文化・芸術

2019年12月29日 (日)

「京都・奈良の旅’19」-12(正倉院展)

前日同様徒歩で奈良公園へ向かう。奈良国立博物館を目指す道は人で一杯、そして鹿が可愛い。

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春日大社もそうだったが、ヨーロッパ系の外国人が目立つ。

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会場の西新館と特設テントが見えてくる。左のテントはコインロッカー用。

エントランスにはくす玉がセットされ、1000万人目の正倉院展通算入場者がカウントダウンされていたが、我々の前後はまだ先のようでその場を素通りした。
展示を見終えてロビーへ戻ると読売新聞の特別号外が出ていて、「1000万人突破!」の見出しが躍っていた。

今年は「ご即位記念」と銘打たれ「第71回」を数える。昭和に40回、平成で30回とこれまで70回を数え、令和になって初めての正倉院展である。

東京国立博物館でも「御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」」が10,11月の1ヶ月余開催された。こちらも名品の数々が出展されたが、行かなかった。

令和」は5月1日にスタートしたが、その1月前の4月1日に発表された。出典は「万葉集」で、730(天平2)年正月の太宰府の大伴旅人邸で詠まれた歌の序文だそうだ。日本の古典から採られるのは初めてという。
翌日の朝日新聞によれば、この序文は中国の「文選」もしくは「蘭亭序」を典拠としていて、日本のオリジナルではないことを盾に、そう言っては何だがケチを付けている。
天平2年は聖武天皇在位の時代で、「万葉集」は当時の代表的古典である。当時は政治・文化全般において中国を範としており、いわば本歌取りの元歌が中国で、グローバル化していたわけで、むしろ当時の教養が国際的だったとプラスに捉えるべきだと思う。

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図録表紙を飾るのは「金銀平文琴」(きんぎんひょうもんきん)。文字通り金銀で加えられた装飾にはため息が出るばかり。これが例年のハイライトとなる宝物の展示場所を占めていた。

それに隣り合うコーナーに「鳥毛立女屏風」。第1~6扇。
何年か前にも展示されて、その年は見ていないので残念な思いをしていたリベンジができた。しかも今回のような全点展示は1999(平成11)年以来20年振りのことだそうだ。
中学時代に美術の教科書で見て以来好きな絵画である。当時の先生の言、「引目かぎ鼻、ふっくらとした顔、これが天平美人」が耳に焼き付いている。あと、頭、衣服に鳥の羽毛が貼付けられていた、とも。
図録解説は、描かれている婦人の化粧、容姿から唐代の様式としているが、「買新羅物解(ばいしらぎもつげ)」という文書(*)の反古紙が下貼りされ、羽毛は国産のヤマドリと同定されて、この屏風が日本で製作され、752(天平勝宝4(752)年から同8(756)年の間に成立したものであることが定説だと記している。

(*)752(天平勝宝4)年は東大寺大仏開眼供養会が盛大に挙行され、この年新羅は大交易団を平城京へ派遣し、大仏参拝もした。この際の日本側貴族の文書(=買新羅物解)の反古紙が下貼りされていた。(坂上康俊「平城京の時代」(岩波新書)(A)P.176)

これを見ることが出来ただけで今回来た甲斐があったと思っている。

例年聖語蔵(しょうごぞう)から出陳される経巻を見ることも楽しみになっている。今回は唐経、光明皇后御願経(ごがんきょう)から1巻ずつの出陳。
天平12(740)年5月1日付けの願文が付されているので、「五月一日経」とも称される。
今回で正倉院展は9回目になるが、先日それら過去の図録を見ていて気付いたが、光明皇后御願経は毎回出陳されている。
上掲書(A)によれば、「五月一日経」は一切経の写経の嚆矢で、その後のスタンダードとなった。(P.164)
またこのようにも、「千載の後に天平の・・・意匠を残し得たのも、光明皇后の点睛、すなわち聖武天皇の七七忌にあたっての、聖武遺愛の品々の東大寺正倉院・・への献納によると言うべきであろう。」(P.177)

地下のミュージアムショップで図録と「歴史探訪に便利な 日本史小典」(日正社)をGET。後者は手帳サイズで面白そうだったので。

奈良ホテルへ戻ると丁度無料送迎バスが出発するところ(16:45)だったので乗車。
17時30分発の近鉄京都行き特急へ間に合う。
京都駅新幹線構内で駅弁と千枚漬けと赤福GET。
18時48分京都発のぞみ138号6号車。

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「東海道新幹線弁当」

21時30分東京発さざなみ9号  22時32分木更津着。
(終わり)

2019年11月28日 (木)

「京都・奈良の旅’19」-6(修学院離宮その2)

修学院離宮のハイライトというべき上離宮である。

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上は御成門。
ここを入って石段を上がって行く。いきなり上離宮のハイライト「隣雲亭(りんうんてい)」だ。

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「隣雲亭」から浴龍池を望む。池に出ている島は万松塢(ばんしょうう)。左の直線部分が西浜。この部分は堰堤で、石垣を築いて土留めしている由。北を見ていて、遠方に霞む山稜は鞍馬山方面だろう。

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雄滝。隣雲亭を反対側に下りきった辺りにある。
落差6mだそうで、雄壮。

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千歳橋。窮邃亭(きゅうすいてい)がある中島と万松塢を結ぶ。石積みのの橋台が目立つ特異な形状をしている。

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楓橋(かえでばし)。紅葉はまだ先のようである。先に見えているのが窮邃亭。

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窮邃亭の内部。一間のみで、上は上段を見ている。

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土橋。中島と北岸に架けられている。

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土橋を渡った北岸から見た浴龍池。右の屋根組みは「御舟宿(おふなやどり)」。

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御舟宿から進んで、西浜の起点辺りからの浴龍池。右が千歳橋、左は土橋。

