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2019年12月29日 (日)

「京都・奈良の旅’19」-12(正倉院展)

前日同様徒歩で奈良公園へ向かう。奈良国立博物館を目指す道は人で一杯、そして鹿が可愛い。

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春日大社もそうだったが、ヨーロッパ系の外国人が目立つ。

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会場の西新館と特設テントが見えてくる。左のテントはコインロッカー用。

エントランスにはくす玉がセットされ、1000万人目の正倉院展通算入場者がカウントダウンされていたが、我々の前後はまだ先のようでその場を素通りした。
展示を見終えてロビーへ戻ると読売新聞の特別号外が出ていて、「1000万人突破!」の見出しが躍っていた。

今年は「ご即位記念」と銘打たれ「第71回」を数える。昭和に40回、平成で30回とこれまで70回を数え、令和になって初めての正倉院展である。

東京国立博物館でも「御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」」が10,11月の1ヶ月余開催された。こちらも名品の数々が出展されたが、行かなかった。

令和」は5月1日にスタートしたが、その1月前の4月1日に発表された。出典は「万葉集」で、730(天平2)年正月の太宰府の大伴旅人邸で詠まれた歌の序文だそうだ。日本の古典から採られるのは初めてという。
翌日の朝日新聞によれば、この序文は中国の「文選」もしくは「蘭亭序」を典拠としていて、日本のオリジナルではないことを盾に、そう言っては何だがケチを付けている。
天平2年は聖武天皇在位の時代で、「万葉集」は当時の代表的古典である。当時は政治・文化全般において中国を範としており、いわば本歌取りの元歌が中国で、グローバル化していたわけで、むしろ当時の教養が国際的だったとプラスに捉えるべきだと思う。

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図録表紙を飾るのは「金銀平文琴」(きんぎんひょうもんきん)。文字通り金銀で加えられた装飾にはため息が出るばかり。これが例年のハイライトとなる宝物の展示場所を占めていた。

それに隣り合うコーナーに「鳥毛立女屏風」。第1~6扇。
何年か前にも展示されて、その年は見ていないので残念な思いをしていたリベンジができた。しかも今回のような全点展示は1999(平成11)年以来20年振りのことだそうだ。
中学時代に美術の教科書で見て以来好きな絵画である。当時の先生の言、「引目かぎ鼻、ふっくらとした顔、これが天平美人」が耳に焼き付いている。あと、頭、衣服に鳥の羽毛が貼付けられていた、とも。
図録解説は、描かれている婦人の化粧、容姿から唐代の様式としているが、「買新羅物解(ばいしらぎもつげ)」という文書(*)の反古紙が下貼りされ、羽毛は国産のヤマドリと同定されて、この屏風が日本で製作され、752(天平勝宝4(752)年から同8(756)年の間に成立したものであることが定説だと記している。

(*)752(天平勝宝4)年は東大寺大仏開眼供養会が盛大に挙行され、この年新羅は大交易団を平城京へ派遣し、大仏参拝もした。この際の日本側貴族の文書(=買新羅物解)の反古紙が下貼りされていた。(坂上康俊「平城京の時代」(岩波新書)(A)P.176)

これを見ることが出来ただけで今回来た甲斐があったと思っている。

例年聖語蔵(しょうごぞう)から出陳される経巻を見ることも楽しみになっている。今回は唐経、光明皇后御願経(ごがんきょう)から1巻ずつの出陳。
天平12(740)年5月1日付けの願文が付されているので、「五月一日経」とも称される。
今回で正倉院展は9回目になるが、先日それら過去の図録を見ていて気付いたが、光明皇后御願経は毎回出陳されている。
上掲書(A)によれば、「五月一日経」は一切経の写経の嚆矢で、その後のスタンダードとなった。(P.164)
またこのようにも、「千載の後に天平の・・・意匠を残し得たのも、光明皇后の点睛、すなわち聖武天皇の七七忌にあたっての、聖武遺愛の品々の東大寺正倉院・・への献納によると言うべきであろう。」(P.177)

地下のミュージアムショップで図録と「歴史探訪に便利な 日本史小典」(日正社)をGET。後者は手帳サイズで面白そうだったので。

奈良ホテルへ戻ると丁度無料送迎バスが出発するところ(16:45)だったので乗車。
17時30分発の近鉄京都行き特急へ間に合う。
京都駅新幹線構内で駅弁と千枚漬けと赤福GET。
18時48分京都発のぞみ138号6号車。

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「東海道新幹線弁当」

21時30分東京発さざなみ9号  22時32分木更津着。
(終わり)

