読書

2019年4月 1日 (月)

平野啓一郎「ある男」

平野啓一郎の「ある男」を読んだ。

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前作「マチネの終わりに」は偶然と必然が複雑に絡み合い、結ばれるべく出会った男女が理不尽な別離を遂げ、本来敷かれていたはずのレールから外れて、それぞれ別のコースへと逸れていく不条理な(あくまで私の主観だが)展開だった。

「ある男」も方向性は違うが、主要人物が災厄に見舞われる点で「マチネの終わりに」と同じ構造である。
作品に盛り込まれたエピソードは豊富で、面白く、また推理小説的でもあり、最後まで引き込まれつつ読み進めた。

その最たるポイントは、「戸籍交換」という現代社会ではあり得ないのではとしか私などには思えない突飛なアイデアだ。マネーロンダリングのように複数回(本作では2回だが)行い、そのくだりは周到に描写されている。

主要人物は複数で、主人公はというと作者が云うように弁護士の城戸という事になるかも知れないが、この小説で最も魅力を感じたのは、出だし部分の中心人物である谷口里枝である。
そこそこ清楚可憐ながら、運命に翻弄されて初婚時の次男を病気で失い、その治療への対応が元で離婚を経験、故郷へ帰ってからも常人では経験し得ない運命が彼女を待っている。
それらを淡々と受け止め、健気に歩を進める里枝に共感しつつ読み進んだ。

里枝は帰郷してから「谷口大祐」と出会い再婚、4年に満たず「大祐」は事故死、その1年後に夫が「谷口大祐」ではない事がわかる。夫だった男は最後まで「谷口大祐」として里枝に対した。

「谷口大祐」=「X」が描いたスケッチブックの絵を契機に、二人の魂が交感する第2章の描写は、牧歌的、超俗的で、素直に共感できる場面であり、全編中で最大の見せ場と云ってよいと思う。

読みながら感じた素朴な疑問は以下のとおり。
1.第2章での里枝との交流は、虚飾を排した純朴な「X」が前面にあったとはいえ、「谷口大祐」として「X」は虚偽の過去をもって里枝に対した。
真の愛を感じている相手に、何故真の自己をさらけ出さなかったのだろうか?
2.里枝の依頼で「X」の身元調査に乗り出した城戸は、何故ペイし得ない調査を1年以上の長期に亘って続けたのだろうか?

1は作中第7章末尾で城戸の疑問としてほぼ同じ内容で投げかけられている。
1、2ともにストーリー自体が回答となっていると云えば云えるが、特に1は根の深い問題なので、数学の解のように一義的には行かないだろう。
誰しも相手に秘密の一つや二つは持っているのがむしろ普通で、作者は真の魂の交流に必ずしも真の過去が付随する必要はないと云いたいのだろう。
「X」は不慮の事故で死亡してしまうが、このまま里枝との結婚が続いたとして果たして「谷口大祐」を通していたか否か、興味のある処であり、矢張り「X」の振る舞いには釈然としないものが残る。

前作「マチネの終わりに」と同じく、巻末に参考文献と本文へ引用されている文学作品を明示している。作者が広く現代社会へ関心を持ちつつ、過去の文学へも目配りしている事が分かる。

取り分け、芥川龍之介「浅草公園」(第11章)と梶井基次郎「城のある町にて」(第21章)は、本作によって知った。
芥川の方はネットの青空文庫で読んだ。
奇妙で不可思議だが、印象的な作品である。
梶井の方は作中では城戸の幸福感を表現するために引用され、作品名は明記されていない。こちらも当初は青空文庫を参照するも、画面を見続けるのがちょっとつらくて、図書館から昭和文学全集(第7巻、小学館)を借りて来た。
昔読んだ「檸檬」も読んでみた。「冬の蠅」とか「桜の樹の下には」とか、覚えている名前がある中、「城のある町にて」は記憶が全くない。
また、「檸檬」を読み、出て来る丸善が京都のそれである事を今回認識。(^^;

脱線序でに・・・
第7巻には中島敦も入っており、以前から読みたかった「山月記」と「李陵」も読んだ。
梶井といい、中島敦と云い、昭和初期の作家だが(共に病気により夭折)、文章の新鮮さに打たれた。
「李陵」により司馬遷の宮刑が李陵擁護に起因する事を知った。(^^;
これに触発されて現在は武田泰淳「司馬遷」を読書中。(^^)

以上、平野啓一郎によって、前作と同様有意義な時間を持つ事が出来た。

2018年12月27日 (木)

「京都の漱石句碑について」

今年の京都・奈良旅行前に、一日目の夕食を予約していた「梅むら」の位置をGoogle Mapで確認していたら、近くに漱石の句碑があることを知り、折角の機会なので行ってみた。

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上のように句碑は御池通に面していて脇に銘板が立っている。
彫られている文字は、最後の「漱石」以外私には判読できなかった。
銘板には、詞書き付きの俳句と、漱石の京都との関わり、この俳句で詠まれている最後の京都行で出会った女性との交友等が記されているのだが、長文で文字も遠目には見にくく、時間もなかったのでとりあえず写真に納めて旅行から帰って来てから読み解いた次第。

句は
「木屋町に宿をとりて川向のお多佳さんに
春の川を 隔てて 男女哉(おとこおみなかな)  漱石」

一方の銘板の要点は以下のとおり。

句碑は、昭和41 (’66) 年に漱石生誕百年を記念し「漱石会」が建立した。
漱石の京都行は4回で
1. 明治25(1892)年7月に正岡子規と。
2. 明治40(1907)年春に朝日新聞へ入社し、「虞美人草」連載のため。
3. 明治42(1909)年秋、中国東北部への旅の帰路。
4. 大正4(1915)年春「硝子戸の中」稿了直後、津田青楓のすすめで木屋町御池の「北大嘉(きたのたいが)」に投宿。祇園の茶屋「大友(だいとも)」の女将磯田多佳女と交友を持つが、ある日二人に小さな行き違いが起きる。鴨川を隔てた祇園の多佳女を思いながら詠んだのが碑の句。
銘板は「京都漱石の会」発足(平成19(2007)年)を機に、平成20(2008)年に建てられた。

以上だが、句碑の主人公である磯田多佳女がどういう人で、漱石との「小さな行き違い」とはどういったものだったのか興味を覚えた。
以下にStudyした顛末を記す。

漱石の京都行の1と3は旅行の通過地点としての滞在で京都を目的としたものではなかった。荒正人「漱石研究年表」によれば、1は東京帝大文科大学2年次の学年末試験を終えて夏休みに入り、松山へ帰省する子規に大阪まで同行した途中の滞在で、7月8日に京都に到着し翌9日には発っている。因みに子規と別れた後漱石は次兄の妻の岡山の実家へ約一ヵ月滞在後、子規のいる松山へ足を運び二週間余りを過ごして帰京している。
3は10月15、16日で、「研究年表」によると「万屋(よろずや)」という旅館に宿泊している。後述するが、この宿は磯田多佳女に関連している。銘板にあるとおりこの時は帝大時代の学友で当時満州鉄道総裁だった中村是公の招きで行った満州韓国旅行の帰途だった。この旅行は、9月2日(*)から10月17日に亘る大旅行で、朝日新聞へ「満韓ところどころ」という旅行記を連載している。伊藤博文がハルビンで暗殺されたのが10月26日で、漱石は既に帰国していたがすれ違いみたいな時期的な近さであり、翌年の小説「門」冒頭部で取り上げていることを見てもこの事件は漱石に強烈な印象を与えたのだろう。私も来年は伊藤の享年である69才に達する。

(*)12月23日(日)の午後2時近く、NHKFM「トーキング ウィズ 松尾堂」を聴きながら車を運転していたら、今年の一冊という話題でゲストのサンキュータツオが挙げたのが「漱石研究年表」だった。それも「増補版」と断りを入れて。
そして例示したのが何と明治42年9月2日!満韓旅行出発の日だ。何を話していたかというと、記事にあるこの日の天候、そして新橋停車場の発車時刻と御殿場停車場の到着時刻について。
サンキュータツオによると、「研究年表」が書かれていた当時、広島の古書店がこの頃の時刻表の復刻版を出版していたとの事で、天候についても情報源がある由。
発車時刻の特定は、漱石の日記に「箱根にて日暮る」とあることと、時刻表のダイヤから割り出している由。
偶然に貴重な情報を得ることが出来た。

残る2と4が京都を目的とするもので、2は3月28日から4月11日までの約2週間に及び、その目的は、かつての僚友狩野亨吉(こうきち)、菅虎雄に会い、また大阪朝日と近付きになる為と、「書かねばならない小説の材料を拾うといふ下心」とであったと小宮豊隆「夏目漱石二」の「四九京都」(P.254)にある。
漱石はこの3月に帝大、一高を退職して朝日新聞へ入社し、小説第一作の「虞美人草」は6月23日から連載がスタートしている。
この時の滞在について漱石は「京に着ける夕」というエッセイを書いている。題名のとおり京都へ着いた3月28日の夜について書かれている。漱石全集第八巻「小品集」(昭和50(1975)年7月9日第2刷)冒頭に収録されており、末尾に明治40、4、9-11とあるが、これは新聞へ掲載された日付だろう。
またこの時は高浜虚子が奈良への取材旅行の途次、京都に滞在していて、漱石は虚子の滞在先である「万屋」を訪れ、虚子と祇園へ都踊りを見に行ったりしている。高浜虚子は漱石の没後の大正6年に「京都で会った漱石氏」でその時の様子を回想している。(改訂新版「漱石全集」別巻)
荒「研究年表」によればこれが4月10日の事で、翌11日に漱石は京都を発っている。