広範にわたり、移動時間も取られ、限られた参観時間では説明も簡略化されざるを得ない。昨年の桂離宮はその点、行き届いた説明だったことを思い出した。

我々の回は日本人のみだったが、ゲストハウスで次の参観者と顔を合わせたが、外国人が多かった。隣り合わせたので、声を掛けてみた。会話は英語で行った。相手は男性でドイツのフランクフルト・アム・マイン在住。音楽が趣味でドイツ音楽が好きだと言うと、誰が好みかというので、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスと答えた。モーツァルトは?というので、勿論好きだと言った。ドイツを旅したことはあるかと問われ、ないと言うと是非行って下さい、と勧められた。
する内、後発グループの出発時間が来て、「Have a nice TRIP!!」と別れを告げた。

永年の念願だった桂離宮、修学院離宮を2年越しで参観することができ、充実感、達成感を得られ、満足している。
(続く)

2019年11月25日 (月)

「京都・奈良の旅’19」-5(修学院離宮その1)

地下鉄烏丸線で終点「国際会館」まで行き、市バスに乗り換えて「修学院離宮道」下車、そこから徒歩10分強で参観入口となっている表総門へ到着した。午後1時前だが既に受付を待つ参観者が10数名門前に据えられた椅子を占めていた。
昨年に行った桂離宮(リンク→2018年12月10日 ) は、我々が参観した直後から有料化されたが、修学院離宮の方は無料である。
ゲストハウスは桂離宮より大分手狭で粗末だ。ここで離宮の概要をビデオで見てから、ガイドの引率で参観が始まった。

修学院離宮は後水尾天皇の晩年、上皇時代の築造になる別荘である。
桂離宮との関係性も深い物があるので、覚え書き風に年代を整理してみる。

1611~29 後水尾天皇(後陽成天皇第3皇子)
1615   ・桂離宮古書院造立(八条宮智仁(としひと)親王(後陽成天皇の弟)
      ・幕府「禁中並公家諸法度」(禁中=皇室)
1620   東福門院和子入内(2代将軍秀忠の娘、後水尾天皇の正室)
1641   桂離宮中書院増築(八条宮智忠(としただ)親王)
1655~9   修学院離宮造営(後水尾上皇)
1658   後水尾上皇桂離宮行幸(お忍び)
1662   桂離宮新御殿、楽器の間増築(八条宮智忠親王)
1663   ・後水尾上皇桂離宮行幸(春、秋。八条宮穏仁(やすひと)親王=後水尾上皇第十一皇子)
      ・   〃   修学院離宮で八条宮智忠、穏仁親王をお振舞
1668   「楽只軒(らくしけん)」が朱宮(あけのみや=後水尾上皇の第八皇女光子内親王)御所として建てられる。     
1680    8月後水尾上皇崩御。
       10月朱宮、林丘寺門跡となる。

1885(明治18) 林丘寺から寺域の半分が宮内省へ返還され、中(なか)離宮となる。

年表で分かるとおり、後水尾天皇は江戸時代最初期の在位で、譲位後も上皇として明正(めいしょう)、後光明、後西(ごさい)、霊元の4代の天皇(何れも実子)の時期に仙洞御所で院政を行った。

また今回の旅(その1)で記した白川橋道標の建立は、1678(延宝6)年と霊元天皇の御代で後水尾上皇も存命中のことだ。この年は東福門院和子の崩御の年でもある。

修学院離宮は、上(かみ)、中(なか)、下(しも)の各離宮が連絡路である松並木で繋がるという、ある意味特殊な構成と言える。実際玉砂利を敷き詰めた松並木は足を取られやすく、距離も結構あるので、歩きながら目に入る田園風景は捨てがたい魅力があるにしても、少々身体への負担を感じた。

先ず下離宮から参観した。各離宮の入口には門があって、その前は広場がある。
広場でガイドは参観者の人数確認を取ってから引率をスタートさせていた。
下離宮の入口は御幸門で、入ってすぐ中門を抜けると「御輿寄(おこしよせ)」が見えてくる。

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上は御輿寄。それを左にして進めば庭園(苑池(えんち))が見えてくる。正面の石段の先に見える屋根は「寿月観(じゅげつかん)」。

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寿月観。後水尾上皇の行幸の際の御座所。扁額は上皇の宸筆(しんぴつ)。命名も上皇の由。

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寿月観一の間。上段の脇に飾り棚と床の間がある。

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白糸の滝。落ちる水が幾筋かに分かれ、上に置かれた石が富士を模していることから命名されたらしいが、後世に手を加えたものの由。水源は上離宮の浴龍池(よくりゅうち)で、松並木沿いに水路を設けている。下離宮の苑池へ流れている。

石段を上がったところに東門があり、これが下離宮の出口。下離宮自体高低があるが、上離宮は遙かに高い位置にあって、下離宮との高低差は40mだそうだ。

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上は上、中離宮への分岐点。のどかな田園風景。山並みは比叡山。
進路を右に、中離宮を目指す。松並木はおよそ250m位か?参観者の歩行ペースがまちまちなので、長い列ができた。中離宮表門前で、人数確認をして入る。石段を上りきって、中門への新たな石段の反対側に林丘寺旧表総門があった。苑池を通って「客殿」から参観した。

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「客殿」は東福門院の女院御所の奥対面所で、没後こちらへ移築された由。

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一の間西の畳縁突き当たりの杉戸の祇園祭の山鉾。右が放下(ほうか)鉾、左が岩戸山とのこと。

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一の間の霞棚。左は床の間。壁の意匠は襖と同じ。

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「楽只軒(らくしけん)」一の間のふすま絵。狩野探信の吉野山の桜。

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「楽只軒」一の間の扁額と二の間。写真に見えるのはふすま絵ではないようだが、やはり探信か?
扁額はこれも後水尾上皇の宸筆。
(続く)

2019年5月30日 (木)

箱根・富士宮(その4・ラリック美術館)

