文化・芸術

2019年3月18日 (月)

「新・北斎展」と「小原古邨」展

3月8日、9日に表記の展覧会へ行って来た。

浮世絵といえば私的には小学生時代(何とかれこれ60年前!!)に空前絶後の大ブームだった切手と結びついている。
切手趣味週間の歌麿、写楽、春信といった美人画・役者絵、国際文通週間の広重「五十三次」、北斎「冨嶽三十六景」というように切手を通じて浮世絵(版画)を知ったのだった。

2年前の秋の千葉市美術館での「ボストン美術館浮世絵名品展・鈴木春信」、あべのハルカス美術館での「北斎-富士を越えて-」(大英博物館とのコラボレーション企画。大英博物館所蔵品をメインとしていた。といってもこの展覧会は会場まで行きながら、時間的やりくりが付かなくて入場を諦めた。)、2012(平成24)年2月千葉県鋸南町の菱川師宣記念館での特別展「元禄繚乱(フリーア美術館「江戸風俗図屏風」(複製)里帰り」(鋸南町は師宣の出生地)というように、名だたる浮世絵の名品は海外におびただしく散逸している。

今回の「新・北斎展」(森アーツセンターギャラリー)は永田生慈(せいじ)という北斎研究家のコレクション(「永田コレクション」)を中核として国内で所蔵されている作品で構成されている。永田氏自ら準備を進められていたそうだが、昨年2月に病没され、「永田コレクション」は彼の郷里にある島根県立美術館へ寄贈されて今回が都内での見納めになる由。

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「新・北斎展」出品目録。

出品NO.462「弘法大師修法図」(末尾の(追補)参照)の発見、460「雨中の虎図」と461「雲龍図」が対の作であることetc永田氏は北斎に関する重要な発見をして来ている由。氏は460の所蔵先である太田記念美術館に長く在籍されていたそうだが、ここは「小原古邨」展の会場である。

全479点が展示されたが、前期・後期、更に作品によっては前期のA期間・B期間、後期のA期間・B期間、もちろん通期展示もあるが細かく割り振られ全出品作を目にするのは至難の業だ。
ちなみに私が煎った8日は後期B期間にあたる。

以下「冨嶽三十六景」について覚え書き風に記す。
あべのハルカス美術館「北斎」展の「冨嶽三十六景」は24点(大英博物館18、メトロポリタン美術館4、太田記念美術館2(共に校合摺り))。
それに対し今回の「新・北斎展」は26点(「神奈川沖浪裏」は2点。島根県立美術館23(内新庄コレクション13、永田コレクション2(校合摺り))、日本浮世絵博物館3)
なお双方に共通する作品は14点である。

私は後期なのでその内13点を見た。「神奈川沖浪裏」、「山下白雨」、「尾州不二見原」、「隅田川関屋の里」等々であるが、到底全貌に迫るには足りない。
あべのハルカス美術館の図録解説に大変示唆に富むものがあるので、ここに梗概を記す。
出だしの1期から4期までは5点ずつ摺られ、始めは当時人気だったベロ藍単色で摺られた。
夜明けのモノクロームな世界が、陽が昇ると共に色彩が多様になっていき、やがて昇りきって豊かな色の世界が出現して、とシリーズの進行に連れ色調が変化して行き、最後の方では陽光がもたらす様々な色彩の効果が追求されている、というもの。
因みに西村屋という版元から出版されたのは全46図になる由。

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ギャラリーのある52Fからの眺望。

9日(土)。「小原古邨」展の会場である太田記念美術館へ。今回は3回目で久し振りだ。前はJR山手線の原宿からだったが今度はメトロ千代田線の「神宮前」から行った。

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表通りから折れてすぐの閑静な場所にある。

小原古邨(おはらこそん:1877(明治10)―1945(昭和20))はNHK日曜美術館で昨秋茅ヶ崎市美術館での展覧会の模様が紹介されて魅了されたが、美術館へは行きそびれてしまい残念に思っていたところ、今回の企画を新聞で知り一も二もなく見に行こうと決めていた。
茅ヶ崎の方は中外産業の「原安三郎コレクション」230点が展示されていた。
今回の太田記念美術館は個人蔵を主体とした茅ヶ崎とは異なる150点を前、後期各75点に分けて展示した。私が見たのは後期の方である。
古邨は明治末から昭和10年代半ば迄活動し昭和期は「祥邨(しょうそん)」と号して、渡邊庄三郎の元から「新版画」の制作も行い、川瀬巴水(1883(明治16)-1957(昭和32))や吉田博(1876(明治9)―1950(昭和25))と同時期に同じ版元へ所属していたことは瞠目すべきである。
巴水の風景画、吉田の山水画に対し古邨は花鳥画を手がけ、作品は500点以上に上るそうだ。
恩地孝四郎を含め、皆海外での評価が高く、特に古邨は日本国内ではほとんど忘れられた存在となっていたようだ。

この日14時から小池満紀子さんによる特別講演会があった。小池さんは中外産業原安三郎コレクションの担当者で、偶然倉庫に眠っていた古邨作品を発見された由。
日曜美術館でも古邨版画の高度且つ精細な技法について話されていたが、今回は浮世絵版画の伝統を踏まえて独自の境地へ達した古邨版画について、「雨」の表現、「光」(月、星)の表現という側面から歌川広重と対比しつつ話された。

小池さんが配布したのは「有明月と木菟(みみずく)」の擂りの異なる3点をプリントしたA4一枚だった。
木菟の色付け、止まっている枝の濃淡、背景の陰影の付け方、月周辺の濃淡と擂り方が違い、その中の一点には「忠」印がある由。(優良なものに押されているとのこと。小池さんは何処に押されているか話されていたと思うが、今ペーパーを見ても判別できない。)
今回の展示では「月に木菟」(NO.29)として前期に展示されたようだが、比較すると上の何れとも違っている。
版画は擂りの工程が複雑な程この様に個々の刷り上がりは千差万別になるのだろう。
そこが版画の面白さであり、奥が深い処でもあると感じた。

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「古邨」展図録

改めて図録を見ると「祥邨」落款の作品より「古邨」期の方が色調は渋く落ち着いていて格調が高く、私は好きだ。
後期展示ではない「蓮に雀」(NO.2)、今回の展示作品ではないが図録で紹介されている「柳に油蝉」、「花菖蒲に翡翠(かわせみ)」(共に原安三郎コレクション)は典雅で美しく、高い境地に達したものとして魅力を覚える。