さて4である。滞在は3月19日から4月16日までの約1ヶ月に及び、これは漱石が当初から胃痛に悩まされ体調を大きく崩したことによるもので、遂には東京から鏡子が呼ばれたほどだった。
小宮「夏目漱石三」の拾い読みから始め、江藤淳「漱石とその時代」第5部の12「京に病む」、13「「事業」の色」に可成り詳しく多佳女とのいきさつが記されていて、これにより概ねを理解することができた。

漱石の宿となった「北大嘉(きたのたいが)」は「現在の御池大橋の西詰の川畔で、下側が橋にかゝる位の位置にあったらしい。大きな宿ではない。」(→京都漱石の会公式ブログ「漱石京都句碑の出来るまで」

大正4年当時には御池大橋はまだなかったようだ。(→東京紅団「夏目漱石の京都を歩く(大正4年)-1-

江藤上掲書では読みを「きたのだいか」としているが、現地の銘板、改訂新版「漱石全集」17巻(俳句・詩歌)(P.465、2440注)、荒「研究年表」(P.799)のいずれも「きたのたいが」とルビが振られているので、江藤のミスか誤植によるものと思われる。

多佳女との「小さな行き違い」というのは、多佳女からの誘いで3月24日北野天神の梅見を予定していたが、当の多佳女はダブルブッキングしていたのか宇治へ行ってしまい、漱石との約束が反故にされた事のようだ。
そして碑の句が詠まれたようだ。

3月30日に多佳女の「大友」へ舞子の踊りを見に行くも、胃の具合が悪化しそのまま大友で横臥してしまい、北大嘉へ戻ったのは4月1日の夕方だった。翌2日に鏡子が到着して、大友へ多佳女を訪れたりもしたようだ。
そして漱石夫妻が京都を発つのはそれから2週間後の16日だった。
そして6月3日からは「道草」の連載がスタートしている。

また江藤により谷崎潤一郎に「磯田多佳女のこと」という文章があることを知った。手元の没後版谷崎潤一郎全集の略目録には当該作品名はなく、以前目次をコピーしてあった20,21巻にも入っていない。決定版全集の方のパンフレットを見ると、こちらは第20巻にある。同名の単行本があり、収録作品は当該作の記載しかなく、一作のみで本になったということは結構な長さなのかも知れない。初収録作品であることを示している「*」が付されていないから没後版に入っているのは間違いない、とかあれこれ思いつつ要領を得ないまま図書館へ行った。
閉架書架から随筆小品を収めた22巻を出してもらい確認するも見当たらない。レファレンスのスタッフが調べてくれて16巻に入っていることがわかった。
この巻は冒頭に「磯田多佳女のこと」、他に「同窓の人々」、「「潺湲亭(せんかんてい)のことその他」、「疎開日記」等々興味深い文章が並んでいる。
いずれはこれらも是非読みたいと心に期し、今回は「多佳女」のみを対象に借りて来た。それが末尾の高浜虚子宛て書簡を入れてもわずか34頁。これ一作で本になったということは考えられないが・・・

とまれ、今度のstudyの最大の収穫は谷崎の「多佳女のこと」を読んだことである。
これを読み、谷崎の奥の深さを思い知るというか、こういう小文へも全力を尽くすというと大袈裟になるが、細部に至るまで気が抜けない密度で書かれている。

その白眉は書き出し部分かも知れない。
昭和21(1946)年5月多佳女の一周忌を記念する演芸会へ谷崎は赴く。会場は知恩院の塔頭源光院。その所在地を説明する記述の巧みさ!多佳女のお茶屋「大友」の場所をやはり説明する明快さ(*2)!その鮮やかな語り口には感嘆させられる。この際には「サライ」H18年18号付録の京都市街図が役立った。
演芸会場には軸装された件の漱石の句が掛けられていたことを谷崎は記している。
また谷崎は空襲がなかった京都にも戦時疎開により取り壊された建物はあって、多佳女の大友も戦争が終わる直前にその憂き目に遭った無情を淡々と記す。

(*2)「四条通の、南座のすぐ向うを北へ這入ると、大和大路、・・・あれを北へ進むこと数丁、白川が賀茂川に注ぐあたりに架した大和橋を渡り、ちょっと行って東へ折れた横町が・・・」(谷崎潤一郎「磯田多佳女のこと」)と律儀な書きぶりで大変分かりやすい。
南座といえば、NHKEテレ「にっぽんの芸能」11月16日の放送で南座の新開場記念公演の模様を紹介していた。平成28年から3年がかりの耐震改修工事が終わり、例年12月からの顔見世興行が今年は特別に11月1日から始まった由。これを予め知っていたら旅行スケジュールに反映させたかも・・・
南座は出雲の阿国ゆかりの四条河原へ立地した江戸期元和年間に幕府の許可を得た7つの芝居小屋の一つで、明治期に南座のみとなり現在に至っているとのこと。
一度観劇したい場所である。

漱石が多佳女と近付きになったのは大正4(1915)年だが。谷崎はそれより3年早い明治45(1912)年に多佳女と会っている。大正4年時点で漱石48才、多佳女は37才だった。
明治45年の谷崎は若干27才、一体何のために多佳女に会いに行ったのか?その後折に触れ「大友」を利用していることが行間から窺われるが、多佳女と如何なる交流があったのか興味を覚える。
谷崎は多佳女と深い交流があった岡本橘仙(猶吉)にも触れ、上述の旅館「万屋」の主人だったことが語られる。
谷崎は多佳女が「明治45年以来三十五年間岡本橘仙の「おもいもの」で「友達」で・・・「好伴侶」であった」と書き、江藤淳はそれを無批判にそのまま引用している。(「漱石とその時代」第5部(P.210)
明治45(1912)年の35年後は1947年で岡本橘仙も多佳女も昭和20(1945)年にそれぞれ78才、67才で亡くなっているので、これは谷崎の単純なミスである。そのミスを引きずるのはいただけない。この文章が多佳女の没年に関することから始められているだけに信じられない不注意と云える。
(了)

2018年4月25日 (水)

夏目漱石「明暗」を読む-4(最終回)

前回記したように水村美苗「続明暗」は、漱石の「明暗」を見事に補完している。
その際に触れた「人生の贈りもの」によれば、水村は自作品に触発されて様々な「続明暗」が出て来ることを予想していたようだが、今日に至るまで水村版以外は出ていない。
また水村は、「作家の意図より書かれたものを重視するという、学生時代に学んだ文学理論(*)に助けられ、漱石がどう「明暗」を終えようとしていたかより、すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよいと」考えた。「漱石なら少し違う展開になったでしょうね。古い時代の男性だから。私は女だから、女性に精いっぱい花を持たせてしまいました。」
自尊心を粉々に破壊され、自身の存在意義を見失うまでにボロボロになったお延が、山の頂上から朝日に輝く眺望を目にして、自然の平等性を体感し透明無私の境地へ達する。水村が言う「女性に精いっぱい花を持たせた」と言うのはこのことだろうか。
ただ「すでに書かれたテキストの流れを大事にさえすればよい」という点では、原作で温泉へ出発する前に津田が小林と会いに出かけるところでのお延の
「何時か一度此のお肚(なか)の中に有(も)ってる勇気を、外へ出さなくちゃならない日が来るに違いないって」「近いうちなの。もう少ししたらの何時か一度なの」「貴方のためによ。夫のために出す勇気だって」(154)
という勝ち気で、積極的な性格を象徴する発言が置き去りになっている事がわかる。
水村版では、現地へ乗り込みはしたが、為す術もなく押しつぶされてしまう、か弱いお延となっている。この点も含め様々な展開があり得ると言うことなのだろう。

(*)第3回ではご夫君との出会いやら、イエール大での文学履修の話、武満徹との出会い、加藤周一と柄谷行人への師事とか(!!!)20代の頃の濃密な学業が語られている。

2で記したとおり津田は共感出来る人格ではないが、救済されるというと受動的だが、前回触れたように水村版では津田にも最終盤でお延との絆が強まり、精神的更生を予感させる書きぶりが認められる。江藤淳のように津田は罰せられ死をもって報われると云う結末は流石にないだろう。津田はまだ若干30歳という若さなのだ。

清子について大岡昇平「「明暗」の結末について」は、「(清子の)創造はその場の即興で作り出され」たというユニークな解釈を示している。(*2)根拠を「書きはじめ一ヵ月前と推定される不可解な断片」(*3)に置き、お延との真の和合を究極のテーマとしつつ、「立ち去った女との姦通」のモチーフを加えた、という大胆な推理を加えている。
(*2)「小説家夏目漱石」P.414-5 この本が出た1988年は奇しくも大岡の没年となった。享年79歳。本は5月が初版第1刷で、私のは第6刷で8月のもの。「「明暗」の結末について」は1976(昭和51)年5月早稲田大学での講演に手を加えたとある。その当時で大岡は67才、丁度私と同じ年齢だったのが感慨深い。この本には江藤淳と朝日新聞紙上でやり合った(という表現がぴったりの)江藤の博士論文「漱石とアーサー王伝説」を巡る論争の大岡部分も納められている。こちらは1975年で大岡66才、江藤の方は42才、当時20代だった私は、はらはらしつつ両大家の言い合いをリアルタイムで読んだ事を思い出す。
(*3)旧全集第13巻「日記及断片」P.835-6