「京都・奈良の旅’19」-11(奈良ホテル)

フロントでチェックインし、女性スタッフの案内で新館客室へ向かう。3011号室だ。
新館は低い土地に建っているので、本館のBFが3階にあたる。東西に延びた東の端なのでエレベーターから結構な距離だ。部屋の扉を見ると「Royal Suite」とある。

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ゆったりしたスペース、調度品も立派でピンクの絨毯も濃淡のグラデーションが気分を華やがせると共に寛ぎをも与えてくれる。

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安眠を約束してくれるようなゆったりしたベッド。

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UCCのコーヒー・紅茶メーカーが嬉しい。空気清浄機も備え付けられていた。

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洗面スペースは独立している。バス、トイレは反対側。
水回りの使い勝手の今一つなのが奈良ホテルの難点である。

入口扉の室内側に避難誘導経路図があって、この部屋の区画はスタンダードルームの3区画分になっている。
我々は無論スイートで予約を取っていないので隣接するスペースへの扉は施錠されていた。

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奈良ホテルは今年創業110周年を迎え、同じ1909(明治42)年創業の牛乳石鹸との記念コラボで石鹸の赤箱が部屋に置かれていた。

夕食は金剛の間のブッフェ。メインダイニングの「三笠」が耐震工事中ということで、期間中は朝、夕とも洋食はブッフェで通すようである。2部入替え制で我々は19時30分からだったので、しばし部屋で寛いだ。

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仔羊背肉のロースト香草風味

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国産ヘレステーキ

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スペイン産生ハムとパン

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サラダ

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魚介と秋野菜のアヒージョ

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ポタージュスープ

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左から時計回りに、フランス産フォアグラソテーとリンゴソテーバルサミコソース、海老と貝柱のペンネグラタン、鶏腿肉と栗、茸のバロティーヌ

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ビーフカレー

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アイスクリーム

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デザート

明けて11月1日。旅行最終日である。早朝は寒かったが、快晴となる。

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昨晩入室時は見えなかった窓外の紅葉が嬉しい。

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紅葉はまだ始まったばかりのようで色は薄めだ。
鳥の声がかまびすしい。木立に目をやると、部屋から遠くない処に一羽いた。

奈良新聞は沖縄首里城の火災を一面トップにしていた。今回燃えた建物は復元施設で世界遺産に入っていないが、奈良の方は、東大寺、興福寺を始め、多数の建物が構成資産なので他人事でなく、奈良市消防局が緊急の査察を行ったという記事もあった。
「文化」欄には「応仁の乱と大和/茶の湯と奈良」という歴史論文が。尋尊、経覚の名や応仁の乱への奈良の関わりがテーマだが、本ブログ第9回に記したように旅行から帰ってから読んだ呉座勇一の「応仁の乱」で奈良(興福寺)への認識が決定的に変わった、今思えばその契機となった旅行だった。
あと前日(10月31日)付けの方には、「明風清音」、「雑記帳」というコラムが。前者は鉄田憲男という人のコラム、後の方は読者投稿で、共に志賀直哉旧居のサンルームのテーブルに置かれていた資料で、妻がコピーを取っていた。
旧居でのコピーの「明風清音」は「志賀直哉の奈良愛」で志賀が奈良を去る直前に書いた「奈良」というエッセイに材を求めたもの。
また「雑記帳」は、旧居の受付をしていた女性の投稿で、旧居の庭の植物について「万葉集」へ詠まれているもの、歌人(藤原定家)に因む名を有つもの、「無患子(むくろじ)」という変わった名の実について、その名の意味、様々な知識を興味深く記した文章を7~8年来に亘り掲載されているもの。

8時30分朝食へ。

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左からベーコン、フレンチトースト、ハッシュポテト、ソーセージ、スクランブルエッグ

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サラダ、ポテトサラダ、ぶどう。マンゴージュース

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パン、牛乳

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わらび餅

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コーヒー

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コーヒーのお替わり、アップルデニッシュ。

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レイトチェックアウトなので、部屋でもコーヒーを味わうことができた。
(続く)

2019年12月23日 (月)

「京都・奈良の旅’19」-10(志賀直哉旧居)

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道標から分岐する坂道。新たな道標があり、この道が「下の禰宜道(しものねぎみち)」だと分かる。「ささやきの小径」とも言うらしく、鬱蒼とした森を抜ける坂道だ。

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程なく「志賀直哉旧居」へたどり着く。周囲は古めいた土塀が連なり、歴史を感じさせる閑静な住宅地だ。
北向きの表門をくぐり、玄関から入り、階段の隣の受付で料金を払う。