5月10日12時に山のホテルを出発し、芦ノ湖沿いにR75を仙石原まで走り、ラリック美術館へ。
ラリック美術館は2度目で、前回(11年前)は「Le Train(ル・トラン)」を見たため、展示室をじっくり見る事が出来なくなってしまい、是非もう一度見たいと思っていた。

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入館チケット。左:ペンダント/ブローチ「冬景色」、右:ベッドサイドランプ「日本の林檎の木」

ルネ・ラリック(1860~1945)はフランスの工芸家で、前半生はアール・ヌーヴォー様式の金細工、宝飾デザインの製作、20C以降後半生はガラス工芸を手がけた。

展示はラリックの生涯を概ね反映するもので、19C末のアール・ヌーヴォー様式の七宝技術(エマイユ、プリカジュールetc.)に基づく宝飾品、20Cアール・デコ様式のガラス工芸、コティの香水瓶とか花器、テーブルウェアデザイン、また室内装飾(シャンデリアなど)、「ル・トラン」の内装等幅広く手掛けたことが紹介されている。自動車のフロントのガラス製のマスコットも多数製作しており、美術館とレストランを連絡する通路の一角にラリックのマスコットを付けたクラシックカーが置かれていて、この美術館のトレードマークになっている。(トレードマークは、「ル・トラン」か)(^^;

またジャポニスムにも無縁ではなく、「蝶の女(Butterfly Woman)」(*)(ブロンズ、1899-1900)がたしか「ジャポニスムとその時代」コーナーのメイン展示だった。
「蝶の女」とジャポニスムとの関係性を理解しているわけでなく、この記述はひょっとすると誤りかも知れない。

(*)ラリック美術館のホームページによると、1900年のパリ万博のラリックブースのショーケースの装飾柵に使用されたものだという。

昨年ポーラ美術館で見たエミール・ガレより世代的には若く、ラリックがガラス工芸を手掛けるに至った頃にはガレは世を去っている。ので、二人の接触はどうだったのか?

今回は「サラ・ベルナールの世界展」が2F企画展示室で開催中だった。サラ・ベルナールの名はプルーストの「失われた時を求めて」でも再三出て来るので記憶しているが、サラはラリック作品を愛好していたようだ。
ラリック美術館の1Fには「サラ・ベルナールの部屋」がある。

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「サラ・ベルナールの部屋」から見える池。モネのジヴェルニーの邸宅の池を連想させる。

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同上。

鑑賞後にレストランで遅い昼食を摂った。

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テーブルから庭を見る。

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ランチ。上左から牛バラ肉のブランケット、バターライス、下同メカジキのグリル、ラタトゥイユそれに別プレートの前菜、パンが付いた。

16時にラリック美術館を出発、箱根に別れを告げ休暇村冨士を目指した。
R138~R401経由で御殿場インターから東名へ乗る。程なく御殿場JCから新東名へ入り、駿河湾沼津SAで小憩後、新富士IC~R139上井出IC~R72~R414を経て17時48分田貫湖着。
渋滞もなく快適なドライブだった。この間富士は常に顔を見せていた。
(続く)

2019年5月20日 (月)

箱根・富士宮(その1・彫刻の森美術館)

5月9日(木)~11日(土)の3日間箱根・富士宮方面へドライブ旅行して来た。
この時期の箱根へは2014年以来毎年で6年連続となる。一方富士宮は昨年に続いて2回目である。
走行距離は3日で405km。天候に恵まれ、渋滞もなく快適なドライブを楽しむことが出来た。
加えて今年は、かつてなかったほど富士山を堪能した。
出発してまずアクアラインの橋で富士山を見た。記憶をたどる限りアクアラインで富士を見るのは今回が初めてだ。東名から小田原厚木道路に入ってからも、伊勢原、平塚、そして小田原市へ入り弁天山トンネルを抜けてからと、各所で富士を見たことも今回初めてである。

国道1号に乗って、いよいよ箱根に入った。みずみずしい新緑が目に快い。湯本、塔ノ沢、大平台、宮ノ下と登って、小涌谷から強羅方面へ分岐(R723)し、目指す「彫刻の森美術館」へ到着した。

7万㎡の広大な敷地内に約120点の屋外彫刻が配置され、庭園の緑を賞でつつ鑑賞するという、他所では経験できないユニークで贅沢な美術館で、やはり新緑と相まって心身が癒やされるのを感じた。

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「ネットの森」エリアにあるオシップ・ザッキン作「山野を歩くヴァン・ゴッホ」。

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佐藤忠良作 「カンカン帽」
カフェの2F「緑陰ギャラリー」に展示されていた佐藤忠良「カンカン帽」((‘1975)。
此のギャラリーの展示は撮影可。ポーラ美術館のエントランスにあったブロンズに酷似している。

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「幸せを呼ぶシンフォニー彫刻」内部のステンドグラス。高さ18m、内径8mの巨大な構造物だが、フランスのガブリエル・ロアールの作品。4月2日付け朝日新聞のここのステンドグラスの記事を見て、妻が希望したのが今回彫刻の森美術館へ来た動機だ。

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そのらせん階段を上り詰めて塔の屋上からの眺望がこれ。遠く本館とその背後に箱根外輪山が見える。

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緑陰広場の猪熊玄一郎「音の世界」。芝生にうつ伏せの人の彫像は「密着」(1993)。イギリスのアントニー・ゴームリーという人の作品。銘板を見ると1950年生まれで私と同年!!

