読書

2020年4月22日 (水)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-4(最終回)

ギー兄さんの説教」に関して

次にこの小説の主人公であるギー兄さんの説教について概観してみたい。
ギー兄さんは素朴で、飾らない、世間ズレしていない人物で、小野正嗣は「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャを想起している。(*)

(*)小野正嗣「100分de名著 燃えあがる緑の木」(2019年9月)p.104

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1.ギー兄さんサッチャンが始めた「燃えあがる緑の木」の教会は会員も増え、徐々に発展して行く。
そして小説でギー兄さんの説教が最初に出て来るのが、完成した礼拝堂での総領事の葬儀である。(第2部第6章)
ここでギー兄さんは「死者と共に生きよ」というスローガンを掲げる。
そして四国の山間の土地の先人達を振り返る。
いわく総領事、いわくカジオーバー、そして土地の神話の「壊す人」、創建者たちそれからさきのギー兄さん
オーバーから土地の神話と歴史を受け継いで、神話の「壊す人」と創建者たちが築いた「死人の道」を死んだ人たちが行ったり来たりして、死者と共に生きる共同体として現在に至っている。さきのギー兄さんは森へ入る道と谷間に降りる道について、つねに浄化の方向へとめぐる、通るべき道筋の規則を作った。

死者と共に生きよ」、味わい深い言葉である。私は「100分de名著」で中島岳志が書いていることを思い出した。(*2)。オルテガというスペインの哲学者の「大衆の反逆」を取り上げ、テキストの第3回で「死者の民主主義」について示唆に富んだ解説をしている。

(*2)中島岳志「100分de名著 大衆の反逆」(2019年2月)

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無理矢理それを圧縮すると、「オルテガの言う「生きている死者」と共に歩むというのは、過去の教訓を尊重することであり、過去や死者を忘れると、未来と繋がることができなくなる。」「生きている死者」から過去の経験、「歴史を知る」ことで、文明の進歩、未来の発展へ繋げることが出来る」となると思う。
2011年の東日本大震災の際、中島は地方紙へ「死者と共に生きる」(*3)という文章を書いたという。この時彼はオルテガを思いながら書いたそうだ。

(*3)未見。是非読んでみたいと思っている。
 
過去の経験知をリスペクトして、謙虚さを忘れず、傲慢な横暴を厳に戒める、そういう姿勢を中島は繰り返しここで説いている。

2.12月最初の週末、11月第1日曜の総領事の葬儀へK伯父さんの友人泉さんが招んだ世界的黒人歌手のアイリーンから届いたマーラーの「交響曲第3番」の録音テープを礼拝堂で聴いている際に、合唱が入る第5楽章の途中でギー兄さんは外に出てしまう。この頃のギー兄さんは不可解な挙動が多くなっていた。
そして「森の会」から今後の教会の展望について話すよう要望され、当日説教台に向かう途中、ギー兄さんは突然頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。
不意の出来事に静まり返る中で、亀井さんが立ち上がり、ルカ伝終わりの部分の「我らの心、内に燃えしならずや」とつぶやく。
無様なギー兄さんを目の当たりにし、「Rejoice!」の合唱の中サッチャンは礼拝堂を飛び出し教会を去る。
そしてK伯父さんの伊豆の別荘で退廃的な日々を送る中で、ギー兄さんが襲撃されたことを知る。
ギー兄さんは松山市の医療センターの駐車場で学生時代の過激派グループのメンバーに襲われ、両膝を叩き潰されて車椅子を使うようになっていた。またその時の頭部への打撃により、てんかんの症状も出るようになっていた。
サッチャンは教会へ帰り、ギー兄さんの車椅子の介助をすることになる。

3.やがて不識寺の松男さんをリーダーとする巡礼団が伝道の旅に出て、その第1報を会員へ披露した後、ギー兄さんは礼拝堂で説教する。
ギー兄さんは先ず、車椅子を使うようになった代償に、それなしには乗り越えられなかったものを乗り越えたことを語り、襲撃を受けながら過去のこと―テン窪での糾弾のこと―と、未来にもう一度同じ経験をするという予感を同時に感じていたことを語る。
つぎに「繋ぐ」ことで「救い主」へ至る一筋のタテの流れについて・・・さきのギー兄さんは殺されてしまうが、それに続く者として現在は自分=ギー兄さんがいて、その次に来る者、さらにその次、と続いて遂には「救い主」に至る、という考えを述べる。
説教を終えてしばらくしてギー兄さんは軽いてんかん発作を起こす。

4.巡礼団は紀州、名古屋、福井県若狭湾を巡り、その公式報告が礼拝堂とその隣に建てたテントの両方を使った集会(拡大集会)で行われ、それに続いてギー兄さんの説教があった。
未来への責任」ともいうべき内容で、ジョージ・ケナンの言葉を引用する。「文明は我々の世代のみの所有ではなく、後の世代へと慈しみ、発展・改良させて引き継いで行くべきものであり、それを毀損することは神を侮蔑することである。
これもまた1で触れた中島岳志が説くオルテガの「生きている死者」に通ずるものがある。

5.そしてギー兄さんが襲撃された松山市の病院の駐車場での一般向けの集会での説教。
ギー兄さんの発心、「人間を傷つけることをしないで生きよう。
襲撃を受けながらギー兄さんは「人間は他の人間を傷つけるものだ」と考えていた。ダンテ「神曲」地獄篇(*4)から「思えば」、それは「人間は人間を傷つける」と一般化できる。それを踏まえての決意。

(*4)「残忍なる魂己を身よりひき放ちて去ることあれば」第13歌94~5行。96行には「ミノスがそれを第7圏へ送ります。」(野上素一訳)とある。第7圏第2環は自分に対する暴力者、すなわち自殺者がいる。

そしてギー兄さんは、以下の語の語原について述べる。
イノセンス(無垢) ← noceo(傷つける)という意味のラテン語 + in(否定の接頭辞)
アヒンサ(サンスクリットの教えの根源) ← 傷つけるという語 + 否定の接頭辞
  
以上に見たことからも察することは可能だと思うが、ギー兄さんの生き方はガンジーの非暴力主義とかキリストの贖罪にも似て、その方向性は私には理解が困難なものがある。
が、はじめに述べたようにディテールに興趣尽きないところが多く、読んでいて大変面白い小説だった。

Tさんのオペラ」について

エピローグに入って、K伯父さんがサッチャンへオペラの話をする部分がある。
音楽家のT さん」の誘いでオペラのシナリオを作る話である。「Tさん」は武満徹で、オペラの創作プランは大江健三郎との間で実際にあった話である。
オペラは武満の死によって完成に至ることはなかったが、作曲へ着手はしていたようなので大江健三郎との間でシナリオの合意はできていたものと思われる。

武満には「雨」のシリーズというのがあって、それらすべては大江健三郎の短編「頭のいい「雨の木(レインツリー)」」の同じ一節にインスパイアされて作曲された。すなわち

1.「雨の樹」3人の打楽器(またはキーボード)奏者のための 1981年作曲
2.「雨の樹 素描」ピアノのための 1982年作曲
3.「雨の樹素描Ⅱ―オリヴィエ・メシアンの追憶に」ピアノのための 1992年作曲

第1曲は大江健三郎他1名へ献呈されている。大江の原作が「木」なのに、武満の方は「樹」としているところが面白い。
二人の交友は長く、ある対談で大江は、二人の出会いが「安保闘争のころ」(1960年)からだと言っている(*5)。二人は互いに相手をリスペクトしており、それは相手のことを書いている文章を読めばよくわかる。

(*5)集英社「武満徹の世界」p.222

一例として1994年に大江がノーベル賞を受賞した年に武満が当時毎日新聞へ月1回掲載していたエッセイ「時間の園丁(ときのえんてい)」の1994年11月18日付けの文章を挙げておく。ここでは受賞への祝福の念と、作家としての大江への全幅の敬意の念とが文章の隅々まで満ちている。

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武満徹の最後のエッセイ集が「時間の園丁」と命名されているが、その最後に収められている「海へ!」という短文の最後に出て来る「西も東もない海を泳ぐ鯨」というのが、武満が構想していたオペラのイメージだったのだそうだ。(立花隆「武満徹音楽創造の旅」P.590)

1996年2月20日に武満徹は死去し、大江は葬儀の弔辞でオペラのプランに触れ、「奮い立って、「治療塔」「治療塔惑星」を書いたが、あなたのめがねにかないませんでした」と述べている。
SF作品「治療塔」「治療塔惑星」は、武満のオペラのために書かれたのだった! 大江健三郎のSF小説というのがどうにもピンと来なかったが、これで納得が行った。武満は幻想文学、推理小説、SF小説といったジャンルが好きだったようだ(立花隆「同上書」p.191)。
また大江は弔辞の最後で「私はもう本だけを読んで、生を終りたいとねがっていたのですが、・・・長編小説を書いて、あなたに捧げようと思いたっています。」と極めて重要な決意を述べている。

燃えあがる緑の木」第2部「揺れ動く(ヴァしレーション)」の単行本が刊行された1994年8月の翌9月17日付け「朝日新聞」で、「以後小説は書かない」旨の大江の記事が掲載されて(*6)、翌1995年に第3部「大いなる日に」の刊行により「燃えあがる緑の木」が完結して、本作が大江の最後の作品と目されていた中での翻意だった。