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「蓮に雀」のポストカード

(追補)16日(土)のTV東京「美の巨人達」で、「弘法大師修法図」(太字:色)について静嘉堂文庫美術館長の河野元昭氏の解釈が大変参考になったのでここに概要を記す。
木に巻き付く犬は、婆娑羅大将(金剛力士(仁王))の化身。十二神将(薬師如来の守護神)の戌に該当している。
木は疫病に苦しむ人間の暗喩。びっしり生える茸は「カワラタケ(植物病原菌)」で、寄生した樹木を徹底的に枯死させてしまう。犬(婆娑羅大将)は木(瀕死の病人)を迫り来る鬼(病魔)から決死の覚悟で守ろうとしている。
空海も木(病人)の脇で経巻を手に一心に祈祷することで鬼に対峙しているというもの。

またナレーションで述べていた「神奈川沖浪裏」との構図上のアナロジーは、卓見である。
いわく、「修法図」は遠近法により立体感が創出されている。
最前景の左の鬼(グレート・ウエーブ)、右手前の犬と木(波に翻弄される舟)、そして最奥でどっしり構える空海(冨士)という対比である。
(了)

2018年12月31日 (月)

「ムンクとフェルメール展」

あっという間に大晦日が来てしまった。
2018年を無事過ごすことができたことに感謝すると共に、今年も思ったことの10分の1も出来なかった悔いの念を胸に新しい年を迎える。

旧聞もいいところになってしまったが、年の最後のブログとして以下を取り上げたい。

11月21日(水)に上野で開催されている表記の展覧会へ行って来た。共に年明け後しばらく迄の会期だが、年内に行こうと考えていて、旅行を終えてから調べてみたら、「ムンク展」がこの日「シルバーデー」で65才以上は無料入場できると知り、「フェルメール展」の方は20時まで開場しているので、2つをはしごすることにしたのだった。

「フェルメール展」は日時指定入場制を取っており、余裕を見て17:00~18:30の枠にした。入場料は\2,700と高めで、ネットの前売りで購入したので\200割引された。

都内の展覧会は2年半振りで、上野は3年半振りになる。その直近が森アーツセンターギャラリーでの「フェルメールとレンブラント」展だった。

先ず腹ごしらえをすることにして、文化会館2階の精養軒でハヤシライスを久し振りにいただく。

この日の人出はものすごかった。西洋美術館前の広い通路が往来する人波で埋まっていた。
都美術館のロビーもシルバー世代でごった返していた。
横4列に並ばされ、入場口まで30分位だったか、それほどのストレスを感じることもなく会場へ入ることが出来た。

「ムンク展」、副題は「-共鳴する魂の叫び」、英語で「A Retrospective」とある。
総数101点の中では油彩が主体で、リトグラフ等の版画を含む初期から晩年に至る回顧展示である。
私は「叫び」をこの目で見たくてこの「ムンク展」へ来た。

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ムンク作品を見て感じたのは、その色彩感覚の非凡さである。また「叫び」に象徴されるように、作品から醸し出される不安、焦燥、絶望へ対峙する実存主義的な自己といった切迫感に包まれる。

都美術館を17時頃出て、時間に余裕があったので公園内のレストラン「パークサイドカフェ」で食事をした。チキン、野菜付きジンジャーカレーとコーヒー。

まだ18時前だというのにすっかり夜の帳が下りていた。特に上野の森美術館への道は人通りもなく、寂しいことといったらない。
こちらは予想に反して待ち時間ゼロで会場へ入ることが出来た。

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2階から見ていくようになっていて、フェルメール・ルームは1階にある。
可成り広く、ここにフェルメールの作品が8点展示されていた。入り口から正面の長い壁に右から製作年代順に6点(「赤い帽子の娘」と「手紙を書く婦人と召使い」だけは何故か順番が逆)が、右側の壁に「マルタとマリアの家のキリスト」、左側の壁に「牛乳を注ぐ女」が掛けられていた。

フェルメールが8点も一堂に会するというのは相当に贅沢なことで、これはニューヨークのメトロポリタン美術館の5点、フリック・コレクションの3点を合わせた数で、ニューヨークへ行ったとしてもこの2館を渡り歩かなければならない。

「マルタとマリアの家のキリスト」の額下側に銅板があり、「Mr.M.A.COATSコレクションを引き継いだ2人の息子達により1927年に寄贈・・・」という趣旨の英文が刻まれていた。
単眼鏡を持参していたので読めた。絵を単眼鏡で覗くと細部の表現の見事さに絶句させられる。「ワイングラス」の窓のステンドグラスとそれを透かして見える曇りガラスの精密な描写。「牛乳を注ぐ女」の鉢へ注がれるミルクのらせん、壁のピン穴、床に接する壁のタイルの模様・・・単眼鏡で見ているとその精細さに驚かされた。

フェルメールと同時代の17世紀オランダの風俗画39点の展示の方も興味深いものだった。過去の展覧会で見た作品も散見されたが、その中で23エマニュエル・デ・ウイッテ「ゴシック様式のプロテスタントの教会」は森アーツセンターの「フェルメールとレンブラント」展でも見ていて、その際にブログでも触れた。(→2016.4/4

気が付いたら20時の閉館時間が近付いていた。人の山もなく理想的な鑑賞をすることが出来た。

今回の「フェルメール展」は以下の9作品(数字は出品番号、日本初公開=☆、今回初めて見た=★)。
40「マルタとマリアの家のキリスト」
41「取り持ち女」(☆、’19年1月からの展示)
42「牛乳を注ぐ女」
43「ワイングラス」(☆、★)
44「リュートを調弦する女」
45「真珠の首飾りの女」(★)
46「手紙を書く女」
47「赤い帽子の娘」(☆、★、12月20日まで)
49「手紙を書く婦人と召使い」
年明けに「赤い帽子の娘」と入れ替わる「取り持ち女」を私は見ていないが、今のところもう一度見に行こうとは思っていない。まだまだフェルメールオタクを自称するまでになっていない。(^^;

これで私が見たフェルメール作品は22となった。(*)
現存するフェルメール作品は37で、その内2点は真作か否か結論が出ていないようだ。また「合奏」は盗難に遭って行方不明だという。しかも作品は欧米の美術館に分散しているので、全作品を目にするのは大変にむつかしい。

(*)ブログ「フェルメールとレンブラント」展(’16.4/4、上のリンク参照)で18点としたが、これは19が正しい。その時見た「水差しを持つ女」を数えていなかった。(^^;