小林秀雄が滞在していたという「江戸三」の「縁由の間」を2年前に見たが、小林を奈良へ呼んだのが志賀直哉だったようだ。(リンク→2017年11月30日 )小林の奈良滞在は昭和3年初夏から約1年とのことなので(*)、志賀の高畑邸宅が建設中の頃に相当するわけだ。

(*)2017年7月27日付朝日新聞夕刊「都ものがたり」による。今般旧居でGETした「志賀直哉旧居の復元」(呉谷充利編著)(A)の年譜では昭和3年5月~4年3月までとあり、志賀邸の完成直前に奈良を去ったようだ。

年譜を見ると谷崎潤一郎ほどではないが、生涯を通じて転居を繰り返していることが分かる。
1912(大正元)年に尾道で「暗夜行路」の原形「時任謙作」の執筆を開始させている(29才)。この旧居もかつて訪れたことがある。
その後、松江(この時、大山登山)、京都(結婚)、群馬県赤城山、千葉県我孫子(「暗夜行路」の大半を執筆)そして1925(大正14)年から奈良へ移り(42才)、この高畑自邸は1929(昭和4)年4月から1938(昭和13)年4月までの9年間(「暗夜行路」完成(54才))を送り(46~55才)、その後東京、熱海、そして東京渋谷というように目まぐるしい。
熱海へ転居した1948(昭和23)年、今は博物館となっている当時旅館だった熱海の「起雲閣」で撮影した谷崎潤一郎、山本有三との写真を見たことがある。(リンク→2016年6月12日
志賀の熱海時代は谷崎と同時期でもあり、谷崎は奈良の志賀邸を訪問もしているようで、生涯を通じて交流があったようだ。谷崎著「文章読本」が、模範例として志賀「城之崎にて」の文章を引用しているのが印象的である。

上の(A)の弦巻克二という人の文章に、志賀の奈良への転居理由への言及があって、妻君の妊娠に伴い当時の京都の住居が手狭になってきたことと、奈良在住の友人からの誘いの声(その中に菅原明朗の名があったのは意外だった(*))が契機となったということのようだが、志賀が追求した「自然と人間との調和」、その模索の過程で京都、奈良での東洋美術体験が大きく影響していたという背景へも触れている。

(*)永井荷風作「葛飾情話」の作曲者として記憶していた。上演された1938(昭和13)年は奇しくも志賀が奈良から東京へ転居した年である。

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狭い階段を上がる。2階は2間のみ。
これは書斎。南向きの部屋だ。昭和12年3月にこの部屋で「暗夜行路」の最終章結びの大山の夜明けが書かれ、作品が完結した記念すべき場所。

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書斎の隣の客間。床の間の観音像の写真は、谷崎潤一郎から贈られ、当時はここに置かれていたようである。本旧居の見学者のコメントにより現在は早稲田大学会津八一記念館にあるとのこと。

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1階の書斎。(A)に志賀の「私の書斎」からの引用がある。(P.30)若い頃は気が散らない北向きがよかったが、年を取り寒さが苦手となって夏以外はもっぱら2階を使ったようである。

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1階の書斎隣の茶室。

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サンルーム。南は大きな板ガラスで存分に採光し、さらに天井中央は大きなトップライトとなっている。奈良学園のパンフレットに床材として特注の瓦(塼(せん))が敷かれている、とある。中国古代に生れ漢代に発達、日本へは飛鳥、奈良時代に伝来した煉瓦、タイルの一種の由。熱海のMOA美術館で「空心塼」を見たことがある。(リンク→2017年6月10日

閉館の午後5時ぎりぎりまでの1時間余滞在し、静かな落ち着いた雰囲気に浸り、心が浄化された。「暗夜行路」は青春期に読んだが、筋は覚えていない。これを機に再読してみようと思った。

奈良ホテルへは最短(と思われる)ルートで戻った。旧居前の道を西下、県営高畑駐車場前の道路を横断して裏道に入り、奈良町天神社、瑜伽(ゆうが)神社前を時間がなかったので素通りし、R169に面した奈良ホテルの坂道前にたどり着いた。

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(続く)

2019年12月17日 (火)

「京都・奈良の旅’19」-9(春日大社)

奈良ホテルは、京都で言えば吉田山のような平地の中にそこだけ出っ張った丘の上に立地していて、旧大乗院庭園(リンク→2018年12月18日 )を右に見ながら坂を下りてR169の歩道を北上する。

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途上荒池越しに見た興福寺五重塔。

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そして春日大社一の鳥居へ到達。この鳥居は平安初期の創建とのこと。重要文化財である。
いつもは通過地点だが、この日は春日大社が目的地だ。