(*6)尾崎真理子「世紀末に集中した「魂のこと」」p.614

終わりに
大江健三郎は難解だが、作品は独特で不思議な魅力を湛えている。読み終えて充実感を覚えている。これで大江健三郎を終わりにするのではなく、今後の読書プランへ入れたいと思っている。
ただ大江の膨大な作品群を相手にするのは私には荷が重い。当面これまで読んだ「同時代ゲーム」、「万延元年のフットボール」、「ヒロシマ・ノート」は必ず読み直そうと思っている。
また、ダンテ「神曲」は是非再びチャレンジしてみたい。今回「燃えあがる緑の木」に関してネットで種々参照していて偶々、元大学教員だという方のブログに出会った。その詳細を極める「神曲」解説に敬服している。それを座右に読み進めるのもいいかなと考えている。
(了)

2020年4月19日 (日)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-3

第5章 死に至る手続きの数学的記述」関係

この作品、特に第2部は章名がユニークなところが魅力の一つで、本章はその最たるものと言ってよいだろう。それが暗示するように総領事は徐々に健康状態を悪化させていき、遂には死に至るが、一方で教会の建設プランは着々と進行して行く。

設計の現地調査で注目されたのがテン窪の南側斜面、人造湖の水際から一段奥まった高みにある東西50mに渡る石垣だった。
谷間の北側斜面の上の森の高みにやはり東西に敷石道の遺蹟があり、死人の道と呼ばれている。
これには壊す人が海辺から移って来た創建者たちに造らせたという伝承がある。
死んだ人達が行ったり来たりするので「死人の道」といい、石垣はそれを支えるためのものだった。
戦争末期にアポ爺ペリ爺による測量で、敷石道は盆地を囲む森の下辺を水平に切る楕円の周を示していることが分かった。

教会の全体プランでは石垣に沿う敷石道が中庭に位置し、それを囲むように各施設が配置される。そして礼拝堂が先行して設計施工され、技術的問題、特に音響設計について詳述される。

「壊す人」、アポ爺、ペリ爺等は、「同時代ゲーム」へ登場してくる。

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「同時代ゲーム」新潮社(昭和54(1979)年11月25日、昭和55(1980)年2月5日5刷)

過去の作品と同じ舞台、人物が出て来ることで作品間の有機的つながり、作品個々が立体感を持ち、作品のスケールが大きくなるように思う。私が思うのはウイリアム・フォークナーのヨクナパトーファ・サガだ。
本文中でも触れられているが、アポ爺は、アポジー=apogee、ペリ爺は、ペリジー=perigeeでそれぞれ地球に対する月軌道の最遠点、最近点をもじっているのも面白く、彼等が測定した敷石道が描く軌跡が楕円というのも、谷間の空間の天文学的悠久さを象徴しているかのようだ。

一方で総領事は「治療塔の子ら」へかかりきりで、テン窪北側斜面の家にこもる日々を送る。
そして6月にギー兄さんとヨーロッパ旅行に出るが、ここは必然性がよく分からない部分である。
帰国後総領事は東京のK伯父さんへ様々な書籍探しを依頼する。そのやり取りに係る数ページは実に味わい深い。

時代を感じるのは、「ワードプロセッサはもとより・・・ファックスが・・・公衆電話で・・・」(p.202~3)90年代初め頃の作品なのを今更ながら思う。
それに続く箇所では、「外交関係の評論で、私がレイモン・アロンの新刊を送ると、サルトルの信奉者が・・・居間の書棚にジョージ・ケナンと並べておくような新発意(しんぼち)の態度もずっとある」という、高級すぎて理解不可な文も出て来る。

そして「尊敬している同世代の小説家の近作に、ドイツ文学者でもあるその人自身の訳でエックハルト(*)が引用され・・」とあって、その一節、「六千年前も六七日前も、今日にとっては同じ近さである。それは時が今の中にあるから。ただひとつの今の中に、魂の日は生じる。」(*2)に対して、ギー兄さんの「一瞬よりはいくらか長く続く間」という説教と結び付け、病床を見舞うギー兄さんへ総領事は「ただひとつの今の中に、魂の日は生じる。」とつぶやく。

(*)中世の神秘家。「説教集」という著作がある。
(*2)これが古井由吉「魂の日」からの引用であることを尾崎真理子に教えられた(*3)。未確認だがこの文の中に引用部分があると思われる。
(*3)尾崎真理子「世紀末に集中した「魂のこと」」(「大江健三郎全小説」第12巻解説(講談社))

ミツという教会関係者の高校時代の師が乳がんとなり、死を見据えた心境を述べた手紙で、「今が夢のように思われたり、名残り惜しい気持ちが込み上げてくる」という箇所が総領事の心に響くくだり。
読んでいて他人事ではなく前段の「魂の日」の箇所と併せ、時々の時間の貴重さを思う。

ダンテ「神曲」の「結びの、原語ではそこだけ四行詩となっている分を・・・山川訳で」とあって山川訳の引用をしている箇所。(p.208)
ここも意図がよくわからない。「神曲」天堂篇全篇の最終歌である第33歌の最後の部分を何故ここで引用するのか?
筑摩全集版の訳者野上素一の解説によると、ダンテは「神曲」を「地獄篇」、「煉獄篇」、「天堂篇」の3篇とし、「地獄篇」が総序である第1歌を含むため34歌だが、他の2篇はそれぞれ33歌という風に、「3」を三位一体に基づく神秘数と捉えて「3」を基本とする構成とした。そして全編を3行詩で統一した。(しかし各歌の最後の部分は4行である。)それを引用部分の山川訳は3行へ組み直しているのだ。
因みに野上解説によれば、ダンテはこの三界巡りを1300年4月7日(復活祭前の聖木曜日)(*4)-ダンテ35才-にスタートして、地獄巡りは24時間かけ、浄罪山の麓へ到達したのが4月10日午前5時、浄罪界は3日3晩かけて4日目の正午に浄罪山頂上へ到達、天堂界第6天(木星天)へはその翌日4月14日木曜日に達した。そして至高天に達した後その日に地上に戻って一週間の遍歴を終える、とある。

(*4)本文第1歌第1行の注には「復活祭の聖金曜日(3月25日か4月5日)の前夜と推定される」とあり、おそらく「4月5日」は「4月8日」のミスプリントと思われる。

・・・とこうして日々が過ぎ、総領事の衰弱が誰の目にも明らかとなり、総領事自身からすれば残された時間の逼迫からK伯父さんから届く本を日夜読みふける一方、小説執筆の方は中断の憂き目を見ることとなる。

八月半ばとなり、サッチャンザッカリーは北軽井沢のK伯父さんの別荘で一週間の休暇を取る。向かう飛行機の中でザッカリーはK伯父さんの小説を数式で分析する。


歴史事象Γ1、Γ2・・Γn-1ΓnΓn+1・・とあって、それらの事象が起こった結果として谷間の状態が

Γ1Γ2・・Γn-1ΓnΓn+1・・Γ1φ

とすると、事象の発生順がΓ1、Γ2・・Γn+1ΓnΓn-1・・という風に入れ替わっても

Γ1Γ2・・Γn-1ΓnΓn+1・・Γ1φ =  Γ1、Γ2・・Γn+1ΓnΓn-1・・Γ1φ

同じ結果となる時、両者は「可換である」という。
K(伯父さん)の小説においては、この可換性は主人公の死を意味している。よって以下の公式が導かれる。

<時間を操るもの = 死>

さらにザッカリーはサッチャンへ礼拝堂の設計者である荒さんの理論を紹介する。
「谷間に生れた人々は、谷間の外へ出て行くが再び帰ってくる。K(伯父さん」の小説は

流出 = 生  帰還 = 死

という「世界モデル=場の空間」を構築している。谷間の場はすべて「死」に向かっているので、

「死に至る手続き=ルーフ(屋根)」

と表記したい。」
ちんぷんかんぷんで理解不能な部分だが、直接的には総領事へこの公式があてはまると思うし、この作品の主人公であるギー兄さんの運命をここで暗示しているのだろう。

北軽井沢でサッチャンとザッカリーはギー兄さんから総領事の死を知る。
(続く)

2020年4月13日 (月)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-2

第4章 気象のフィードバック」関係

第2部は総領事K伯父さんが中心に進行していくため、ユニークかつ知的刺激に満ちていると共に、複雑を極めており、本章のみならず第2部全体が私の理解を超えていることを感じつつ読んだ。

総領事はイェーツを読み解くのに十分な時間が自分に残されていないことを悟り、K伯父さんのSF作品を自分が書き継ぐことでイェーツの苦行から免れ得ることを発見する。

面白いのは大江の現実のSF作品をそのまま引用している点。大江は「治療塔」、「治療塔惑星」の2作を発表している。ここにはK伯父さんによる3部作の完結編「治療塔の子ら」の構想覚え書きと出だしの部分の未定稿がかなりな分量で挿入されている。

ただ私には突飛なだけでこれが本章へ入ってくる必然性が分からない。

上のアンダーライン部分は第4章が始まってすぐ、総領事はイェーツの「最後の詩集」の中の「人と谺と」について、この詩によると人は肉体がある内は(生きている間は)精神の避難場所(=肉体)があるからよいが、死後は暗闇の中を休息を得ることなく魂は彷徨し続けなければならない。とすれば死後は魂も消滅してしまう方がよい。が、そうなると生きている時の魂の問題がむなしいものとなってしまう。(p.140~1)
とイェーツに取り組むと時間が足りないことを嘆くが、小児がんの14才の少年カジギー兄さんに対して述べる死への恐怖、-自分が死んでも世界は続いていく。しかも自分がいないということが怖い。(第1部p.146)-と対照的なのが興味深い。
カジの思いが、自分の存在が世界から消滅してしまうことへの不条理感で、それが死への恐怖となるのに対し、総領事は死後の永遠の苦役への忌避感で、死そのものへの恐怖ではないというのが対照的だ。
少年と還暦を控えた初老の大人との差だろうか?
ギー兄さんはカジに対して、「一瞬よりいくらか長く続く間」の至福の経験が永遠に近く生きることに等しいことを説く。
そして読書好きなカジへK伯父さんの蔵書の「ランボオ詩集」(「永遠」が収録されている)を送る。(*)

