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2019年11月25日 (月)

「京都・奈良の旅’19」-5(修学院離宮その1)

地下鉄烏丸線で終点「国際会館」まで行き、市バスに乗り換えて「修学院離宮道」下車、そこから徒歩10分強で参観入口となっている表総門へ到着した。午後1時前だが既に受付を待つ参観者が10数名門前に据えられた椅子を占めていた。
昨年に行った桂離宮(リンク→2018年12月10日 ) は、我々が参観した直後から有料化されたが、修学院離宮の方は無料である。
ゲストハウスは桂離宮より大分手狭で粗末だ。ここで離宮の概要をビデオで見てから、ガイドの引率で参観が始まった。

修学院離宮は後水尾天皇の晩年、上皇時代の築造になる別荘である。
桂離宮との関係性も深い物があるので、覚え書き風に年代を整理してみる。

1611~29 後水尾天皇(後陽成天皇第3皇子)
1615   ・桂離宮古書院造立(八条宮智仁(としひと)親王(後陽成天皇の弟)
      ・幕府「禁中並公家諸法度」(禁中=皇室)
1620   東福門院和子入内(2代将軍秀忠の娘、後水尾天皇の正室)
1641   桂離宮中書院増築(八条宮智忠(としただ)親王)
1655~9   修学院離宮造営(後水尾上皇)
1658   後水尾上皇桂離宮行幸(お忍び)
1662   桂離宮新御殿、楽器の間増築(八条宮智忠親王)
1663   ・後水尾上皇桂離宮行幸(春、秋。八条宮穏仁(やすひと)親王=後水尾上皇第十一皇子)
      ・   〃   修学院離宮で八条宮智忠、穏仁親王をお振舞
1668   「楽只軒(らくしけん)」が朱宮(あけのみや=後水尾上皇の第八皇女光子内親王)御所として建てられる。     
1680    8月後水尾上皇崩御。
       10月朱宮、林丘寺門跡となる。

1885(明治18) 林丘寺から寺域の半分が宮内省へ返還され、中(なか)離宮となる。

年表で分かるとおり、後水尾天皇は江戸時代最初期の在位で、譲位後も上皇として明正(めいしょう)、後光明、後西(ごさい)、霊元の4代の天皇(何れも実子)の時期に仙洞御所で院政を行った。

また今回の旅(その1)で記した白川橋道標の建立は、1678(延宝6)年と霊元天皇の御代で後水尾上皇も存命中のことだ。この年は東福門院和子の崩御の年でもある。

修学院離宮は、上(かみ)、中(なか)、下(しも)の各離宮が連絡路である松並木で繋がるという、ある意味特殊な構成と言える。実際玉砂利を敷き詰めた松並木は足を取られやすく、距離も結構あるので、歩きながら目に入る田園風景は捨てがたい魅力があるにしても、少々身体への負担を感じた。

先ず下離宮から参観した。各離宮の入口には門があって、その前は広場がある。
広場でガイドは参観者の人数確認を取ってから引率をスタートさせていた。
下離宮の入口は御幸門で、入ってすぐ中門を抜けると「御輿寄(おこしよせ)」が見えてくる。

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上は御輿寄。それを左にして進めば庭園(苑池(えんち))が見えてくる。正面の石段の先に見える屋根は「寿月観(じゅげつかん)」。

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寿月観。後水尾上皇の行幸の際の御座所。扁額は上皇の宸筆(しんぴつ)。命名も上皇の由。

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寿月観一の間。上段の脇に飾り棚と床の間がある。

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白糸の滝。落ちる水が幾筋かに分かれ、上に置かれた石が富士を模していることから命名されたらしいが、後世に手を加えたものの由。水源は上離宮の浴龍池(よくりゅうち)で、松並木沿いに水路を設けている。下離宮の苑池へ流れている。

石段を上がったところに東門があり、これが下離宮の出口。下離宮自体高低があるが、上離宮は遙かに高い位置にあって、下離宮との高低差は40mだそうだ。

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上は上、中離宮への分岐点。のどかな田園風景。山並みは比叡山。
進路を右に、中離宮を目指す。松並木はおよそ250m位か?参観者の歩行ペースがまちまちなので、長い列ができた。中離宮表門前で、人数確認をして入る。石段を上りきって、中門への新たな石段の反対側に林丘寺旧表総門があった。苑池を通って「客殿」から参観した。

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「客殿」は東福門院の女院御所の奥対面所で、没後こちらへ移築された由。

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一の間西の畳縁突き当たりの杉戸の祇園祭の山鉾。右が放下(ほうか)鉾、左が岩戸山とのこと。

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一の間の霞棚。左は床の間。壁の意匠は襖と同じ。

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「楽只軒(らくしけん)」一の間のふすま絵。狩野探信の吉野山の桜。

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「楽只軒」一の間の扁額と二の間。写真に見えるのはふすま絵ではないようだが、やはり探信か?
扁額はこれも後水尾上皇の宸筆。
(続く)

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