そして清子を入れた事で、サスペンスは増大したが、筋は不自然、煩瑣になってしまったといっている。
大岡も清子をサブキャラクターと見ており、水村版は津田と清子の交渉を「続明暗」のハイライトシーンとしつつ、大岡の指摘をも盛り込み、見事に模範的に描写したと云ってよいだろう。

水村版を読んでいて気付かされたのは、随所に漱石の表現をパロディー的に引用していることである。
・「(つれない素振りの清子に)津田の舌は上顎へ密着(ひっつい)て仕舞ったやうに自由を失った儘だった。」(244)これは「三四郎」終結部で教会から出て来た美禰子と対した三四郎の印象的な場面だ。
・「(清子と馬車の幌の中で)津田はいつしか(清子の)微かな香を眼の眩(ま)う程強く感じてゐた。さうして嗅覚の刺激のうちに一種の幸(ブリス)を覺えていた。」(238)
「それから」の代助が三千代を迎えるにあたり百合をあしらい、その香りが充満する中で感じた幸(ブリス)を思い出す。
・「(宿に着いて風呂の中で我を忘れた津田が自分を取り戻し)何処かで聞いた事のある父母未生以前の己れといふ言葉が津田の胸に思ひ起こされた。」(246)
これは「門」で参禅した宗助に課された公案「父母未生以前本来の面目は何か」が連想される。
というように漱石作品を自在に駆使しているあたり、水村の上品な遊び心を感じる。

最後に漱石の原作の方で気付いた事を記したい。
・第5回で津田が二階の書斎へ上がり机上の洋書を開くところ。
今回は手元の旧全集で読んだが、図書館から定本版を借りて来て、たまたまこの箇所の違いに気付いた。
旧全集:結婚後三四ヶ月目から読み始めた。それから二ヶ月以上になるが三分の二にも達していない。
定本版: 〃 二ヶ月目   〃       〃 三  〃        〃
定本版は原稿、旧全集版は初版本に拠っている訳だが、こうして比較してみると結構違いが目立つ。ここは津田夫婦の結婚後の経過時間を示唆するもので、いずれも概ね半年前後となる。
ちなみに初出(5)では単に「比較的大きな洋書」となっているが、(39)では「経済学の独逸書」とあり、大岡は「これがマルクスであろう、という拡大解釈があります」と疑義を挟みつつも紹介している。長山靖生氏も「漱石研究」(*4)に寄せた論文で他者の意見とした上で、これがマルクスの「資本論」との見解があることに触れている。両者とも確定的とするには根拠が乏しいが、面白い見解だということで敢えて取り上げたようだ。漱石全集の蔵書目録(付記3:6)にあたってみたら、マルクスの「資本論」はあったが英訳版だった。ちなみに余白への書き込みはない(模様)。
(*4)「不可視と不在の「明暗」」(付記3:9)

・パート1第5日のお延の観劇。漱石は「芝居」と書き、「劇場」とも記すが、歌舞伎とは書いていない。水村は当然のように「歌舞伎」と明示している。((203) P.58)大岡も「「明暗」の結末について」で同じく当然のように「歌舞伎」と書いている。これが私には引っかかっていたが、最近読み始めた古川隆久「昭和史」(付記3:15)で(尤もこちらは大正から昭和へ変わる頃での記述だが)、「演劇で人気だったのはなんといっても歌舞伎である」という箇所を読み、大正初年もほぼ同様だったであろう事から納得することが出来た。

・第150回の「事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。」というイレギュラーなセンテンス。
しばらく受け入れ難かった部分だ。
何故「事後の夫婦は、もう事前の夫婦ではなかった。」でないのか?
津田とお延は、津田が申し出た妥協をお延が受け入れる事で「何時の間にか我知らず相互の関係を変えてゐた。」
そして大岡が言うような「理屈っぽ」いテキストが以下長々と続く。理詰めで、決してわかりやすく書かれてはいないこの箇所は正直読むのがつらい。
どうにか理解できるようにも思うが、いまだにこのセンテンスは釈然としない。

谷崎から与えられた宿題は力及ばず白黒を付けるには至らず、結論を今後へ積み残す事となってしまった。「明暗」、「続明暗」とセットで読んでみて言えるのは、水村版として完結を見て、読者としてカタルシスは覚えることができた。
谷崎の「芸術一家言」が発表された1920(大正9)年、谷崎は若干34才、既に旺盛な作家活動をしていた。「明暗」は1916(大正5)年5月26日から東京、大阪朝日新聞に同時掲載で始まったが、その前の連載小説が谷崎作品だったというのも面白い符号である。(*5)

(*5)「鬼の面」。1月15日から5月25日までの116回。東京朝日新聞へ掲載。谷崎の朝日への第1作。(以上は、荒正人「漱石研究年表」(付記3:7)による。)「明暗」はその翌日からだ。(*6)
「面白い符号」という点で、序でにいうと水村は「谷崎潤一郎は漱石と並んで尊敬する小説家である。」(*7)と書き、「決定版谷崎全集」(中央公論社)のパンフレットには推薦のことばを寄せている。
今回の私のブログは奇しくも漱石―谷崎―水村の3者が絡んだが、水村が漱石と谷崎を殊更に愛読する人であることに、我が意を得た。
(*6)中央公論社版旧谷崎潤一郎全集第3巻所収の「鬼の面」タイトルページ裏面には「大正5年1月-4月東京朝日新聞」と誤記載されている。
(*7)水村美苗「谷崎潤一郎の「転換期」―「春琴抄」をめぐって」(付記3:10)
(終わり)

(付記1)長崎新聞のスクラップ(前回参照)に関しては思い出がある。
1990(平成2)年(もう28年前になる!!)私の地元のギターアンサンブルで共に活動していた友人が帰郷し結婚する事になって、披露宴へ妻共々招待され、はるばる長崎へ行ったのだった。
このスクラップはその時のものである。
友人の父君は長崎市の収入役を務めておられ、当時の市長の本島等氏が列席されていた事を思い出す。私はキャンドルサービスで「アルハンブラの想い出」と、彼の従妹にあたる女性のメゾソプラノへ、シューベルトの「アヴェ・マリア」のギター伴奏をしたのだった。
丁度「長崎旅博覧会」が開かれていた。グラバー邸や平和公園、浦上天主堂も周り、また「山下和仁アートサークル」事務局だった喫茶店「ギタルラ」へ行き、マスターに長崎ギター合奏団のライブ・テープ(たしかベートーヴェンの「運命」第1楽章だった)を聴かせていただいたり、長崎ギター音楽院へ山下亨氏(和仁の父君)を訪問してお話を伺ったりした。その場で山下和仁がマネージャーらしき人と打ち合わせていた事が思い出される。
雲仙温泉へも一泊した。この直後の11月17日に普賢岳が噴火し、翌年2月12日に再噴火があって、その後火口付近に形成された溶岩ドームの崩壊により発生した大規模な火砕流により多数の犠牲者を出す大惨事となったのだった。
(付記2)今回の本文へは取り上げなかったが、2で触れた2,016年の神奈川近代文学館の「夏目漱石」展について書いた私のブログで取り上げた「漱石と歩く東京」の著者北野豊氏のホームページ「勝手に漱石文学館」を最近全く偶然に知る事となった。興味のある方のためにここへリンクを張らせていただく。(→「勝手に漱石文学館」
また「漱石と歩く東京」は、漱石を読む上で必須と言っていい北野氏の労作である。ホームページから購入できるようになっており、文句なく推奨できる私の座右の書である。北野氏から頼まれて記しているわけではなく、このような貴重な情報が満載された本を共有したいという一念からであることをお断わりしておく。
「明暗」を読みながら随時「漱石と歩く東京」を参照し、今度も様々な示唆を本書から受けた。
一つだけ粗探しさせていただく。同書第2章「小石川を歩く」の江戸川橋の項に「明暗」(21)からの引用があり、「・・・彼は残酷に在来の家屋を掻き?って、・・・」と「?」の文字化け(挘(むし)が正しい)を見つけた。(^^)
(付記3)参考書目一覧
1. 漱石全集第7巻「明暗」 昭和50年6月9日 第2刷 岩波書店
2. 定本漱石全集第11巻「明暗」 2017年10月11日 岩波書店
3. 水村美苗「続明暗」 平成2年9月30日 初版第2刷 筑摩書房
4. 谷崎潤一郎全集(没後版)第20巻「芸術一家言」 昭和43年6月25日 中央公論社
5. 漱石全集第13巻「日記及断片」 昭和50年12月9日 第2刷 岩波書店
6. 漱石全集(改訂新版)第27巻「漱石山房蔵書目録」 1997年12月19日 岩波書店
7. 荒正人著、小田切秀雄監修「増補改訂 漱石研究年表」 昭和59年6月20日 第1刷 集英社
8. 大岡昇平「小説家夏目漱石」 1988年8月25日 初版第6刷 筑摩書房
9. 「漱石研究」終刊号(no.18) 特集「明暗」 2005年11月25日 翰林書房
10.「文芸別冊 谷崎潤一郎」 2015年2月25日 初版 河出書房新社
11.図録「100年目に出会う 夏目漱石」 2016年 県立神奈川近代文学館
12.江藤淳「夏目漱石」 昭和51年6月30日 13版 角川文庫
13.長崎新聞「続明暗」評 1990(平成2)年10月30日
14.朝日新聞夕刊「人生の贈り物」2014年8月11日~15日
15.古川隆久「昭和史」 2016年5月10日 第1刷 ちくま新書
16.小宮豊隆「夏目漱石 三」 昭和49年8月30日 第18刷 岩波書店
17.北野豊「漱石と歩く東京」 2016年4月10日 第4刷 雪嶺文学会