私が今見たいのは、
・「士官と笑う娘」(フリック・コレクション、ニューヨーク)
・「デルフト眺望」(マウリッツハイス美術館、デン・ハーグ)
である。

NHK「100分で名著」12月のスピノザ「エチカ」テキスト口絵にフェルメールの「天文学者」の図版があって、「モデルがスピノザとの説がある」とあった。ちなみにスピノザとフェルメールは同い年で共に1632年生まれだ!
(了)

2018年12月21日 (金)

「京都・奈良の旅’18」-8(最終回「正倉院展」)

奈良ホテルから徒歩で「正倉院展」へ向かう。
荒池を挟む道路沿いの歩道を抜け、だらだらの坂を登り切ると春日大社の一の鳥居が見えてくる。

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春日大社は今年創建1250年を迎えた。

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奈良公園へ入る。まっすぐ歩いて行くと「正倉院展」会場の奈良国立博物館新館へたどり着く。

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仏像館脇の鹿。正面のテントは仮設のコインロッカー用。

奈良ホテルで前売り券を購入していたので、入館待ちの行列に並んだ。正面入り口まで1回半の往復。平日でもあり、左程でもない混みようだ。

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今年で第70回の節目を迎えた「正倉院展」は戦後のスタートで、第1回が昭和21年(1946)に開かれている。
私は五十代半ばに初めて参観してから今年で8回目になる。平成27年(2015)からは毎年来ている。

今回印象的だったのは
⑮玳瑁螺鈿八角箱(たいまいらでんはっかくのはこ)→図録表紙を飾っている
⑯沈香木画箱(じんこうもくがのはこ)

「正倉院御物」の中核を成している聖武天皇遺愛の宝物の数々は北倉へ納められていて、「正倉院展」の目玉になっているのだが、上の2品はいずれも中倉の宝物だ。
NHK日曜美術館で11月4日に放送された「正倉院展」特集へゲスト出演した奈良博館長の松本伸之氏が述べていたが、単眼鏡は必須アイテムで、肉眼では認めるのが困難な微細な部分の精密丹念な加工を単眼鏡越しに見ていると、余りの見事さにため息が出てくる。
⑯は蓋と側面の採絵に目を奪われてしまったが、改めて今これを図録で見ると色彩の鮮やかさ、生命力溢れる図柄の魅力が伝わってくる。更に採絵を縁取る木画が見事だ。箱根の寄せ木細工を連想させられた。
そして展示では気が付かなかったが、下側に透かし彫りの羽目板が付けられており、これも精密で実に見事。

過去の展示との関連では
① 平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)
私が初めて「正倉院展」を参観した第57回(2005年)に出陳されていた。その時は図録の表紙を飾っていた。

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⑤古人鳥夾纈屏風(こじんとりきょうけちのびょうぶ)
昨年の第69回の「5羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」、「6熊鷹臈纈屏風(くまたかろうけちのびょうぶ)」を思い出した。(→ 2017.11/30

また妻が聖語蔵の経巻3点に引かれている罫線についてスタッフへ質問したところ、下のような参考書のコピーをもらった。最後の部分に「正倉院展」へ出陳された参考例が挙げられているが、何時のものなのかこのコピーではわからない。今年の図録から遡って見ていくことにしたら、あっさり昨年の図録の55であることが分かった。

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なお今年の図録冒頭の概説「宝物の献納について-光明皇后による宝物献納を中心に」(内藤栄氏)は「国家珍宝帳」を中核とする5回に及ぶ光明皇后による宝物献納の意味を国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり 天平13年(741))、「国家珍宝帳」の7件の「除物」との比較考証により解き明かす試みで、そこに浮かび上がる関連人物を、系図(*)によりその相互関係の複雑さに見入りつつ、大変興味深く読んだ。(*2)

(*)坂上康俊「平城京の時代」(岩波新書)P.99、197
(*2)献納宝物の内「種々薬帳(しゅじゅやくちょう)」の願文に該当するものが「建立の詔」にない点に着目し、聖武天皇が鑑真により受戒した折のテキスト「梵網経」の第九軽戒(きょうかい)の疾病人への供養の教えを対応させている点に内藤氏の深い洞察力を感じる。

今年は東大寺大仏殿の北側にある正倉の見学をした。

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2年前公開時間を知らずに閉門後に行ってしまい、苦い思いをしているので今回は予め時間を確認して行った。
通常は午後3時までのようだが、この日は特別公開中で午後4時直前だったが見学することが出来た。

正倉前に置かれた柵までが立ち入り可能で、やや距離はあるものの眼前の正倉と向き合うことが出来る。可成りの大きさで私のカメラでは全体を捉えることは出来ない。写真では中倉と南倉が写っている。左後方に見えている瓦葺き(?)の広い屋根の建物は西宝庫。昭和37年に完成し、正倉院宝物は現在ここに保管されている由。(杉本一樹「正倉院」(中公新書))
日曜美術館でも冒頭で紹介していた「開封(かいふう)の儀」は、勅封とされている西宝庫に宮内庁の勅使立ち会いの元、宝庫の扉が開封されて宝物の曝涼が行われる。それに併せて「正倉院展」で宝物が一般公開されるわけだ。

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鹿の群れ。写真右に戒壇院がある辺りのショット。

近鉄奈良駅発16時30分の特急京都行きへ乗る。

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平城宮跡、大極殿の右に工事中のクレーンと大規模な足場が見えているが、大極殿の南門の復元工事の現場のようである。

18時45分京都発のぞみ135号で帰途に着く。
21時30分東京発さざなみ9号へ乗車。
22時32分木更津着。
最後まで天候に恵まれ、病み上がりの身ながら日を追うに連れ体調も上向いていき、予定通りの旅が出来たのは幸いだった。
(終わり)

2018年12月18日 (火)

「京都・奈良の旅’18」-6(興福寺)

近鉄特急は快適だ。窓外の眺めも良く、あっという間に奈良へ着いてしまう。西大寺駅を出るとすぐ平城宮跡へ差し掛かり、左に大極殿、右に朱雀門が見えてくると、奈良へ来たという実感が湧いてくる。
程なく電車は地下へもぐって、近鉄奈良駅へ到着した。
隣接するタクシープールからタクシーで奈良ホテルへ向かった。

奈良ホテル正面玄関前に着いたが、生憎団体客でごった返していてスタッフが我々へ対応してくれない。仕方なく荷物を持って階段を上がり、ロビーへ入るとフロントにも先客があってしばらく待たされた。
番が回ってきたものの午後1時を回ったばかりで、チェックインは3時からだというので、荷物を預けて興福寺へ行った。