(*)本文には中原中也訳とあり、渡辺一夫の中也への指導があった旨が記され、K伯父さん(大江)は渡辺の形見として受贈したとある。

十月初旬、K伯父さんが来訪し、総領事、ギー兄さんと共にザッカリーによるテン窪周辺への教会の建設プランの現地説明が行われる。堰堤へ総領事とK伯父さんは腰を下ろしてSF作品のエンディングの話を始める。「気象」を重要なファクターと考えた総領事。
アリストテレスの「気象学」、ダンテ「神曲」、火山の噴火と気象、気象とフィードバックについてギー兄さんとザッカリーを交えてあれこれ語り合い、・・・

と総領事は唐突にK伯父さんへ「懐かしい年への手紙」の最後の部分の自作朗読を依頼する。
ここも大江の実作品のエンディング部分がそのまま引用されるユニークな箇所である。
第4章はこの引用の後、3ページを費やして終わるが、まず引用部分はテン窪一帯への礼拝堂をはじめとする教会の建設プランの理想イメージとして引用されているようだ。
その後の部分は、教会の行く末を「増殖的フィードバック(Regenetive Feedback)」の概念で制御不能に陥った末の教会の破滅を予感させると共に、総領事が湖の島の夕映えの大檜についてイェーツの詩との連関で語る、この小説の辿るであろうカタストロフを暗示しているように感じる。

なお「懐かしい年への手紙」で引用されているダンテ「神曲」は浄罪篇第2歌からで、2ヶ所(*2)。

(*2)第2歌73~5行と118~32行。(野上素一訳。筑摩書房世界文学全集第35巻。大江の引用は山川丙三郎訳(岩波文庫))ダンテ一行はカゼルラの恋歌にうっとりしていたが、カトーネに戒められ、追われるように浄罪山の麓へ向かう、というシーン。

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大江健三郎が何故この部分を引用したのか、私の理解の及ばぬところである。
又第3章でフレッチェーロという学者の「神曲」文章表現の分析の紹介部分は参考になる。(*3)

(*3)地獄篇、浄罪篇、天堂篇のそれぞれの世界の属性の違いが文章で見事に書き分けられている、という指摘。
(続く)

2020年4月12日 (日)

大江健三郎「燃えあがる緑の木」-1

最近の私にとって大江健三郎は気になる存在ではあるが、作品には手を出すことはしないと決めていた作家である。

その気が変わったのは小野正嗣による。
彼が朝日新聞へ文芸時評を書き始めて、毎回興味深く読んでいるが、昨年7月に大江の「燃えあがる緑の木」を取り上げたのである。冒頭で9月のEテレ「100分de名著」でも講師として本作について講じることを告げている。
小野がやはりEテレの「日曜美術館」MCをするようになって当初は彼が芥川賞作家であることに気が付かず、その内フランス文学者であることも知って、彼を見る目が変わった。

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朝日新聞「文芸時評」2019年7月31日

そもそも25年以上前の作品を敢えて文芸時評に取り上げたのは、本作が今日色あせるどころかますます重要性を増しているとの認識からであろうし、又小野が大江以外の作家を取り上げていたら私も気を変えることはなかったかも知れない。

大江健三郎に初めて触れたのは「ヒロシマ・ノート」だった。高校時代に倫理社会の夏休みの宿題としてこの本の感想文を書かされたのだった。そしてやはり高校で友人から借りて読んだのが「万延元年のフットボール」、その次が80年代に「同時代ゲーム」。この本は神保町のパチンコ屋の景品で手に入れた。(^^;
その次が「燃えあがる緑の木」だった。大江はこの作品の刊行中にノーベル文学賞を受賞し、メディアでも大きく取り上げられ、私がこの作品を読んだ動機は受賞のニュースからだった。

そしてたしか大江はこの作品を最後の小説にすると宣言して、しかしその後も作品を発表し続け、「さようなら私の本よ!」を読むも、その後も新作の発表はとどまらず、深く内実を理解することなく大江作品からの決別をしたのだった(*)。ただし朝日新聞へ一時掲載されたエッセイ「定義集」-これも難解だったが-を興味深く読んではいた。

(*)そう記しつつ還暦を過ぎてからすぐ「芽むしり仔撃ち」を読んだことを思い出した。この初期作品には上記作品群への萌芽があると思う

以上のとおり余り真面目な読者ではなかったが、人生の物心が付き始めてから折々に数少ないながらもほぼリアルタイムで大江作品に親しんで来た思いはある。
そんなささやかな大江体験の蓄積が、今度小野正嗣に触発されて「燃えあがる緑の木」を再読しようと思い立った根にあると思う。

読み終えた感想は、読んでよかったとつくづく思う。
大江の作家としての力量が並大抵のものでないことが今度の読書で分かったような気がする。
作品のバックボーンにある大江の文学の造詣の深さ、読書量の膨大さには瞠目するばかりである。

燃えあがる緑の木」は3部作で、以下のとおり。
第一部 「救い主が殴られるまで」 1993(平成5)年11月(私のは1994年10月の第2刷。ノーベル賞受賞で増刷となったもの?)
第二部 「揺れ動く<ヴァシレーション>」 1994(平成6)年8月(以上新潮社版単行本)
第三部 「大いなる日に」 1995(平成7)年「新潮」3月号

以上のように私は1994年10月時点で第2部まで出ていた単行本でスタートして、第3部は一挙掲載された「新潮」3月号で読んだ。奥付の出版年を見ていると25年もの時間が経過していることに改めて驚くと共に、自分に残された時間が残り少なくなったことに淋しさと胸が詰まるような感じがしている。

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「新潮」1995年3月号

「燃えあがる緑の木」は、アイルランドの詩人イエーツ(Yeats)の詩「揺れ動く<ヴァシレーション>」に出て来る暗喩(メタファー)で(第1部p.319)、「一本の木の片側は燃えているが、片側は露に濡れた緑・・・」(第2部p.75)というもので、それぞれ全体の作品名、第2部の作品名となっている。
そしてサッチャンは桜の板で「燃えあがる緑の木」のレリーフを作り、ギー兄さんの教会の「しるし(象徴)」とした。

以下に所感を思いつく儘に綴ってみたいが、私が最も感銘を受けた第2部を中心に考えてみたい。

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「揺れ動く<ヴァシレーション>」

第2部の主役はさながら、ギー兄さんの父である「総領事」。そしてその幼馴染みの作家である「K伯父さん」が重要な関係性を誇示する。この作家は作者の大江健三郎そのものという人物。
第2部が興趣尽きないのはこの2人によって織り成される様々なエピソードが小説のプロット以上に深く、尽きない魅力を湛えている点にある。

第1章 イェーツに導かれて」関係

・「総領事」は病を得て外務省を辞め郷里である四国の山間の土地へ戻り、さきのギー兄さんの蔵書のイェーツ関係の読書を始める。「エブリマンズ・ライブラリー」のイェーツ全詩集を評伝により伝記主義的に読むのが総領事の方法だった。K伯父さんは1冊を最後までつぶさに読んでいくのに対して、総領事は必要なページのみ読むのが二人の違い。ただ総領事の語学力は並大抵でなくCOD(Concise Oxford English Dictionary)を座右にしていた。(p.9~11)

・ドロシー・ウェルズリーという女流詩人宛ての書簡の一節をK伯父さんの境遇への比喩として引用し、イェーツの彼女宛て書簡集の存在へ言及する。(p.12) かなりマニアックだ。この部分を読んでいて、大江宛ての少なからぬ武満徹の書簡をテーマに回想文を請われたというエピソードを思った。(*2))

(*2)「宇宙にとどまる花 武満徹さんの手紙のことなど」(1998(平成10)年4月15日毎日新聞夕刊)

・総領事によるイェーツの詩の引用で、オーバーの葬儀でギー兄さんへ急降下した鷹のエピソードの元がイェーツであることが明かされている。(p.17~18)

・総領事がブリュッセルの公使時代の公邸中庭の木<orme pleureur>をK伯父さんが見て、四国の谷間をめぐる森の中によく似た木(ハルニレ)の存在を総領事に告げ、それを機に四国の地を「終の住処」と決意するに至る、という味わい深いエピソード。(p.33~36)
<orme pleureur>は総領事の死後、K伯父さんの回想として後出する。(p.227~8)
(続く)

2019年6月13日 (木)

江藤淳展・記念講演(上野千鶴子)

6月1日(土)神奈川県立近代文学館の企画展「没後20年 江藤淳展」の上野千鶴子記念講演「戦後批評の正嫡 江藤淳」を聴いた。

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講演チラシ

4月26日の「松本清張展」以来だから1ヶ月強ぶりでの再訪である。

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上:案内看板、下:文学館入り口

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上野千鶴子の講演は、妻も是非聴きたいとの希望で、たしか4月末にローソンチケットでGETしたのだったが、それから1週間くらいで売り切れとなる人気振りだった。
会場は2Fホールでほぼ満席に近い盛況、定員220人とのことなので200人前後が入ったわけだ。若い人はほとんど見かけず中高年が大多数だった。男女比は分からないが、大きく偏ってはいなかったように思う。