2018年4月21日 (土)

夏目漱石「明暗」を読む-3(「続明暗」をめぐって)

水村美苗「続明暗」は、今回の「明暗」を読むにあたりセットで読もうと思っていた。
通して読んでみての率直なところは、「続明暗」の方への賛嘆の念である。

「続明暗」は創作ではあるが、「明暗」を前提としているところが通常の作品と異なる点で、発表から28年経過しており、最近余り話題になることはないかも知れない。
初版帯には「漱石諸作品からの引用をちりばめながら、漱石そっくりの文体、言い回し、用語を駆使して完結」とあり、当時読書界にセンセーションを興したと記憶している。

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先ず何よりも読んで面白い。筋の進行に無駄はなく、前後の脈絡、漱石の原作は勿論のこと、「続明暗」の中においても見事に前後の脈絡が付いていて、読んでいて唸るしかない。
文体は漱石に確かに似ているが、漱石の方がねちねちしているというか、「続明暗」の方はよりサラサラしている印象で、漱石との違いを感じた。
構成もまた見事で、漱石の新聞連載番号を引き継ぎ、一回分がほぼ同じ分量で綴られ、丁度100回分で終わらせている。
「明暗」最終回(188)は温泉行第2日目になり、「続明暗」はここから始まるが、大団円となるのが第7日で6日間という時間が流れる。津田の視点が多いがお延の部分も見事に織り込まれ、まさに柄谷行人が示す「多声的な世界」が表現されていると思う。
時代考証も怠りなくされているようである。
例えば(211)でお延が温泉の津田へ電話しようとする場面、当時の電話システムでは過疎地へは自動電話ではつながらず郵便局まで交換手を通した電話をしに行くところとか、(230)で安永夫妻を送って津田と清子が軽便鉄道に乗る場面とか、(235)で当時の横浜伊勢崎町の盛況が語られる場面(電気館、又楽館、オデオン座etc.)とか大正初年の風俗を描くにはやはり下調べは必要だろう。

「続明暗」は平成2(1990)年9月発行で私は30日の初版第2刷を持っている。今回繙くと中に新聞切り抜きがあった。同じ平成2年10月30日付け長崎新聞の「続明暗」評(付記1:次回参照)である。評者名は記されておらず、学芸担当の記者の手になるものと思われるが、短い字数の中で的確に要点が書かれているところに端倪すべからざるものがある。

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大岡昇平「明暗の結末について」への言及とか、水村が柄谷行人へ師事したことがあるということをこの書評で教えられたりとか、多々勉強になった。

「続明暗」は全編が印象的描写なので、ここでは特に心に残った場面を記す。

第4日。津田の留守宅。寒さが日増しに募る日の午後、二階の津田の書斎でガラス越しの暖かい日射しの中、岡本の小切手で買った反物の仕立ての準備を始めるお延と、庭で隣家の椎の落葉焚きをする下女のお時の平穏な描写。ほのぼのしていて好きなところだ。
それを破る吉川夫人の来訪。日曜(第7日)の継子の再見合いへの立ち会いの要請だった。また津田の温泉行についての虚偽を吹き込まれたお延の心は千々に乱れ、居ても立っても居られなくなり1泊での温泉行きを決意する。
前後の描写の対照が鮮やかだ。
第5日。前日夕刻夫人から翌朝の来訪を促され、津田の温泉行が清子を追っての事だったことを悪意をもって夫人の口から聞かされ、その帰途降りしきる冷たい雨の中を不図思い立って小林宅へと足を運ぶ場面。
打ちのめされてはいるが、こうと思ったら遮二無二突き進むお延がよく描かれている。
特に小林が不在で電車通りへ戻る道中、ラビリンスのような脇道を雨中泥水にまみれ、堂々巡りして中々元来た大通りに戻れないくだりは、お延の絶望的な心理を象徴しており、見事な表現力に唸らされる。
そして帰宅すると小林が来訪していた。そして小林により、津田が入院中に「来るな」というお延宛ての手紙をくれた時に吉川夫人が訪れていた事を知るに至る。

露悪的で徹底的に嫌らしい人物として造形されていた小林を水村は真摯で人間味ある好漢へ変貌させ、特にラストでは重要な役割を与えている。

いわく、お延がお時へ指示した岡本家への仮病による見合いの欠席の電話。その電話で継子が見舞いに訪れたことで嘘が発覚し、岡本の知るところとなり、お時からお延が出発前に小林と会っていた事を聞き、相談に訪れた藤井宅に居合わせていた小林へお秀に同行する形で現地への出向を依頼。という風に漱石の原作のエピソードを前半で取り入れ、それを最後に有機的に関係付ける綿密な筋が用意された。
最終節(288)の「奥さん、人間は人から笑われても、生きてゐる方が可(い)いものなんですよ」(87)という小林の言葉を反芻するお延の描写。漱石の原作の小林の言を引用しているが、このシチュエーションではしみじみと心に沁みる名言として聞こえて来る。

一方吉川夫人には徹底的に卑劣な役回りを与えている。お延へのあしらいはとても感情教育を踏まえたものとは言えず、悪意以外の何物でもない。津田は滝の前での清子とのやり取りで吉川夫人の底に潜む悪意を思い知り、岡本からの電話へ出ようとするお秀へ「吉川夫人の媒介する話は廃(よ)した方が可(い)い」(285)と言うように指示する。ここは津田が汚名を挽回する小気味よい場面だ。

お延が東京で悪戦苦闘していた第5日、軽便鉄道の終点(国府津)の料亭で津田と清子が安永夫妻を送別する会食をする場面。磊落な安永の宴席向きの話題で盛り上がる座と、水商売上がり風の妻君の手慣れた応接、この場面も心に残っている。(*)

(*)2014(平成26)念8月朝日新聞夕刊「人生の贈りもの」で水村さんご本人が「漱石は物語を離れた細部がとてもいい」と言われているが、(232)~(236)のここは正にそんな箇所である。とても印象的な場面だ。

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会食中から降り始めた雨は強まり、津田と清子は幌付きの馬車で宿へ帰る。津田と清子の交渉は夜が更けるに伴いクライマックスへ向かい、一方夕刻の遅い出発となったお延へも雨が伴い、やがて大暴風雨となって進行の波乱を象徴するが、常套手段とはいえその手腕は見事と言うほかはない。

馬車の中で津田は医院で関と会った話(17)をする。そして関が「公には云い難い疾に罹っ」ていた事を話してしまう。「性(セックス)と愛(ラヴ)に就いて六づかしい議論をした」ことについても津田の回想の形で具体的に展開し、享楽的だった関に清子を奪われた理不尽から、清子へ卑怯な態度を取っている津田の矛盾と、刹那主義者の関へ走ったことによる清子の聖性の喪失をここは象徴しているのだろうか。(239)~(241)

大団円はお延の精神が昇華されて終わる。津田の人格に絶望し、自死を決断して滝へ向かうも朝日にきらめく滝の奔流を見て思いとどまり、山へ入り頂上からの美しい眺望に、「自然の全くの無関心が」お延の心を打つ。(287)
津田はと言うと、連日の疲労がたたり出血の苦痛に呻き、お延を追いつめてしまった痛恨の思いと、吉川夫人への絶縁宣言。
小林の津田への「事実其物に戒飭(かいちょく)される方が遙かに覿面(てきめん)で切実でいいだろう」(167)という予言がここに成就している。また出血をいとわずお延を追って起き上がった時点で、津田の精神的再生は約束されたと読める。
見逃せないのは(261)である。滝の前の津田と清子にお延が忽然と現われる。清子は面倒はご免とばかりさっさとその場を去って行く。そして津田は残されたお延が清子と姿格好がそっくりなのに気付く。(P.269)
ここは重要で、津田の深層で清子からお延への遷移が為されたと私は解釈した。
お延はと言うと、これは紛れもない「則天去私」の境地そのものと言えるだろう。
旧漱石全集の小宮豊隆の解説が言うところの、「より高きイデー」=「則天去私」の世界が水村美苗版「明暗」の到達点だった。
また小宮は「明暗」の最重要な鍵は、「倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。」(「日記及断片」大正5年5月(旧全集第13巻P.839))であることをも指摘している。
未完の漱石の原作では、必ずしも反映されているとは言い難いこの命題が、「続明暗」においては見事に達成されている。
(続く)

