パンは2種類。おいしいのでお替わりをした。

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国産牛フィレ肉のステーキ、鴨フォアグラ添え。マデールソース。セロリ、水茄子、大和ま菜、マッシュポテト、カリフラワーのコロッケ(カレー風味)。写真がピンボケになってしまった。(^^;

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妻の方。「若草」のメイン料理からチョイス。仔牛フィレ肉のソテー、タルトに詰めた鴨フォアグラとリ・ド・ボー添え。鴨フォアグラムース入りマデールソース。水茄子、大和ま菜、水菜、カリフラワーのコロッケ(カレー風味)。

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デザート。チョコとラズベリーとライチのケーキ。ブルーベリー、オレンジ、巨峰、キウイ。

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番外のメニュー。マカロンとクッキー、ホワイトチョコレート。
コーヒーが出たが写真を撮り忘れた。(^^;

席に着いてから最後の皿が出るまでほぼ2時間、味も盛り付けも予想以上だった。
部屋へ戻り、寛いでから入浴、ベッドに横になる。

明けて11月1日。旅行の最終日だ。
まだ暗い時分に入り口のドアを開けるとドアノブにビニールバッグに入った新聞がぶら下がっている。産経新聞だった。フロントへコールし奈良新聞を希望すると直ちに届けてくれた。こちらの情報が押さえられていないのにはがっかりしたが、迅速な対応には好感が持てた。
この日の奈良新聞はこの時期恒例の「正倉院展」出陳宝物紹介の第1回、特集記事として興福寺中金堂の落慶法要、「聖徳太子1400年御遠忌関連フォーラム」のレポート等この時期の奈良ではの話題に溢れていた。
また2面にコンサートレポートが・・・会場は奈良ホテル!何と前日の31日に催行されていた。写真にはギターを弾く女性が。どう見てもクラシックギターだ。記事を読むと「ギター奏者の田中順子さん」とある。歌手、ピアニストとのジョイントだったようで、聴き手は「会員や招待者」とあるから一般公開とは位置付けが異なる催しだったらしい。
田中順子は20年位前に国内の名だたるギターコンクールを総なめした実力者だ。前日は奈良ホテルに入ってすぐ興福寺参観へ行ってしまったので、知るすべもなかった。この日から始まった京都南座の顔見世興行の件と云い、今回の旅行はニアミスが多かった。

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7時40分頃窓からの景色は朝の陽光で眩しい。
眼前のもみじは紅葉が始まっていて秋を実感させてくれる。遠く若草山の快い緑の上に広がる空は、晴れているが雲がベールのように覆い被さり、手前のコバルトブルー、遠方の薄いブルーの間に大きく割り込んでいる。整然と並ぶ筋雲を見ていると心が静まった。

「三笠」へ朝食に行く途中、8時45分頃ロビーを過ぎる時、ホテルツアーが始まっていて、参加者へのガイダンスをしているところだった。折角の機会なので参加したかったところだ。
昨夕に対して今度は西側のテラスの中央のテーブルへ。興福寺が窓越しに望める良いポジションだ。

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これはショップでGETした本で、表紙カバーの写真が奈良ホテル「三笠」の西側テラス。丁度我々が座ったあたりから撮られている。テーブルクロスの色は現在薄いパープルに変わっている。

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席から見た興福寺五重塔。

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私は今回もアメリカン・ブレックファースト。
サラダ、フレンチドレッシング。オレンジジュース。ジャムは2種類(ストロベリーと柿)。

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パセリ入りオムレツ、ソーセージ。

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フレンチトースト。奈良ホテルでは初めて。

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コーヒー。淹れ立てで美味。

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妻の和粥定食。

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おかずはぶり煮に長芋の梅酢漬添え、だし巻き卵、炊き合わせ、ゴマ豆腐、小鉢2種(ゴマ豆腐、芋がら煮)、香の物(奈良漬け外)

食後ショップで買い物。

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陳列台、ショーケースのディスプレイは大変にチャーミングだ。
上には奈良ホテルブランドのブレンドコーヒーを始め、クッキー、マドレーヌ、カレー・ポタージュ缶等が、下はパウンドケーキ、ロゴ入りのボールペン、ティーカップ等が並んでいる。