上野千鶴子の「セクシイ・ギャルの大研究」と栗本慎一郎の「パンツをはいたサル」は私が30代半ばの当時、セットで評判となった記憶があり、その後も「スカートの下の劇場」という本を題名に釣られて買ったりしている。
その後「おひとりさまの老後」を出して、これは今回をきっかけに「上野千鶴子が文学を社会学する」と共に地元図書館から借りてきて現在読書中である。

朝日新聞土曜版の人生相談「悩みのるつぼ」の回答は、上野千鶴子と姜尚中のものを欠かさず読んでいる。上野はお茶目な中にも相談者を鋭く分析、回答は決して妥協することがなく、かつユニークなのが魅力的で、一方の姜氏は相談に真っ向から向き合い、野球で云えば変化球なしの直球勝負というタイプで、その武骨で実直なところが彼の人間的魅力で、上野とは対照的。

これまで上野へは好感は抱いていたものの、軽めの息抜き的存在だったが、この講演で少し見直したというか上野への認識が変わった。これまでは上野を文学に括ることは思いも寄らず、まして江藤淳と上野が結び付くとは想像外だった。

上野も江藤淳との関わりから話を始めた。やや低めだが明瞭な発声、早口ではないが淀みなく話を進める。70代でなお頭脳明晰だ。
江藤の「成熟と喪失」(1967)での小島信夫「抱擁家族」(1965)への批評に啓発されて書かれた、上野の共著「男流文学論」での江藤評が契機となって「成熟と喪失」文庫版解説を江藤直々の指名で執筆(1993)、1995年には「群像」誌上対談もしていて、この対談は後述するムック本で読み、二人はお互いに好感を抱き、意気投合していることがよく分かった。

この日のレジュメは大変に手間が掛かっていて、資料としても貴重なものだ。漱石関係以外は、「小林秀雄」、荷風に関するエッセイ「紅茶のあとさき」、あとは「一族再会」を読んだ程度で、江藤の全貌を知るには足りない部分がどこか、レジュメでよく分かった。

もう一つ、演題の中の「正嫡」という用語について。
「正嫡」を目にした当初の何とも言えない異和感、言葉自体が死語のようで、旧制度(家父長制)を象徴するような、封建的なニュアンスがあり、上野千鶴子らしからぬ用語である。
それは措いて、江藤を戦後批評の「正嫡」と位置付けることが妥当なのか否かも私にはまだ理解できていない。
レジュメにも記されている「正嫡」の系譜、「夏目漱石→小林秀雄→江藤淳」がどうもしっくり受け止められない。

とはいえ私は、この3人へは取り分け親しんで来だのも事実である。漱石は勿論、小林の新潮文庫で出ているものはほとんど読んだし、江藤は上に記したとおりで、殊に「漱石とその時代」は単行本化の際にリアルタイムで読んで来たし、また「小林秀雄」も小林理解の手引き的に読んだ。

上野はほぼ定刻に喋り終えてから、おもむろに腕時計を見て、「1時間31分!時間通りだわ!」と快哉を叫んだ。無駄なく語り終えた自分に心から満足しているようで、その飾りのなさに大変好感を持った。

それから展示を見たので、時間不足でじっくり見ることができなかった。
講演受講者の大半は展示を見ずに帰ってしまったのかも知れない。全員がなだれ込んでくれば展示室は収拾が付かなくなっていただろうから。

「江藤淳展」は第2展示室のみだったが、展示は充実していた。
面白いと思ったのは多いが、メモを元に点描的に記してみる。
(1) 日比谷高校時代の活発な校内活動を跡付ける、2年次の校内演奏会で自作を指揮(「小交響曲」第2楽章「葬送」。これには驚き!!)。
(2) 慶応大時代の講義ノート(井筒俊彦「言語学概論」)、卒論草稿(「故ローレンス・スターン師の生活と意見」1956)。
(3) 在学中著わした「夏目漱石」の草稿と「三田文学」の掲載号(*)、同単行本初版(1956年11月、東京ライフ社)

(*)「夏目漱石」上 1955(昭和30)年11月号
   「続夏目漱石」上 1956年7月号
   「続夏目漱石」下 1956年8月号

(4)「小林秀雄」執筆に際し、大岡昇平は小林の未発表手稿を江藤へ提供するなど惜しみない支援をした―後年朝日紙上で漱石関係の論戦を交わした二人だが、そういうこともあったかというエピソードである。
(5)プリンストン大学で2年半の研究生活(1962~64年秋)後に体験をベースに綴った「アメリカと私」の初出連載(朝日ジャーナル1964.9/6~11/8)
(6)吉田秀和の江藤宛書簡(1965.3/5付け)文芸時評で加藤周一の小説を批判したことへ長文の書簡で抗議―吉田に「長文」を書かしめたのが、どういう経緯だったか興味深い。
(7)武満徹と隣合わせに座っているパネル写真があった。

第3展示室は常設展「文学の森へ 神奈川と作家達」第2部芥川龍之介から中島敦まで」だったが、時間切れで流し見になってしまった。荷風、谷崎、川端、横光、西脇順三郎、中也、小林秀雄、堀辰雄と盛り沢山。西脇を見たかった。

展示室を出ると販売コーナー。
上野千鶴子が講演中盛んにPRしていた平山周吉「江藤淳は甦る」の見本を手にする。700頁を越える大部でいずれ読むことになるかも知れない。
ここではムック本「江藤淳」(河出書房新社)GET。

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ムック本の表紙

サブタイトルは「終わる平成から昭和の保守を問う」ではあるが、発行は令和に入った2019年5月30日。監修が平山と中島岳志なのも注目点。くだんの「江藤×上野対談」も入っていて(後段がカットされている)、監修の二人の巻頭対談は示唆に富んでおり、特に最後で平山が江藤のプランは漱石の次の仕事を谷崎潤一郎と決めていたと言っているのにはびっくり!!
このムック本も現在読書中。

2019年5月 1日 (水)

松本清張展

令和時代が始まった。戦後3つ目の元号となり、これからどんな歴史が刻まれていくのか、期待と不安が入り混じっている。
個人的にはこれまで同様、日々有意義な時間が持てるよう努力を重ねて行くだけだが・・・

4月26日(金)に県立神奈川近代文学館へ特別展「巨星・松本清張」を見に行ってきた。
この日は天気予報通り午前は雨で寒く、横浜まで行くことを躊躇したものの、次第に雨も小降りになり、GW前にとの当初の予定を実行した。

2016年4月の漱石展以来丁度3年振りだ。
前回同様高速バスを利用。

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ベイブリッジからのみなとみらいの高層ビル群。

これもいつも通り、フランス山から入ったが、通常の入り口は工事中なのか閉鎖されていて谷戸坂を少し登り始める辺りの通用口みたいなところから入った。
一気の登りで急な階段を2段づつ上がるのが今回は少々きつく感じられた。

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大佛次郎記念館を過ぎた辺りの近代文学館の案内看板。

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連絡橋を渡ると文学館にたどり着く。

午後2時少し前の入館で、館内アナウンスで2時から2階ホールでギャラリートークがあることを知り、タイミングがよいので聴講した。
今年は清張生誕110年だそうだ。

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上は図録。清張71才の書斎でのショット。随分と幸せそうな表情をしている。後方の書架に並ぶのは恐らく岩波の「日本古典文学大系」。

清張は我々世代には流行作家の代名詞みたいな存在で、大概作品の一つや二つは読んでいる。
自分もあまり読んでいないが、それでも初期の「西郷札」、「小倉日記伝」、「断碑」や「点と線」、「ゼロの焦点」や「砂の器」といった推理小説、また「昭和史発掘」をほんの少しだけかじったり、「両像森鴎外」を読んだりした。

今回の展示は全生涯をバランス良く紹介していて、大変勉強になった。
改めて驚くのは、40才過ぎの作家として遅いスタートだったにも関わらず、その膨大な著述には目を瞠るものがある。
それと絵が上手い(と云うか素人離れしている(実際作家になる前はプロだったわけだが・・・))!!!
図録の10頁(几帳面な中に絵心を感じさせる魅力的な絵)、45頁(平山郁夫ばりの、画家としても看板が張れる力量を感じる)。

日本地図に清張作品がプロットされていて、それがバランス良く各地へ散らばっているのに感心した。
千葉県を見ると3作品がプロットされていた(「Dの複合」(成田)、「遠い接近(黒の図説)」(佐倉)、「十万分の一の偶然」(鹿野山))

「昭和史発掘」は2.26事件に最も注力したそうだが、清張が参照した関連資料として「田中義一日記」上下、「真崎甚三郎日記」1~3(皇道派(2.26事件実行グループが信奉した派閥)リーダーの一人),「北一輝著作集」Vol.2、そして副産物として清張編「二.二六事件=研究資料」1~3(文藝春秋社、‘76(S 5 1).3月、’86.2月、‘93.2月)が展示されていた。
昭和史研究へ深く沈潜した清張へ、半藤一利は親しく交流するという貴重極まる体験を巻頭言で述べている。冒頭では坂口安吾から得た清張評を披露もしている。