2018年4月18日 (水)

夏目漱石「明暗」を読む-2

「明暗」は二つの部分に分けることが出来る。
津田が入院して退院するまで(1~153)のパート1と、温泉地への転地(154~188)のパート2の二部分である。

2,016年の神奈川近代文学館の「夏目漱石」展の図録解説者奥泉光がいう「三人称多元」の視点人物(*)(→'16.5/10)、具体的には津田とお延になるが、はじめは津田の視点でスタートした小説はやがてお延の視点から叙述され、進むにつれお延から津田、またお延へ、二人の渡り合いの場面では一部作者の視点と、視点が場面で変わりながら進行する。

(*)2月28日付け朝日新聞夕刊に「雪の階(きざはし)」という彼の新作小説が紹介されていた。昭和初年の東京を舞台とした女性が主人公の長編とのことだが、図録解説で述べられている三人称多元の叙述法をこの作品へ採用しているそうである。

引用で知ったのだが(*2)、柄谷行人の新潮文庫版「明暗」への解説で述べられているという「明暗」で実現されている「「多声的な世界」-一つの視点=主題によって”完結“されない世界」」という見方も、恐らくはこの「三人称多元」による展開を基本にしているのだろう。

(*2)高橋修「<終り>をめぐるタイポロジー-「明暗」の結末に向けて」(「漱石研究」Vol.18翰林書房2005)

作中で生起する時間はパート1が11日、パート2は未完に終わってはいるが3日という短い時間の中で小説が展開していく。
パート1の第1日から第4日までは津田、第5日から第8日までは一部津田の部分はあるがお延がそれぞれメインキャラクター(視点人物)として書かれている。
テンポ感としては津田がメインのはじめの部分は快調であると言って良いが、お延へメインが移動する第2部分は叙述が徐々に肥大化し、部分としてみれば精密微細な描写が展開されていると言えるかもしれないが、いわば第2部分のみの限局的なエピソードが延々と詳述される形になってしまっている。

以下にパート1を具体的に整理してみる。
「明暗」パート1に費やされている紙数は以下のとおり。頁は旧全集による。

    連載番号  頁数(旧全集)   主人物   備  考
第1部分
第1日    1~  8   23(P.5~27)     津田    清子の伏線(2)
第2日    9~ 15  20(P.28~47)    津田      〃  (11、13)
第3日  16~ 18    9(P.48~56)    津田      〃  (17)
第4日  19~ 38  64(P.57~120)    津田    藤井家訪問、小林と居酒屋で会談
第5日  39~ 44  21(P.121~141)  津田    津田の手術、入院
第2部分
       45~ 58  46(P.142~187)  お延    お延の観劇、継子の見合い
第6日  59~ 79  70(P.188~257)  お延    お延の岡本家訪問、津田への疑念発生(78)
第7日  80~ 91  41(P.258~298)  お延    小林の来訪    お延の疑念(89)
       92~102  38(P.299~336)  津田    お秀の来訪
             103    3(P.337~339)  お延    お延の疑念+ 清子の伏線
     104~113  37(P.340~376)  津田、お延 津田、お秀へお延が加わる
第8日 114~122前半 32(P.377~408) 津田   小林の来訪
     122後半~130 27(P.409~435) お延    堀宅のお秀への訪問  
     131~142  46(P.436~481)  津田    吉川夫人の来訪
     143~152  38(P.482~519)  お延、津田  
第9~11日 153    4(P.520~523)  津田     津田の退院

以上をまとめると

第1部分 137頁
第2部分 382頁(内お延の部分 187頁(0.49) 津田 〃 120 (0.31) 津田、お延 75 (0.20) )

となり、第2部分/第1部分≒2.8となり、またこの構成表を見ると、第2部分が日を追う毎に膨らんでいることがよくわかる。そしてこの部分の主役がお延であることは、お延の部分が0.49であることからも明らかである。
以上で明らかなように、「明暗」は構成において均衡を大きく欠いていると言える。

また以下に示すとおり、津田の造形には問題が多く、私は読んでいて津田が主人公に値しないのではないかと疑問を感じた。
津田は「利害の論理に抜け目ない機敏さを誇」り(134)、「自己の快楽を主題にして生活」し(141)、父の経済援助の一部返済の約束を履行せず(95)、「畢竟女は慰撫しやすい」(150)とうそぶく非誠実で自己本位の打算家である。
津田は非倫理的で、人間的に共感出来ない人物として描かれている。
また第8日の吉川夫人の半ば言いなりで清子の逗留する温泉行を決意するのは、完全に主体性を失っている。そればかりか、この温泉行がいわばお延への裏切りであり、人妻である清子への接近という背徳行為であることの責任の自覚も欠如している。

対するお延の方は、夫を愛し、夫に自分を愛させることを理想に、日々生活するひたむきさがよく描かれていて、その姿勢に共感もでき、主人公としての魅力を持っている。(*3)
江藤淳は「明暗」において近代小説の重要な構成要件となる女性がよく描けているとし、
「これらの女性達で最も魅力的なのが、・・・お延である」
「お延の魅力は言葉の厳密な意味でのheroineの魅力である。」(*4)
とお延を高く評価する一方、津田を「冷笑的で、自己の保身には敏感な、・・・強い虚栄心を持った」「俗物才子」と切り捨てる。
そして結末を予想して津田は救済されず(津田の死を予想)、よって清子は救世主とはならないと言う。
パート1において構築されたお延の世界が否定されるような結末は有り得ないと云う。
また江藤は上層中産階級の外延に位置する人物として小林に注目し、「明暗」の世界をより相対的にして、超越的自然の視点よりは社会的視点へ重心があり、漱石の視点は小林に同化していると書く。

(*3)飯田祐子「「明暗」の「愛」に関するいくつかの疑問」(「漱石研究」NO.18(2005)、翰林書房)では、お延の「愛」は真実なのかと疑義が提起されている。一例を挙げると、津田の自身への愛を疑い、ついに根拠が瓦解したのに津田への愛が揺るがないというのは不合理である、とか何点かもっともな指摘をしている。
また池上玲子は、「女の「愛」と主体化」(同上)を以下のように締めている。
「「明暗」とは、自己の眼が気づく津田の、結婚生活での個々のノイズを封印し、自己の意志によって自らを夫に従属する主体へと教育していく物語なのである。」
以上はお延に限定された論文だが、大正初年期の状況も踏まえ、女性ならではの洞察が示されていて、大変参考になった。
(*4)江藤淳「夏目漱石」第8章「「明暗」―近代小説の誕生」 これが江藤の慶応在学中の評論であることに改めて驚かされる。

現在残された「明暗」のテキストは、こういう二人の主人公と、更に過去の女性(清子)との関係を絡めて漱石がどういう解決を図ろうとしていたのか、わからないまま未完になっている。

次回以降は、解決の一例ということになる水村美苗「続明暗」を中心に綴ってみたい。
(続く)

2018年4月14日 (土)

夏目漱石「明暗」を読む-1

漱石の「明暗」を読んだ。

漱石メモリアルイヤーに因む朝日新聞の一連の漱石作品の連載も平成29(2,017)年3月28日をもって終了した。その都度私は感想をこのブログへアップしていたが、それ以来漱石からは離れている。
が、以前谷崎潤一郎の「芸術一家言」を読み(→'16.3/19)、「明暗」が完膚なきまでに酷評されている点がずっと気になっていて、今度繙くこととなった次第である。

私が目にした範囲では、「明暗」の評価は谷崎以外で作品の価値を否定する者はいないようだ。
以下に今回の読書体験を記してみたい。

「明暗」は、主人公津田が30歳、もう一人の主人公である津田の妻お延は23歳で、結婚して半年あまりの若い二人に生起して行く愛憎劇といってよいだろう。

作中に明示はないが、津田の父親は推定55歳前後、叔父の藤井が50歳になるかならぬか位、その他お延の叔父岡本にしても、その子供達の年齢からして還暦には間がある年回りと思われる。

絶筆の未完作「明暗」を書いていた漱石にして49歳という若さである。

従って老人として登場する人物は皆、私よりはるかに若い人達ということで、その点も「明暗」を読みながら常に念頭にあったことだ。

開始早々に脱線してしまうが、一月に発表された第158回芥川賞受賞者の若竹千佐子さんは何と私の地元の方だった。
「おらおらでひとりいぐも」という作品名から東北の作者だとばかり思っていたところ、妻のコネクションにより地元の人だと知って読み始め、抱腹絶倒しつつ読み終え、たくさん元気を貰った。
主人公は74歳になる女性で、独り平凡な日々を送っているが、尽きない豊かさに満ちた内面に向き合う幸せな「老人」である。
作者も63歳だそうだが、分身であるだろう主人公の精神の健全さ、バイタリティ、したたかさが遺憾なく表現されており、「明暗」の世界よりもこちらの方に若々しさを感じ、かつもう一人の受賞者も54歳であることと併せ高齢化社会を象徴する今回の芥川賞だと感じた。