猿沢池と興福寺を結ぶ石段、奈良ホテルのガイドマップに「五十二段」とある。
この石段は奈良へ来ると大概は上り下りしているが、そういう名があることは知らなかった。

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五十二段。右手に興福寺の五重塔。写真のとおり結構急で、上りはしんどい。

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五十二段から見た猿沢池。

五十二段を上って道路を横断すれば興福寺だ。
今年は中金堂の再建工事が完成して一般公開され、また寺宝が秋の特別公開中とあって境内は人でごった返していた。

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まず中金堂を見る。

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正面に見えるのは本尊の釈迦如来坐像。今回の「再建にあわせ修理」したとパンフレットにある。
「興福寺」(末尾に「H9.9」とあるので1997年9月に興福寺が製作した冊子)45頁の写真は胸と肩の金泥が剥がれていたりしているが、それらが綺麗に塗り直されている。

本尊仏の前に「法相柱(ほっそうちゅう)」という柱があり、日本画家畠中光享(こうきょう)による法相宗祖師群像が描かれている。カラフルで魅力的であり、思わず目を奪われてしまった。

「中金堂は和銅3年(710)平城京遷都と同時に藤原不比等が興福寺最初の堂宇として創建」(パンフレット)した。

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中金堂から見た五重塔と東金堂。

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南円堂。安置されている諸尊の公開は10月17日のみだった模様。
行列は大流行の御朱印をいただく人達。南円堂は西国三十三ヶ所中第九番の札所。
その前に立つ灯籠は、平成の大修理で複製されたもの。
創建当初の灯籠は国宝館に陳列されていた。
現在の灯籠の火袋の銘文「平成観音讃」は陳舜臣によるもので、読み下し文のパネルが灯籠の前にあった。

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南円堂の本尊不空羂索観音。これは売店でGETした絵はがき。

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北円堂。南円堂同様の八画円堂。「藤原不比等の菩提のために養老5年(720)に完成。その後焼失等を経て承元4年(1210)に復興され今に至る。現存中で最古の堂宇。

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無著(むじゃく)菩薩立像」。北円堂に安置される諸像中、最も感銘を受けた。
運慶による建暦2年(1212)頃の作。周囲を回って参観するが、位置を変えても無著像の視線がこちらに向かっているように感じる。悠然とした造形は堂々として威厳があった。

最後に国宝館へ入った。2回目になるが、以前より陳列が洗練されたように思う。
最も印象深かったのは、「仏頭」。「天武14年(685)完成の白鳳彫刻の傑作」(パンフレット)とあり、清新の気に溢れすがすがしさを感じる。

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国宝館のパンフレットから。

阿修羅像」は八部衆のセンターに位置取り、参観者の注目を集めていた。

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これも国宝館のパンフレット。

国宝館では中金堂落慶記念特別展示として
再会~興福寺の梵天と帝釈天
かつては共に東金堂へ安置されていたが、帝釈天は現在東京の根津美術館が所蔵する。
邂逅 志度寺縁起絵
旅行から帰ってきてパンフレットを読んだ。
志度寺は香川県さぬき市の真言宗の寺。
不比等に関わる物語が一幅の絵の各部へ描かれている。中金堂の本尊釈迦如来に関わる話も入っている。
今回は全六福中「二、讃州志度道場縁起」二幅を前期に第一幅、後期に第二幅を展示した。
我々は後期の最終日に滑り込みで第二幅の方を目にすることが出来たわけだ。

興福寺の寺宝の数々を堪能して帰途「旧大乗院庭園」を見た。奈良ホテルの南側に広がる庭園で、初めて奈良ホテルへ来た2年前に知ったが入るのは初めて。(→'16.11/18

入館時にもらったパンフレットにより改めて概要を記す。
大乗院は寛治元年(1087)の創建で、興福寺の塔頭。藤原氏の門跡寺院だった。
寛正6年(1465)に足利義政の命により善阿弥による作庭が始まった。
現在の庭園は平成になってからの発掘調査と江戸末期の門跡隆温(りゅうおん)筆の「大乗院四季真景図」を元にして、江戸末期の状況を復元している由。

調査結果を尊重し、正確性を優先したのは正しいと思うが、復元された庭園は無味乾燥の感を禁じ得ない。前日に桂離宮を見ているだけにその落差の大きさを感じてしまう。

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旧大乗院庭園文化館の入り口。

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東大池と中島

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西小池と四阿(あずまや)。

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四阿脇に設置されている「大乗院四季真景図」のパネル。
(続く)

2018年6月 5日 (火)

箱根・富士宮の旅-3(ポーラ美術館)

5月15日12:45山のホテルを出発、ポーラ美術館を目指す。
途中、道路脇に自生している見事な山藤が目を楽しませてくれる。程なくすすき野原を右に見つつ仙石原へ入った。ポーラ美術館へこのルートから行くのは初めてだったので、曲がり損ねてしまう。今回のドライブで唯一の運転ミスとなった。(^^;
13:20ポーラ美術館着。2007年8月以来2度目で、前回は強羅からの往復だった。

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上はアプローチの渡り通路。右が美術館。

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エントランスのブロンズ(?)のオブジェ。

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エントランスからエスカレーターで1Fロビーへ。左端女性が立っているところがチケットカウンター。正面に見えるのがB1F。更にB2Fがあり、2フロアが展示スペースになっている。

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ポーラ美術館の模型。台ヶ岳山麓となる傾斜地に立地し、建物と擁壁を分けて免震構造にする耐震設計になっているそうだ。

受付で確認したが、展示作品の撮影は原則OK。但しポーラ美術館以外の所蔵作品等、一部不可の作品があるとの事。昨年のMOA美術館を思い出した。(→箱根・熱海-5(MOA美術館その1)

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展示室1の最初のスペースを飾るディスプレイ。
「EMILE GALLE COLLECTING NATURE」とあり、今回の特別展「エミール・ガレ自然の蒐集」を素敵にデザイン化している。

この展覧会は4月8日夜の日曜美術館アート・シーンで紹介され、是非会場で直接目にしたいと思い、楽しみにしていた。
アール・ヌーボーの装飾芸術家であるエミール・ガレのガラス器130点を東大総合研究博物館の植物、鉱物、昆虫標本、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの海洋生物図譜と併せて展示して、植物、昆虫、海洋生物等を装飾モチーフとしたガレ作品へのより深い鑑賞が可能となるよう配慮されている。

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上のコーナーは、植物、蝶、鉱物標本がガレ作品と共に展示されている。