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直線の広い参道。しばらく歩いて行き当たる案内板によれば本殿まで1.1km。結構な距離だ。

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二之鳥居。

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大宮の南門。

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中央ひときわ高いのが中門、その脇の右が東御廊(おろう)、左が西御廊。
説明看板によると、御廊はかつて社僧の読経所だった。

神社で社僧とは妙な用語だが、中世の春日大社は興福寺と一体の存在だったそうで(*)、それを踏まえれば異和感も大分和らぐ。

(*)呉座勇一「応仁の乱」(中公新書)(A)
 因みにこの書によると、奈良ホテルの丘を鬼薗山(きおんやま)という(いっていた?)そうだ。(P.55)

左の大木は本社大杉(ほんしゃおおすぎ)。鎌倉後期(1309)の絵巻「春日権現験記」に描かれているようだ。(説明看板による)
中門から御祭神の武甕槌命(たけみかづちのもこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめかみ)の四神に参拝する。
鹿島神宮、香取神宮からそれぞれ一神、枚岡神社から二神(比売神は天児屋根命の配偶神)を祀った。
皆藤原氏の氏神である。
興福寺も藤原不比等が平城京遷都の際に建立した藤原氏の氏寺である。(A)

また(A)によれば、平安末期の興福寺は百を超える院坊(いんぼう:塔頭のようなもの)があって、その中で摂関家子弟が門主(もんす)となる一乗院、大乗院が門跡(もんぜき)でその頂点に立っていた。
大乗院の門主だった経覚(きょうがく)の「経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)」、尋尊(じんそん)の「大乗院寺社雑事記(ぞうじき)」という同時代人の日記を通して応仁の乱へアプローチしたのが(A)である。

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御蓋山(みかさやま)浮雲峰遙拝所。ここは3年前から一般に公開しているとのこと。浮雲峰、本殿、平城宮大極殿を結ぶ線上に位置している。

春日大社は四神を祀る「大宮」をはじめとして、15社を擁する「若宮」、9社から成る水谷九社で構成される、雑然としていて、活気と生命力に満ちたダイナミックなパワースポットだと思った。お詣りしている内にくよくよした気分はどこかへ吹っ飛んでしまうたくましさを感じた。

西側の慶賀門から出て、北側の階段を下りて国宝殿脇から二之鳥居前へ戻って、車舎(くるまや)脇の道へ折れた。

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程なく右へ下る道に遭遇、「志賀直哉旧居」の道標があった。
(続く)

2019年12月12日 (木)

「京都・奈良の旅’19」-8(ホテルヴィスキオ京都)

ホテルグランヴィア京都のベルデスクで荷物を引き取り、今夜の宿泊地「ホテルヴィスキオ京都」へ向かう。今年5月にオープンしたばかりのホテルグランヴィア京都の姉妹ホテルで、サービスの合理化を図って価格へ反映させている。

先ずチェックインで驚かされた。フロントの女性からの簡略な説明に従い、自動チェックイン機(今回が初体験)で手続き後、すぐ脇にあるコーナーで歯ブラシ、ひげそり等のアメニティ、ドリップコーヒー等の飲み物をチョイスして、部屋へ。スタッフの付き添いはなし。ドリップコーヒーはグランヴィア京都の客室にあったものと同じ小川珈琲なのもvery good。

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9階建てで、我々は4F。スーペリアツインルーム(28.8m2)で、洗面、バスはGood、空気清浄機もあった。
このホテルの売りは2Fの大浴場だが、部屋が居心地良く、客室バスも快適そうだったので、行くのが面倒になってしまい、大浴場へは行かなかった。

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窓際のテーブルセット。窓外は中庭。

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各Fエレベーターホールに製氷機があり、Good。

一夜明けて10月31日(木)。旅行3日目だ。

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9時過ぎに1Fレストランへ。

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ビュッフェは充実している。

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上は和食コーナー。

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洋食メニューをいただいた。グランヴィア京都の姉妹ホテルだけあって、ベーコン、ソーセージはグランヴィア‘Le Temps’に遜色なし。

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食事中は気付かなかったが、改めて写真を見ると随分食が細くなったことがわかる。

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営業時間の10時ぎりぎりまでレストランにいた。(^^;
レストランを出るとゲストラウンジがあり、どんな感じなのか入ってみた。