閑話休題。
「明暗」は188回で未完に終わった。
「明暗」を読んで釈然としないのはスタート早々に清子の存在、お延と結婚する前のこの女性との交渉が津田の心に深く巣喰っていることが暗示されながら、小説は大きく迂回してお延を中心とする世界が延々と展開していき、突如津田は温泉地の清子の元へと走る、という脈絡のなさ加減である。
谷崎が「瑣末的な事が紆余曲折してだらだら続き、本筋が出て来ない。人物相互でくだらない事で腹の探り合いをする場面が長すぎる」(「芸術一家言」)、と誇張気味に書いているのもあながち的外れとも言い切れない。

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上は「芸術一家言」の最終頁(中央公論社版「谷崎潤一郎全集」第20巻(昭和43年刊))

そして様々な疑問が置き去りのまま作品が中断してしまったことが読者へ大きなフラストレーションを与えている。

連載第2回で津田はいきなり、
何うして彼の女は彼所へ嫁に行ったのだろう。・・・さうして此の己は又何うして彼の女と結婚したのだろう。・・・」
などと述懐しておきながら、中々その問題が出て来ない。
読み進めればアンダーライン部分の「彼の女」が誰と誰かはわかるが、述語の部分は全く未解明である。自身前段にばかり関心が向いていて、後段は等価であるのに、これを記しながらそれと認識するまでこの後段部分は全く関心の外にあった。

津田が吉川宅を訪問して吉川夫人と会談する場面で、吉川夫人から
「お延さんばかりぢゃないわ、まだ外にもう一人ある筈よ」(11)
夫人宅を辞去後の帰宅途上歩きながら
「あの細君はことによると、まだあの事件に就いて・・・」(13)
というように思わせぶりな言葉が出て、これは上の前段の「彼の女」の事だとわかるが、約400頁後の津田の入院している病院へ吉川夫人がやって来る場面を待ってようやくその顛末が明らかにされる。(「清子」という名が読者へ初めて提示されるのもこの場面である。(*))
(131)から(142)の約50頁にわたる部分で、読者としてはその唐突さに面食らうが、ここまでの叙述が何だったのかと思う程あれよあれよという風に重要な事が次々に提示される。
・清子を愛するよう仕向けたのは、そもそも吉川夫人だった。
・清子は結婚する寸前まで行きながら津田から去り、関と結婚した。
・夫人は清子の逗留する温泉へ津田を行かせようとする。それを「笑談みたいなもの・・・大袈裟に云った所で面白半分の悪戯よ」と遊び半分に投げかける。
・お延を奥さんらしい奥さんに育て上げてみせる、とうそぶく吉川夫人へ危惧を抱く津田。
(*)1975(昭和50)年6月の漱石全集第7巻(以下旧全集という)460頁(137)

第17回では津田が病院でばったり出会った友人と晩飯を一緒に取りつつ、「性(セックス)と愛(ラヴ)に就いて六づかしい議論をした」という、漱石にしては刺激的な叙述に驚かされる。直後に「彼との間には、其の後異常な結果が生れた」と記される。
(131)から(142)を踏まえれば、この友人は清子の夫となった関で、「異常な結果」という用語は、津田を去って友人の関と清子が結婚した事を意味していると解釈できる。
ここは大岡昇平も「「明暗」の結末について」(「小説家夏目漱石」筑摩書房1988)で触れ、「多くの「明暗」論を読んでやっと気付」いたと述べている。

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私はいかにも露骨な表現だったので頭に焼き付きはしたが、「異常な結果」の意味へはすぐは想到できなかった。
(続く)

2017年4月30日 (日)

夏目漱石「吾輩は猫である」-6(最終回)

漱石「吾輩は猫である」もようやく最終回へこぎ付く事が出来た。
既に書いた事だが単なる滑稽小説にとどまらぬ広がりと深さを持ち、以後の漱石を予感させるすべてがここに内包されていると言ったら言い過ぎだろうか?

とまれ、人生の折々に作品へ親しみ、その都度新鮮な感興を受けて来た漱石であるが、残された時間はあとどの位なのかわからないが、今後も漱石は読んで行きたいと思っている。

今回は、寒月のモデルである寺田寅彦関連で「猫」を契機に派生した事を綴り、また末尾へ本ブログ「猫」シリーズにあたっての参考書目を記して終わりたい。

森まゆみ「千駄木の漱石」の「寺田寅彦の原町、曙町」冒頭に、
「友だちが「僕にとって最初の、一番性的興奮を感じた文学作品は寺田寅彦の「団栗」だ」と言うのを聞いて驚いた。今読み返してみると彼の言った意味がよくわかる。」
とあり、書き出しが刺激的なので手元の「寺田寅彦全集」第1巻をあたってみると「どんぐり」があった。読んでみたが、森が書いているような意味合いは私には理解できなかった。

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上は岩波版寺田寅彦全集第1巻。

が、この章は寺田のプロフィールを漱石との交友も絡め、簡潔に紹介していて大変参考になった。

寺田の文章は淡々として無駄がなく、そして格調が高い。底には科学者らしい冷静さも備わっている。
漱石の文章から移ると、ほっとするような感じも受ける。
ちなみに「どんぐり」は明治38年4月の「ホトトギス」へ掲載された。漱石の「猫」第三、「幻影の盾」と同じ号だ。寅彦27才。その5年前にして既にかくも厳しい悲哀を経験しているとは!

また旧版全集(昭和49年版)附録として入手した昭和10年版全集月報の中谷宇吉郎の文章も併せ読んだ。中谷が月報へ寄せた3編の文章は、漱石と寺田の交友、漱石作品への寺田の関わりについて寺田寅彦から直接耳にしたエピソードを、師である寺田への追懐の念を込めて記された今となっては大変貴重で、興味深い内容である。

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上は中谷宇吉郎「科学の方法」(岩波新書)昭和33年第1刷。私のは昭和46(1,971)年の第16刷。10年余でのこの増刷で、当時はよく読まれていた事がわかる。

中谷の3編中の昭和12(1,937)年の月報第17号の「冬彦夜話」に、寅彦の述懐で上の「猫」第三に出て来る金田家の令嬢とのエピソードが、最初の妻を亡くし意気消沈していた寅彦を慰める意味合いも込めて漱石によって書かれたという話が出て来る。「ホトトギス」の同じ号に載った「どんぐり」が亡き妻の追憶の文章である事を思うと、複雑な思いがあるが・・・。

また昭和11(1,936)年の月報第9号の「「光線の圧力」の話」では、「三四郎」についての話だ。
大学の地下の実験室に籠もって研究に余念がない野々宮さんが描かれるが、これも寺田がモデルとなっている。その物理の知見に関する記述は、漱石が寺田の助言により「三四郎」へ反映させており、連載時の初出と単行本初版とで訂正、削除があってテキストが異なっている由。
その異同は小宮豊隆の教示のようだが、中谷の目で見ても訂正後の記述が妥当である由。当時の全集は「勿論単行本の際に訂正されたもの」を採用していると中谷は強調している。
「その4」で触れた本文テキストに関する話になる訳だが、これを記している時点で、私は自分の目で定本版と旧版のテキストを比較確認していない(定本版は現在刊行中で、「三四郎」の巻は多分発売済みだと思う)。
この「三四郎」のケースでは、自筆原稿優先という原則は適当でない事になる。
(終わり)

参考書目
1. 「吾輩は猫である」全224回 平成28年4月1日~平成29年3月28日 朝日新聞 
2. 定本漱石全集第1巻(吾輩は猫である) 2,016年12月9日 岩波書店
3. 漱石全集第1巻(吾輩は猫である) 昭和49年12月9日第2刷 岩波書店
4. 漱石全集第2巻(短篇小説集) 昭和50年1月9日第2刷 岩波書店
5. 漱石全集第8巻(小品集) 昭和50年7月9日第2刷 岩波書店
6. 漱石全集第13巻(日記及断片) 昭和50年12月9日第2刷 岩波書店
7. 漱石全集第27巻(年譜他) 1,997年12月19日 岩波書店
8. 漱石全集第35巻(補遺 漱石作品発表月次表他) 1,980年5月6日 岩波書店
9. 漱石全集第1巻月報1 平成5(1,993)年12月9日 岩波書店
10. 漱石全集月報(昭和3年版、昭和10年版) 漱石全集(昭和49年版)附録 昭和50年12月9日岩波書店
11. 「寺田寅彦全集」第1巻 1,977年7月12日第9刷 岩波書店
12. 荒正人著、小田切秀雄監修「増補改訂 漱石研究年表」 昭和59年6月20日第1刷 集英社
13. 大岡昇平「小説家夏目漱石」 1,988年8月25日初版第6刷 筑摩書房
14. 小宮豊隆「夏目漱石二」 昭和49年4月30日第15刷 岩波書店
15. 森まゆみ「千駄木の漱石」ちくま文庫 2,016年6月10日第1刷 筑摩書房
16. 富士川英郎「読書清遊」講談社文芸文庫 2,011年6月10日第1刷 講談社
17. 北野豊「漱石と歩く東京」 2,016年4月10日第4刷 雪嶺文学会
18. 「100年目に出会う 夏目漱石」展図録 2,016年3月26日 神奈川近代文学館