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私はオリジナルコーヒーを2個、葛湯と先ほどの表紙写真の「百年の品格 クラシックホテルの歩き方」(新潮社)という本、妻は奈良漬けをGET。
本の著者は箱根宮ノ下の富士屋ホテルゆかりの女性で、ホテルライフ、それもハイグレードのそれを海外も含めて経験豊富な上流階級の人だ。
この本で取り上げている日本の4大クラシックホテルの中で、奈良ホテルへ割かれている分量は最も少ないように感じたが、それでもこの本から知らされた事は多々あって、例えばインペリアルスイートの写真などは奈良ホテルのホームページにも出ていない。
良い本を手に入れたと思っている。

また葛湯の方だが奈良ホテルが取り扱っているのは吉野葛の「黒川本家」。
従来奈良へ来た折は「天極堂」の葛湯(こちらも美味しい)を購入もし、東大寺西大門跡の隣接地の本店2階で食事をしたこともあるのだが、奈良ホテルへ宿泊するようになってからは「黒川本家」の葛湯にしている。

葛粉コーナーに「黒川本家」の由緒書きがあり、文中に谷崎潤一郎の名を認めたので取り敢えずカメラに収め、帰って来てから読んでみた。
「黒川本家」は江戸初期元和元年(1615)-桂離宮の古書院が造立された年だ-の創業、明治初期より宮内庁御用達となったと云う由緒正しい老舗である。そして「谷崎潤一郎が「吉野葛」執筆にあたり、当店に逗留・・・」とあるではないか!

葛粉の店に「逗留」というのも腑に落ちず、身の回りの資料を見てみると没後版全集の第20巻月報に野村尚吾という作家の「「吉野葛」遺文」という文章があった。
それによると、
・「吉野葛」は昭和6年(1931)「中央公論」1、2月号へ掲載された。
・前年の昭和5年10月頃約1ヶ月に亘り奈良県吉野郡の旅館「桜花壇」に滞在して「吉野葛」を執筆した。
・それに先立ち「吉野葛」の構想を組み立てるため2回吉野地方を訪れた。
・その内の昭和2年(1927)に樋口喜三という人の案内で訪れた中に「松山町(現在の大宇陀町)の葛の製造家」があった。
以上から、執筆で逗留したのは「桜花壇」、黒川本家は先行した取材旅行での訪問先の一つだったということになろう。

妻の購入した奈良漬けは奈良ホテルブランドで、これまで奈良へ来た折様々な処のものを食して来たが、アルコール分が少なく、妻はこれが一番口に合うとの事。

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フロントにある階段から2階へ。

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奈良ホテルの模型。上の写真で云うと正面奥の左隅に置かれた低い台に納められている。いつ頃のものかは不明。ブラインドのスリットから洩れる外光が邪魔で見づらいが、本館、新館その他の構成は現在のもので、旧大乗院庭園の西小池のあたりが現在と違うようだ。

部屋へ戻り時間に余裕があったのでしばらく休憩(どうも休憩が多い。(^^;)後、チェックアウト。
荷物をホテルへ預けて奈良国立博物館へ向かう。
(続く)

2018年12月18日 (火)

「京都・奈良の旅’18」-6(興福寺)

近鉄特急は快適だ。窓外の眺めも良く、あっという間に奈良へ着いてしまう。西大寺駅を出るとすぐ平城宮跡へ差し掛かり、左に大極殿、右に朱雀門が見えてくると、奈良へ来たという実感が湧いてくる。
程なく電車は地下へもぐって、近鉄奈良駅へ到着した。
隣接するタクシープールからタクシーで奈良ホテルへ向かった。

奈良ホテル正面玄関前に着いたが、生憎団体客でごった返していてスタッフが我々へ対応してくれない。仕方なく荷物を持って階段を上がり、ロビーへ入るとフロントにも先客があってしばらく待たされた。
番が回ってきたものの午後1時を回ったばかりで、チェックインは3時からだというので、荷物を預けて興福寺へ行った。