新聞連載の挿絵原画も素晴らしく、「砂の器」(読売、‘60(S35).5/17~’61.4/20)は朝倉摂で大変見応えがあり、「火の回路」(朝日、‘73(S48).6/16~’74.10/13、単行本は「火の路」と改題)の方は利根山光人。この人はNHKFM「日曜喫茶室」でたしか‘79年に「ギターと絵筆、テキーラの旅」と題してギタリストの中林淳真とゲスト出演して、メキシコ滞在経験を披露していたのを記憶している。

展示のラストは小倉(清張の生地で前半生を過ごした)の松本清張記念館で展示されている杉並区上高井戸の清張邸の再現書斎、書庫の映像で、書斎のカーペットには数カ所に煙草の焦げ跡、書庫はたしかⅠ~Ⅷと8室に及び、記念館の模型で配置を確認させながら書架に並ぶ蔵書群を映し出していた。
中々圧巻で、一度記念館で直接見てみたいと思った。

また第1展示室の常設展示(「神奈川の風光と文学」)も改めて見応えを感じた。漱石はもとより、谷崎、中島敦、有島武郎、三島・・・神奈川ゆかりの作家の多さよ。
横浜市街地の模型から神奈川近代文学館の至近に谷崎潤一郎の横浜時代の邸宅があったことを知った。

2019年4月 1日 (月)

平野啓一郎「ある男」

平野啓一郎の「ある男」を読んだ。

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前作「マチネの終わりに」は偶然と必然が複雑に絡み合い、結ばれるべく出会った男女が理不尽な別離を遂げ、本来敷かれていたはずのレールから外れて、それぞれ別のコースへと逸れていく不条理な(あくまで私の主観だが)展開だった。

「ある男」も方向性は違うが、主要人物が災厄に見舞われる点で「マチネの終わりに」と同じ構造である。
作品に盛り込まれたエピソードは豊富で、面白く、また推理小説的でもあり、最後まで引き込まれつつ読み進めた。

その最たるポイントは、「戸籍交換」という現代社会ではあり得ないのではとしか私などには思えない突飛なアイデアだ。マネーロンダリングのように複数回(本作では2回だが)行い、そのくだりは周到に描写されている。

主要人物は複数で、主人公はというと作者が云うように弁護士の城戸という事になるかも知れないが、この小説で最も魅力を感じたのは、出だし部分の中心人物である谷口里枝である。
そこそこ清楚可憐ながら、運命に翻弄されて初婚時の次男を病気で失い、その治療への対応が元で離婚を経験、故郷へ帰ってからも常人では経験し得ない運命が彼女を待っている。
それらを淡々と受け止め、健気に歩を進める里枝に共感しつつ読み進んだ。

里枝は帰郷してから「谷口大祐」と出会い再婚、4年に満たず「大祐」は事故死、その1年後に夫が「谷口大祐」ではない事がわかる。夫だった男は最後まで「谷口大祐」として里枝に対した。

「谷口大祐」=「X」が描いたスケッチブックの絵を契機に、二人の魂が交感する第2章の描写は、牧歌的、超俗的で、素直に共感できる場面であり、全編中で最大の見せ場と云ってよいと思う。

読みながら感じた素朴な疑問は以下のとおり。
1.第2章での里枝との交流は、虚飾を排した純朴な「X」が前面にあったとはいえ、「谷口大祐」として「X」は虚偽の過去をもって里枝に対した。
真の愛を感じている相手に、何故真の自己をさらけ出さなかったのだろうか?
2.里枝の依頼で「X」の身元調査に乗り出した城戸は、何故ペイし得ない調査を1年以上の長期に亘って続けたのだろうか?

1は作中第7章末尾で城戸の疑問としてほぼ同じ内容で投げかけられている。
1、2ともにストーリー自体が回答となっていると云えば云えるが、特に1は根の深い問題なので、数学の解のように一義的には行かないだろう。
誰しも相手に秘密の一つや二つは持っているのがむしろ普通で、作者は真の魂の交流に必ずしも真の過去が付随する必要はないと云いたいのだろう。
「X」は不慮の事故で死亡してしまうが、このまま里枝との結婚が続いたとして果たして「谷口大祐」を通していたか否か、興味のある処であり、矢張り「X」の振る舞いには釈然としないものが残る。

前作「マチネの終わりに」と同じく、巻末に参考文献と本文へ引用されている文学作品を明示している。作者が広く現代社会へ関心を持ちつつ、過去の文学へも目配りしている事が分かる。

取り分け、芥川龍之介「浅草公園」(第11章)と梶井基次郎「城のある町にて」(第21章)は、本作によって知った。
芥川の方はネットの青空文庫で読んだ。
奇妙で不可思議だが、印象的な作品である。
梶井の方は作中では城戸の幸福感を表現するために引用され、作品名は明記されていない。こちらも当初は青空文庫を参照するも、画面を見続けるのがちょっとつらくて、図書館から昭和文学全集(第7巻、小学館)を借りて来た。
昔読んだ「檸檬」も読んでみた。「冬の蠅」とか「桜の樹の下には」とか、覚えている名前がある中、「城のある町にて」は記憶が全くない。
また、「檸檬」を読み、出て来る丸善が京都のそれである事を今回認識。(^^;

脱線序でに・・・
第7巻には中島敦も入っており、以前から読みたかった「山月記」と「李陵」も読んだ。
梶井といい、中島敦と云い、昭和初期の作家だが(共に病気により夭折)、文章の新鮮さに打たれた。
「李陵」により司馬遷の宮刑が李陵擁護に起因する事を知った。(^^;
これに触発されて現在は武田泰淳「司馬遷」を読書中。(^^)

以上、平野啓一郎によって、前作と同様有意義な時間を持つ事が出来た。

2018年12月27日 (木)

「京都の漱石句碑について」

今年の京都・奈良旅行前に、一日目の夕食を予約していた「梅むら」の位置をGoogle Mapで確認していたら、近くに漱石の句碑があることを知り、折角の機会なので行ってみた。

 

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上のように句碑は御池通に面していて脇に銘板が立っている。
彫られている文字は、最後の「漱石」以外私には判読できなかった。
銘板には、詞書き付きの俳句と、漱石の京都との関わり、この俳句で詠まれている最後の京都行で出会った女性との交友等が記されているのだが、長文で文字も遠目には見にくく、時間もなかったのでとりあえず写真に納めて旅行から帰って来てから読み解いた次第。

 

句は
「木屋町に宿をとりて川向のお多佳さんに
春の川を 隔てて 男女哉(おとこおみなかな)  漱石」

 

一方の銘板の要点は以下のとおり。

 

句碑は、昭和41 (’66) 年に漱石生誕百年を記念し「漱石会」が建立した。
漱石の京都行は4回で
1. 明治25(1892)年7月に正岡子規と。
2. 明治40(1907)年春に朝日新聞へ入社し、「虞美人草」連載のため。
3. 明治42(1909)年秋、中国東北部への旅の帰路。
4. 大正4(1915)年春「硝子戸の中」稿了直後、津田青楓のすすめで木屋町御池の「北大嘉(きたのたいが)」に投宿。祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友を持つが、ある日二人に小さな行き違いが起きる。鴨川を隔てた祇園の多佳女を思いながら詠んだのが碑の句。
銘板は「京都漱石の会」発足(平成19(2007)年)を機に、平成20(2008)年に建てられた。

 

以上だが、句碑の主人公である磯田多佳女がどういう人で、漱石との「小さな行き違い」とはどういったものだったのか興味を覚えた。
以下にStudyした顛末を記す。

 

漱石の京都行の1と3は旅行の通過地点としての滞在で京都を目的としたものではなかった。荒正人「漱石研究年表」によれば、1は東京帝大文科大学2年次の学年末試験を終えて夏休みに入り、松山へ帰省する子規に大阪まで同行した途中の滞在で、7月8日に京都に到着し翌9日には発っている。因みに子規と別れた後漱石は次兄の妻の岡山の実家へ約一ヵ月滞在後、子規のいる松山へ足を運び二週間余りを過ごして帰京している。
3は10月15、16日で、「研究年表」によると「万屋(よろずや)」という旅館に宿泊している。後述するが、この宿は磯田多佳女に関連している。銘板にあるとおりこの時は帝大時代の学友で当時満州鉄道総裁だった中村是公の招きで行った満州韓国旅行の帰途だった。この旅行は、9月2日(*)から10月17日に亘る大旅行で、朝日新聞へ「満韓ところどころ」という旅行記を連載している。伊藤博文がハルビンで暗殺されたのが10月26日で、漱石は既に帰国していたがすれ違いみたいな時期的な近さであり、翌年の小説「門」冒頭部で取り上げていることを見てもこの事件は漱石に強烈な印象を与えたのだろう。私も来年は伊藤の享年である69才に達する。

 

(*)12月23日(日)の午後2時近く、NHKFM「トーキング ウィズ 松尾堂」を聴きながら車を運転していたら、今年の一冊という話題でゲストのサンキュータツオが挙げたのが「漱石研究年表」だった。それも「増補版」と断りを入れて。
そして例示したのが何と明治42年9月2日!満韓旅行出発の日だ。何を話していたかというと、記事にあるこの日の天候、そして新橋停車場の発車時刻と御殿場停車場の到着時刻について。
サンキュータツオによると、「研究年表」が書かれていた当時、広島の古書店がこの頃の時刻表の復刻版を出版していたとの事で、天候についても情報源がある由。
発車時刻の特定は、漱石の日記に「箱根にて日暮る」とあることと、時刻表のダイヤから割り出している由。
偶然に貴重な情報を得ることが出来た。

 