夏目漱石「吾輩は猫である」-5

今回は、NHKFMで今年の2月4日に漱石生誕150年に因んで放送された「クラシックの迷宮―夏目漱石と音楽」について触れたい。

「クラシックの迷宮」は、ユニークなテーマで構成される土曜夜の1時間番組で、片山杜秀の博識が見事だ。片山はこの3月まで朝日新聞で文芸時評も担当していた。こちらはほぼ毎回愛読し、やはりその博識ぶりに舌を巻いていた。

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上はその最終回(朝日新聞平成29年3月29日(水)。終わってしまい残念。

漱石の西洋音楽への親しみは、さほど深くはなかったそうだ。
それでも「猫」で寒月がヴァイオリンを手にしたり、「それから」で代助がピアノに触れる場面とか作品へ登場させている。
「猫」でも明らかなとおり、漱石はどちらかというと、能楽とか義太夫といった邦楽へ親しんだようだ。
寺田寅彦との交友から東京音楽学校のコンサートでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いたりもしている由。

「クラシックの迷宮」当夜の曲目は以下のとおり(2,3以外は部分的な紹介)。
1. 宝生流「高砂」
2. ケーベルの歌曲2曲(ソプラノ、ピアノ伴奏)
  「何故薔薇はかくも白いのか?」(ハイネの詩による)
  「陽光眩しい日々」(ガイベルの詩による)
3. 滝廉太郎「恨み」(ピアノ独奏)
4. 広瀬量平「夢十夜」(和楽器アンサンブル)
5. 林 光 オペラ「吾輩は猫である」から
第1場 橋
第2場 庭
第21場 座敷、夜
6. 林 光 映画「心」テーマ音楽
(以上)

「高砂」が冒頭置かれたのは、一時は漱石が謡曲の手習いをしていた事から。

次のケーベルは、漱石全集の「ケーベル先生」でその名は知っていたが、今回の放送でケーベルの音楽との関わりについて初めて知り、ちょっと驚かされた。
以下にケーベルの経歴をメモ風に記す。
ラファエル・ケーベル(1,848-1,923)は、代々ロシア在住ドイツ人の家に生まれ育ち、モスクワ音楽院でチャイコフスキーに作曲を師事(!)。やがて音楽の道を断念し、ドイツで哲学、美学を修め、ハルトマンの元で哲学の研究にいそしむ。井上哲次郎の招聘で東京帝国大学哲学科教授として来日、1,893(明治26)-1,914(大正3)年まで教鞭を執り、哲学、美学、ギリシア語、ラテン語等を講じた。来日の初年度、学生だった漱石もケーベルの講義を受講している。
また1,898(明治31)-1,909(明治42)年東京音楽学校においてピアノ、音楽理論も講じた。

以上だが、改めて「ケーベル先生」(明治44年)へ目を通すと、その篤実、謙虚で寡黙な人柄が漱石の文章から伺え、且つ漱石が深くケーベルを敬愛していた事はその経歴からも納得できる。
1,914(大正3)年に離日するはずが、第1次大戦の勃発により急遽中止となり、結局日本で生涯を終えたというドラマティックな晩年だ。没年は1,923(大正12)年、関東大震災の年である。
漱石は「ケーベル先生の告別」(大正3年8月12日)で離日にあたっての送別の辞を、「戦争から来た行違ひ」(大正3年8月13日)で離日が中止となってしまった事の訂正文をその翌日に、それぞれ朝日新聞へ寄稿している。

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上は早稲田南町時代の書斎の漱石。恬淡とした様子が千駄木時代より好もしい。旧版全集第8巻口絵のもので、「ケーベル先生の告別」を書いた大正3年12月のもの。

放送で流れたケーベルの2つの歌曲は片山が言っていたように19世紀ロマン派の典型的ドイツ・リートで、シューマンともシューベルトとも違う、哀愁を帯びた第1級作品だと思う。

ケーベルは、東京音楽学校で滝廉太郎を指導したそうで、滝のドイツ留学にあたっては推薦状を認めているそうだ。放送された彼のピアノ曲「恨み」は、素朴な、どちらかと言えば稚拙な作品だが、滝の才能の片鱗を感じさせるものがあり、ケーベルが推薦したのも頷ける。
富士川英郎によると、滝が一時(1,895(明治28)~98(明治31)年)住んだ西片町九番地は富士川の生地であるらしい。富士川は1,909(明治42)年生まれなので、滝が転居してから11年後になるわけだ。

林光のオペラ「猫」は、ユーモリスティック、諧謔的な曲調が「猫」によく合っていると思う。オペラよりオペレッタという方が妥当と思うが。2時間30分の大作で、演奏は登場人物(猫を含む)と、楽器はヴァイオリンとピアノ各1台のみ。放送では当然ながら部分的な紹介をした。
第1場は漱石のテキストではなく林自らのもので、日露戦争へ出征する兵士の壮行場面のようで、マーチ風の威勢良い音楽は「猫」にピッタリだと感じた。
第2場は「猫」第1章冒頭部分のテキストをピックアップしている。
第21場「座敷、夜」(最終場と思われる)は、第11章の寒月がヴァイオリンを購入するに至る経緯を東風、迷亭等へ語る場面で、話が中々先へ進まず聞き手が焦れるところ、放送で流れたのは定本版P.494~P.502(旧版P.468~P.476、連載198~200回)で、テキストはやはり随所のピックアップだ。
それに続く猫のモノローグは、聴いた範囲でもそれと頷けるが、片山によるとこのオペラでは猫は死なずに旅に出るのだそうだ。始めと終わりを林自身がテキストを書き、作品としてユニークなものとなっているようだ。

番組最後の曲も林光作品。林が作曲した新藤兼人監督作品、映画「心」のテーマ音楽である。ジャズ風な洗練された曲で、トランペットのソロが哀愁あるメロディーを奏で、そこにピアノ、更にダブルベースの伴奏が加わる。ピアノが淡々と刻む和音が切なさを募らせる。やがてそこへチェロ、そしてヴァイオリンの対旋律が入り、物憂い、やるせない感情を表現して行く。
「心」に相応しい音楽と言えるだろう。
(続く)

2017年4月26日 (水)

夏目漱石「吾輩は猫である」-4

その1に書いたように今回は第九から定本版で読んだ。偶々図書館の書架で目にした事が定本版で読むきっかけだったが、為に以下のような体験が出来た。
第十の出だし、或休日の苦沙弥家の朝、散々妻君から催促されてようやく寝床から起き出し、洗面所から茶の間に苦沙弥が座を占める件り。このすぐ後に三人の女の子達(とん子、すん子、坊ば)のドタバタが始まる直前の場面で以下の記述に遭遇した。
「長火鉢と云ふと欅の如輪木か、銅の総落しで、洗髪の姉御が立膝で、長烟管を黒柿の縁へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが。わが苦沙弥先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない。」
(定本版P.420 l.11~13)
上の通り2センテンスに分れているが、中間の句点を読点として1センテンスとするのが普通なのではないかと読んでいて思った。念のため手元の旧版の当該箇所へあたってみると、こちらは読点となっている。朝日の連載(岩波文庫版)も読点である。
定本版の巻末の校異表を見てみると、「420 12 が。わが (単)が、わが」と拾われている。最初が定本版に採用されたテキスト、後の(単)とは単行本初版(ここでは下編)の事である。
以降定本版で読み進めて、同様に気が付いた箇所を以下に整理してみた。

   章      定本版              旧版         連載 校異表 定本版の底本 テキスト
1 第十   P.420 l.12              P.397 l.15(最終行)  172   有    ホトトギス    上の箇所
2  〃     P.464 l.14(最終行から2行目) P.440 l.1          188   無    ホトトギス     下の2
3  〃     P.470 l.2               P.444 l.15(最終行)  189   無    ホトトギス    下の3
4 第十一  P.534 l.11               P.506 l.11            212    無    原稿          下の4

テキスト(上:定本版、下:旧版、連載(岩波文庫版))
2「女は中々利口だ、考へに筋道が立って居る苟も人間に生まれる以上は・・・」
 「女は中々利口だ、考へに筋道が立って居る。苟も人間に生まれる以上は・・・」
3「傍にあった読売新聞の上に・・・」
 「傍にあった讀売新聞の上に・・・」(旧版)
 「傍にあった『読売新聞』の上に・・・」(連載(岩波文庫版))
4「だから貧時には貧に縛せられ。富時には富に縛せられ。憂時には憂に縛せられ。喜時には喜に縛せられるのさ。才人は才に斃れ、智者は智に敗れ。苦沙弥君の様な・・・」
 「だから貧時には貧に縛せられ、富時には富に縛せられ、憂時には憂に縛せられ、喜時には喜に縛せられるのさ。才人は才に斃れ、智者は智に敗れ、苦沙弥君の様な・・・」

あと、その3で触れた第八の「三帀」(定本版)と「三匝」(旧版、連載(岩波文庫版))という漢字の違い。
1,2,4共に句点と読点の選択及び句点を入れるか否かの違いで、これらに限れば、私はすべて定本版でない方を取りたい。
3は読売新聞に括弧が付くか否かで、全集版は新旧共に付かない。また定本版は新字体を採用している。
何故定本版が不自然としか思えないテキストを選択したのか、素朴な疑問を覚えるが、それについては巻末の後記にテキスト確定の方針が記されている。
優先順位として、まず自筆資料(原稿)、次に初出資料(「猫」の場合は「ホトトギス」)に拠った由。
ただ「猫」は参看できる原稿が少なかったようで(ほとんどの原稿が現存しないか否かの記述は曖昧)、ほとんどは「ホトトギス」に拠っているわけだ。
上の比較で明らかなとおり、校異表にあったのは1のみである。後記によると定本版テキストとの校異は、自筆原稿、「ホトトギス」、初版本、上編第六版のみを対象としている。
また、そもそも校異表は第一義的には底本を修正した場合にその内容を示すためのものだと明記されている。
以上から2、4の箇所は、定本版テキスト、原稿、「ホトトギス」、初版本に違いがないと解釈できる。

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上は「猫」初版本表紙カバー(朝日新聞平成28年3月19日から)

下は上、中、下編のそれぞれ左からカバー、表紙、扉絵、そして捜画(同上)

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とすると、旧版全集は何に拠ったのだろう?まさかテキストを勝手に変更してしまったのではあるまい。あるいは校異表の不備か?

