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2018年12月27日 (木)

「京都の漱石句碑について」

今年の京都・奈良旅行前に、一日目の夕食を予約していた「梅むら」の位置をGoogle Mapで確認していたら、近くに漱石の句碑があることを知り、折角の機会なので行ってみた。

Img_7761

上のように句碑は御池通に面していて脇に銘板が立っている。
彫られている文字は、最後の「漱石」以外私には判読できなかった。
銘板には、詞書き付きの俳句と、漱石の京都との関わり、この俳句で詠まれている最後の京都行で出会った女性との交友等が記されているのだが、長文で文字も遠目には見にくく、時間もなかったのでとりあえず写真に納めて旅行から帰って来てから読み解いた次第。

句は
「木屋町に宿をとりて川向のお多佳さんに
春の川を 隔てて 男女哉(おとこおみなかな)  漱石」

一方の銘板の要点は以下のとおり。

句碑は、昭和41 (’66) 年に漱石生誕百年を記念し「漱石会」が建立した。
漱石の京都行は4回で
1. 明治25(1892)年7月に正岡子規と。
2. 明治40(1907)年春に朝日新聞へ入社し、「虞美人草」連載のため。
3. 明治42(1909)年秋、中国東北部への旅の帰路。
4. 大正4(1915)年春「硝子戸の中」稿了直後、津田青楓のすすめで木屋町御池の「北大嘉(きたのたいが)」に投宿。祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友を持つが、ある日二人に小さな行き違いが起きる。鴨川を隔てた祇園の多佳女を思いながら詠んだのが碑の句。
銘板は「京都漱石の会」発足(平成19(2007)年)を機に、平成20(2008)年に建てられた。

以上だが、句碑の主人公である磯田多佳女がどういう人で、漱石との「小さな行き違い」とはどういったものだったのか興味を覚えた。
以下にStudyした顛末を記す。

漱石の京都行の1と3は旅行の通過地点としての滞在で京都を目的としたものではなかった。荒正人「漱石研究年表」によれば、1は東京帝大文科大学2年次の学年末試験を終えて夏休みに入り、松山へ帰省する子規に大阪まで同行した途中の滞在で、7月8日に京都に到着し翌9日には発っている。因みに子規と別れた後漱石は次兄の妻の岡山の実家へ約一ヵ月滞在後、子規のいる松山へ足を運び二週間余りを過ごして帰京している。
3は10月15、16日で、「研究年表」によると「万屋(よろずや)」という旅館に宿泊している。後述するが、この宿は磯田多佳女に関連している。銘板にあるとおりこの時は帝大時代の学友で当時満州鉄道総裁だった中村是公の招きで行った満州韓国旅行の帰途だった。この旅行は、9月2日(*)から10月17日に亘る大旅行で、朝日新聞へ「満韓ところどころ」という旅行記を連載している。伊藤博文がハルビンで暗殺されたのが10月26日で、漱石は既に帰国していたがすれ違いみたいな時期的な近さであり、翌年の小説「門」冒頭部で取り上げていることを見てもこの事件は漱石に強烈な印象を与えたのだろう。私も来年は伊藤の享年である69才に達する。

(*)12月23日(日)の午後2時近く、NHKFM「トーキング ウィズ 松尾堂」を聴きながら車を運転していたら、今年の一冊という話題でゲストのサンキュータツオが挙げたのが「漱石研究年表」だった。それも「増補版」と断りを入れて。
そして例示したのが何と明治42年9月2日!満韓旅行出発の日だ。何を話していたかというと、記事にあるこの日の天候、そして新橋停車場の発車時刻と御殿場停車場の到着時刻について。
サンキュータツオによると、「研究年表」が書かれていた当時、広島の古書店がこの頃の時刻表の復刻版を出版していたとの事で、天候についても情報源がある由。
発車時刻の特定は、漱石の日記に「箱根にて日暮る」とあることと、時刻表のダイヤから割り出している由。
偶然に貴重な情報を得ることが出来た。

残る2と4が京都を目的とするもので、2は3月28日から4月11日までの約2週間に及び、その目的は、かつての僚友狩野亨吉(こうきち)、菅虎雄に会い、また大阪朝日と近付きになる為と、「書かねばならない小説の材料を拾うといふ下心」とであったと小宮豊隆「夏目漱石二」の「四九京都」(P.254)にある。
漱石はこの3月に帝大、一高を退職して朝日新聞へ入社し、小説第一作の「虞美人草」は6月23日から連載がスタートしている。
この時の滞在について漱石は「京に着ける夕」というエッセイを書いている。題名のとおり京都へ着いた3月28日の夜について書かれている。漱石全集第八巻「小品集」(昭和50(1975)年7月9日第2刷)冒頭に収録されており、末尾に明治40、4、9-11とあるが、これは新聞へ掲載された日付だろう。
またこの時は高浜虚子が奈良への取材旅行の途次、京都に滞在していて、漱石は虚子の滞在先である「万屋」を訪れ、虚子と祇園へ都踊りを見に行ったりしている。高浜虚子は漱石の没後の大正6年に「京都で会った漱石氏」でその時の様子を回想している。(改訂新版「漱石全集」別巻)
荒「研究年表」によればこれが4月10日の事で、翌11日に漱石は京都を発っている。

さて4である。滞在は3月19日から4月16日までの約1ヶ月に及び、これは漱石が当初から胃痛に悩まされ体調を大きく崩したことによるもので、遂には東京から鏡子が呼ばれたほどだった。
小宮「夏目漱石三」の拾い読みから始め、江藤淳「漱石とその時代」第5部の12「京に病む」、13「「事業」の色」に可成り詳しく多佳女とのいきさつが記されていて、これにより概ねを理解することができた。