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上はモネの「睡蓮」(1907)。この右に同じくモネの「睡蓮の池」(1899)を展示し、両作品の間にガレの睡蓮をモチーフにした趣が異なる3作品が置かれていた。
モネの「睡蓮」は私の好きな絵画で、一時は折に触れ「睡蓮」を目当てにブリジストン美術館へ通ったものだ。ポーラ美術館の「睡蓮」は、大きさはブリジストン美術館のものとほぼ同サイズで、旅行から帰ってきて分かったが、2002年の川村記念美術館(千葉県佐倉市)の「モネ展 睡蓮の世界」でこの作品を見ていた。
ブリジストン美術館は、1903年と1907年の2作品を所有し、ポーラ美術館の作品と共に1903年から5年余にわたる睡蓮の第二の連作に入っている由。

ガレ作品の特徴は、鮮やかな色彩を駆使し、緻密で繊細な装飾モチーフが表現されているところにあるが、それはガレのたゆまぬ探究心が生んだ多彩な技法に裏付けられており、見る者を魅了して止まない。
展示の始めの方で、ガレが用いている数々の技法の説明パネルがあったが、興味深いのは「パティネ」というガレが特許を取った技法で、ガラスに化合物を加えてガラス面に偶発的な変化を醸し出して、あたかも陶磁器の曜変天目を思わせる。

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上は「骨と犬」という作品。象徴主義の系列に分類される作品で、夫人の同名の詩が刻まれている。図録によると、他にヴィヨン、シェークスピア(フランス語)、ゴーティエ、ボードレールを引用した作品が展示されていたようだ。

B2Fへと順路に従って進んで行き、第3展示室のガレ最晩年の作品を見た後は、ポーラ美術館所蔵の西洋近代絵画作品を鑑賞した。セザンヌ、アンリ・ルソー、ゴッホ、マティス、ピカソ、ブラックetc.の傑作が一堂に会している。

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上はマティスの「リュート」(1943)。赤系の色彩が基調となっていて、「大きな赤い室内」(1948)を連想した。共に晩年の作品。マティスも私は好きだ。

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フロア案内に「じっくり」と記されているコーナー。マティス晩年の切り紙絵の連作「ジャズ」(1947)。

展示室5の東洋陶磁作品も佳品が揃っていた。「黒釉油滴班碗(こくゆうゆてきはんわん)」(中国金代。12~13世紀)。大阪の東洋陶磁美術館の油滴天目茶碗(国宝)は南宋期で、本作品と同時代にあたる。4年前に岡田美術館で見た油滴天目茶碗を思い出した。(→箱根(その2)

●追記
本アーティクルをUP後、今夜のNHK「ニュースウオッチ9」でポーラ美術館所蔵のピカソの「海辺の母子像」(1902年)へのワシントン・ナショナル・ギャラリー、アートギャラリー・オブ・オンタリオと今年4月に実施した共同調査により、カンヴァス下層部にフランスの日刊紙「ル・ジュルナ ル」(Le Journal)の貼付け、右上の角に上下逆方向の下層部の絵画向けのピカソのサインが確認されたというニュースが流れた。
3週間前に目にしたばかりなだけに、ちょっとびっくり。
ポーラ美術館ホームページを確認したら、新着情報として今日6/5付けのプレスリリースが載っていた。
(続く)

2017年11月30日 (木)

「京都・奈良・大阪の旅’17」-5(第69回正倉院展)

奈良ホテルから荒池を過ぎ、春日大社の一の鳥居脇の石段を上がり、料理旅館「江戸三」へ立ち寄る。
7月27日付け朝日新聞夕刊の「都ものがたり 奈良」で、小林秀雄が滞在していたという「縁由(えんゆ)の間」を見ておきたかったので。
「江戸三」は奈良公園の中に立地し、鬱蒼とした木立ちに囲まれて起伏のある随所に小屋が点在している。
皆似た造りで、「縁由の間」は斜面の低い位置にあった。

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記事には老朽化で現在は使われていないとあるが、スタッフの休憩所として利用されているようである。
記事によると、1928(昭和3)年東大卒業直後に東京から関西へやって来て、「縁由の間」へ約一年滞在した。当時近くに居を構えていた志賀直哉の支援があったようだ。
この頃を回想している「秋」(1950)とか、「モオツァルト」(1946)の有名な一節、「道頓堀でト短調シンフォニーが鳴った」のもこの時期の事だという。
そして翌1929(昭和4)年に「様々なる意匠」が「改造」懸賞論文の二等賞を取る。
と「江戸三」に滞在した頃が、小林秀雄にとり重要な時期に当たっているのが大変興味深い。

スタッフからもらったパンフレットを見ると、志賀直哉が命名したという「若草鍋」(10~3月)の写真があった。

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春日大社参道を横切り、奈良国立博物館側へ入ったあたりの鹿の群れ。右の並木が参道。

正倉院展はこのところ3年連続来ている。
奈良公園の中の立地、そこここに鹿がいるのがここの特長で、新館前の行列に並んでいると、もう一年が過ぎてしまったのかという感慨が湧いてくる。

正倉院宝物は、宮内庁の所管なので国宝の指定こそされてないが、正倉院展に出陳される宝物の品々はいずれも国宝級のものばかりである。

今回印象に残るのは、「21碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ)」。直方体の小箱で、薄い青緑色の地、焦げ茶色の縁取り、鳥と草花、蝶が金、銀色で描かれ、優美な出来栄えに目を奪われる。

「27緑瑠璃十二曲長杯(みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)」。深い緑色のガラス製の楕円形の杯。
今回の図録表紙を飾っている。ちなみに今年の表紙の色調は今までで一番良い。

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図録によれば、鉛ガラスで、銅が含まれているので緑色をしている。中国に多く、対してソーダ石灰ガラスは西、中央アジアに多い。一方形状(十二曲長杯)の原形は、ササン朝ペルシア(3~7C)に見られる。
ということで、中国産が濃厚だが、形状は中央アジア方面と不確定で、明治37年に初めて宝物帳に記載され、経緯が不明、と謎に包まれた宝物なのだそうだ。

「5羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」。「6熊鷹臈纈屏風(くまたかろうけちのびょうぶ)」と共に丁度10年前の第59回(2007(平成19)年)に出陳されている。