残る2と4が京都を目的とするもので、2は3月28日から4月11日までの約2週間に及び、その目的は、かつての僚友狩野亨吉(こうきち)、菅虎雄に会い、また大阪朝日と近付きになる為と、「書かねばならない小説の材料を拾うといふ下心」とであったと小宮豊隆「夏目漱石二」の「四九京都」(P.254)にある。
漱石はこの3月に帝大、一高を退職して朝日新聞へ入社し、小説第一作の「虞美人草」は6月23日から連載がスタートしている。
この時の滞在について漱石は「京に着ける夕」というエッセイを書いている。題名のとおり京都へ着いた3月28日の夜について書かれている。漱石全集第八巻「小品集」(昭和50(1975)年7月9日第2刷)冒頭に収録されており、末尾に明治40、4、9-11とあるが、これは新聞へ掲載された日付だろう。
またこの時は高浜虚子が奈良への取材旅行の途次、京都に滞在していて、漱石は虚子の滞在先である「万屋」を訪れ、虚子と祇園へ都踊りを見に行ったりしている。高浜虚子は漱石の没後の大正6年に「京都で会った漱石氏」でその時の様子を回想している。(改訂新版「漱石全集」別巻)
荒「研究年表」によればこれが4月10日の事で、翌11日に漱石は京都を発っている。

 

さて4である。滞在は3月19日から4月16日までの約1ヶ月に及び、これは漱石が当初から胃痛に悩まされ体調を大きく崩したことによるもので、遂には東京から鏡子が呼ばれたほどだった。
小宮「夏目漱石三」の拾い読みから始め、江藤淳「漱石とその時代」第5部の12「京に病む」、13「「事業」の色」に可成り詳しく多佳女とのいきさつが記されていて、これにより概ねを理解することができた。

 

漱石の宿となった「北大嘉(きたのたいが)」は「現在の御池大橋の西詰の川畔で、下側が橋にかゝる位の位置にあったらしい。大きな宿ではない。」(→京都漱石の会公式ブログ「漱石京都句碑の出来るまで」

 

大正4年当時には御池大橋はまだなかったようだ。(→東京紅団「夏目漱石の京都を歩く(大正4年)-1-

 

江藤上掲書では読みを「きたのだいか」としているが、現地の銘板、改訂新版「漱石全集」17巻(俳句・詩歌)(P.465、2440注)、荒「研究年表」(P.799)のいずれも「きたのたいが」とルビが振られているので、江藤のミスか誤植によるものと思われる。

 

多佳女との「小さな行き違い」というのは、多佳女からの誘いで3月24日北野天神の梅見を予定していたが、当の多佳女はダブルブッキングしていたのか宇治へ行ってしまい、漱石との約束が反故にされた事のようだ。
そして碑の句が詠まれたようだ。

 

3月30日に多佳女の「大友」へ舞子の踊りを見に行くも、胃の具合が悪化しそのまま大友で横臥してしまい、北大嘉へ戻ったのは4月1日の夕方だった。翌2日に鏡子が到着して、大友へ多佳女を訪れたりもしたようだ。
そして漱石夫妻が京都を発つのはそれから2週間後の16日だった。
そして6月3日からは「道草」の連載がスタートしている。

 

また江藤により谷崎潤一郎に「磯田多佳女のこと」という文章があることを知った。手元の没後版谷崎潤一郎全集の略目録には当該作品名はなく、以前目次をコピーしてあった20,21巻にも入っていない。決定版全集の方のパンフレットを見ると、こちらは第20巻にある。同名の単行本があり、収録作品は当該作の記載しかなく、一作のみで本になったということは結構な長さなのかも知れない。初収録作品であることを示している「*」が付されていないから没後版に入っているのは間違いない、とかあれこれ思いつつ要領を得ないまま図書館へ行った。
閉架書架から随筆小品を収めた22巻を出してもらい確認するも見当たらない。レファレンスのスタッフが調べてくれて16巻に入っていることがわかった。
この巻は冒頭に「磯田多佳女のこと」、他に「同窓の人々」、「「潺湲亭(せんかんてい)のことその他」、「疎開日記」等々興味深い文章が並んでいる。
いずれはこれらも是非読みたいと心に期し、今回は「多佳女」のみを対象に借りて来た。それが末尾の高浜虚子宛て書簡を入れてもわずか34頁。これ一作で本になったということは考えられないが・・・

 

とまれ、今度のstudyの最大の収穫は谷崎の「多佳女のこと」を読んだことである。
これを読み、谷崎の奥の深さを思い知るというか、こういう小文へも全力を尽くすというと大袈裟になるが、細部に至るまで気が抜けない密度で書かれている。

 

その白眉は書き出し部分かも知れない。
昭和21(1946)年5月多佳女の一周忌を記念する演芸会へ谷崎は赴く。会場は知恩院の塔頭源光院。その所在地を説明する記述の巧みさ!多佳女のお茶屋「大友」の場所をやはり説明する明快さ(*2)!その鮮やかな語り口には感嘆させられる。この際には「サライ」H18年18号付録の京都市街図が役立った。
演芸会場には軸装された件の漱石の句が掛けられていたことを谷崎は記している。
また谷崎は空襲がなかった京都にも戦時疎開により取り壊された建物はあって、多佳女の大友も戦争が終わる直前にその憂き目に遭った無情を淡々と記す。

 

(*2)「四条通の、南座のすぐ向うを北へ這入ると、大和大路、・・・あれを北へ進むこと数丁、白川が賀茂川に注ぐあたりに架した大和橋を渡り、ちょっと行って東へ折れた横町が・・・」(谷崎潤一郎「磯田多佳女のこと」)と律儀な書きぶりで大変分かりやすい。
南座といえば、NHKEテレ「にっぽんの芸能」11月16日の放送で南座の新開場記念公演の模様を紹介していた。平成28年から3年がかりの耐震改修工事が終わり、例年12月からの顔見世興行が今年は特別に11月1日から始まった由。これを予め知っていたら旅行スケジュールに反映させたかも・・・
南座は出雲の阿国ゆかりの四条河原へ立地した江戸期元和年間に幕府の許可を得た7つの芝居小屋の一つで、明治期に南座のみとなり現在に至っているとのこと。
一度観劇したい場所である。

 

漱石が多佳女と近付きになったのは大正4(1915)年だが。谷崎はそれより3年早い明治45(1912)年に多佳女と会っている。大正4年時点で漱石48才、多佳女は37才だった。
明治45年の谷崎は若干27才、一体何のために多佳女に会いに行ったのか?その後折に触れ「大友」を利用していることが行間から窺われるが、多佳女と如何なる交流があったのか興味を覚える。
谷崎は多佳女と深い交流があった岡本橘仙(猶吉)にも触れ、上述の旅館「万屋」の主人だったことが語られる。
谷崎は多佳女が「明治45年以来三十五年間岡本橘仙の「おもいもの」で「友達」で・・・「好伴侶」であった」と書き、江藤淳はそれを無批判にそのまま引用している。(「漱石とその時代」第5部(P.210)
明治45(1912)年の35年後は1947年で岡本橘仙も多佳女も昭和20(1945)年にそれぞれ78才、67才で亡くなっているので、これは谷崎の単純なミスである。そのミスを引きずるのはいただけない。この文章が多佳女の没年に関することから始められているだけに信じられない不注意と云える。
(了)

2018年4月25日 (水)

夏目漱石「明暗」を読む-4(最終回)

前回記したように水村美苗「続明暗」は、漱石の「明暗」を見事に補完している。
その際に触れた「人生の贈りもの」によれば、水村は自作品に触発されて様々な「続明暗」が出て来ることを予想していたようだが、今日に至るまで水村版以外は出ていない。
また水村は、「作家の意図より書かれたものを重視するという、学生時代に学んだ文学理論(*)に助けられ、漱石がどう「明暗」を終えようとしていたかより、すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよいと」考えた。「漱石なら少し違う展開になったでしょうね。古い時代の男性だから。私は女だから、女性に精いっぱい花を持たせてしまいました。」
自尊心を粉々に破壊され、自身の存在意義を見失うまでにボロボロになったお延が、山の頂上から朝日に輝く眺望を目にして、自然の平等性を体感し透明無私の境地へ達する。水村が言う「女性に精いっぱい花を持たせた」と言うのはこのことだろうか。
ただ「すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよい」という点では、原作で温泉へ出発する前に津田が小林と会いに出かけるところでのお延の
「何時か一度此のお肚(なか)の中に有(も)ってる勇気を、外へ出さなくちゃならない日が来るに違いないって」「近いうちなの。もう少ししたらの何時か一度なの」「貴方のためによ。夫のために出す勇気だって」(154)
という勝ち気で、積極的な性格を象徴する発言が置き去りになっている事がわかる。
水村版では、現地へ乗り込みはしたが、為す術もなく押しつぶされてしまう、か弱いお延となっている。この点も含め様々な展開があり得ると言うことなのだろう。

(*)第3回ではご夫君との出会いやら、イエール大での文学履修の話、武満徹との出会い、加藤周一と柄谷行人への師事とか(!!!)20代の頃の濃密な学業が語られている。

2で記したとおり津田は共感出来る人格ではないが、救済されるというと受動的だが、前回触れたように水村版では津田にも最終盤でお延との絆が強まり、精神的更生を予感させる書きぶりが認められる。江藤淳のように津田は罰せられ死をもって報われると云う結末は流石にないだろう。津田はまだ若干30歳という若さなのだ。