それはともかく、そもそも定本版のテキスト確定の方針自体が特殊だと思う。普通は原稿よりは初出誌、「猫」の様な連載は更に単行本化された書籍、更に幾次にも亘る全集がある訳だから過去の全集、と云う具合に後ほど優先度が上がるのではないかと思うのだが、定本版の方針は逆である。

とまれ、定本版を通して貴重な体験が出来たと思っている。
(続く)

2017年4月21日 (金)

夏目漱石「吾輩は猫である」-3

漱石が一高の講師となった明治36年5月、日光華厳滝で藤村操が投身自殺をした。
「猫」十終わり近くに苦沙弥を訪問した生徒が悄然と引き上げるところを、猫が「巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない」と揶揄する場面がある。
注解には藤村の遺書全文が載っていて、何と藤村は一高で漱石の生徒だったとある。
森まゆみ「千駄木の漱石」は「寺田寅彦の原町、曙町」で、自殺の1週間前漱石は授業で藤村を厳しく叱り、それが自殺に影響したのではと責任を感じ、一時は気に病んでいたと記述するが、その3年後に「猫」十を書く時には気持ちの整理がついていたのだろう。
なお、森まゆみ同上書は藤村の自殺を最後の授業の1週間後と書いているが、誤りで2日後の5月22日である。
他にも同上書のちくま文庫用に書き下ろした「千駄木以後の漱石」でも、「明治42年の「三四郎」」(*)とか、「「門」執筆中に胃潰瘍で・・・入院」(*2)と書き、これらもそれぞれ「明治41年」、「連載終了後」の誤りだ。
とても面白く、示唆に富む好著であるだけに素人でもわかるミスがあるのは残念だ。
(*)P.327
(*2)P.329

小宮豊隆は全集解説で「猫」第一と第二以降との相違点として、「殊に第三以下の溌剌として、天馬空を行く」感がある一方、第一は高浜虚子により添削されて生気を失っていると述べている。
一方、新版全集(93年)の月報1で寺田透は「猫」随所の冗長さが看過ならぬようで、「猫が・・・くだりは、・・・大幅削除の下心を目覚めさせる」と書き、苦沙弥の三人の女の子を登場させるのは無駄etcと述べている。
また、昭和3年版月報1号の高浜虚子「「猫」の頃」を見ると、第一では無心に意見を言い合えたのが、漱石の名声が高まるに連れ、言いたいことも言えなくなってしまったとあり、第二以降でも虚子にとって冗句は幾つもあったようで、寺田の感想を補強する趣旨の内容となっている。

苦沙弥一家のほのぼのとした描写は「猫」を生き生きとしたものにしているし、私は十章で三人の女の子が朝食の食卓で繰り広げるドタバタは「猫」に無くてはならぬ箇所だと思う一方で、第一の引き締まった文章は作中随一だとも思うし、第二以降、特に第十、十一に至っては文章自体の冗長さが正直読んでいて鼻についた。
そういった文章の調子以外でも「猫」の記述は不統一であり、迷亭は第一では美学者、独仙が第八で初登場する時は、哲学者となっていて、それらを修正する機会は単行本化する際にあったにも係わらず、そのままで今日に至っているわけだが、そういった諸々の細かいアラが「猫」の価値、漱石の非凡さを逆に高めているように思う。

寺田透という人を、私は神奈川近代文学館で昨年の「富士川英郎展」(2016年3月29日 (火))で初めて知り、その約一月後「鴎外記念館」でコピーした鴎外全集第2次月報でも氏の文章を読んだ。(2016年4月21日 (木))
富士川と云えば彼の随筆「夏目漱石の手紙」で、「猫」の甘木医師のモデルの尼子四郎へ言及し、漱石の神経衰弱の治療へも関与していた由へ触れている。
富士川は、寒月のモデルの寺田寅彦の子息の寺田正二の友人で、何と生年月日が同じだったそうだ。東大独文科在学中仏文の辰野隆(ゆたか)(2016年7月27日 (水)*3)のフランス文学の講義も聴いて傾倒するようになり、辰野の随筆集は出る度に入手、愛読した由。(富士川「思出の記」27、22)

「猫」の白眉は第二だと思う。
苦沙弥の偏屈な人となり、妻君とのドタバタ(摂津大掾を見に行こうとするが果たせず)、迷亭のトチメンボー、首懸けの松の話、何と言っても吾輩の猫仲間の登場は第二までである。
「太平の逸民」という言葉が出て来たり(注解を見ると「趣味の遺伝」では「天下の逸民」とあるらしい。そう言えば約40年前これを読んだ際に、どういう訳か頭へ刻み込まれたのが、「余の如きは黃巻青帙の間に起臥して書斎以外に如何なる出来事が起るか知らんでも済む天下の逸民である。」というフレーズだった。「三四郎」の広田先生、「それから」の長井代助、「こころ」の先生等、漱石作品にしばしば登場する高等遊民の系譜の端緒がここにある。)、妻君を相手に真面目なのか冗談なのか「many a slip 'twixt the cup and the lip」(*3)とうそぶいたり、吾輩は台所で雑煮の餅を歯に引っ掛けて、踊りを踊って一家の笑いを誘ったりと豊富なエピソードに満ちている。
第二の出だし近くに苦沙弥の日記を借りて、寒月との散歩が披露される。コースは根津、上野、池之端、そして神田に至っている。かなりの広範囲だ。
「猫」で具体的な散歩が出て来るのは ここだけだ。これも昨年の神奈川近代文学館の「漱石展」でGETした「漱石と歩く東京」(2016年5月10日 (火))を見ると、池之端仲町の項に紹介されている。(*4)「宝丹」とある江戸からの老舗薬局は今も営業中の由。
(*3)注解を読むと大筋理解できる。人間万事塞翁が馬に対応する西洋の故事のようだ。
(*4)同書第4章「上野を歩く」P.63

私が「猫」で好きなのは第七、第八だ。明治38年末に一気呵成に6日で書き飛ばした2章だ。
第七は、運動と称して、吾輩が蟷螂狩りや蝉取り、松滑り、垣巡りをするくだりが絶品である。
そして銭湯探訪。
落ちに入って、苦沙弥が妻君相手に猫の鳴き声が感投詞か副詞かとか、訳のわからない質問をするところは独特の可笑しみがあるにしても、作者の精神の尋常ならざる面が露呈している感があるのが引っかかるが・・・。
第八は苦沙弥と落雲館中学の生徒達とのドタバタ。生徒達が校庭で野球をやって、打球がすぐ隣の苦沙弥家へ飛び込んで来て、無断で邸内に入った生徒に苦沙弥が怒り・・・と摩擦がエスカレートして行く。
この辺り、ボールをダムダム弾と云ったり、トロイ戦争や三国志を引用したりと漱石の筆は冴え渡るが、やはり落ちに難がある。
鈴木藤さん、甘木医師、そして最後は哲学者(独仙)の三者三様の苦沙弥への助言が、本題のナンセンス、滑稽趣味と余りにも遊離し過ぎている。

また第八を読んでいて、以下の事に気付いた。
「定本版」P.330  l.5                 「三帀」(さんそう)
「旧版」P.311  l.10、朝日連載(岩波文庫版)  「三匝」(  〃  )
「三匝」という語自体の意味が解らず、辞書を引いたのが契機。

第九以降は、第八迄とは明確に異質な書きぶりである。
ここでは瑣末な事でお茶を濁すに留めたい。
第九早々、苦沙弥の書斎について言及していて、「大きな机・・・長さ六尺、幅三尺八寸高さ之に叶う・・・寝台兼机」「机の上へ昼寐をして寐返りをする拍子に縁側へ転げ落ちた」という箇所が出て来る。
全集第1巻の口絵の書斎での漱石の写真がそれだが、昨年の神奈川近代文学館の「漱石展」図録の写真の方が机全体が入っていてより分かりやすい。

下は図録写真:書斎の漱石

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これを見ると机上を筆記用具多数が占領していて、流石に漱石はこの上で昼寐はしなかっただろう。
なお同文学館常設展示の漱石コーナーの漱石山房書斎の机は早稲田南町時代の小ぶりな紫檀文机だ。千駄木時代は若かった事もあり、漱石の風貌は精悍な印象。
(続く)