本館ギャラリーでピカソ作品が展示されていた。
ピカソ館が工事中ということで、リニューアルオープンする7月末までの暫定的措置のようだったが、小品が主体ながら見るべき作品が多かった。
グアッシュ、鉛筆画、ペン画、版画等の渋い作品が中心だった。とりわけ印象的だったのは、陶芸作品。
詳細は把握しなかったが、彼が陶芸に熱中したのはフランソワーズ・ジローと生活していた1940年代後半頃だったと思うが、傑作という語が陳腐に思われるほどの素晴らしさで、見ていてため息が出て来た。
デイヴィッド・ダグラス・ダンカンのピカソの写真を見て、「ピカソとの生活」(ジローとカールトン・レイクの共著)も写真が豊富だったことを思い出した。

彫刻の森美術館を閉館時刻過ぎの17時10分に出発し、宿泊先である元箱根の山のホテルを目指した。
(続く)

2019年3月18日 (月)

「新・北斎展」と「小原古邨」展

3月8日、9日に表記の展覧会へ行って来た。

 

浮世絵といえば私的には小学生時代(何とかれこれ60年前!!)に空前絶後の大ブームだった切手と結びついている。
切手趣味週間の歌麿、写楽、春信といった美人画・役者絵、国際文通週間の広重「五十三次」、北斎「冨嶽三十六景」というように切手を通じて浮世絵(版画)を知ったのだった。

 

2年前の秋の千葉市美術館での「ボストン美術館浮世絵名品展・鈴木春信」、あべのハルカス美術館での「北斎-富士を越えて-」(大英博物館とのコラボレーション企画。大英博物館所蔵品をメインとしていた。といってもこの展覧会は会場まで行きながら、時間的やりくりが付かなくて入場を諦めた。)、2012(平成24)年2月千葉県鋸南町の菱川師宣記念館での特別展「元禄繚乱(フリーア美術館「江戸風俗図屏風」(複製)里帰り」(鋸南町は師宣の出生地)というように、名だたる浮世絵の名品は海外におびただしく散逸している。

 

今回の「新・北斎展」(森アーツセンターギャラリー)は永田生慈(せいじ)という北斎研究家のコレクション(「永田コレクション」)を中核として国内で所蔵されている作品で構成されている。永田氏自ら準備を進められていたそうだが、昨年2月に病没され、「永田コレクション」は彼の郷里にある島根県立美術館へ寄贈されて今回が都内での見納めになる由。

 

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「新・北斎展」出品目録。

 

出品NO.462「弘法大師修法図」(末尾の(追補)参照)の発見、460「雨中の虎図」と461「雲龍図」が対の作であることetc永田氏は北斎に関する重要な発見をして来ている由。氏は460の所蔵先である太田記念美術館に長く在籍されていたそうだが、ここは「小原古邨」展の会場である。

 

全479点が展示されたが、前期・後期、更に作品によっては前期のA期間・B期間、後期のA期間・B期間、もちろん通期展示もあるが細かく割り振られ全出品作を目にするのは至難の業だ。
ちなみに私が行った8日は後期B期間にあたる。

 

以下「冨嶽三十六景」について覚え書き風に記す。
あべのハルカス美術館「北斎」展の「冨嶽三十六景」は24点(大英博物館18、メトロポリタン美術館4、太田記念美術館2(共に校合摺り))。
それに対し今回の「新・北斎展」は26点(「神奈川沖浪裏」は2点。島根県立美術館23(内新庄コレクション13、永田コレクション2(校合摺り))、日本浮世絵博物館3)
なお双方に共通する作品は14点である。

 

私は後期なのでその内13点を見た。「神奈川沖浪裏」、「山下白雨」、「尾州不二見原」、「隅田川関屋の里」等々であるが、到底全貌に迫るには足りない。
あべのハルカス美術館の図録解説に大変示唆に富むものがあるので、ここに梗概を記す。
出だしの1期から4期までは5点ずつ摺られ、始めは当時人気だったベロ藍単色で摺られた。
夜明けのモノクロームな世界が、陽が昇ると共に色彩が多様になっていき、やがて昇りきって豊かな色の世界が出現して、とシリーズの進行に連れ色調が変化して行き、最後の方では陽光がもたらす様々な色彩の効果が追求されている、というもの。
因みに西村屋という版元から出版されたのは全46図になる由。

 

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ギャラリーのある52Fからの眺望。

 

9日(土)。「小原古邨」展の会場である太田記念美術館へ。今回は3回目で久し振りだ。前はJR山手線の原宿からだったが今度はメトロ千代田線の「神宮前」から行った。

 

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表通りから折れてすぐの閑静な場所にある。

 

小原古邨(おはらこそん:1877(明治10)―1945(昭和20))はNHK日曜美術館で昨秋茅ヶ崎市美術館での展覧会の模様が紹介されて魅了されたが、美術館へは行きそびれてしまい残念に思っていたところ、今回の企画を新聞で知り一も二もなく見に行こうと決めていた。
茅ヶ崎の方は中外産業の「原安三郎コレクション」230点が展示されていた。
今回の太田記念美術館は個人蔵を主体とした茅ヶ崎とは異なる150点を前、後期各75点に分けて展示した。私が見たのは後期の方である。
古邨は明治末から昭和10年代半ば迄活動し昭和期は「祥邨(しょうそん)」と号して、渡邊庄三郎の元から「新版画」の制作も行い、川瀬巴水(1883(明治16)-1957(昭和32))や吉田博(1876(明治9)―1950(昭和25))と同時期に同じ版元へ所属していたことは瞠目すべきである。
巴水の風景画、吉田の山水画に対し古邨は花鳥画を手がけ、作品は500点以上に上るそうだ。
恩地孝四郎を含め、皆海外での評価が高く、特に古邨は日本国内ではほとんど忘れられた存在となっていたようだ。

 

この日14時から小池満紀子さんによる特別講演会があった。小池さんは中外産業原安三郎コレクションの担当者で、偶然倉庫に眠っていた古邨作品を発見された由。
日曜美術館でも古邨版画の高度且つ精細な技法について話されていたが、今回は浮世絵版画の伝統を踏まえて独自の境地へ達した古邨版画について、「雨」の表現、「光」(月、星)の表現という側面から歌川広重と対比しつつ話された。

 