清子について大岡昇平「「明暗」の結末について」は、「(清子の)創造はその場の即興で作り出され」たというユニークな解釈を示している。(*2)根拠を「書きはじめ一ヵ月前と推定される不可解な断片」(*3)に置き、お延との真の和合を究極のテーマとしつつ、「立ち去った女との姦通」のモチーフを加えた、という大胆な推理を加えている。
(*2)「小説家夏目漱石」P.414-5 この本が出た1988年は奇しくも大岡の没年となった。享年79歳。本は5月が初版第1刷で、私のは第6刷で8月のもの。「「明暗」の結末について」は1976(昭和51)年5月早稲田大学での講演に手を加えたとある。その当時で大岡は67才、丁度私と同じ年齢だったのが感慨深い。この本には江藤淳と朝日新聞紙上でやり合った(という表現がぴったりの)江藤の博士論文「漱石とアーサー王伝説」を巡る論争の大岡部分も納められている。こちらは1975年で大岡66才、江藤の方は42才、当時20代だった私は、はらはらしつつ両大家の言い合いをリアルタイムで読んだ事を思い出す。
(*3)旧全集第13巻「日記及断片」P.835-6

そして清子を入れた事で、サスペンスは増大したが、筋は不自然、煩瑣になってしまったといっている。
大岡も清子をサブキャラクターと見ており、水村版は津田と清子の交渉を「続明暗」のハイライトシーンとしつつ、大岡の指摘をも盛り込み、見事に模範的に描写したと云ってよいだろう。

水村版を読んでいて気付かされたのは、随所に漱石の表現をパロディー的に引用していることである。
・「(つれない素振りの清子に)津田の舌は上顎へ密着(ひっつい)て仕舞ったやうに自由を失った儘だった。」(244)これは「三四郎」終結部で教会から出て来た美禰子と対した三四郎の印象的な場面だ。
・「(清子と馬車の幌の中で)津田はいつしか(清子の)微かな香を眼の眩(ま)う程強く感じてゐた。さうして嗅覚の刺激のうちに一種の幸(ブリス)を覺えていた。」(238)
「それから」の代助が三千代を迎えるにあたり百合をあしらい、その香りが充満する中で感じた幸(ブリス)を思い出す。
・「(宿に着いて風呂の中で我を忘れた津田が自分を取り戻し)何処かで聞いた事のある父母未生以前の己れといふ言葉が津田の胸に思ひ起こされた。」(246)
これは「門」で参禅した宗助に課された公案「父母未生以前本来の面目は何か」が連想される。
というように漱石作品を自在に駆使しているあたり、水村の上品な遊び心を感じる。

最後に漱石の原作の方で気付いた事を記したい。
・第5回で津田が二階の書斎へ上がり机上の洋書を開くところ。
今回は手元の旧全集で読んだが、図書館から定本版を借りて来て、たまたまこの箇所の違いに気付いた。
旧全集:結婚後三四ヶ月目から読み始めた。それから二ヶ月以上になるが三分の二にも達していない。
定本版: 〃 二ヶ月目   〃       〃 三  〃        〃
定本版は原稿、旧全集版は初版本に拠っている訳だが、こうして比較してみると結構違いが目立つ。ここは津田夫婦の結婚後の経過時間を示唆するもので、いずれも概ね半年前後となる。
ちなみに初出(5)では単に「比較的大きな洋書」となっているが、(39)では「経済学の独逸書」とあり、大岡は「これがマルクスであろう、という拡大解釈があります」と疑義を挟みつつも紹介している。長山靖生氏も「漱石研究」(*4)に寄せた論文で他者の意見とした上で、これがマルクスの「資本論」との見解があることに触れている。両者とも確定的とするには根拠が乏しいが、面白い見解だということで敢えて取り上げたようだ。漱石全集の蔵書目録(付記3:6)にあたってみたら、マルクスの「資本論」はあったが英訳版だった。ちなみに余白への書き込みはない(模様)。
(*4)「不可視と不在の「明暗」」(付記3:9)

・パート1第5日のお延の観劇。漱石は「芝居」と書き、「劇場」とも記すが、歌舞伎とは書いていない。水村は当然のように「歌舞伎」と明示している。((203) P.58)大岡も「「明暗」の結末について」で同じく当然のように「歌舞伎」と書いている。これが私には引っかかっていたが、最近読み始めた古川隆久「昭和史」(付記3:15)で(尤もこちらは大正から昭和へ変わる頃での記述だが)、「演劇で人気だったのはなんといっても歌舞伎である」という箇所を読み、大正初年もほぼ同様だったであろう事から納得することが出来た。

・第150回の「事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。」というイレギュラーなセンテンス。
しばらく受け入れ難かった部分だ。
何故「事後の夫婦は、もう事前の夫婦ではなかった。」でないのか?
津田とお延は、津田が申し出た妥協をお延が受け入れる事で「何時の間にか我知らず相互の関係を変えてゐた。」
そして大岡が言うような「理屈っぽ」いテキストが以下長々と続く。理詰めで、決してわかりやすく書かれてはいないこの箇所は正直読むのがつらい。
どうにか理解できるようにも思うが、いまだにこのセンテンスは釈然としない。

谷崎から与えられた宿題は力及ばず白黒を付けるには至らず、結論を今後へ積み残す事となってしまった。「明暗」、「続明暗」とセットで読んでみて言えるのは、水村版として完結を見て、読者としてカタルシスは覚えることができた。
谷崎の「芸術一家言」が発表された1920(大正9)年、谷崎は若干34才、既に旺盛な作家活動をしていた。「明暗」は1916(大正5)年5月26日から東京、大阪朝日新聞に同時掲載で始まったが、その前の連載小説が谷崎作品だったというのも面白い符号である。(*5)

(*5)「鬼の面」。1月15日から5月25日までの116回。東京朝日新聞へ掲載。谷崎の朝日への第1作。(以上は、荒正人「漱石研究年表」(付記3:7)による。)「明暗」はその翌日からだ。(*6)
「面白い符号」という点で、序でにいうと水村は「谷崎潤一郎は漱石と並んで尊敬する小説家である。」(*7)と書き、「決定版谷崎全集」(中央公論社)のパンフレットには推薦のことばを寄せている。
今回の私のブログは奇しくも漱石―谷崎―水村の3者が絡んだが、水村が漱石と谷崎を殊更に愛読する人であることに、我が意を得た。
(*6)中央公論社版旧谷崎潤一郎全集第3巻所収の「鬼の面」タイトルページ裏面には「大正5年1月-4月東京朝日新聞」と誤記載されている。
(*7)水村美苗「谷崎潤一郎の「転換期」―「春琴抄」をめぐって」(付記3:10)
(終わり)

(付記1)長崎新聞のスクラップ(前回参照)に関しては思い出がある。
1990(平成2)年(もう28年前になる!!)私の地元のギターアンサンブルで共に活動していた友人が帰郷し結婚する事になって、披露宴へ妻共々招待され、はるばる長崎へ行ったのだった。
このスクラップはその時のものである。
友人の父君は長崎市の収入役を務めておられ、当時の市長の本島等氏が列席されていた事を思い出す。私はキャンドルサービスで「アルハンブラの想い出」と、彼の従妹にあたる女性のメゾソプラノへ、シューベルトの「アヴェ・マリア」のギター伴奏をしたのだった。
丁度「長崎旅博覧会」が開かれていた。グラバー邸や平和公園、浦上天主堂も周り、また「山下和仁アートサークル」事務局だった喫茶店「ギタルラ」へ行き、マスターに長崎ギター合奏団のライブ・テープ(たしかベートーヴェンの「運命」第1楽章だった)を聴かせていただいたり、長崎ギター音楽院へ山下亨氏(和仁の父君)を訪問してお話を伺ったりした。その場で山下和仁がマネージャーらしき人と打ち合わせていた事が思い出される。
雲仙温泉へも一泊した。この直後の11月17日に普賢岳が噴火し、翌年2月12日に再噴火があって、その後火口付近に形成された溶岩ドームの崩壊により発生した大規模な火砕流により多数の犠牲者を出す大惨事となったのだった。
(付記2)今回の本文へは取り上げなかったが、2で触れた2,016年の神奈川近代文学館の「夏目漱石」展について書いた私のブログで取り上げた「漱石と歩く東京」の著者北野豊氏のホームページ「勝手に漱石文学館」を最近全く偶然に知る事となった。興味のある方のためにここへリンクを張らせていただく。(→「勝手に漱石文学館」
また「漱石と歩く東京」は、漱石を読む上で必須と言っていい北野氏の労作である。ホームページから購入できるようになっており、文句なく推奨できる私の座右の書である。北野氏から頼まれて記しているわけではなく、このような貴重な情報が満載された本を共有したいという一念からであることをお断わりしておく。
「明暗」を読みながら随時「漱石と歩く東京」を参照し、今度も様々な示唆を本書から受けた。
一つだけ粗探しさせていただく。同書第2章「小石川を歩く」の江戸川橋の項に「明暗」(21)からの引用があり、「・・・彼は残酷に在来の家屋を掻き?って、・・・」と「?」の文字化け(挘(むし)が正しい)を見つけた。(^^)
(付記3)参考書目一覧
1. 漱石全集第7巻「明暗」 昭和50年6月9日 第2刷 岩波書店
2. 定本漱石全集第11巻「明暗」 2017年10月11日 岩波書店
3. 水村美苗「続明暗」 平成2年9月30日 初版第2刷 筑摩書房
4. 谷崎潤一郎全集(没後版)第20巻「芸術一家言」 昭和43年6月25日 中央公論社
5. 漱石全集第13巻「日記及断片」 昭和50年12月9日 第2刷 岩波書店
6. 漱石全集(改訂新版)第27巻「漱石山房蔵書目録」 1997年12月19日 岩波書店
7. 荒正人著、小田切秀雄監修「増補改訂 漱石研究年表」 昭和59年6月20日 第1刷 集英社
8. 大岡昇平「小説家夏目漱石」 1988年8月25日 初版第6刷 筑摩書房
9. 「漱石研究」終刊号(no.18) 特集「明暗」 2005年11月25日 翰林書房
10.「文芸別冊 谷崎潤一郎」 2015年2月25日 初版 河出書房新社
11.図録「100年目に出会う 夏目漱石」 2016年 県立神奈川近代文学館
12.江藤淳「夏目漱石」 昭和51年6月30日 13版 角川文庫
13.長崎新聞「続明暗」評 1990(平成2)年10月30日
14.朝日新聞夕刊「人生の贈り物」2014年8月11日~15日
15.古川隆久「昭和史」 2016年5月10日 第1刷 ちくま新書
16.小宮豊隆「夏目漱石 三」 昭和49年8月30日 第18刷 岩波書店
17.北野豊「漱石と歩く東京」 2016年4月10日 第4刷 雪嶺文学会