猿沢池と興福寺を結ぶ石段、奈良ホテルのガイドマップに「五十二段」とある。
この石段は奈良へ来ると大概は上り下りしているが、そういう名があることは知らなかった。

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五十二段。右手に興福寺の五重塔。写真のとおり結構急で、上りはしんどい。

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五十二段から見た猿沢池。

五十二段を上って道路を横断すれば興福寺だ。
今年は中金堂の再建工事が完成して一般公開され、また寺宝が秋の特別公開中とあって境内は人でごった返していた。

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まず中金堂を見る。

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正面に見えるのは本尊の釈迦如来坐像。今回の「再建にあわせ修理」したとパンフレットにある。
「興福寺」(末尾に「H9.9」とあるので1997年9月に興福寺が製作した冊子)45頁の写真は胸と肩の金泥が剥がれていたりしているが、それらが綺麗に塗り直されている。

本尊仏の前に「法相柱(ほっそうちゅう)」という柱があり、日本画家畠中光享(こうきょう)による法相宗祖師群像が描かれている。カラフルで魅力的であり、思わず目を奪われてしまった。

「中金堂は和銅3年(710)平城京遷都と同時に藤原不比等が興福寺最初の堂宇として創建」(パンフレット)した。

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中金堂から見た五重塔と東金堂。

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南円堂。安置されている諸尊の公開は10月17日のみだった模様。
行列は大流行の御朱印をいただく人達。南円堂は西国三十三ヶ所中第九番の札所。
その前に立つ灯籠は、平成の大修理で複製されたもの。
創建当初の灯籠は国宝館に陳列されていた。
現在の灯籠の火袋の銘文「平成観音讃」は陳舜臣によるもので、読み下し文のパネルが灯籠の前にあった。

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南円堂の本尊不空羂索観音。これは売店でGETした絵はがき。

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北円堂。南円堂同様の八画円堂。「藤原不比等の菩提のために養老5年(720)に完成。その後焼失等を経て承元4年(1210)に復興され今に至る。現存中で最古の堂宇。

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無著(むじゃく)菩薩立像」。北円堂に安置される諸像中、最も感銘を受けた。
運慶による建暦2年(1212)頃の作。周囲を回って参観するが、位置を変えても無著像の視線がこちらに向かっているように感じる。悠然とした造形は堂々として威厳があった。

最後に国宝館へ入った。2回目になるが、以前より陳列が洗練されたように思う。
最も印象深かったのは、「仏頭」。「天武14年(685)完成の白鳳彫刻の傑作」(パンフレット)とあり、清新の気に溢れすがすがしさを感じる。

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国宝館のパンフレットから。

阿修羅像」は八部衆のセンターに位置取り、参観者の注目を集めていた。

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これも国宝館のパンフレット。

国宝館では中金堂落慶記念特別展示として
再会~興福寺の梵天と帝釈天
かつては共に東金堂へ安置されていたが、帝釈天は現在東京の根津美術館が所蔵する。
邂逅 志度寺縁起絵
旅行から帰ってきてパンフレットを読んだ。
志度寺は香川県さぬき市の真言宗の寺。
不比等に関わる物語が一幅の絵の各部へ描かれている。中金堂の本尊釈迦如来に関わる話も入っている。
今回は全六福中「二、讃州志度道場縁起」二幅を前期に第一幅、後期に第二幅を展示した。
我々は後期の最終日に滑り込みで第二幅の方を目にすることが出来たわけだ。

興福寺の寺宝の数々を堪能して帰途「旧大乗院庭園」を見た。奈良ホテルの南側に広がる庭園で、初めて奈良ホテルへ来た2年前に知ったが入るのは初めて。(→'16.11/18

入館時にもらったパンフレットにより改めて概要を記す。
大乗院は寛治元年(1087)の創建で、興福寺の塔頭。藤原氏の門跡寺院だった。
寛正6年(1465)に足利義政の命により善阿弥による作庭が始まった。
現在の庭園は平成になってからの発掘調査と江戸末期の門跡隆温(りゅうおん)筆の「大乗院四季真景図」を元にして、江戸末期の状況を復元している由。