小池さんが配布したのは「有明月と木菟(みみずく)」の擂りの異なる3点をプリントしたA4一枚だった。
木菟の色付け、止まっている枝の濃淡、背景の陰影の付け方、月周辺の濃淡と摺り方が違い、その中の一点には「忠」印がある由。(優良なものに押されているとのこと。小池さんは何処に押されているか話されていたと思うが、今ペーパーを見ても判別できない。)
今回の展示では「月に木菟」(NO.29)として前期に展示されたようだが、比較すると上の何れとも違っている。
版画は擂りの工程が複雑な程この様に個々の刷り上がりは千差万別になるのだろう。
そこが版画の面白さであり、奥が深い処でもあると感じた。

 

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「古邨」展図録

 

改めて図録を見ると「祥邨」落款の作品より「古邨」期の方が色調は渋く落ち着いていて格調が高く、私は好きだ。
後期展示ではない「蓮に雀」(NO.2)、今回の展示作品ではないが図録で紹介されている「柳に油蝉」、「花菖蒲に翡翠(かわせみ)」(共に原安三郎コレクション)は典雅で美しく、高い境地に達したものとして魅力を覚える。

 

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「蓮に雀」のポストカード

 

(追補)16日(土)のTV東京「美の巨人達」で、「弘法大師修法図」について静嘉堂文庫美術館長の河野元昭氏の解釈が大変参考になったのでここに概要を記す。
木に巻き付く犬は、婆娑羅大将(金剛力士(仁王))の化身。十二神将(薬師如来の守護神)の戌に該当している。
木は疫病に苦しむ人間の暗喩。びっしり生える茸は「カワラタケ(植物病原菌)」で、寄生した樹木を徹底的に枯死させてしまう。犬(婆娑羅大将)は木(瀕死の病人)を迫り来る鬼(病魔)から決死の覚悟で守ろうとしている。
空海も木(病人)の脇で経巻を手に一心に祈祷することで鬼に対峙しているというもの。

 

またナレーションで述べていた「神奈川沖浪裏」との構図上のアナロジーは、卓見である。
いわく、「修法図」は遠近法により立体感が創出されている。
最前景の左の鬼(グレート・ウエーブ)、右手前の犬と木(波に翻弄される舟)、そして最奥でどっしり構える空海(冨士)という対比である。
(了)

2018年12月31日 (月)

「ムンクとフェルメール展」

あっという間に大晦日が来てしまった。
2018年を無事過ごすことができたことに感謝すると共に、今年も思ったことの10分の1も出来なかった悔いの念を胸に新しい年を迎える。

旧聞もいいところになってしまったが、年の最後のブログとして以下を取り上げたい。

11月21日(水)に上野で開催されている表記の展覧会へ行って来た。共に年明け後しばらく迄の会期だが、年内に行こうと考えていて、旅行を終えてから調べてみたら、「ムンク展」がこの日「シルバーデー」で65才以上は無料入場できると知り、「フェルメール展」の方は20時まで開場しているので、2つをはしごすることにしたのだった。

「フェルメール展」は日時指定入場制を取っており、余裕を見て17:00~18:30の枠にした。入場料は\2,700と高めで、ネットの前売りで購入したので\200割引された。

都内の展覧会は2年半振りで、上野は3年半振りになる。その直近が森アーツセンターギャラリーでの「フェルメールとレンブラント」展だった。

先ず腹ごしらえをすることにして、文化会館2階の精養軒でハヤシライスを久し振りにいただく。

この日の人出はものすごかった。西洋美術館前の広い通路が往来する人波で埋まっていた。
都美術館のロビーもシルバー世代でごった返していた。
横4列に並ばされ、入場口まで30分位だったか、それほどのストレスを感じることもなく会場へ入ることが出来た。

「ムンク展」、副題は「-共鳴する魂の叫び」、英語で「A Retrospective」とある。
総数101点の中では油彩が主体で、リトグラフ等の版画を含む初期から晩年に至る回顧展示である。
私は「叫び」をこの目で見たくてこの「ムンク展」へ来た。

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ムンク作品を見て感じたのは、その色彩感覚の非凡さである。また「叫び」に象徴されるように、作品から醸し出される不安、焦燥、絶望へ対峙する実存主義的な自己といった切迫感に包まれる。

都美術館を17時頃出て、時間に余裕があったので公園内のレストラン「パークサイドカフェ」で食事をした。チキン、野菜付きジンジャーカレーとコーヒー。

まだ18時前だというのにすっかり夜の帳が下りていた。特に上野の森美術館への道は人通りもなく、寂しいことといったらない。
こちらは予想に反して待ち時間ゼロで会場へ入ることが出来た。

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2階から見ていくようになっていて、フェルメール・ルームは1階にある。
可成り広く、ここにフェルメールの作品が8点展示されていた。入り口から正面の長い壁に右から製作年代順に6点(「赤い帽子の娘」と「手紙を書く婦人と召使い」だけは何故か順番が逆)が、右側の壁に「マルタとマリアの家のキリスト」、左側の壁に「牛乳を注ぐ女」が掛けられていた。

フェルメールが8点も一堂に会するというのは相当に贅沢なことで、これはニューヨークのメトロポリタン美術館の5点、フリック・コレクションの3点を合わせた数で、ニューヨークへ行ったとしてもこの2館を渡り歩かなければならない。

「マルタとマリアの家のキリスト」の額下側に銅板があり、「Mr.M.A.COATSコレクションを引き継いだ2人の息子達により1927年に寄贈・・・」という趣旨の英文が刻まれていた。
単眼鏡を持参していたので読めた。絵を単眼鏡で覗くと細部の表現の見事さに絶句させられる。「ワイングラス」の窓のステンドグラスとそれを透かして見える曇りガラスの精密な描写。「牛乳を注ぐ女」の鉢へ注がれるミルクのらせん、壁のピン穴、床に接する壁のタイルの模様・・・単眼鏡で見ているとその精細さに驚かされた。

フェルメールと同時代の17世紀オランダの風俗画39点の展示の方も興味深いものだった。過去の展覧会で見た作品も散見されたが、その中で23エマニュエル・デ・ウイッテ「ゴシック様式のプロテスタントの教会」は森アーツセンターの「フェルメールとレンブラント」展でも見ていて、その際にブログでも触れた。(→2016.4/4