2018年4月21日 (土)

夏目漱石「明暗」を読む-3(「続明暗」をめぐって)

水村美苗「続明暗」は、今回の「明暗」を読むにあたりセットで読もうと思っていた。
通して読んでみての率直なところは、「続明暗」の方への賛嘆の念である。

「続明暗」は創作ではあるが、「明暗」を前提としているところが通常の作品と異なる点で、発表から28年経過しており、最近余り話題になることはないかも知れない。
初版帯には「漱石諸作品からの引用をちりばめながら、漱石そっくりの文体、言い回し、用語を駆使して完結」とあり、当時読書界にセンセーションを興したと記憶している。

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先ず何よりも読んで面白い。筋の進行に無駄はなく、前後の脈絡、漱石の原作は勿論のこと、「続明暗」の中においても見事に前後の脈絡が付いていて、読んでいて唸るしかない。
文体は漱石に確かに似ているが、漱石の方がねちねちしているというか、「続明暗」の方はよりサラサラしている印象で、漱石との違いを感じた。
構成もまた見事で、漱石の新聞連載番号を引き継ぎ、一回分がほぼ同じ分量で綴られ、丁度100回分で終わらせている。
「明暗」最終回(188)は温泉行第2日目になり、「続明暗」はここから始まるが、大団円となるのが第7日で6日間という時間が流れる。津田の視点が多いがお延の部分も見事に織り込まれ、まさに柄谷行人が示す「多声的な世界」が表現されていると思う。
時代考証も怠りなくされているようである。
例えば(211)でお延が温泉の津田へ電話しようとする場面、当時の電話システムでは過疎地へは自動電話ではつながらず郵便局まで交換手を通した電話をしに行くところとか、(230)で安永夫妻を送って津田と清子が軽便鉄道に乗る場面とか、(235)で当時の横浜伊勢崎町の盛況が語られる場面(電気館、又楽館、オデオン座etc.)とか大正初年の風俗を描くにはやはり下調べは必要だろう。

「続明暗」は平成2(1990)年9月発行で私は30日の初版第2刷を持っている。今回繙くと中に新聞切り抜きがあった。同じ平成2年10月30日付け長崎新聞の「続明暗」評(付記1:次回参照)である。評者名は記されておらず、学芸担当の記者の手になるものと思われるが、短い字数の中で的確に要点が書かれているところに端倪すべからざるものがある。

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大岡昇平「明暗の結末について」への言及とか、水村が柄谷行人へ師事したことがあるということをこの書評で教えられたりとか、多々勉強になった。

「続明暗」は全編が印象的描写なので、ここでは特に心に残った場面を記す。

第4日。津田の留守宅。寒さが日増しに募る日の午後、二階の津田の書斎でガラス越しの暖かい日射しの中、岡本の小切手で買った反物の仕立ての準備を始めるお延と、庭で隣家の椎の落葉焚きをする下女のお時の平穏な描写。ほのぼのしていて好きなところだ。
それを破る吉川夫人の来訪。日曜(第7日)の継子の再見合いへの立ち会いの要請だった。また津田の温泉行についての虚偽を吹き込まれたお延の心は千々に乱れ、居ても立っても居られなくなり1泊での温泉行きを決意する。
前後の描写の対照が鮮やかだ。
第5日。前日夕刻夫人から翌朝の来訪を促され、津田の温泉行が清子を追っての事だったことを悪意をもって夫人の口から聞かされ、その帰途降りしきる冷たい雨の中を不図思い立って小林宅へと足を運ぶ場面。
打ちのめされてはいるが、こうと思ったら遮二無二突き進むお延がよく描かれている。
特に小林が不在で電車通りへ戻る道中、ラビリンスのような脇道を雨中泥水にまみれ、堂々巡りして中々元来た大通りに戻れないくだりは、お延の絶望的な心理を象徴しており、見事な表現力に唸らされる。
そして帰宅すると小林が来訪していた。そして小林により、津田が入院中に「来るな」というお延宛ての手紙をくれた時に吉川夫人が訪れていた事を知るに至る。

露悪的で徹底的に嫌らしい人物として造形されていた小林を水村は真摯で人間味ある好漢へ変貌させ、特にラストでは重要な役割を与えている。

いわく、お延がお時へ指示した岡本家への仮病による見合いの欠席の電話。その電話で継子が見舞いに訪れたことで嘘が発覚し、岡本の知るところとなり、お時からお延が出発前に小林と会っていた事を聞き、相談に訪れた藤井宅に居合わせていた小林へお秀に同行する形で現地への出向を依頼。という風に漱石の原作のエピソードを前半で取り入れ、それを最後に有機的に関係付ける綿密な筋が用意された。
最終節(288)の「奥さん、人間は人から笑われても、生きてゐる方が可(い)いものなんですよ」(87)という小林の言葉を反芻するお延の描写。漱石の原作の小林の言を引用しているが、このシチュエーションではしみじみと心に沁みる名言として聞こえて来る。

一方吉川夫人には徹底的に卑劣な役回りを与えている。お延へのあしらいはとても感情教育を踏まえたものとは言えず、悪意以外の何物でもない。津田は滝の前での清子とのやり取りで吉川夫人の底に潜む悪意を思い知り、岡本からの電話へ出ようとするお秀へ「吉川夫人の媒介する話は廃(よ)した方が可(い)い」(285)と言うように指示する。ここは津田が汚名を挽回する小気味よい場面だ。

お延が東京で悪戦苦闘していた第5日、軽便鉄道の終点(国府津)の料亭で津田と清子が安永夫妻を送別する会食をする場面。磊落な安永の宴席向きの話題で盛り上がる座と、水商売上がり風の妻君の手慣れた応接、この場面も心に残っている。(*)

(*)2014(平成26)念8月朝日新聞夕刊「人生の贈りもの」で水村さんご本人が「漱石は物語を離れた細部がとてもいい」と言われているが、(232)~(236)のここは正にそんな箇所である。とても印象的な場面だ。

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会食中から降り始めた雨は強まり、津田と清子は幌付きの馬車で宿へ帰る。津田と清子の交渉は夜が更けるに伴いクライマックスへ向かい、一方夕刻の遅い出発となったお延へも雨が伴い、やがて大暴風雨となって進行の波乱を象徴するが、常套手段とはいえその手腕は見事と言うほかはない。

馬車の中で津田は医院で関と会った話(17)をする。そして関が「公には云い難い疾に罹っ」ていた事を話してしまう。「性(セックス)と愛(ラヴ)に就いて六づかしい議論をした」ことについても津田の回想の形で具体的に展開し、享楽的だった関に清子を奪われた理不尽から、清子へ卑怯な態度を取っている津田の矛盾と、刹那主義者の関へ走ったことによる清子の聖性の喪失をここは象徴しているのだろうか。(239)~(241)

大団円はお延の精神が昇華されて終わる。津田の人格に絶望し、自死を決断して滝へ向かうも朝日にきらめく滝の奔流を見て思いとどまり、山へ入り頂上からの美しい眺望に、「自然の全くの無関心が」お延の心を打つ。(287)
津田はと言うと、連日の疲労がたたり出血の苦痛に呻き、お延を追いつめてしまった痛恨の思いと、吉川夫人への絶縁宣言。
小林の津田への「事実其物に戒飭(かいちょく)される方が遙かに覿面(てきめん)で切実でいいだろう」(167)という予言がここに成就している。また出血をいとわずお延を追って起き上がった時点で、津田の精神的再生は約束されたと読める。
見逃せないのは(261)である。滝の前の津田と清子にお延が忽然と現われる。清子は面倒はご免とばかりさっさとその場を去って行く。そして津田は残されたお延が清子と姿格好がそっくりなのに気付く。(P.269)
ここは重要で、津田の深層で清子からお延への遷移が為されたと私は解釈した。
お延はと言うと、これは紛れもない「則天去私」の境地そのものと言えるだろう。
旧漱石全集の小宮豊隆の解説が言うところの、「より高きイデー」=「則天去私」の世界が水村美苗版「明暗」の到達点だった。
また小宮は「明暗」の最重要な鍵は、「倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。」(「日記及断片」大正5年5月(旧全集第13巻P.839))であることをも指摘している。
未完の漱石の原作では、必ずしも反映されているとは言い難いこの命題が、「続明暗」においては見事に達成されている。
(続く)

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