漱石の宿となった「北大嘉(きたのたいが)」は「現在の御池大橋の西詰の川畔で、下側が橋にかゝる位の位置にあったらしい。大きな宿ではない。」(→京都漱石の会公式ブログ「漱石京都句碑の出来るまで」

大正4年当時には御池大橋はまだなかったようだ。(→東京紅団「夏目漱石の京都を歩く(大正4年)-1-

江藤上掲書では読みを「きたのだいか」としているが、現地の銘板、改訂新版「漱石全集」17巻(俳句・詩歌)(P.465、2440注)、荒「研究年表」(P.799)のいずれも「きたのたいが」とルビが振られているので、江藤のミスか誤植によるものと思われる。

多佳女との「小さな行き違い」というのは、多佳女からの誘いで3月24日北野天神の梅見を予定していたが、当の多佳女はダブルブッキングしていたのか宇治へ行ってしまい、漱石との約束が反故にされた事のようだ。
そして碑の句が詠まれたようだ。

3月30日に多佳女の「大友」へ舞子の踊りを見に行くも、胃の具合が悪化しそのまま大友で横臥してしまい、北大嘉へ戻ったのは4月1日の夕方だった。翌2日に鏡子が到着して、大友へ多佳女を訪れたりもしたようだ。
そして漱石夫妻が京都を発つのはそれから2週間後の16日だった。
そして6月3日からは「道草」の連載がスタートしている。

また江藤により谷崎潤一郎に「磯田多佳女のこと」という文章があることを知った。手元の没後版谷崎潤一郎全集の略目録には当該作品名はなく、以前目次をコピーしてあった20,21巻にも入っていない。決定版全集の方のパンフレットを見ると、こちらは第20巻にある。同名の単行本があり、収録作品は当該作の記載しかなく、一作のみで本になったということは結構な長さなのかも知れない。初収録作品であることを示している「*」が付されていないから没後版に入っているのは間違いない、とかあれこれ思いつつ要領を得ないまま図書館へ行った。
閉架書架から随筆小品を収めた22巻を出してもらい確認するも見当たらない。レファレンスのスタッフが調べてくれて16巻に入っていることがわかった。
この巻は冒頭に「磯田多佳女のこと」、他に「同窓の人々」、「「潺湲亭(せんかんてい)のことその他」、「疎開日記」等々興味深い文章が並んでいる。
いずれはこれらも是非読みたいと心に期し、今回は「多佳女」のみを対象に借りて来た。それが末尾の高浜虚子宛て書簡を入れてもわずか34頁。これ一作で本になったということは考えられないが・・・

とまれ、今度のstudyの最大の収穫は谷崎の「多佳女のこと」を読んだことである。
これを読み、谷崎の奥の深さを思い知るというか、こういう小文へも全力を尽くすというと大袈裟になるが、細部に至るまで気が抜けない密度で書かれている。

その白眉は書き出し部分かも知れない。
昭和21(1946)年5月多佳女の一周忌を記念する演芸会へ谷崎は赴く。会場は知恩院の塔頭源光院。その所在地を説明する記述の巧みさ!多佳女のお茶屋「大友」の場所をやはり説明する明快さ(*2)!その鮮やかな語り口には感嘆させられる。この際には「サライ」H18年18号付録の京都市街図が役立った。
演芸会場には軸装された件の漱石の句が掛けられていたことを谷崎は記している。
また谷崎は空襲がなかった京都にも戦時疎開により取り壊された建物はあって、多佳女の大友も戦争が終わる直前にその憂き目に遭った無情を淡々と記す。

(*2)「四条通の、南座のすぐ向うを北へ這入ると、大和大路、・・・あれを北へ進むこと数丁、白川が賀茂川に注ぐあたりに架した大和橋を渡り、ちょっと行って東へ折れた横町が・・・」(谷崎潤一郎「磯田多佳女のこと」)と律儀な書きぶりで大変分かりやすい。
南座といえば、NHKEテレ「にっぽんの芸能」11月16日の放送で南座の新開場記念公演の模様を紹介していた。平成28年から3年がかりの耐震改修工事が終わり、例年12月からの顔見世興行が今年は特別に11月1日から始まった由。これを予め知っていたら旅行スケジュールに反映させたかも・・・
南座は出雲の阿国ゆかりの四条河原へ立地した江戸期元和年間に幕府の許可を得た7つの芝居小屋の一つで、明治期に南座のみとなり現在に至っているとのこと。
一度観劇したい場所である。

漱石が多佳女と近付きになったのは大正4(1915)年だが。谷崎はそれより3年早い明治45(1912)年に多佳女と会っている。大正4年時点で漱石48才、多佳女は37才だった。
明治45年の谷崎は若干27才、一体何のために多佳女に会いに行ったのか?その後折に触れ「大友」を利用していることが行間から窺われるが、多佳女と如何なる交流があったのか興味を覚える。
谷崎は多佳女と深い交流があった岡本橘仙(猶吉)にも触れ、上述の旅館「万屋」の主人だったことが語られる。
谷崎は多佳女が「明治45年以来三十五年間岡本橘仙の「おもいもの」で「友達」で・・・「好伴侶」であった」と書き、江藤淳はそれを無批判にそのまま引用している。(「漱石とその時代」第5部(P.210)
明治45(1912)年の35年後は1947年で岡本橘仙も多佳女も昭和20(1945)年にそれぞれ78才、67才で亡くなっているので、これは谷崎の単純なミスである。そのミスを引きずるのはいただけない。この文章が多佳女の没年に関することから始められているだけに信じられない不注意と云える。
(了)

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