調査結果を尊重し、正確性を優先したのは正しいと思うが、復元された庭園は無味乾燥の感を禁じ得ない。前日に桂離宮を見ているだけにその落差の大きさを感じてしまう。

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旧大乗院庭園文化館の入り口。

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東大池と中島

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西小池と四阿(あずまや)。

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四阿脇に設置されている「大乗院四季真景図」のパネル。
(続く)

2018年12月16日 (日)

「京都・奈良の旅’18」-5

桂離宮の余韻に浸りながらバスに揺られ、京都の町並みを目にしつつホテルグランヴィア京都へ戻り、部屋で一息ついた。
室内のクリーニングとベッドメイク、シーツ交換を希望したのでパリッと真新しくなっているのが嬉しい。洗面のアメニティ、リネン類、冷蔵庫のミネラルウオーターも補充されていたのにも好印象を持った。

旅行から帰って来て中国の外資系一流ホテルの客室清掃の不祥事が報じられたが、日本は大丈夫だろうかと疑念を抱いたが、今度のグランヴィア京都でのこの時の印象、朝に長い廊下を歩くと出会う客室清掃スタッフの人達の印象を思い返し、日本では有り得ない事だと確信している。

夕食の予約時間の変更もフロントを介して内線でスムーズに出来てよかった。
それと客室備え付けのドリップコーヒーが美味しかった。「小川珈琲」といい、新幹線ホームの広告で以前から知っていたが、ネットで見たら京都駅店、京都駅中央口店と京都駅直近に2店舗を構えているようだ。次回は豆をGETしてみたい。

夕食はM3Fの日本料理「浮橋」の料理長おすすめ会席をいただく。

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上は先付け。松茸と菊菜のお浸し。

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鱧と松茸の土瓶蒸し。

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お造り。

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太刀魚の酒盗焼き。

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湯葉の餅蓮根。

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子持ち鮎の揚げ物。

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松茸と京都産和牛の土鍋。

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ご飯に変えて、鍋の出汁でおじやにしてもらった。

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カボチャの羊羹。トッピングの香草と餡はともかく、クリームはミスマッチか。

10月31日(水)旅行3日目。雲はあるも、まずまずの天気だ。
京都新聞に目を通す。旅行では地元紙を見るのが楽しみの一つだ。
京都新聞は紙面が充実していて中央紙と遜色ないが、特色もある。囲碁将棋欄は、朝刊はプロ棋戦、夕刊はアマチュア棋譜を載せているのもファンにはこたえられない。
以前も見たが、「おもてなしの心保存版」と銘打ち一ページ全面を横に使って京都の料亭、菓子司、京都の伝統食品等、主として食関係の名店の広告は、気品と趣きがあって見ていて楽しい。

9時30分遅い朝食を15Fの「サザンコート」で摂った。
ハーフブッフェで、メインプレートをチョイスし、後は自由にいただく。

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これは私。「丹波味わい鶏のソテー 生姜風味の鼈甲餡 九条ねぎと」

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これは妻の方。「タスマニアサーモンのグリル 西京味噌のビスク仕立て」

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左からパン・オ・レ、全粒粉と胡桃のパン。スープ、上の皿はグラノラ。

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ジャム。左から蜂蜜寒天チアシード、フリュイルージュとコジベリー、マンゴーとパッションフルーツと生姜。

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プレート手前左からハッシュポテト、ニョッキ、上はサラダ、ポテト、オリーブの実。
牛乳とオレンジジュース。

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ヨーグルト、マチェドニア・フルーツ、フルーツ

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ここはコーヒーを注ぎに来てくれる。美味しいので最後にお代わりをした。

前日の「Le Temps」同様あまり量的には食べなかったが、1時間ゆっくり味わうことができてよかった。
部屋へ戻り食休み後に荷物を整理して12時にチェックアウト。コンシェルジェでもらった近鉄奈良行きのダイヤを見て、12時20分発の奈良行き特急に間に合いそうなので近鉄乗り場へ向かった。
(続く)

2018年12月10日 (月)

「京都・奈良の旅’18」-4(桂離宮)