図書のラックがあって、英文のものが目に付く。外国人を意識した構成なのが分かる。
大英博物館の北斎展の図録もあった。

チェックアウトは11時だが、JRホテルメンバーズは12時まで居られる。
午後は奈良へ移動するので、改めてスケジュールのチェックをしつつ、部屋でくつろぐ。
目の前が京都駅という知の利もあってGood。
12時少し前にホテルを出て近鉄京都駅へ向かった。
12時20分発の近鉄奈良行き特急に乗る。
12時55分近鉄奈良着。タクシーで奈良ホテルへ。
荷物を預け、徒歩で春日大社へ向かった。
(続く)

2019年12月 9日 (月)

「京都・奈良の旅’19」-7

予定通り午後3時に修学院離宮の参観を終え、叡山電鉄で修学院駅から終点の出町柳駅まで行く。この日は「田辺宗」という漬け物店に夕食を予約していて、時間に余裕があるので、下鴨神社方向へ行ってみた。

地図(*)を見ると、賀茂川と高野川が合流して鴨川となるデルタ地帯に立地している。

(*)「サライ」平成20年18号の付録。大変goodで、近年は携行している。

高野川に架かる河合橋を渡ってデルタへ入るも、足が言うことを聞いてくれない。
今度の旅行は連日よく歩き、初日に14,600歩、この日の最終数値が13,300歩で、この時はまだ1万は行っていない筈だが、日頃の運動不足がたたり、夫婦共々足が悲鳴を上げていた。
それに加えて一の鳥居近くの下鴨神社案内MAPのデフォルメがすごくて、Google-Mapで見ると河合神社は河合橋から下鴨神社のほぼ中間地点にあるが、案内MAPでは参道の1/5にも満たない。これに誤魔化されてしまい、河合神社を参観するに留めた。

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一の鳥居を抜け、御蔭通りとの交差点へ向かう。

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御蔭通りを横断するといよいよ糺(ただす)の森、下鴨神社の神域へ入る。参道脇に世界文化遺産登録記念碑があった。
直近の場所に「無社殿神地 唐崎社紅葉橋遙拝所(からさきのやしろもみじばしようはいしょ)」の由緒書きが立っていて、興味深いことが書かれている。
要約すると、平安初期の「三代実録」に「鴨川の辛(唐)橋」の記事があり、平安後期の「左経記」、「中有記」は唐崎社が解除(げじょ:お祓い)の神社だったこと、「山槐記(さんかいき)」には社殿構成が記され、そして室町期の公家の日記「親長卿記」等に、1470(文明2)年に応仁・文明の乱により焼失したとある由。
江戸期に井上社(御手洗社)と合祭になり、1871(明治4)年の上知令で社領没収となった。
以降、紅葉橋から旧唐崎社を遙拝するようになって、34回式年遷宮記念事業として遙拝所の復旧整備を行った由。

下鴨神社ホームページの「宮司の挨拶(ブログ)」H30-7-19(234)「御手洗社」に、大阪府高槻市の三島鴨神社と枚方市の加茂建豆美命神社について、「鴨川の下流、淀川の右岸に三島鴨神社境内に唐崎社がお祀りされています。淀川の左岸に加茂建豆美命神社境内に御手洗社がまつられています。」とあって、水系をたどってみると鴨川は桂川と合流し、山崎辺りで更に宇治川、木津川と合流して淀川となっている。この連携は実にダイナミックだ。
因みに山崎辺の淀川を舞台として谷崎潤一郎の「蘆刈」が書かれた。(リンク:2016.6/21)
淀河畔の二社に下鴨神社ゆかりの社(唐崎社、御手洗社)が在るという事に悠久さを感じた。
「現在の紅葉橋遙拝所は、元出町橋東詰め(現在・鴨川公園)に祀られていたお社を遙拝するところです。」
ともあって、唐崎社の所在場所を示している。紅葉橋は参道から河合神社へ分岐してすぐ、瀬見の小川に架かる橋である。

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河合神社。祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、神武天皇の御母神。1887(明治10)年に下鴨神社の第一摂社となった。「方丈記」の鴨長明はこの河合神社の神職の家系の人だそうだ。
境内の一角に「方丈」の復元建築がある。

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鴨長明の方丈。

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拝殿。

御蔭通りを西下、賀茂川へ架かる葵橋を渡る。

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橋を渡れば、通りの名は河原町通りとなる。
最初とその次の信号の中間地点に田辺宗はあった。
集合ビルの1階、2階の一角を占めて、2階が「葵匠」というダイニング・スペースになっている。

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お弁当。左手前から時計回りに。漬物寿司(左手前人参、大根、後ろ左から奈良漬け、ミニコーン、カボチャ)
赤だし味噌汁(若布、麩、小葱)、湯葉(味噌だれ)、右の箱手前から、天ぷら(茄子、キス、ししとう、しめじ、人参、サツマイモ)、銀ダラ西京焼き、酢はす、チーズ味噌漬け、甘海老お造り、鰹節出汁殻煮、もずく、トマトの漬物
デザート(黄粉わらび餅)