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「羊木臈纈屏風」は、今年の入場券の図柄に採用されている。
昨年も書いたが、羊は2003年の切手趣味週間の図柄にも採用された。
この宝物は、布(絁(あしぎぬ))が調布であることから国産であるが、巻き角の羊はエキゾチックで、西域のソグド人(中央アジアのイラン系民族)の7世紀頃の都市遺跡、アフラシアブ(ウズベキスタン)の壁画に似たものが見いだせるそうだ(図録130頁)。
上の27共々、中央アジア方面のイスラム、西域文化とシルクロードを通じた中国、果ては日本と、1,300年前の世界のつながりを裏付ける宝物であることは、興味深い。 

聖語蔵(しょうごぞう)の経巻を見るのも楽しみの一つだ。
勿論判読はできないが、整然と記されている文字群に何ともいえない魅力を感じる。
唐代の中国で書かれた経巻が特に優れていると思う。
今回は「56阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまだいびばしゃろん)巻第七」。
図録によると、インドの説一切有部(せついっさいうぶ)派の根本経典「阿毘達磨発智論(あびだつまほっちろん)」を解釈した全200巻の論書で、唐代に玄奘三蔵により漢訳された。
なお、第57回(2005(平成17)年)に「大毘婆沙論巻第百七十八」を見ている。巻第百七十八は、この年1979(昭和54)年以来26年振りで、あと巻第百七十が1988(昭和63)年に出陳されている由。

今回は久しぶりに本館の仏像を見た。時間がなくて、中央ロビーとその北側、第1~7室までしか廻れなかった。

午後5時夕闇がそろそろ押し寄せようという頃、博物館を後に、再び奈良ホテルへ向かう。

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上は春日大社の一の鳥居を参道から見ている。

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上は荒池越しの奈良ホテル。

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ホテルのラウンジでコーヒーで一息入れた。
タクシーで近鉄奈良駅へ行き、18時の京都行き特急で、再び京都へ。
(続く) 

2017年6月10日 (土)

箱根・熱海-6(最終回・MOA美術館その2)

Fは展示室1から3があり、ここが今回の特別展示スペースとなっている。しかし展示室2の中央には常設展示作品の野々村仁清「色絵籐花文茶壺」(国宝)の専用展示スペースがあった。

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この一作のための専用空間いわば指定席になっていて、上部からルーバー付きのLED照明だろうか、穏やかな光線が照射され、作品を見る者の興奮を鎮めてくれる。東博などでは、人がどっと押し寄せるので到底作品を鑑賞するような環境下にない状況が常態化している事を思えば、ここは鑑賞の理想的条件が整っている。

愚痴ついでに云うと、東博の特別展では夏の暑い時でも入館待ちの行列に炎天下で延々と並ばされるような過酷な試練に耐えねばならない。それだけでなく、一番人気作品には何時間待ちとか信じられない行列が出来て、とてもでないが心穏やかにしていられない場と化してしまっている。2年前の「鳥獣戯画」展、3年前の台北故宮の「翠玉白菜」など、それを目当てに足を運んだものの、うんざりして結局見ずに帰ってきた苦い思い出があり、最近の東博へは良い印象を持っていない。

展示室1の最奥折り返し点にケースへ収められていたのが(伝)本阿弥光悦「樵夫(きこり)蒔絵硯箱」(重要文化財)。雄壮、ダイナミックな図柄で、琳派のイメージとやや異なる印象の作品だ。なお本作は東京国立博物館「大琳派展」(平成20(’08)年)へ出品されている。

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他に光琳「水葵蒔絵螺鈿硯箱」も展示されていた。本作も「大琳派展」出品作。

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下は光悦「花卉摺絵新古今集和歌巻」。下絵は金銀泥で藤、竹等を摺っている。

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2年前に京都国立博物館で見た光悦筆、宗達画「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(重文)を思い出した(「琳派京を彩る」展→Ref'15.11/26)。本展へもMOA美術館は3点出品している。

下は(伝)琳「秋草(あきくさ)図屏風」。

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抱一を連想させるが、光琳の方が男性的で、対して抱一は繊細である。

左隻左下に「法橋青々光琳」の署名と「方祝」の落款がある。

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下:酒井抱一「雪月花図」(重要美術品)。やはり「大琳派展」出品作。

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Fは常設展示。2Fから下りて来て、まず「阿弥陀如来及び両脇侍坐像」平安時代(重文)と出会う。向かって左が「勢至菩薩」右が「観音菩薩」。

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後は仏教経巻や「星曼荼羅残欠」、「諸尊図像」、「仁王経法(にんのうきょうほう)図像」(すべて重文)といった貴重な図像が展示されていた。これらは昨年秋に行った東寺の宝物館で見たものに類似している。東寺は撮影禁止だったので、ただ見たというだけで具体的な記憶は残っておらず、今回MOA美術館の展示をカメラに収める事が出来たのは極めて有益だったとつくづく思う。→Ref'16.12/19

次の展示室5は近代日本画作品。

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右から、橋本雅邦「琴棋書画」、菱田春草「鯉魚」、川合玉堂「鵜飼」、速水御舟「青麦」、竹内栖鳳「夏鹿」。栖鳳は6曲2双の大作。

間仕切りされた展示室5のもう一方は空いていて、恐らくここに「紅白梅図屏風」が展示されるのだろう。

展示室6は現代人間国宝の工芸作品等が展示されていた。

以上MOA美術館でこれ以上望み得ない環境で心ゆくまで展示作品を鑑賞して幸福感を味わえた。

(終わり)

箱根・熱海-5(MOA美術館その1)

MOA美術館を訪れるのは今回が初めてである。一年前の5月に熱海へ来た時はリニューアル工事中だった。

MOA美術館は尾形光琳「紅白梅図屏風」を所蔵する美術館として夙に有名で、実物を目にしたいとはかねての念願だったが、それはいまだに叶えていない。

「紅白梅図屏風」は門外不出の作品で(多分そうだと思う)、見るにはここへ来るしかない。

光琳「紅白梅図」は毎年2月のみの公開とハードルが高く、行くなら公開中と思いつつも時期的な制約もあって、ずるずる今日に至り今度初めての美術館来訪となった次第。

前回最後に記したように翌513日、14日に「紅白梅図屏風」の特別公開があり、たった一日違いに今回は涙を呑んだ訳だが、先ずはMOA美術館来訪を果たせた事に満足したい。