10月30日午後は桂離宮を参観した。
今度の旅行のメインイベントである。

20代から折に触れ京都を訪れて来て、当初から桂離宮は脳裏にあったものの、昔は往復はがきでの参観申し込みで希望できるのは年月までで日時は指定に従うよりなく、敷居の高さを感じていたが、近年ネット申し込みが可能となり、日時まで希望できるようになってハードルも下がったので、長年の宿願を果すべく申し込んだ次第。

先ず希望日を決めて、3ヶ月前から申し込みが可能なので7月1日に宮内庁のホームページへアクセス、どの時間帯も空いていたので14時30分で申し込んだ。7月3日には参観許可のメールが届き、希望通り参観できることとなった。
桂離宮の参観は11月1日から有料となったので、期せずして我々は新制度への移行直前の参観者となった。

烏丸側バスターミナルC2乗り場から京阪バス2番系統13時28分始発へ乗車。7条通りをひたすら西下し、中心街から外れて細いくねくねした道筋に入って程なく、桂川を渡ると離宮前バス停だ。片道¥240。
広大な桂川の河川敷を歩いて北側の入り口へ向かう。

既に10名が受け付け待ちしていた。やがて続々と人が増えて20分前に受付が始まり許可証を見せて敷地内ゲストハウスへ。ホールでガイダンスビデオを見てから2グループに別れた。我々後発グループのガイド氏はひょうきんな人で、見学の随所で冗談を飛ばしては笑いを取っていた。

参観中の撮影はフリーで、見事と言うしかない園内の景観をカメラに収めることができたのはよい記念となった。
参観は園内を周遊して主として庭園を鑑賞するもので、建造物内へ入ることはできないが、古書院、中書院、新御殿は間近に外観を見ることができ、松琴亭、笑意軒、月波楼は内部の意匠も見学でき、古書院から迫り出ている月見台は目の前で見ることが出来た。

桂離宮がある桂は古来月見の名所として名高く、月を見るための装置として離宮は造営された。
地名の由来は、月には枯れることがない桂(月桂)があるという中国の故事にある。

一枝を折る身ともがな
 月の中の桂の里の
  住居なりせば
      智仁(としひと)親王
(以上はNHK「桂離宮 知られざる月の館」(2009年1月4日放送)を参考にした。なお、銀閣寺も同様に月を見るための装置として造営されたという。(「ワンダー×ワンダー銀閣寺“幻の月の御殿“」 (NHK 2010年10月9日放送))

「高い教養に裏打ちされた精神的機能美を追求し」(「桂離宮」(一財)伝統文化保存協会)ている桂離宮は、江戸時代初期に八条宮智仁、智忠(としただ)両親王により別荘として造営された。
初代智仁親王は、「細川幽斎に古今伝授、幽斎他界の同月に源氏物語三個秘事の伝授を受けた」(「桂離宮」(財)菊葉文化協会)という。
細川幽斎(藤孝)は戦国大名で武家の人だが、その幽斎が宮家へ伝授したということから当時の公家と武家間の交流の一端がうかがえる。

この日ホテルへ戻って部屋で見た京都新聞夕刊のコラムに、「ガラシャ像の変転」という寄稿文が載っていた。ガラシャは幽斎にとり長男の嫁、彼等が時代の荒波に揉まれる点へも言及されており、興味深く読んだ。

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元和元年(1615)古書院造立
寛永6年(1629)智仁親王逝去(50才)
寛永18年(1641)中書院増築
  この頃庭園を随時整備
寛文2年(1662)新御殿、楽器の間増築
  智忠親王逝去(43才)
造営に心血を注いだ智忠親王だったが、後水尾上皇の行幸を迎えたのは第三代穏仁(やすひと)親王-智忠親王の養嫡子、後水尾上皇の第十一皇子(*)-だった。

(*)「桂離宮」(一財)伝統文化保存協会)の年表1654(承応三)年に「後水尾上皇第九皇子幸宮」(P.44)とあるのは誤りと思われる。

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桂川土手沿い側の笹垣。

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表門。特別な場合以外は使用されない。

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穂垣。表門の両側に張り巡らされている。

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御幸道(みゆきみち)。御幸門方面を望む。

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鼓の滝。外腰掛けから松琴亭に至る途中の池へ注ぐ流れにある。
滝と云っても段差は十数センチ程度しかなく、水が落ちる音を作っているのだそうだ。