1階が売り場で千枚漬けを買いたかったのだが、材料の京都産聖護院かぶらの収穫がまだ先でこの時は店頭になかった。他店は北海道産を使用しているのだそうだ。
道路の反対側にバス停(葵橋西詰)があり、京都駅まで直通の205系統に乗った。
バス内でも観光とおぼしい外国人が多かった。

京都駅に到着し、ホテルグランヴィア京都で預けた荷物を引き取り、八条口のこの日宿泊するホテルヴィスキア京都へ向かった。
(続く)

2019年11月28日 (木)

「京都・奈良の旅’19」-6(修学院離宮その2)

修学院離宮のハイライトというべき上離宮である。

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上は御成門。
ここを入って石段を上がって行く。いきなり上離宮のハイライト「隣雲亭(りんうんてい)」だ。

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「隣雲亭」から浴龍池を望む。池に出ている島は万松塢(ばんしょうう)。左の直線部分が西浜。この部分は堰堤で、石垣を築いて土留めしている由。北を見ていて、遠方に霞む山稜は鞍馬山方面だろう。

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雄滝。隣雲亭を反対側に下りきった辺りにある。
落差6mだそうで、雄壮。

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千歳橋。窮邃亭(きゅうすいてい)がある中島と万松塢を結ぶ。石積みのの橋台が目立つ特異な形状をしている。

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楓橋(かえでばし)。紅葉はまだ先のようである。先に見えているのが窮邃亭。

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窮邃亭の内部。一間のみで、上は上段を見ている。

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土橋。中島と北岸に架けられている。

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土橋を渡った北岸から見た浴龍池。右の屋根組みは「御舟宿(おふなやどり)」。

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御舟宿から進んで、西浜の起点辺りからの浴龍池。右が千歳橋、左は土橋。

広範にわたり、移動時間も取られ、限られた参観時間では説明も簡略化されざるを得ない。昨年の桂離宮はその点、行き届いた説明だったことを思い出した。

我々の回は日本人のみだったが、ゲストハウスで次の参観者と顔を合わせたが、外国人が多かった。隣り合わせたので、声を掛けてみた。会話は英語で行った。相手は男性でドイツのフランクフルト・アム・マイン在住。音楽が趣味でドイツ音楽が好きだと言うと、誰が好みかというので、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスと答えた。モーツァルトは?というので、勿論好きだと言った。ドイツを旅したことはあるかと問われ、ないと言うと是非行って下さい、と勧められた。
する内、後発グループの出発時間が来て、「Have a nice TRIP!!」と別れを告げた。

永年の念願だった桂離宮、修学院離宮を2年越しで参観することができ、充実感、達成感を得られ、満足している。
(続く)

2019年11月25日 (月)

「京都・奈良の旅’19」-5(修学院離宮その1)

地下鉄烏丸線で終点「国際会館」まで行き、市バスに乗り換えて「修学院離宮道」下車、そこから徒歩10分強で参観入口となっている表総門へ到着した。午後1時前だが既に受付を待つ参観者が10数名門前に据えられた椅子を占めていた。
昨年に行った桂離宮(リンク→2018年12月10日 ) は、我々が参観した直後から有料化されたが、修学院離宮の方は無料である。
ゲストハウスは桂離宮より大分手狭で粗末だ。ここで離宮の概要をビデオで見てから、ガイドの引率で参観が始まった。

修学院離宮は後水尾天皇の晩年、上皇時代の築造になる別荘である。
桂離宮との関係性も深い物があるので、覚え書き風に年代を整理してみる。

1611~29 後水尾天皇(後陽成天皇第3皇子)
1615   ・桂離宮古書院造立(八条宮智仁(としひと)親王(後陽成天皇の弟)
      ・幕府「禁中並公家諸法度」(禁中=皇室)
1620   東福門院和子入内(2代将軍秀忠の娘、後水尾天皇の正室)
1641   桂離宮中書院増築(八条宮智忠(としただ)親王)
1655~9   修学院離宮造営(後水尾上皇)
1658   後水尾上皇桂離宮行幸(お忍び)
1662   桂離宮新御殿、楽器の間増築(八条宮智忠親王)
1663   ・後水尾上皇桂離宮行幸(春、秋。八条宮穏仁(やすひと)親王=後水尾上皇第十一皇子)
      ・   〃   修学院離宮で八条宮智忠、穏仁親王をお振舞
1668   「楽只軒(らくしけん)」が朱宮(あけのみや=後水尾上皇の第八皇女光子内親王)御所として建てられる。     
1680    8月後水尾上皇崩御。
       10月朱宮、林丘寺門跡となる。