因みにMOA美術館のMOAとは創立者の岡田茂吉のイニシャル+Association(協会?)の意味との事。

かんぽの宿フロントでMOA美術館へのアクセスを聞く。と、開催中の特別展のチラシと割引券をくれた。

昨日下って来た十国峠へ向かう道を登り、熱函道路に合流する三叉路を過ぎてすぐ、案内看板のある所で右折し狭いアップダウンのある道をしばらく走ってたどり着いた。

熱海観光協会の観光ガイドマップからも熱海市街の道路は迷路のようで、分かりにくいので上のルートを教えてくれたのだろう。打って変わってMOA美術館は高台の一角にゆったりとしたスペースを確保している。

入り口は2カ所のようだが我々は駐車場から最寄りの3階入り口から入った。

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左側から入ってすぐチケット売り場がある。65才以上は\200割引となり、割引券は必要なかった。3Fはエントランスロビーで、直進して左に折れエレベーターへ向かう途中に何気なく置かれていたオブジェのような展示物にいきなり足が止まる。

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説明文はなく、ただそれが「空心塼(くうしんせん)」といい、中国前漢時代のものだとしか書かれていない。見たとおり装飾的な図形が幾何学的に反復して描かれていて、その玄妙な雰囲気の虜になってしまった。

今思うとこれをカメラへ収めるにあたって許可を取り付ける事をしていなかった。ここは通路で、展示室の中ではない。よっていちいち確認を取る必要はないと独断の下にシャッターを押してしまったのだった。

これは結果的には問題なかった。2Fへ降りてスタッフに撮影について確認したところ、展示室内においてもフラッシュなしならば、撮影はOKとの事。ただし他館および個人所有の展示は撮影不可である。

美術館でこの寛大さは経験がない。唯一昨年3月末に行った国立歴史民俗博物館のみである。そしてカメラに収められる事が計り知れぬメリットをもたらしてくれる事を知った。

「空心塼」へ話を戻し、調べてみたら粘土を焼成したタイルのようなもので、中国古代の建築材料だそうだ。「塼」は何種かあり、「空心塼」は焼成タイルを箱形に貼り、柱状で中空になった漢代の墓の材料との事。

1、 Fが展示室で2Fには立派な能楽堂もある。

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開放的なメインロビーである。左に海と熱海市街を展望できる。正面が展示室入口。

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メインロビーからの眺望。直下は「ムア・スクエア」。ヘンリー・ムーアの「King and Queen」がある。 

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かんぽの宿でもらったチラシ。「琳派の美と光琳茶会の軌跡」。

展示室入口を入りすぐ掲示されていたあいさつ文に、昭和60(’85)年の開館3周年記念に光琳屋敷を復元、光琳茶会を発足、以降毎年2月に開催して今日に至り、各席において展観された光琳および光悦、宗達、抱一等の作品を展示しその軌跡を顧みる、とある。

これによっても明らかだが、MOA美術館は琳派を中心とした絵画、工芸および仏教美術、書跡、陶磁器といった日本を中心とした中国をも含む東洋美術を所蔵している。

所蔵作品は国宝3、重要文化財66を含む約3,500点に及ぶ。

これまでこのブログで取り上げた藤田美術館、大倉集古館、静嘉堂文庫美術館と比較しても遜色のない規模だ。→<'15.12/26>藤田美術館のコレクションの中核を成す藤田傳三郎が数奇者だった事もあり、藤田美術館に最も近い美術館かも知れない。この中では静嘉堂文庫美術館の所蔵規模が最も大きいが、MOA美術館の展示環境が最も理想的と言えるのではないか。

(続く)

2016年11月30日 (水)

奈良・京都旅行-5(正倉院展)

朝食後部屋へ戻り、小憩後フロントでチェックアウトした。
荷物はホテルへ預け、第68回正倉院展の会場の奈良国立博物館新館へ向かう。
入り口前はいつもの事ながら長蛇の列が出来ていた。

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今回は旅行前日の10月30日(日)に日曜美術館で正倉院展の特集が放送され、タイミングよく予習ができた。
今回印象に残ったのは、漆胡瓶(しっこへい)で、優美な形状と表面を覆う精緻な装飾文様が見事だった。

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それと、「鳥木石夾纈屏風(とりきいしきょうけちのびょうぶ)」。布地を染める夾纈(きょうけち)という技法で作られた屏風で、平成19('07)年の第59回で見た「羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」を思い出した。平成15('03)年の切手趣味週間の図柄となった屏風だ。
また初出陳となる当時の貨幣である「和同開珎(わどうかいちん)」①と「神功開宝(じんぐうかいほう)」②。②は一枚のみの展示だったが、①は15枚で、それぞれ少しずつ大きさとか字体とかが異なっている。今年1月に行った「三井家伝世の至宝」展で三井高陽(たかはる)の切手コレクションを見た時と同種の感慨を覚えた。「和同開珎」とかが古銭市場に出回っているとは思えないが、出ているとしたら価値は切手の竜文切手どころの話ではないだろう。
日曜美術館でも取り上げていたが、貨幣鋳造の材料として当時使用されていたらしいアンチモンのインゴットが展示されていた。錫の代替として国内で産出するアンチモンを銅との合金の材料として使ったようだ。

また聖武天皇(*)一周忌斎会で使用された大幡関係が一室を占有し、特集のような形で展示されていた。これに因んだ図録巻末の内藤栄氏(*2)の小論「聖武天皇の輿(こし) 葬儀と一周忌斎会をめぐって」を興味深く読んだ。
葬儀と一周忌斎会の儀式がどんなもので、どのような教義によったのかを考察している。基本資料を「続日本紀」に拠り、他の研究者の論考を参考にして論を進めている。

一周忌斎会で動員された僧侶は何と千五百人!
教義として採用されたのは「梵網経(ぼんもうきょう)」で、その根拠として、聖武天皇崩御の年である天平勝宝八歳(756)12月30日の孝謙天皇の勅を示している。
「梵網経」は、天平勝宝六歳(754)に鑑真和上から聖武天皇が、光明皇后、孝謙天皇と共に授けられた菩薩戒の際にテキストとなったと推定されているとの事。
また「梵網経」による功徳により、冥界の聖武天皇を「花蔵の宝刹(けぞうのほうさつ)」へ到ることを願意としている由(*3)。
「花蔵の宝刹」とは盧舎那仏の世界のことで、「梵網経」では「蓮花台蔵世界界(れんげだいぞうせかいかい)」という由。