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松琴亭。手前左は洲浜、松琴亭手前の松、石橋と右に連なるのは天橋立。

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松琴亭一の間正面の床の間とふすまの青と白の市松模様。

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松琴亭から見た古書院(左)と月波楼。

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園林堂。後水尾天皇の宸筆(しんぴつ)の扁額が掛けられている。
手前のアーチ状の土橋(どばし)の高さは、修学院離宮の土橋に次ぐものだという。

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笑意軒。茅葺き寄せ棟にこけら葺きの庇が付いた茶室。

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笑意軒二の間の腰壁。舶来のビロードの市松模様と斜に交差する金箔の意匠。

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左から新御殿、楽器の間、中書院。手前の芝が蹴鞠場。

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古書院。

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古書院の月見台。

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中門から古書院を臨む。

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月波楼内部。舟底天井。扁額「歌月(かげつ)」は、霊元天皇の宸筆(*2)

(*2)後水尾上皇第十九皇子

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月波楼から望む松琴亭。
(続く)

2018年12月 5日 (水)

「京都・奈良の旅’18」-3

ホテルグランヴィア京都へ戻り、遅いチェックインを済ませて、ベル(ガール)の案内で部屋へ。エレベーター内でカードキーをリーダへかざすことを示唆してくれる。多分かざさなければ客室フロアへは停止しないのだろう。セキュリティ対策はしっかりしている。

1036号室のスーペリアツイン。
過去2回は15Fのグランヴィアフロアの確かスーペリアツインだったと思うのだが、今回は空気清浄機やエスプレッソマシンがなく、窓側の調度品等のグレードが低かったのでフロントへ聞いたら、どうも以前はデラックスツインの設備だったようだ。上級ホテルの客室の品揃えは奥が深い。
前と較べてしまうので見劣りしてしまうのは止むを得ないが、十分なスペースのクローゼット、洗面がダブルなのは大変good(!)であるし、ゆったりしたバスルーム、と快適に過ごすことができた。

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部屋からの眺め。10月31日朝のもの。南側のウイングで、京都駅を眼下に収める。丁度上りの「のぞみ」が発車したところ。

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奥の高架が新幹線。JRの在来線は10本あり、これは(多分)この写真に全部入っている。(ホーム屋根に一部隠れているが)構内図を見ると面白いことに1番線の代わりに「0番線」!
これはホームが(2-3)、(4-5)・・・(8-9)という組み合わせで、最初と最後が単独になっていることが関係しているのかも知れない。

10月30日(火)旅行2日目。前夜夜更かししてしまったので、遅い朝食になった。
「Le Temps」のビュッフェ。9時30分頃からゆっくり約1時間かけて、前回慌ただしい思いをした反省点を活かした。

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スクランブルエッグ、ソーセージ、ベーコン、パンケーキ・・・

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クロワッサン、アップルパイ、マーマレード、ブルーベリージャム、ステッペン・チーズ、玉子スープ、飲むヨーグルト

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サラダ

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京漬け物(すべて打田漬物製。手前から反時計回りで、めしどろぼう、きざみしば漬、刻み野沢菜漬、おんぶ漬、刻みすぐき)。前回に較べると今回はNG。

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目の前で作ってもらったオムレツ。チョイス食材を混ぜてくれる。ハムとチーズを入れてもらった。

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ハッシュポテト、フルーツ、牛乳。外にフレッシュオレンジジュース、ミネラルウオーター。フルーツはNG。

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ブレンドコーヒー。コーヒーサーバーからで、正直あまりおいしくなかった。

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これは妻の方。茶粥、みそ汁、京漬物、焼き海苔。

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これも妻。左:ヨーグルト、杏、メロン、シリアル。右:ソフトクリーム、干しレーズン、パインアップル。

寄る年波のせいか食が細くなって、豊富なパンは2種類しか手にできず、外にも卵料理、ハム類、チーズ等へもあまり手が出なかった。
部屋へ戻り休憩後13時10分外出した。
(続く)

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