1885(明治18) 林丘寺から寺域の半分が宮内省へ返還され、中(なか)離宮となる。

年表で分かるとおり、後水尾天皇は江戸時代最初期の在位で、譲位後も上皇として明正(めいしょう)、後光明、後西(ごさい)、霊元の4代の天皇(何れも実子)の時期に仙洞御所で院政を行った。

また今回の旅(その1)で記した白川橋道標の建立は、1678(延宝6)年と霊元天皇の御代で後水尾上皇も存命中のことだ。この年は東福門院和子の崩御の年でもある。

修学院離宮は、上(かみ)、中(なか)、下(しも)の各離宮が連絡路である松並木で繋がるという、ある意味特殊な構成と言える。実際玉砂利を敷き詰めた松並木は足を取られやすく、距離も結構あるので、歩きながら目に入る田園風景は捨てがたい魅力があるにしても、少々身体への負担を感じた。

先ず下離宮から参観した。各離宮の入口には門があって、その前は広場がある。
広場でガイドは参観者の人数確認を取ってから引率をスタートさせていた。
下離宮の入口は御幸門で、入ってすぐ中門を抜けると「御輿寄(おこしよせ)」が見えてくる。

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上は御輿寄。それを左にして進めば庭園(苑池(えんち))が見えてくる。正面の石段の先に見える屋根は「寿月観(じゅげつかん)」。

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寿月観。後水尾上皇の行幸の際の御座所。扁額は上皇の宸筆(しんぴつ)。命名も上皇の由。

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寿月観一の間。上段の脇に飾り棚と床の間がある。

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白糸の滝。落ちる水が幾筋かに分かれ、上に置かれた石が富士を模していることから命名されたらしいが、後世に手を加えたものの由。水源は上離宮の浴龍池(よくりゅうち)で、松並木沿いに水路を設けている。下離宮の苑池へ流れている。

石段を上がったところに東門があり、これが下離宮の出口。下離宮自体高低があるが、上離宮は遙かに高い位置にあって、下離宮との高低差は40mだそうだ。

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上は上、中離宮への分岐点。のどかな田園風景。山並みは比叡山。
進路を右に、中離宮を目指す。松並木はおよそ250m位か?参観者の歩行ペースがまちまちなので、長い列ができた。中離宮表門前で、人数確認をして入る。石段を上りきって、中門への新たな石段の反対側に林丘寺旧表総門があった。苑池を通って「客殿」から参観した。

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「客殿」は東福門院の女院御所の奥対面所で、没後こちらへ移築された由。

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一の間西の畳縁突き当たりの杉戸の祇園祭の山鉾。右が放下(ほうか)鉾、左が岩戸山とのこと。

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一の間の霞棚。左は床の間。壁の意匠は襖と同じ。

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「楽只軒(らくしけん)」一の間のふすま絵。狩野探信の吉野山の桜。

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「楽只軒」一の間の扁額と二の間。写真に見えるのはふすま絵ではないようだが、やはり探信か?
扁額はこれも後水尾上皇の宸筆。
(続く)

2019年11月22日 (金)

「京都・奈良の旅’19」-4(ホテルグランヴィア京都)

初日の宿泊はホテルグランヴィア京都。北ウイングの部屋は今回が初めてである。
11Fで京都タワービュー、スーペリアツイン(34m2)のリニューアルルーム。機能的でスペース的にもゆったりしていて快適である。

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窓から京都タワーが目の前に見えて、ライトアップが美しい。(深夜零時まで)

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ソファコーナー

新聞のサービスがあり、いつも京都新聞にしている。この日夕刊と翌日の朝刊共にトップニュースは緒方貞子さんの死去のニュースだった。

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一夜明けて朝の京都タワー。

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駅前のバスターミナル。

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東山方面。霊山観音(りょうぜんかんのん)、八坂の塔(法観寺)が見える。

朝食は「浮橋」で。今年8月にリニューアルオープンしている。我々は「おくの間」の窓際のテーブル。
ここの「京の朝ごはん」は本当に美味しい。

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抹茶ジュース。祇園辻利の抹茶を使用。豆乳、はちみつを加えている。