気が付いたら20時の閉館時間が近付いていた。人の山もなく理想的な鑑賞をすることが出来た。

今回の「フェルメール展」は以下の9作品(数字は出品番号、日本初公開=☆、今回初めて見た=★)。
40「マルタとマリアの家のキリスト」
41「取り持ち女」(☆、’19年1月からの展示)
42「牛乳を注ぐ女」
43「ワイングラス」(☆、★)
44「リュートを調弦する女」
45「真珠の首飾りの女」(★)
46「手紙を書く女」
47「赤い帽子の娘」(☆、★、12月20日まで)
49「手紙を書く婦人と召使い」
年明けに「赤い帽子の娘」と入れ替わる「取り持ち女」を私は見ていないが、今のところもう一度見に行こうとは思っていない。まだまだフェルメールオタクを自称するまでになっていない。(^^;

これで私が見たフェルメール作品は22となった。(*)
現存するフェルメール作品は37で、その内2点は真作か否か結論が出ていないようだ。また「合奏」は盗難に遭って行方不明だという。しかも作品は欧米の美術館に分散しているので、全作品を目にするのは大変にむつかしい。

(*)ブログ「フェルメールとレンブラント」展(’16.4/4、上のリンク参照)で18点としたが、これは19が正しい。その時見た「水差しを持つ女」を数えていなかった。(^^;

私が今見たいのは、
・「士官と笑う娘」(フリック・コレクション、ニューヨーク)
・「デルフト眺望」(マウリッツハイス美術館、デン・ハーグ)
である。

NHK「100分で名著」12月のスピノザ「エチカ」テキスト口絵にフェルメールの「天文学者」の図版があって、「モデルがスピノザとの説がある」とあった。ちなみにスピノザとフェルメールは同い年で共に1632年生まれだ!
(了)

2018年12月21日 (金)

「京都・奈良の旅’18」-8(最終回「正倉院展」)

奈良ホテルから徒歩で「正倉院展」へ向かう。
荒池を挟む道路沿いの歩道を抜け、だらだらの坂を登り切ると春日大社の一の鳥居が見えてくる。

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春日大社は今年創建1250年を迎えた。

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奈良公園へ入る。まっすぐ歩いて行くと「正倉院展」会場の奈良国立博物館新館へたどり着く。

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仏像館脇の鹿。正面のテントは仮設のコインロッカー用。

奈良ホテルで前売り券を購入していたので、入館待ちの行列に並んだ。正面入り口まで1回半の往復。平日でもあり、左程でもない混みようだ。

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今年で第70回の節目を迎えた「正倉院展」は戦後のスタートで、第1回が昭和21年(1946)に開かれている。
私は五十代半ばに初めて参観してから今年で8回目になる。平成27年(2015)からは毎年来ている。

今回印象的だったのは
⑮玳瑁螺鈿八角箱(たいまいらでんはっかくのはこ)→図録表紙を飾っている
⑯沈香木画箱(じんこうもくがのはこ)

「正倉院御物」の中核を成している聖武天皇遺愛の宝物の数々は北倉へ納められていて、「正倉院展」の目玉になっているのだが、上の2品はいずれも中倉の宝物だ。
NHK日曜美術館で11月4日に放送された「正倉院展」特集へゲスト出演した奈良博館長の松本伸之氏が述べていたが、単眼鏡は必須アイテムで、肉眼では認めるのが困難な微細な部分の精密丹念な加工を単眼鏡越しに見ていると、余りの見事さにため息が出てくる。
⑯は蓋と側面の採絵に目を奪われてしまったが、改めて今これを図録で見ると色彩の鮮やかさ、生命力溢れる図柄の魅力が伝わってくる。更に採絵を縁取る木画が見事だ。箱根の寄せ木細工を連想させられた。
そして展示では気が付かなかったが、下側に透かし彫りの羽目板が付けられており、これも精密で実に見事。

過去の展示との関連では
① 平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)
私が初めて「正倉院展」を参観した第57回(2005年)に出陳されていた。その時は図録の表紙を飾っていた。

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⑤古人鳥夾纈屏風(こじんとりきょうけちのびょうぶ)
昨年の第69回の「5羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」、「6熊鷹臈纈屏風(くまたかろうけちのびょうぶ)」を思い出した。(→ 2017.11/30

また妻が聖語蔵の経巻3点に引かれている罫線についてスタッフへ質問したところ、下のような参考書のコピーをもらった。最後の部分に「正倉院展」へ出陳された参考例が挙げられているが、何時のものなのかこのコピーではわからない。今年の図録から遡って見ていくことにしたら、あっさり昨年の図録の55であることが分かった。

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なお今年の図録冒頭の概説「宝物の献納について-光明皇后による宝物献納を中心に」(内藤栄氏)は「国家珍宝帳」を中核とする5回に及ぶ光明皇后による宝物献納の意味を国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり 天平13年(741))、「国家珍宝帳」の7件の「除物」との比較考証により解き明かす試みで、そこに浮かび上がる関連人物を、系図(*)によりその相互関係の複雑さに見入りつつ、大変興味深く読んだ。(*2)

(*)坂上康俊「平城京の時代」(岩波新書)P.99、197
(*2)献納宝物の内「種々薬帳(しゅじゅやくちょう)」の願文に該当するものが「建立の詔」にない点に着目し、聖武天皇が鑑真により受戒した折のテキスト「梵網経」の第九軽戒(きょうかい)の疾病人への供養の教えを対応させている点に内藤氏の深い洞察力を感じる。

今年は東大寺大仏殿の北側にある正倉の見学をした。

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2年前公開時間を知らずに閉門後に行ってしまい、苦い思いをしているので今回は予め時間を確認して行った。
通常は午後3時までのようだが、この日は特別公開中で午後4時直前だったが見学することが出来た。