一周忌斎会は、天平勝宝九歳(757)5月2日に東大寺のみならず、全国の国分寺で一斉に行われたというから、当時の国家権力の基盤のゆるぎなさが偲ばれる。
(*)図録は年表以外は「聖武天皇」で統一しているが、崩御時すでに譲位していたので「太上天皇(だいじょうてんのう)」と称するのが正しいが、煩を避けるため、敢えて「聖武天皇」と云っているのだろう。同様に光明皇后は「皇太后」が正しい。
(*2)日曜美術館へも解説者として今年も出演した。
(*3)やはり内藤氏が執筆した図録巻頭の「概説」でも、国家珍宝帳の光明皇后の願文に、聖武天皇の御霊が「花蔵の宝刹」に到ることを宝物献納の目的だったと記されている事に触れている。

今年も会場内はどこも混雑していて、じっくり鑑賞する環境からは程遠かったが、自分なりに正倉院展を味わう事は出来て、来てよかったと思っている。
ホテルへ戻り、ティー・ラウンジでコーヒーを飲み、ショップで買い物をし、タクシーで近鉄奈良駅へ行った。
15時35分発の特急へ乗り込み、京都へ向かった。

2016年7月 6日 (水)

養老孟司講演会

7月4日地元かずさアカデミアホールで養老孟司氏の講演会を聴いた。
演題は「幸せになるための生き方・暮らし方」だが、内容は必ずしもそうではなく、恐らくは養老氏が現在頭に留めているであろうテーマの一つを、メモとかレジュメとか一切用意せずに、時々時計に目をやりつつ1時間半を空で喋り続けた。氏に拠れば最も聴講者が眠たくなる時間帯(午後1時~2時半)だったが、独特の感性、鋭さを感じさせる語り口で最後まで飽きる事はなかった。
主催者が用意したOHPでスクリーンへ投射される養老氏の文字が魅力的だった。
ご自宅の鎌倉から木更津まで電車で来られて所要時間が2時間半で、冗談で京都へ行くのと同じ時間距離だとおっしゃていた。また息子さんが木更津の学校(高校?)でかつて寮生活を送られていたそうで、木更津との意外なご縁を語られていた。
またつい2日前までは台湾で昆虫採集をお一人でされていたとの事で、失礼ながら御年齢を思えば随分活発な日々を送られているなと思った。

この日の養老氏の話は人間の能力について、抽象概念の構築、外界の認識について、動物と対比しながら進められた。
まずはじめに「意識」について話された。
全ての生物に意識は有ると養老氏は考えておられる(確か動物に限定されていた。意識こそ生命活動そのもので、脳は意識の活動を維持するために睡眠を必要としている由。眠るのは魚も同じ。)
アメリカでは20年前に意識学会が創設されているが、日本ではいまだにない。また意識を定義するのはむつかしいそうだ。

意識の活動の一環として認識があるが、ヒトはそれから得たものを抽象化して概念を構築できる。
動物は目の前の現象を知覚するのみで、犬が人の言う事に整合する行動を取るのは、養老氏に言わせると一種の絶対音感で飼い主の言う事を特定の行動へ結びつけているので、言葉を理解しているわけではないのだそうだ(それはそうだろうが、人だって単語の意味を無視して言葉に短絡的に反応する事は結構あるように思うのだが・・・)。ただ養老氏は動物の認識メカニズムへ格別の興味と畏敬の念を持たれているようだった。

また意識に関係するのは大脳皮質で小脳などは全く関与していないそうだ。社会脳、自然脳(とたしか言われていた?)という機能があって、社会脳は管理部門、自然脳はアカデミックな方面という隅分けがあり、例え話としてNASAのチャレンジャー打ち上げ失敗事故を取り上げた。(技術者チームは当日の気候を理由に打ち上げ中止を主張したが、広報チームはそれを無視して強行し事故に至った。氏は詳細な調査文献を読んでおられるようだ。)(*)

(*)自然脳、社会脳からジャン・ジャック・ルソーの自然人、社会人の概念を類推した。ルソーは「社会契約論」で個人と社会の意志が矛盾しない社会、近代民主主義の概念を説き、「エミール」で民主主義社会を構成する人間の自然人、社会人教育を説いた。

概念の抽象化の例として数学を取り上げ、面白い話をされた。
数学を脱落して行く生徒の話。

1.3+3=6   これに疑問を持つ生徒はいない(だろう)。
2.x=3      文字が入ると一部の生徒はついて行けなくなる。
3.a=b、b=a そもそもaはaであり、bではない。なぜ違うbとaが=で結ばれるのか?→ これは立派な一つの見識といえる(がこれで数学と決別するのも・・・)。

3は一種哲学的な疑問ではないかとも思えるが、それに似たような一種の思考実験のエピソードを披露した。

1.「平家物語」で「諸行無常」というが、万物流転といいつつ著作そのものは数百年の風雪を経、内容は変わりなく今に伝えているというのは自己矛盾ではないか。「方丈記」もまた然り。(「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。・・・・世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」と口ずさまれる。)
2.キリスト教の最後の審判で、将来裁かれるのは果たしてどの段階の個人なのか?
養老氏は中高一貫のミッションスクール在学中に疑問を抱かれたそうで、人の一生は0..2mmの受精卵に始まり、幼年期、少年期と成長して行き、青、壮、老年期、果ては臨終の間際に至るが、審判はどの時期が対象となるのだろうかと考えたそうだ。(これも特定の時期というのではなく、一生のすべてが対象だとも考えられるのでは?)

上のエピソードは養老氏の思考のユニークなこと、また常識への懐疑、凡人が何気なく見過ごしてしまう事への問題意識、といった鋭利な科学者の頭脳の一端を感じさせる。

1のエピソードの方はすぐ種明かしをされ、上の理屈は一種の詭弁で、作品は紙なり、電子媒体へ記録される事で-情報化される事で-「不変化」する。作品の主張として万物流転という真理を説いているわけで、矛盾ではない。
(余談で人体を構成する細胞は、約7年で総入れ替えされる。私は生れてこの方11回入れ替わった事になります、と言っておられた。が、永田和弘「タンパク質の一生」(岩波新書。2,013年第9刷P.150)には「一年」で「全細胞の」「九十数パーセントが入れ替わ」るとあり、細胞を構成するタンパク質に至っては「三カ月で・・・ほぼすべて入れ替わる」と書かれている。百パーセントとは言っていないが、永田氏の方を普通に読むと入れ替わるのはおおむね一年となるのだが・・・)

養老氏は東大教授を定年を余してお辞めになられ、確信される人生を歩まれている印象だ。昆虫とか(個人的にはもっと昆虫の話が聞きたかった。)我が道を行かれるご趣味をお持ちだ。本を書けばベストセラーになるし、社会の評価も高い。正にこの日の演題を地で行かれる幸福な生き方・暮らし方をされている。