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手前左から、御飯(妻はお粥)京の老舗「八代目儀兵衛」の米を使用、味噌汁(ナメコ、若布、小葱)、ちりめん山椒とはりはり大根、出汁巻玉子と花ハス、大根おろし、焼魚(鮭)、漬物(柴漬け、大根、すぐき、牛蒡、ぎおん川勝)、小松菜、湯葉、ゴマ麩、じゃが芋まんじゅう、味付け海苔。


二日目は午後1時30分から修学院離宮の参観である。
移動に小1時間かかるが、時間に余裕があるので朝食後はチェックアウトを先に済ませて部屋へ戻りゆっくりした。

11時45分頃荷物をベルデスクへ預け、出発。
地下街「ポルタ}へ降り、地下鉄改札口近くの「小川珈琲」で豆をGET。豆は「オリジナルブレンド」で100g2パックにしてくれた。あとドリップバッグで「スペシャルティコーヒーブレンド」と「オーガニックハウスブレンド」各7ヶ入りを1パックずつ。
ホテルグランヴィア京都客室でサービスとして小川珈琲のドリップバッグが提供されており、それがよかったのでフロントで直近の店舗の所在を聴いた次第。

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真ん中がホテルグランヴィア京都の部屋のドリップバッグで店舗では販売されていない。

(続く)

2019年11月19日 (火)

「京都・奈良の旅’19」-3(美濃吉本店竹茂楼)

美濃吉本店竹茂楼を目指す。
白川沿いに歩き、三条通へ出て東へ向かいすぐ、路地へ入り込む。金剛院の前を通って三条北裏通りを歩き神宮道へぶつかり、目の前には阿含宗関西本部が見えている。神宮道沿いのショップで道順を教えてもらい、阿含宗本部北沿いの道を東進、美濃吉本社前を過ぎ、ぶつかった岡崎通りの角が竹茂楼だった。
地図で見ると3年前に行った瓢亭(ひょうてい)と至近にある。(リンク→2016年12月14日

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竹茂楼入口。
サービスしてくれた仲居さんによると、現在の建物は建築して27年になるそうで、それを期に「竹茂楼」と命名した由。創業者一族の姓「佐竹」に因んで、明治期の貴族院議員巌谷一六が「竹茂楼」と揮毫した書によっているのだそうだ。

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室内。床の間を入れて十畳(だと思う)。

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床柱へ活けられた花。桔梗ほか秋の七草。大女将によるそうで、草月流とのこと。ご本人も活花同様キリッとした印象だった。

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庭。竹のライトアップが鮮やか。

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梅昆布茶、左は竹茂楼特製の膝掛け

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先付け:左から銀杏味噌和え(左上の笹が乗った竹かごに入って出された)、烏賊のこの綿、その上に烏賊の細切り、そのまた上セロリの極細切り、食前酒「國生みの雫」淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮に因む純米酒(大女将の出身が淡路

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先付け2:くみ湯葉の上に秋茄子、針万願寺、生姜あん

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碗物:名残鱧の葛打ち、松茸、柚子(松葉切り)、ほうれん草の軸

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向こう付け:戻り鰹、炙り鰆(お造りの下に山芋の拍子切り)、浜ぼうふう、塩、土佐醤油
ここで大女将が登場。年の頃還暦前後くらいだろうか?

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赤飯、醤油いくら乗せ(我々の結婚記念の晩餐への心づくし)大変結構な味だった。

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焼物:子持ち鮎塩焼き2尾、かぼす、木胡椒(きごしょう=葉唐辛子佃煮)

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進肴(すすめざかな):味わいしゃぶ(京都産松茸、黒毛和牛、小かぶら、淡路島産玉葱、小松菜、刻み葱、酢立)

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進肴を板前さんが目の前で調理。

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強肴(しいざかな):天ぷら(海老芋芥子の実揚、栗、蓮根煎餅、隠元、赤万願寺、塩
ここで若女将が登場。若女将は二人だそうで、この時の若女将は次男(竹茂楼の料理長)の奥さんだそうだ。

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御飯:こしひかり、名物鰻かば焼(山椒の実の佃煮乗せ)
香の物:大根、水菜、奈良漬
ほうじ茶

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水物:梨、柿、ぶどう(巨峰)、ザクロの実、ジュレ

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水物2:ぜんざい、珈琲アイス乗せ(コーヒーの香りが濃厚に染み込んだオリジナルのアイスクリーム)

最後に煎茶。

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帰り際にお土産が出た。
純米酒「國生みの雫」(大女将の出身地淡路島の銘酒。食前酒で振る舞われた。)、瓦煎餅(神戸の亀の井亀井堂本家。煎餅は「竹茂楼」の焼き印入り。旅行から帰ってからいただいたが、中々の味だ。)
(続く)

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