正倉前に置かれた柵までが立ち入り可能で、やや距離はあるものの眼前の正倉と向き合うことが出来る。可成りの大きさで私のカメラでは全体を捉えることは出来ない。写真では中倉と南倉が写っている。左後方に見えている瓦葺き(?)の広い屋根の建物は西宝庫。昭和37年に完成し、正倉院宝物は現在ここに保管されている由。(杉本一樹「正倉院」(中公新書))
日曜美術館でも冒頭で紹介していた「開封(かいふう)の儀」は、勅封とされている西宝庫に宮内庁の勅使立ち会いの元、宝庫の扉が開封されて宝物の曝涼が行われる。それに併せて「正倉院展」で宝物が一般公開されるわけだ。

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鹿の群れ。写真右に戒壇院がある辺りのショット。

近鉄奈良駅発16時30分の特急京都行きへ乗る。

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平城宮跡、大極殿の右に工事中のクレーンと大規模な足場が見えているが、大極殿の南門の復元工事の現場のようである。

18時45分京都発のぞみ135号で帰途に着く。
21時30分東京発さざなみ9号へ乗車。
22時32分木更津着。
最後まで天候に恵まれ、病み上がりの身ながら日を追うに連れ体調も上向いていき、予定通りの旅が出来たのは幸いだった。
(終わり)

2018年12月18日 (火)

「京都・奈良の旅’18」-6(興福寺)

近鉄特急は快適だ。窓外の眺めも良く、あっという間に奈良へ着いてしまう。西大寺駅を出るとすぐ平城宮跡へ差し掛かり、左に大極殿、右に朱雀門が見えてくると、奈良へ来たという実感が湧いてくる。
程なく電車は地下へもぐって、近鉄奈良駅へ到着した。
隣接するタクシープールからタクシーで奈良ホテルへ向かった。

奈良ホテル正面玄関前に着いたが、生憎団体客でごった返していてスタッフが我々へ対応してくれない。仕方なく荷物を持って階段を上がり、ロビーへ入るとフロントにも先客があってしばらく待たされた。
番が回ってきたものの午後1時を回ったばかりで、チェックインは3時からだというので、荷物を預けて興福寺へ行った。

猿沢池と興福寺を結ぶ石段、奈良ホテルのガイドマップに「五十二段」とある。
この石段は奈良へ来ると大概は上り下りしているが、そういう名があることは知らなかった。

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五十二段。右手に興福寺の五重塔。写真のとおり結構急で、上りはしんどい。

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五十二段から見た猿沢池。

五十二段を上って道路を横断すれば興福寺だ。
今年は中金堂の再建工事が完成して一般公開され、また寺宝が秋の特別公開中とあって境内は人でごった返していた。

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まず中金堂を見る。

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正面に見えるのは本尊の釈迦如来坐像。今回の「再建にあわせ修理」したとパンフレットにある。
「興福寺」(末尾に「H9.9」とあるので1997年9月に興福寺が製作した冊子)45頁の写真は胸と肩の金泥が剥がれていたりしているが、それらが綺麗に塗り直されている。

本尊仏の前に「法相柱(ほっそうちゅう)」という柱があり、日本画家畠中光享(こうきょう)による法相宗祖師群像が描かれている。カラフルで魅力的であり、思わず目を奪われてしまった。

「中金堂は和銅3年(710)平城京遷都と同時に藤原不比等が興福寺最初の堂宇として創建」(パンフレット)した。

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中金堂から見た五重塔と東金堂。

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南円堂。安置されている諸尊の公開は10月17日のみだった模様。
行列は大流行の御朱印をいただく人達。南円堂は西国三十三ヶ所中第九番の札所。
その前に立つ灯籠は、平成の大修理で複製されたもの。
創建当初の灯籠は国宝館に陳列されていた。
現在の灯籠の火袋の銘文「平成観音讃」は陳舜臣によるもので、読み下し文のパネルが灯籠の前にあった。

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南円堂の本尊不空羂索観音。これは売店でGETした絵はがき。

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北円堂。南円堂同様の八画円堂。「藤原不比等の菩提のために養老5年(720)に完成。その後焼失等を経て承元4年(1210)に復興され今に至る。現存中で最古の堂宇。

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無著(むじゃく)菩薩立像」。北円堂に安置される諸像中、最も感銘を受けた。
運慶による建暦2年(1212)頃の作。周囲を回って参観するが、位置を変えても無著像の視線がこちらに向かっているように感じる。悠然とした造形は堂々として威厳があった。

最後に国宝館へ入った。2回目になるが、以前より陳列が洗練されたように思う。
最も印象深かったのは、「仏頭」。「天武14年(685)完成の白鳳彫刻の傑作」(パンフレット)とあり、清新の気に溢れすがすがしさを感じる。

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国宝館のパンフレットから。

阿修羅像」は八部衆のセンターに位置取り、参観者の注目を集めていた。

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これも国宝館のパンフレット。

国宝館では中金堂落慶記念特別展示として
再会~興福寺の梵天と帝釈天
かつては共に東金堂へ安置されていたが、帝釈天は現在東京の根津美術館が所蔵する。
邂逅 志度寺縁起絵
旅行から帰ってきてパンフレットを読んだ。
志度寺は香川県さぬき市の真言宗の寺。
不比等に関わる物語が一幅の絵の各部へ描かれている。中金堂の本尊釈迦如来に関わる話も入っている。
今回は全六福中「二、讃州志度道場縁起」二幅を前期に第一幅、後期に第二幅を展示した。
我々は後期の最終日に滑り込みで第二幅の方を目にすることが出来たわけだ。

興福寺の寺宝の数々を堪能して帰途「旧大乗院庭園」を見た。奈良ホテルの南側に広がる庭園で、初めて奈良ホテルへ来た2年前に知ったが入るのは初めて。(→'16.11/18

入館時にもらったパンフレットにより改めて概要を記す。
大乗院は寛治元年(1087)の創建で、興福寺の塔頭。藤原氏の門跡寺院だった。
寛正6年(1465)に足利義政の命により善阿弥による作庭が始まった。
現在の庭園は平成になってからの発掘調査と江戸末期の門跡隆温(りゅうおん)筆の「大乗院四季真景図」を元にして、江戸末期の状況を復元している由。

調査結果を尊重し、正確性を優先したのは正しいと思うが、復元された庭園は無味乾燥の感を禁じ得ない。前日に桂離宮を見ているだけにその落差の大きさを感じてしまう。

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旧大乗院庭園文化館の入り口。

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東大池と中島

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西小池と四阿(あずまや)。

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四阿脇に設置されている「大乗院四季真景図」のパネル。
(続く)

2018年6月 5日 (火)

箱根・富士宮の旅-3(ポーラ美術館)

5月15日12:45山のホテルを出発、ポーラ美術館を目指す。
途中、道路脇に自生している見事な山藤が目を楽しませてくれる。程なくすすき野原を右に見つつ仙石原へ入った。ポーラ美術館へこのルートから行くのは初めてだったので、曲がり損ねてしまう。今回のドライブで唯一の運転ミスとなった。(^^;
13:20ポーラ美術館着。2007年8月以来2度目で、前回は強羅からの往復だった。

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上はアプローチの渡り通路。右が美術館。

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エントランスのブロンズ(?)のオブジェ。

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エントランスからエスカレーターで1Fロビーへ。左端女性が立っているところがチケットカウンター。正面に見えるのがB1F。更にB2Fがあり、2フロアが展示スペースになっている。

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ポーラ美術館の模型。台ヶ岳山麓となる傾斜地に立地し、建物と擁壁を分けて免震構造にする耐震設計になっているそうだ。

受付で確認したが、展示作品の撮影は原則OK。但しポーラ美術館以外の所蔵作品等、一部不可の作品があるとの事。昨年のMOA美術館を思い出した。(→箱根・熱海-5(MOA美術館その1)

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展示室1の最初のスペースを飾るディスプレイ。
「EMILE GALLE COLLECTING NATURE」とあり、今回の特別展「エミール・ガレ自然の蒐集」を素敵にデザイン化している。

この展覧会は4月8日夜の日曜美術館アート・シーンで紹介され、是非会場で直接目にしたいと思い、楽しみにしていた。
アール・ヌーボーの装飾芸術家であるエミール・ガレのガラス器130点を東大総合研究博物館の植物、鉱物、昆虫標本、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの海洋生物図譜と併せて展示して、植物、昆虫、海洋生物等を装飾モチーフとしたガレ作品へのより深い鑑賞が可能となるよう配慮されている。

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上のコーナーは、植物、蝶、鉱物標本がガレ作品と共に展示されている。

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上はモネの「睡蓮」(1907)。この右に同じくモネの「睡蓮の池」(1899)を展示し、両作品の間にガレの睡蓮をモチーフにした趣が異なる3作品が置かれていた。
モネの「睡蓮」は私の好きな絵画で、一時は折に触れ「睡蓮」を目当てにブリジストン美術館へ通ったものだ。ポーラ美術館の「睡蓮」は、大きさはブリジストン美術館のものとほぼ同サイズで、旅行から帰ってきて分かったが、2002年の川村記念美術館(千葉県佐倉市)の「モネ展 睡蓮の世界」でこの作品を見ていた。
ブリジストン美術館は、1903年と1907年の2作品を所有し、ポーラ美術館の作品と共に1903年から5年余にわたる睡蓮の第二の連作に入っている由。

ガレ作品の特徴は、鮮やかな色彩を駆使し、緻密で繊細な装飾モチーフが表現されているところにあるが、それはガレのたゆまぬ探究心が生んだ多彩な技法に裏付けられており、見る者を魅了して止まない。
展示の始めの方で、ガレが用いている数々の技法の説明パネルがあったが、興味深いのは「パティネ」というガレが特許を取った技法で、ガラスに化合物を加えてガラス面に偶発的な変化を醸し出して、あたかも陶磁器の曜変天目を思わせる。

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上は「骨と犬」という作品。象徴主義の系列に分類される作品で、夫人の同名の詩が刻まれている。図録によると、他にヴィヨン、シェークスピア(フランス語)、ゴーティエ、ボードレールを引用した作品が展示されていたようだ。

B2Fへと順路に従って進んで行き、第3展示室のガレ最晩年の作品を見た後は、ポーラ美術館所蔵の西洋近代絵画作品を鑑賞した。セザンヌ、アンリ・ルソー、ゴッホ、マティス、ピカソ、ブラックetc.の傑作が一堂に会している。

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上はマティスの「リュート」(1943)。赤系の色彩が基調となっていて、「大きな赤い室内」(1948)を連想した。共に晩年の作品。マティスも私は好きだ。

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フロア案内に「じっくり」と記されているコーナー。マティス晩年の切り紙絵の連作「ジャズ」(1947)。

展示室5の東洋陶磁作品も佳品が揃っていた。「黒釉油滴班碗(こくゆうゆてきはんわん)」(中国金代。12~13世紀)。大阪の東洋陶磁美術館の油滴天目茶碗(国宝)は南宋期で、本作品と同時代にあたる。4年前に岡田美術館で見た油滴天目茶碗を思い出した。(→箱根(その2)

●追記
本アーティクルをUP後、今夜のNHK「ニュースウオッチ9」でポーラ美術館所蔵のピカソの「海辺の母子像」(1902年)へのワシントン・ナショナル・ギャラリー、アートギャラリー・オブ・オンタリオと今年4月に実施した共同調査により、カンヴァス下層部にフランスの日刊紙「ル・ジュルナ ル」(Le Journal)の貼付け、右上の角に上下逆方向の下層部の絵画向けのピカソのサインが確認されたというニュースが流れた。
3週間前に目にしたばかりなだけに、ちょっとびっくり。
ポーラ美術館ホームページを確認したら、新着情報として今日6/5付けのプレスリリースが載っていた。
(続く)